<杉並村馬橋ニニ六番地>
大正10年3月、父親が亡くなります。母親と妹との三人暮らしになり、父親の残した資産で何とか生活しますが、3年後、白金今里町の自宅を売払い、杉並町馬橋の借家に転居します。今週も妹の高見澤潤子さんが書いた「兄 小林秀雄」を参照します。
「…震災の翌年になると、母も大分身体が快復したので、東京に帰ることになった。私たちは白金の家を売って、高円寺の馬橋に小さな家を借りた。家を売ったといっても、前に書いたとおり、その金は、ほとんど貰えなかったから、母も兄も私も割り切れない、淋しい思いだったが、母と一緒に暮せるというのは、嬉しいことであった。…」。
お金が無くなり、高級住宅地から田舎の借家に引っ越したようです。
★左上の写真の右側一帯が馬橋二二六番地です。長谷川泰子との出会いは引っ越してきた翌年の大正14年9月になります。この借家は川端康成が昭和2年初めに転居した先です。全部で四軒の家作が建てられていたようで、川端康成は12月には熱海に転居していますが、同じ年の8月には大宅壮一も転居してきています。