<吉原の遊女蕋雲の碑> 2013年10月2日 金龍山縁起正傳を追加
2013年10月22日 千勝神社を追加 どういう訳か、浅草寺で数多くある碑の中で、蕋雲女史の人麿歌碑を取り上げています。蕋雲女史が吉原の遊女なので珍しかったのかもしれません。この碑は、文化13年(1816)新吉原の半松楼に抱えられていた遊女粧太夫が、儒学者亀田鵬斎より蕋雲の称号を受け、万葉仮名で人麿の歌を自筆した碑を人丸祠に奉納したものです。(「図説
浅草寺 今むかし」参照)
川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… 吉原の遊女蕋雲の碑が、津賀太夫の碑と向い合って、三社の裏に建っている。
いかに女の浅草公園だとて、三十もある石碑のうち、売女の碑はこれ一つだ。しかもこれだって、その遊女が人丸祠へ献じたものだ。
「保農保農登、明伽之浦廼、旦霧爾、四摩伽久礼行、不念遠之所思。」
(ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく船をしぞ思う)
男のように勢いのいい万葉仮名で、人麿の歌を書いた碑文も、彼女の筆だ。「妓流の才子」だった彼女は、浅草の人丸祠へ願がけでもしたとみえる。
すると浅草公園の五十から百近い神仏のうち、前身が売女なのは、姫宮唯一人だ。
「明治の大御代となりて二十四といふ年の六月、市の参事会の指揮する所ありて、今は形ばかりなる姥が池うづめぬ。かくて浅茅生の月、昔の影をも止めず、後の世にそのあとの隠れ果てぬらんもあまりにをしければ、石じるしする事とはなりぬ。森田鉞三郎建之」
この「石じるし」の教える「姥が池の旧跡」は、馬道六丁目三番地の人家の真中で、その姥宮姫宮も、今は千勝神社に七八の神々と雑居だ。
そして、姥が池の縁起も三通り伝わっている。しかし、姫宮が石の枕に寝たということは、三つとも同じだ。 ── だから、コンクリイトの枕に寝て、また舟板の枕に寝るかもしれない弓子のことから、私はこの伝説を思い出すのだ。…」
大正8年発行の「
金龍山縁起正傳」より
「…人 丸 祠
人九祠は堂後萬盛庵庭中の小山に在りしにて同庭に祠堂あり其中に茶室形の社宇あり今に存すれども尊像の所在を知らざりしに不思議や成人の夢に霊像が常時私人の有に歸し居ることを告げ給ひしかば百方之を捜索したるに馬道七丁目質商鶴飼某方に在ることを聞きたれば同家を訪れ共の庭上に於て初めて神像を拝し奉ることを得たりとぞ像は頓阿の作にして長五寸許り世にも珍らしき珍寶なるが何叙に浅草寺内の~祠が同家に移りあるにや其理由を知るベきなし人麻呂は天平元年三月十八日行年八十四歳にて卒せらる世に歌聖と旅す叉同社は鶴飼の先代が数寄を疑して造りしものにて茶室好み其中を上下二段とし神像は上の段に安置せる萬世庵の祠堂内に在る茶室形と相同じ石燈籠及石碑あり…
…
人丸堂は萬盛庵庭中に安置せられ其廃類を禦ぎ當時は萬盛庵鎮護の~の如くなりぬ而して建石の少數「ほのぼのと明石の浦の朝霧……の外數基萬盛庵欄外三社裏被官稲荷の傍に残しりのみにして他の大多數は行方知れずなりの大橋渡氏は擬に傅法院に勤務し常に此志厚かりしかば如何にもして此等の碑を見出して再び園内に建立せむものをと友人佐々木兵次郎に謀る佐々木氏田澤氏と親善屡々其宅に飲ひ頗る之を知る一日其沓脱石を指して曰く此は有名の古碑なり宗因芭蕉其角の句を刻む文化六年の建立にして人丸堂の傍に在りしものなりとこれより人丸堂の由來につき大に説く所ゐりき田澤氏驚き始めて以前庭中に在りし小堂の人丸堂なるを知り且つ悔ひ佐々木氏に謀り之を奉還せむとす此時巳に共臺石を失ひ其儘にて奉遷することはなしにき大橋氏大に欣び有志者江崎禮二大井儀八荻野竹次郎氏をはじめ十有七名を募り明治二十七年春新たに臺石を造りて公園第四區五百羅漢を去る東北三十餘歩の地に再び建立したり…
…
姥が池の舊跡
姥が他の舊跡は浅草區馬道町六丁目三番地に在り維新前までは子院妙音院の境内に属すしが今は池を埋め家を建て池の形だになくわづかに左の標石を残せり文に
姥が池の舊跡
其背に記事あり
明治の大御代と成りて二十四といふ年の六月市の参事會の指揮する所ありて今は形ばかりなる姥が池をうづめぬ斯ては淺茅生の月昔の影をも止め今後の世にそのあとの隠れ果てぬらんもあまりにおしければかく石しるしする事とはなりぬ
森田鉞三郎建之…」
元々の人丸祠跡が蕎麦屋の萬盛庵庭中にあったようですが、そのうち行方知れずとなり、蕋雲女史の人麿歌碑のみが三社裏被官稲荷の傍に残っていたようです。昭和14年の浅草絵図に碑の記載がありました。戦後の昭和29年に浅草神社の鳥居横の現在地に移設されています。
”姥が池の旧跡”については花川戸公園内に「姥が池の旧跡碑」があります。森田鉞三郎建之の「石じるし」については上記の通り「
姥が池の旧跡碑」の裏に書かれていたようです。
現在の碑は新しく、古い碑は2010年頃に割れたようで、そのため新しくしたようです。割れた碑は何処に行ったのでしょうか?
上記に書かれている”千勝神社”については昭和14年の浅草絵図(下記参照)に碑の記載がありましたので戦前はあったようですが、戦後は無くなっています。この千勝神社が何処に行ったのか調べてみました。
「浅草寺史談抄 昭和37年(1962) 金竜山浅草寺」からです。
「 一五 三社境内の末舎と遺蹟・碑
三社の境内は現在千四百五十二坪ある。社前の花崗岩の大鳥居は明治十八年九月氏子中の寄進になる。社殿の左手に太神宮や浄水盤があったけれども今時の戦災で焼失、同参道右手にあった千勝神社や神楽殿、恵美須堂などみな同様炎上してしまった。千勝神社(ちかつ)は小社ではあいたが、社殿内に千勝明神(猿田彦命を指す)琴平社(大巳貴命、金山彦命、崇徳天皇を総称の神号)天満宮(菅原道真)愛宕社(火産霊神)淡鳥社(少彦名命、大巳貴命)姥宮、姫宮(一つ家の姥と娘を祀る)一之大神(もと顕松院の一之権現の土師氏を祀る)西宮稲荷、熊谷稲荷(何れも食稲魂神)十社権現(十人の草刈童子)など沢山の神々が祭祀されてあったが。殆んどが江戸末期まで浅草寺境内に散在して祀ってあいた神祠で、明治維新の神仏分業令により一括してこの小社内に祭祀されたものであった。千勝杜の左裏にあった神輿庫も同時に焼けている。(神輿庫は往時十社権現の裏手にあった。)戦災後神楽殿だけが再建された。…」
千勝神社は”ちかつじんじゃ”と読むようです。残念ながら千勝神社は空襲で焼けて、そのままになっているようです。
戦前にあった場所の写真を掲載しておきます(写真の右側辺り)。
★写真は現在の蕋雲女史の人麿歌碑です。浅草神社の鳥居の横にあります。