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●小林秀雄の大阪・奈良を歩く
    初版2008年9月27日
    二版2008年10月24日 <V01L02> 永井龍男の高円寺に関する記述を追加

 「小林秀雄の世界」 の二回目として大阪・奈良を歩きます。長谷川泰子に「出て行けっ」と言われ、小林秀雄は関西に向かいます。関西では知り合いの大阪谷町にある日蓮宗のお寺に滞在しますが、長くは続かず、京都から奈良の志賀直哉邸に向かいます。


「兄 小林秀雄」
<兄 小林秀雄(文藝春秋)>
 関西の小林秀雄については、本人が妹の高見澤潤子さんに手紙を複数出しており、その手紙の内容で当時の様子を窺い知ることができます。高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄」からです。
「…粗末なうすっペらなハトロン紙の封筒に、親展と書いてあり、差出人の名前は何も書いてなかったが、筆跡で、すぐ兄からだということはわかった。原稿用紙二枚に、ペンの走り書きであった。
冨土子様                               秀 雄
僕はとう〈逃げ出した、気まぐれでもなんでもない、如何にも仕様がないのだ、僕が今迄にどの位ひどい苦しみ方をして来たか幕を通して彼方のものを見る程度にはお前にも解ってゐる筈である、僕は実際出来るだけの事をした、馬鹿しい苦しみだ、あゝ今度で終って欲しいものだ、ここはお寺です。日蓮宗の立派なお寺だ。俺はまるで牢屋から逃げて来た囚人の様に広い縁側に給ってぽかんとしてゐる。池を蛇が器用に泳いで行く。
 若し俺は悪い事をしたのなら神様が俺を悪い様にしてくれるだらう、若し俺に罪はないのならいゝ様にしてくれるだらう。兎も角俺は恐ろしく疲れた、春の陽といふものはこんな色をしてたつけなあと眺めてゐる。
心配しない様に、お母さんも心配しない様に、佐規子が来ても断じて相手になるな、僕の出奔に就いては断じてロ外してはならぬ、うるさいから、うるさく言ふ奴もあるまいが、皆んな放つとけ放つとけ。
 今の処如何する当もない、お寺に置いてくれゝばこゝに凝つとしてゐる、当分東京には帰らない、働くロがあったら働く、兎に角心配してはならない、信じる人が今の処兄貴だけなら兄貴を信じるがいゝ。色々と心配をかけたなあ、疲れたから又書く、谷戸の家はまだ放って置くがいゝ、今月の家賃が払ってないが金が出来たら払ふ、
                                                                       大阪天王寺谷町八丁目三番地
                                                                                  妙光寺方
                                                                             小林秀雄
 月末にでもなったら、谷戸の家に行って、佐規子に見つからぬ様に、恐らく家にはゐる筈はないだらうが、いやこの事は又書こう。今は頭が疲れてゐてペンを動かすのも苦しいのだ。
                                                                              さよなら
 西村のおじさんは大阪の何処にゐるかしらん。…」

 大阪谷町の妙光寺に滞在していた小林秀雄が、妹さんに出した手紙です。長谷川泰子のことを書いています。”西村のおじさん”と書かれていますが、前回の「小林秀雄之京都を歩く」を参照してください。

左上の写真は高見澤潤子さんの「兄 小林秀雄(新潮社版)」です。妹さんですので、そのまま書かれていて面白いです。


小林秀雄の大阪・京都・奈良年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 21 4月 京都山科の伯父清水精一郎の招待で妹と上洛(京都、奈良を観光)、従兄の西村孝次にも会う
8月 京都で一高対三高の野球試合を観戦
京都山科の志賀直哉を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
22 12月 富永太郎死去
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
25 5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
昭和4年 1929 世界大恐慌 26 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む



「妙光寺」
大阪 谷町 妙光寺>
 小林秀雄が関西に出奔して、最初に滞在したのが大阪谷町の妙光寺です。このお寺は知り合いのようです。
「…大阪の谷町筋にある日蓮宗の妙心寺といふお寺に、東京を出奔してからは仮寓するのだが、その寺は佐野氏で、現住職の先代が一高から東大を ── ただし工学部だが ── 出て、同寺をあづかつてゐた。土塀をめぐらした大きな一区劃があり、中をいくつかに区切って何軒かの寺がある。その姿は、まさに江戸時代の寺町の風景をしのばせるものがある。しかし、その先代は小林秀雄の少くとも七歳年長に当るので、おそらくは当人ではなく、或いは縁戚の佐野姓を名乗る人がゐて、それが小林の友人だった。…」
 この谷町八丁目付近は寺町筋で両隣、向かい側は全てお寺です。このお寺の左側にあるガゾリンスタンド左側に近松門左衛門のお墓があります。近松門左衛門のお墓は複数あるようです。

左上の写真は谷町八丁目三番地の妙光寺です。現在の住所で谷町八丁目1番です。谷町筋に面していますので直ぐに分かるとおもいます。小林秀雄を記念する碑等はありません。


小林秀雄の大阪地図(細雪の地図を流用)


「奈良駅」
奈良駅>
 小林秀雄は京都の長谷川旅館に滞在後、志賀直哉を頼って奈良に向かいます。西村孝次氏の「わが従兄・小林秀雄」、を参照して奈良に滞在している小林秀雄を歩いてみました。
「…その昭和三年(一九二八年) 五月の、抜けるような青い空の日、わたしは奈良駅に降り立った。それは現在の駅からは想像もつかぬほどの汚い臭い暗い建物だった。
 わたしの生家は、七条ステンショと呼び慣れていた京都駅に程近く、また奈良は汽車で一時間くらいだったから、ときおり父に連れられて行っていた。しかし少年のわたしには、そこはただ平安京よりさらに古い平城京というだけのことであった。…」

 京都から小林秀雄を心配して奈良を訪ねています。昔の人は義理堅いですね!!

左上の写真は昭和9年(1934)に完成した駅舎です。奈良駅が出来たのは明治23年(1890)で、京都−奈良間は明治32年(1899)に開通しています。写真は昭和9年(1934)に完成した駅舎ですので、小林秀雄が降りた奈良駅はこの前の駅舎になります。

「江戸三」
江戸三>
 小林秀雄が奈良で宿泊したのが「江戸三」という旅館でした。旅館というよりは、個性的な離れがたくさんある料理旅館といったほうが良いようです。贅沢です。
「…わたしは、迷わず三条通をまっすぐ東へと辿る。やがて春日大社への参道入口に達するが、その右手に広がるのが浅茅ケ原で、当時は茅萱の生い茂る荒れはてた野原の名を意味した。ただし、ここの浅茅ケ原は、かなり大きな木々に囲まれて小暗く、あたりの地面は苔むしてはいるものの、べつに荒涼たる原野といえるほどではない。そこに、江戸三という割烹旅館があって、いまも簡素な離れの平屋が合わせて大小十棟、そう広くもない敷地に散在する。そうした建物のひとつで、夏は欄々と太陽が射しこみ、冬になるとひゅうひゅうと隙間風の吹きこむ六畳ひと間に、便所と壊れかかった洗面所だけという、いちばん小さな平屋に、わが従兄・小林秀雄は住んでいたのである。これは多分、大正十四年の四月に、山科から当地の幸町へ移ってきていた志賀直哉の計らいによるものであった。…」
 「江戸三」は奈良公園の中に幾つかある旅館の中の一つです。土地はどうなっているのかともおもいますが、よく分かりません。奈良公園の中ですので、建物の近くまで訪ねることができます。ホームページを見ると、数寄屋風離れと書かれていいました。当時の建物がそのまま残っているのかは分かりませんが数寄屋風離れの幾つかを写真掲載しておきます。(写真1写真2写真3

右の写真が奈良公園内にある「江戸三」です。多分、ここが玄関だとおもいます。
「…「さ、出かけよう」
「どこへ?」
「いいから、ついてきな」
 こうして二人の青年は大軌(大阪電気軌道、大正三年開業。現・近鉄奈良線)で大阪上本町六丁目へ出ると、円タクを飛ばして
法善寺横丁へ急ぎ、正弁丹吾に飛びこむ。小林は近松と西鶴と文楽の町を、そしてその町民を贅六としてあまり好まなかったが、ここへは出入りしていたらしい。どうも飲んべえとは勝手なものである。この飲み屋こそ贅六の溜り場で、およそかれらの行動と心意気は、不思議にも折口信夫の精神と詩心に凝縮しているのである…」
 小林秀雄は奈良から大阪に飲みに行っていたようです。”法善寺横丁の正弁丹吾”と書いていますが、本当かなとおもいました。ただ、お店は創業110年ですので昭和初期にはもうお店はありました(場所は現在の向い側角)。織田作之助の「夫婦善哉」に登場する「関東煮屋」です。

「幸町の志賀直哉邸跡」
奈良市幸町の志賀直哉邸>2008年10月24日 幸町旧邸を追加
 志賀直哉は大正14年4月、京都山科からこの奈良幸町の借家に転居します。当時奈良に住んでいた友人である九里四郎や菅原明朗等に誘われて奈良幸町へ移ります(菅原明朗氏は昭和20年、永井荷風と一緒に東京から明石、岡山へ疎開したことで有名です)。
「…幸町での住居は、古風で和様の、二軒合わせたような大きい家であった。式台つきの広い玄関や、土蔵などもあり、間どりも多く、のんびりした感じがあって、彼の気に入ったことであった。。
 ……しかし当時、幸町の近くに旧陸軍歩兵連隊及び練兵場があり、鉄砲・機関銃・ラッパの音や軍歌や馬の蹄の音が常に聞こえた。これは、小説を書く彼には、ふさわしい環境とは言えなかった。
 幸町に在住の頃は、近くの福智院町に在る今西家書院の西側に在った、小見寺八山画伯が住む借家の部屋を借りて、作品を書いたことが多かったと聞いている。今は西側のその建物は、書院の防火と保存のために唐招提寺へ移された。…」

 志賀直哉は奈良市幸町の旧邸を「淋しき生涯」の中にも書いています。
「…古家ではあるが式台つきの広い玄関や、土蔵などのある大きな家で、古家を二軒集めて建てた家で、間どりにも無駄があり、なんとなく暢びりした感じが却って私の気に入った。父の家から独立して十年、私は狭い家 にばかり住んで来たから、久し振りにかういふ間の抜けたやうな家に住めるのを喜んだ。家賃も京都に較べては安かった。…」
 かなり気に入っていたようです。

 今西家書院の西側にあった家は上記に書いてある通り、唐招提寺に移されたようです。私もこの移設された家を追いかけて唐招提寺を訪ねてきました。寺務所で場所を聞いて、この建物を撮影してきました。この項は村田平さんの書かれた「志賀直哉と奈良-暮らしと思想-」豊住書店を参照しました。

小林秀雄が奈良の志賀直哉を訪ねたときは昭和3年ですので、志賀直哉の住まいは奈良市幸町になります。

左上の写真の右側奥に幸町旧志賀邸がありました。奈良市紀寺町です。飛鳥小学校の裏手になります。左右の建物や道は昔の面影がありますが、志賀邸があった右側奥は新しい建物が建てられていて、あまり面影がありませんでした。

「高畑の志賀直哉邸」
奈良市高畑の志賀直哉邸>
 昭和4年、志賀直哉は奈良幸町の借家から志賀直哉自らが設計した高畑の寓居に移ります。約9年間ここで過ごし、昭和13年、鎌倉に転居します。
「…その、当の志賀昇が四十年ほど経ってから、かう記してゐる。──
 《確か昭和三年四月(私が文化学院の美術科に入学した年だが)、奈良から父のところに手紙が来た。奈良の五月の初めは藤やいろいろの樹の新芽が出てとても綺麗だし、絵描きさんも沢山みえるし、……見ていただけば勉強になるから是非来る様にと書いてあったので、五月の初め父に作ってもらった洋服を着て、早速出かけた。奈良の幸町の家には朝着いた。
 昼食がすんで公園をぐるっと廻って帰ってくると、少しして小林秀雄さんが和服の着流しでおいでになって、大阪だったか、京都だったかで講演をたのまれたんだと言う事だった。和服じゃあだめだからと言って僕の着ていた上衣を着てみるとピッタリだったので、ズボンも脱がされ、とうとうチョッキや時計まで、これでいいと言って身につけてしまった。
 二日目の夕方までには帰って来るとの約束で出掛けられたが、二日目の夕方には帰って見えず、三日目の夕方風の強い日、僕が写生しているところへ帰って見えた。チョッキまで貸してしまったので身体がゾクゾクしたことを今でもおぼえている。》(昭和四十三年四月)…」

 建物の中の写真も掲載しておきます。(写真1写真2

右上の写真が奈良市高畑の志賀直哉邸です。この建物は昭和13年に志賀直哉が上京した後は個人の所有となり、戦後は米軍の接収をうけたりしました。最後は保存運動により奈良文化女子短期大学が買取って修復されました。


小林秀雄の奈良地図



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