<兄 小林秀雄(文藝春秋)>
関西の小林秀雄については、本人が妹の高見澤潤子さんに手紙を複数出しており、その手紙の内容で当時の様子を窺い知ることができます。高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」からです。
「…粗末なうすっペらなハトロン紙の封筒に、親展と書いてあり、差出人の名前は何も書いてなかったが、筆跡で、すぐ兄からだということはわかった。原稿用紙二枚に、ペンの走り書きであった。
冨土子様 秀 雄
僕はとう〈逃げ出した、気まぐれでもなんでもない、如何にも仕様がないのだ、僕が今迄にどの位ひどい苦しみ方をして来たか幕を通して彼方のものを見る程度にはお前にも解ってゐる筈である、僕は実際出来るだけの事をした、馬鹿しい苦しみだ、あゝ今度で終って欲しいものだ、ここはお寺です。日蓮宗の立派なお寺だ。俺はまるで牢屋から逃げて来た囚人の様に広い縁側に給ってぽかんとしてゐる。池を蛇が器用に泳いで行く。
若し俺は悪い事をしたのなら神様が俺を悪い様にしてくれるだらう、若し俺に罪はないのならいゝ様にしてくれるだらう。兎も角俺は恐ろしく疲れた、春の陽といふものはこんな色をしてたつけなあと眺めてゐる。
心配しない様に、お母さんも心配しない様に、佐規子が来ても断じて相手になるな、僕の出奔に就いては断じてロ外してはならぬ、うるさいから、うるさく言ふ奴もあるまいが、皆んな放つとけ放つとけ。
今の処如何する当もない、お寺に置いてくれゝばこゝに凝つとしてゐる、当分東京には帰らない、働くロがあったら働く、兎に角心配してはならない、信じる人が今の処兄貴だけなら兄貴を信じるがいゝ。色々と心配をかけたなあ、疲れたから又書く、谷戸の家はまだ放って置くがいゝ、今月の家賃が払ってないが金が出来たら払ふ、
大阪天王寺谷町八丁目三番地
妙光寺方
小林秀雄
月末にでもなったら、谷戸の家に行って、佐規子に見つからぬ様に、恐らく家にはゐる筈はないだらうが、いやこの事は又書こう。今は頭が疲れてゐてペンを動かすのも苦しいのだ。
さよなら
西村のおじさんは大阪の何処にゐるかしらん。…」。
大阪谷町の妙光寺に滞在していた小林秀雄が、妹さんに出した手紙です。長谷川泰子のことを書いています。”西村のおじさん”と書かれていますが、前回の「小林秀雄之京都を歩く」を参照してください。
★左上の写真は高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄(新潮社版)」です。妹さんですので、そのまま書かれていて面白いです。