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●小林秀雄の東京を歩く (2)
    初版2008年11月1日
    二版2008年12月29日 <V01L01> 永井龍男の高円寺に関する記述を追加

 「小林秀雄の世界」を引き続いて掲載します。今回は第一高等学校入学から、東京帝大文学部仏蘭西文学科入学した後の長谷川泰子との出会いと分かれまでを掲載します。


「杉並村馬橋ニニ六番地」
杉並村馬橋ニニ六番地>
 大正10年3月、父親が亡くなります。母親と妹との三人暮らしになり、父親の残した資産で何とか生活しますが、3年後、白金今里町の自宅を売払い、杉並町馬橋の借家に転居します。今週も妹の高見澤潤子さんが書いた「兄 小林秀雄」を参照します。
「…震災の翌年になると、母も大分身体が快復したので、東京に帰ることになった。私たちは白金の家を売って、高円寺の馬橋に小さな家を借りた。家を売ったといっても、前に書いたとおり、その金は、ほとんど貰えなかったから、母も兄も私も割り切れない、淋しい思いだったが、母と一緒に暮せるというのは、嬉しいことであった。…」
 お金が無くなり、高級住宅地から田舎の借家に引っ越したようです。

左上の写真の右側一帯が馬橋二二六番地です。長谷川泰子との出会いは引っ越してきた翌年の大正14年9月になります。この借家は川端康成が昭和2年初めに転居した先です。全部で四軒の家作が建てられていたようで、川端康成は12月には熱海に転居していますが、同じ年の8月には大宅壮一も転居してきています。

「杉並村高円寺ニ四九番地」
杉並村高円寺二四九番地>
  2008年12月29日 永井龍男の高円寺に関する記述を追加
 中原中也が長谷川泰子と一緒に上京してきたのは大正14年3月です。その年の5月には高円寺二四九番地に転居しています。中原中也の借家は小林秀雄が住んでいた馬橋の借家から500m位の距離でした。
「…夜、家にいる時は、大抵三、四人の文学青年と酒を飲んで、大きな声で議論をやっていた。その仲間に、いつの問にか、小柄な、前髪を眉までたらしたおかっぱの、青白い顔をした少年がくるようになった。
……酒っ気のない時は、別人のようにおとなしくて、神妙に私に挨拶した。その少年が、その頃十七か十八だった詩人の
中原中也であった。
 
中原中也は、二、三度、自分よりずっと年上らしい、背もずっと高い美人の女性と一緒に来た。…」

左上の写真の正面付近が中原中也と長谷川泰子が住んだ高円寺二四九番地です。高円寺ルック商店街の桃園川を過ぎた右側になります。

 永井龍男の「わが切抜帖より」の中に、中原中也が高円寺で長谷川泰子と住んでいた下宿について書かれていました。
「…中原は高円寺駅に続く、表通りの商家の二階に下宿し、二つ年上の女と同棲していた。私はそこへ二泊したことがある。その年の五月二十九日の日記に、「意外に思ったことは、下宿での同棲生活が少しもエロティックでなかったこと。女は頭痛がすると云って、部屋には床が敷いてあった」と記しているのが、おそらくその晩に当ると思われる。
 例のごとく小林、中原の後について当てなく歩き、高円寺の下宿にたどりついたものであろうが、四人まくらを並べてねた翌早朝、雨戸の節穴から朝日が射し、だれとなく無言で吸い出したバットの煙りが、やみに浮き出されたのをよく覚えている。後で雨戸を開けると、商家の一側裏はひろびろした一面の田んぼであった。…」

下宿が高円寺ルック商店街にあったことがわかります。

 同じ年の11月には小林秀雄は長谷川泰子と同棲を始めます。妹の高見澤潤子さんが書いた「兄 小林秀雄」には同棲先は、「…兄の新居は、高円寺駅の、家とは反対側の線路際にある、三間ぐらいの小さな貸家であった。…」、と書かれています。一般的には荻窪の天沼となっていますので、この辺りは調査不足でよく分かりませんでした。


小林秀雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
明治35年 1902 日英同盟 0 4月11日 神田区神田猿楽町三丁目三番地で生誕
明治37年 1904 日露戦争 2 6月3日 妹富士子、牛込区牛込納戸町七番地で生誕
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 7 4月 白金尋常小学校入学、芝区白金志田町十五番地に住む
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 13 4月 東京府立第一中学校入学、芝区白金今里町七十七番地に住む
大正9年 1920 国際連盟成立 18 3月 第一中学校卒業、一高入試に失敗
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 19 3月 父豊造、四六歳で死去
4月 第一高等学校入学
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 21 2月頃 母と妹の三人で杉並村馬橋226に転居
4月 京都山科の伯父清水精一郎の招待で妹と上洛(京都、奈良を観光)、従兄の西村孝次にも会う
8月 京都で一高対三高の野球試合を観戦
京都山科の志賀直哉を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
22 4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
9月 長谷川泰子に出会う
10月 大島に旅行後、泉橋病院に入院
11月 富永太郎死去
11月 杉並町天沼で長谷川泰子と同棲
大正15年
昭和元年
1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
23 鎌倉町長谷大仏前に転居
逗子新宿にも一時住む
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
25 2月 中野町谷戸に転居
3月 東京帝国大学卒業
5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
昭和4年 1929 世界大恐慌 26 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む



「東京大学農学部正門」
第一高等学校入学>
 小林秀雄は大正10年4月、第一高等学校に入学します。一年浪人しての入学でした。競争倍率が5〜7倍あったそうで、やっぱり難しかったようです。
「…兄は中学校卒業の年に一高の入学試験に失敗して、一年間浪人をした。私は平生、いろいろ兄に教えてもらって、随分恩恵をこうむっているくせに、兄が不合格だときいた時、同情するどころか、どういう言葉を使ったか忘れてしまったが、かなり手きびしい、屈辱的な言葉を兄にいったのである。私としてはいつものように、兄からどなりかえされると覚悟していた。ところが、兄は思いがけなく机に顔をふせるようにして泣き出したのである。…」
一級上の河上徹太郎や、同級の富永太郎、正岡忠三郎はストレートで第一高等学校や仙台の第二高等学校に入学しています。

左上の写真は現在の東京大学農学部(当時の第一高等学校)正門です。第一高等学校は明治27年(1894)当時の高等中学校を改組し高等教育を行う男子校として発足しています。期間は3年で第一高等学校(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)と、いわゆる国立のナンバースクールになっていました。昭和10年(1935)には第一高等学校(向ヶ岡)と東京帝国大学農学部(駒場)が敷地を交換し第一高等学校は駒場に移転しています。

「東京帝国大学」
東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学>
 小林秀雄は大正14年4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学します。仏蘭西文学科というと、太宰治をすぐ思い出してしまいます。太宰が東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学したのは昭和5年4月ですから、5年後になるわけです。二人は会う機会は無かったようです。
「…兄は大学に入った年に佐規子と同棲したのだが、大変世話になり可愛がってくれた仏文の教授辰野隆にこういった。
 「僕は家を出て女と同棲しているんで、稼がなくてはならないから、学校で講義をきくひまはありません」
 そこで、
 「講義に出なけりや、君がどの程度出来るかわからんから、試験ほうけろ」
 と辰野にいわれて、兄は試験だけうけた。すると、
 「このくらい出来るんなら、講義は出なくてもよろしい」
 と辰野がいったとかいうエピソードがある。
 どこまで本当かわからないが、仏文学者鈴木信太郎が出した試験の答案には、
 「かかる愚問には答えず」
 と書いたので、鈴木は零点をつけた。その次の答案には、マラルメについて立派に書いたので、鈴木は満点をつけ、
 「してみると、前の問題は本当に愚問だったのかな ー 」
 といったとか、そんなエピソードも残っている。…」

 本当かなともおもいますが、やっぱり秀才だったようです。

右上の写真は今の東京大学正門です。東京大学は戦災に合っていませんので昔のままです。


小林秀雄の東京全図


「現 三井記念病院」
泉橋病院>
 小林秀雄は長谷川泰子と大島に旅行しようとしますが、長谷川泰子が待ち合わせの時間に遅れてしまい、やむを得ず一人で大島に向かいます(この辺りのお話は長谷川泰子の「ゆきてかへらぬ」を呼んで下さい)。
「…兄は死に切れずに、東京へ帰って来た。どんな気もちで帰って来たか、それを思うと、私もたまらない気もちになるが、そのたまらない精神的な苦悩のせいでもあったろう、帰って来てすぐ兄は、非常に苦しみ出し、腸捻転ということで入院し、手術をした。そして私は、病院で彼女にあい、びっくりした。
 彼女の語るところによると、兄は快復間際に、病院の廊下で、
 「一緒に住もう」
 といったそうである。…」

 入院中に富永太郎が肺結核で死去します。一カ月後、小林秀雄と長谷川泰子は同棲を始めます。

左上の写真が現在の三井記念病院です。三井弘報委員会のポームページによると、”大正8年、それまで「三井慈善病院」と名乗ってきたものを「泉橋慈善病院」と改称しています。また「和泉橋」というのが現在もJR「秋葉原駅」の近くにありますが、これは藤堂和泉守の邸があったので、その名が取られたものです。「泉橋慈善病院」は昭和18年「三井厚生病院」と改称されます。”と書かれていました(要約)。高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」に書かれていた「泉橋病院」がこの「泉橋慈善病院」と推定しました。

「逗子新宿」
逗子新宿>
 小林秀雄は長谷川泰子の神経症のため、転居を続けます。
「…最初の六ヶ月ほどの間は、兄の家は、歩いていけるほどの近くにあったので、私もよく訪ねていったし、兄もちょいちょい、家に顔を出したが、だんだん愛人の病気がひどくなり、そのために、兄は、あちこち家をかえた。鎌倉や逗子に移ってしまってからは、私はほとんど兄にあわなかった。最後に、東中野の谷戸に来て、一年ぶりに兄とあった。…」
 この頃の転居先についてはよく分かりません。短期間での転居のため、本人もよく覚えていないのではないでしょうか。

右の写真は逗子町新宿の池谷方跡です。小林秀雄は、天沼(高円寺?)から長谷大仏前鉄谷氏方、芝区白金臺町と転居を続けます(天沼、長谷大仏前については場所が不明です)。

「中野一丁目付近」
中野町谷戸>
 小林秀雄と長谷川泰子が二人で最後に住んだのが中野町谷戸、俗に「谷戸の文化村」です。
「…台町にも四カ月しかいないで、最後に、二人は東中野の谷戸に引越して来た。昭和三年の二月であったが、東中野の駅から十五分ほど、南の方に入ったところに、広い敷地があり、そこに七、八軒のバラックのような小さな貸家がたっていて、奥にテニスコートがあった。…」
 この「谷戸の文化村」については、よく分からなかったのですが、青空文庫の松本泰について紹介された項中に書かれていました。”松本泰は大正10年に東京の東中野に文化住宅を十軒以上建てますが、妻の恵子が大仏次郎の縁戚であることもあり、文士の集まるサロンのようなものになります。住人に長谷川海太郎や小林秀雄、田河水泡らがおり、そこは「谷戸の文化村」とも呼ばれたそうです”(青空文庫参照)。この谷戸の住所については、江戸川乱歩の「貼雑年譜」を参考にしました。松本泰は昭和14年に死去しますが、その死亡記事が「貼雑年譜」に掲載されており、その中に谷戸の住所が書かれていました。

左上の写真の左側奥付近に「谷戸の文化村」はありました。昭和14年の住所で中野区城山町17(もっと昔は谷戸の地名)、現在は中野一丁目41番付近となります。東中野と書かれていましたので、現在の東中野駅付近かとおもったのですが、谷戸はもっと西で、中野駅と東中野駅の真ん中付近となります。
「…引越して来てから三カ月ほどたった頃だろう。佐規子のいうのにまちがいがなければ、五月二十五日の夜、佐規子は中野にいる男の友だちの家に遊びに行って、夜おそくその人に家までおく ってもらって帰って来た。
 その人が帰ってから佐規子は、兄に、お礼のいい方が悪いと怒りだし、いろんな意味のない質問の答え方も悪いとわめいた末、気がちがったように、
 
「出て行けー」
 とどなった。夜中の二時頃であった。兄は着のみ着のまま、下駄をはいて出て行った。そしてそのまま帰って来なかったのである。…」

 ここで、小林秀雄は長谷川泰子から分かれまることができます。この後については「小林秀雄の大阪・奈良を歩く」を参照してください。


小林秀雄の東京地図 (1)



小林秀雄の東京地図 (2)



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