●川端康成の「浅草紅団」を歩く -5-
    初版2001年11月24日
    二版2013年9月28日
   三版2013年10月22日 千勝神社を追加  <V01L01> 暫定版

 少し時間が経ちましたが「浅草紅団(浅草紅團)」を引き続いて掲載します。「浅草紅団」は文庫版で190ページ程あるのですが、120ページまで紹介しています。後半になるにつけて固有名詞が少なくなってきています。後数回で終りそうです。




「浅草紅団」
<川端康成 「浅草紅団」>(この項前回と同じ内容です)
 三人の作家の浅草を順次歩いています(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。今回は昭和5年に書かれた「浅草紅団」に沿って戦前の浅草を歩いてみます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「 ── 作者イウ。コノ小説ノ進ムニ従ツテ、紅団員ハジメ浅草公園内外二巣食ウ人達ニ、イカナル迷惑ヲ及ボスヤモ計り難イ。シカシ、アクマデ小説トシテ、コレヲ許サレヨ ──

     ピアノ娘

          一

 鹿のなめし革に赤銅の金具、瑪瑙の緒締に銀張りの煙管、国府煙草がかわかぬように青菜の茎を入れた古風な煙草入れを腰にさげ、白股引と黒脚絆と白い手甲、そして渋い盲縞の着物を尻はし折って、大江戸の絵草紙そのままの鳥刺の姿が、今もこの東京に見られるという。言う人が警視庁の警部だから、まんざら懐古趣味の戯れでもあるまい。
 してみれば、私も江戸風ないいまわしを真似て、この道は ── そうだ、これから諸君を紅団員の住家に案内しようとするこの道は、万治寛文の昔、白革の袴に白鞘の刀、馬まで白いのにまたがって、馬子に小室節を歌わせながら、吉原通いをしたという、あの馬道と同じ道かどうかを、調べてみるべきかもしれない。…」


上の本は「浅草紅團」の復古版として昭和51年7月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載され、その後昭和5年12月に先進社により単行本として出版されました。文庫本は講談社版がありましたが、単行本は既に販売されていませんので、上記の本を古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。この小説は書き出しが面白いのです。

【川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)】
 大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れる。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品を発表して、1968年(昭和43年)にノーベル文学賞を受賞。日本人初の受賞となります。1972年(昭和47年)、満72歳で鎌倉で自殺。(ウイキペディア参照)


浅草地図 -1- (高見順の浅草地図を参照)



「賽銭箱」
<観音堂の名高い賽銭箱>
  2013年10月2日 金龍山縁起正傳を追加
 浅草寺 観音堂の賽銭箱について書いています。細かく書いていますので、何かを見て書いてのだとおもい調べてみました。国会図書館で調べると、大正8年発行の「金龍山縁起正傳」の中から賽銭箱について書かれた項目を見つけることが出来ました。また現在の賽銭箱と大きさを較べてみました。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… 観音堂の名高い賽銭箱−縦一丈六尺三寸五分、横一丈四寸六分、高さ二尺三寸、横木十九本、箱の下に穴蔵が作ってある賽銭箱には、お寺の報告に従うと、例えば昭和四年十月一月に一万六千二円投げ込まれたのだ。香華、蝋燭、祈祷、御くじ料なその上り高が五六千円だ。そして昭和三年の夏から工事中の本堂の修繕は、三四年がかりで、見積り経費六十何万円 ── やはり善男善女の喜捨だ。…」

 大正8年発行の「金龍山縁起正傳」より
…賽 銭 箱
観世音の賽銭箱と言へば世にも名高き物にして外部より透見するを得ざれども宛然一小庫の若し外陣正面格子の際に在り縦一丈六尺三寸五分横一丈四寸六分高二尺三寸横木十九本を篏め以て盗犯を禦ぐ箱の下には穴蔵を構ふ内陣正面の賽銭箱と底は相貫通し西の石階の下と北の椽の下とに入口あり是れより運び出すといふ方今の賽銭高は一ヶ年凡そ一萬餘圓を算すべく十日毎に計算して諸方よりの両替に應ず此他香華蝋燭祈祷御圓料としての上り高は賽銭の数倍すベぐ聞く所によればニロ合せて約四萬圓を下らざるべしといふ…」


 川端康成はもう少し新しいのを見たのだとおもいますが、寸法はまったく同じで、内容的にはほとんど変っていません。観音堂は関東大震災でも残っていましたのでそのままのはずです。

 大きさについては、先ずメートル法に直します。(一丈=十尺=3.03m、一尺=十寸=30.3cm、一寸=十分=3.03cm、一分=3mm)
・縦 一丈六尺三寸五分=495.39cm
・横 一丈四寸六分   =316.92cm
・高さ 二尺三寸      =69.69cm
・横木十九本       =無し
 浅草寺 観音堂の賽銭箱は先ず階段を上がったところに朱色の賽銭箱があります。縦横の大きさからするとこの賽銭箱ではありません。 観音堂の中にある賽銭箱が大きさに合いそうです。ただ、横木がありません。

写真は現在の観音堂内にある賽銭箱です。まさか観音堂内で寸法を測るわけにはいきませんので、床のタイルの数で寸法を推定します(タイルの大きさは約30cm四方です)。横が10枚:約3m、縦が16枚:約4.8mとなります(どちらが縦で横かは疑問なのですが!)。高さは人間の腰のどの位置かで推定します。70cm位でした。観音堂は空襲で焼けていますので、戦後に作られたものとおもいますがほとんど同じ大きさとおもわれます。

「人麿歌碑」
<吉原の遊女蕋雲の碑>
 2013年10月2日 金龍山縁起正傳を追加
 2013年10月22日 千勝神社を追加
 どういう訳か、浅草寺で数多くある碑の中で、蕋雲女史の人麿歌碑を取り上げています。蕋雲女史が吉原の遊女なので珍しかったのかもしれません。この碑は、文化13年(1816)新吉原の半松楼に抱えられていた遊女粧太夫が、儒学者亀田鵬斎より蕋雲の称号を受け、万葉仮名で人麿の歌を自筆した碑を人丸祠に奉納したものです。(「図説 浅草寺 今むかし」参照)

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… 吉原の遊女蕋雲の碑が、津賀太夫の碑と向い合って、三社の裏に建っている。
 いかに女の浅草公園だとて、三十もある石碑のうち、売女の碑はこれ一つだ。しかもこれだって、その遊女が人丸祠へ献じたものだ。
 「保農保農登、明伽之浦廼、旦霧爾、四摩伽久礼行、不念遠之所思。」
  (ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく船をしぞ思う)
 男のように勢いのいい万葉仮名で、人麿の歌を書いた碑文も、彼女の筆だ。「妓流の才子」だった彼女は、浅草の人丸祠へ願がけでもしたとみえる。
 すると浅草公園の五十から百近い神仏のうち、前身が売女なのは、姫宮唯一人だ。
「明治の大御代となりて二十四といふ年の六月、市の参事会の指揮する所ありて、今は形ばかりなる姥が池うづめぬ。かくて浅茅生の月、昔の影をも止めず、後の世にそのあとの隠れ果てぬらんもあまりにをしければ、石じるしする事とはなりぬ。森田鉞三郎建之」
 この「石じるし」の教える「姥が池の旧跡」は、馬道六丁目三番地の人家の真中で、その姥宮姫宮も、今は千勝神社に七八の神々と雑居だ。
 そして、姥が池の縁起も三通り伝わっている。しかし、姫宮が石の枕に寝たということは、三つとも同じだ。 ── だから、コンクリイトの枕に寝て、また舟板の枕に寝るかもしれない弓子のことから、私はこの伝説を思い出すのだ。…」


 大正8年発行の「金龍山縁起正傳」より
「…人 丸 祠
人九祠は堂後萬盛庵庭中の小山に在りしにて同庭に祠堂あり其中に茶室形の社宇あり今に存すれども尊像の所在を知らざりしに不思議や成人の夢に霊像が常時私人の有に歸し居ることを告げ給ひしかば百方之を捜索したるに馬道七丁目質商鶴飼某方に在ることを聞きたれば同家を訪れ共の庭上に於て初めて神像を拝し奉ることを得たりとぞ像は頓阿の作にして長五寸許り世にも珍らしき珍寶なるが何叙に浅草寺内の~祠が同家に移りあるにや其理由を知るベきなし人麻呂は天平元年三月十八日行年八十四歳にて卒せらる世に歌聖と旅す叉同社は鶴飼の先代が数寄を疑して造りしものにて茶室好み其中を上下二段とし神像は上の段に安置せる萬世庵の祠堂内に在る茶室形と相同じ石燈籠及石碑あり…

 人丸堂は萬盛庵庭中に安置せられ其廃類を禦ぎ當時は萬盛庵鎮護の~の如くなりぬ而して建石の少數「ほのぼのと明石の浦の朝霧……の外數基萬盛庵欄外三社裏被官稲荷の傍に残しりのみにして他の大多數は行方知れずなりの大橋渡氏は擬に傅法院に勤務し常に此志厚かりしかば如何にもして此等の碑を見出して再び園内に建立せむものをと友人佐々木兵次郎に謀る佐々木氏田澤氏と親善屡々其宅に飲ひ頗る之を知る一日其沓脱石を指して曰く此は有名の古碑なり宗因芭蕉其角の句を刻む文化六年の建立にして人丸堂の傍に在りしものなりとこれより人丸堂の由來につき大に説く所ゐりき田澤氏驚き始めて以前庭中に在りし小堂の人丸堂なるを知り且つ悔ひ佐々木氏に謀り之を奉還せむとす此時巳に共臺石を失ひ其儘にて奉遷することはなしにき大橋氏大に欣び有志者江崎禮二大井儀八荻野竹次郎氏をはじめ十有七名を募り明治二十七年春新たに臺石を造りて公園第四區五百羅漢を去る東北三十餘歩の地に再び建立したり…

姥が池の舊跡
姥が他の舊跡は浅草區馬道町六丁目三番地に在り維新前までは子院妙音院の境内に属すしが今は池を埋め家を建て池の形だになくわづかに左の標石を残せり文に
    姥が池の舊跡
其背に記事あり
 明治の大御代と成りて二十四といふ年の六月市の参事會の指揮する所ありて今は形ばかりなる姥が池をうづめぬ斯ては淺茅生の月昔の影をも止め今後の世にそのあとの隠れ果てぬらんもあまりにおしければかく石しるしする事とはなりぬ
森田鉞三郎建之…」


 元々の人丸祠跡が蕎麦屋の萬盛庵庭中にあったようですが、そのうち行方知れずとなり、蕋雲女史の人麿歌碑のみが三社裏被官稲荷の傍に残っていたようです。昭和14年の浅草絵図に碑の記載がありました。戦後の昭和29年に浅草神社の鳥居横の現在地に移設されています。

 ”姥が池の旧跡”については花川戸公園内に「姥が池の旧跡碑」があります。森田鉞三郎建之の「石じるし」については上記の通り「姥が池の旧跡碑」の裏に書かれていたようです。現在の碑は新しく、古い碑は2010年頃に割れたようで、そのため新しくしたようです。割れた碑は何処に行ったのでしょうか?

 上記に書かれている”千勝神社”については昭和14年の浅草絵図(下記参照)に碑の記載がありましたので戦前はあったようですが、戦後は無くなっています。この千勝神社が何処に行ったのか調べてみました。

 「浅草寺史談抄 昭和37年(1962) 金竜山浅草寺」からです。
「  一五 三社境内の末舎と遺蹟・碑

 三社の境内は現在千四百五十二坪ある。社前の花崗岩の大鳥居は明治十八年九月氏子中の寄進になる。社殿の左手に太神宮や浄水盤があったけれども今時の戦災で焼失、同参道右手にあった千勝神社や神楽殿、恵美須堂などみな同様炎上してしまった。千勝神社(ちかつ)は小社ではあいたが、社殿内に千勝明神(猿田彦命を指す)琴平社(大巳貴命、金山彦命、崇徳天皇を総称の神号)天満宮(菅原道真)愛宕社(火産霊神)淡鳥社(少彦名命、大巳貴命)姥宮、姫宮(一つ家の姥と娘を祀る)一之大神(もと顕松院の一之権現の土師氏を祀る)西宮稲荷、熊谷稲荷(何れも食稲魂神)十社権現(十人の草刈童子)など沢山の神々が祭祀されてあったが。殆んどが江戸末期まで浅草寺境内に散在して祀ってあいた神祠で、明治維新の神仏分業令により一括してこの小社内に祭祀されたものであった。千勝杜の左裏にあった神輿庫も同時に焼けている。(神輿庫は往時十社権現の裏手にあった。)戦災後神楽殿だけが再建された。…」

 千勝神社は”ちかつじんじゃ”と読むようです。残念ながら千勝神社は空襲で焼けて、そのままになっているようです。戦前にあった場所の写真を掲載しておきます(写真の右側辺り)。

写真は現在の蕋雲女史の人麿歌碑です。浅草神社の鳥居の横にあります。


昭和14年の浅草絵図(一部)



「甘栗太郎跡」
<浅草広小路の甘栗太郎>
 雷門から西に三軒目に戦前の甘栗太郎がありました。戦前はお菓子としての甘栗に人気があったのだとおもいます。今はお菓子が氾濫していますので甘栗のみでは難しいですね。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…浅草広小路の甘栗太郎 ── 焼臼の中に栗まじりの黒い砂が、ぐねりぐねりと波を廻している。それをのぞきこんで、いつだったか紅団の一人は、いみじくも言ったものだ。
「おい、素晴しいフラフラ・ダンス。春野芳子より本場だよ。黒ん坊のでっかい女のさ。」
 また、横笛吹きの笛亀は、遊楽館の舞台で、さんざ悪態をつきながらも、彼の罵るジャズ小唄を吹かなければ、十分に客の手をいただけないのだ。
 例えば、諸君は近頃、万才を聞いたか。万才は元来道化だ。ところが一九二九年では、メリケン渡来の「モダン」という、無軌道の機関車に、万才の芸人達が引きずり廻されているので、彼等は二重に悲しい道化だ。…」


 昔は甘栗を作る機械をよく見かけたものです。黒く丸い石と甘栗を混ぜて暖めながらぐるぐる回る機械をずっと眺めていた記憶があります。

 戦前の甘栗太郎は大正3年に長野県上水内郡日里村出身の北澤重蔵が中国より天津甘栗を輸入し販売を始めたのが最初です。大正7年に東京の池之端で世界万博が開かれた時、桃太郎にあやかり「甘栗太郎」と命名して実演販売を行い好評を得ます。これを機会に販売している天津甘栗を「甘栗太郎」として販路を広げていきます。戦後は甘栗太郎の戦前の仕入担当であった柴源一郎が昭和31年(1956)「株式会社甘栗太郎」を創業し、本格的に甘栗販売を初め今日にいたります。

写真は雷門から西側を撮影したものです。角は有名な雷おこしの常盤堂です。ここから三軒目に甘栗太郎のお店がありました。現在の「らあめん花月」のところにありました。

「長命寺の桜餅」
<向島名物、長命寺の桜餅や言問団子>
 長命寺の桜餅や言問団子は有名なので特に書くこともないのですが、浅草から隅田川を語るときには必ず登場するお店です。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… また例えば、帝京座の歌劇を見給え、光源氏や業平朝臣が、ジャズ・ダンスを踊るのだ。 ── 朝臣よ、話は別だが、都鳥の向島はコンクリイトの河岸公園となった。向島名物、長命寺の桜餅や言問団子を売る家も、コンクリイト建てとなった。近くに商科大学の艇庫があるが、それは水べりに青い木造 ── 建物で見ると、ボオトは桜餅よりも遥に古風なのだ。
 しかし朝臣には、コンクリイトの魅力なんか、最早分りようもあるまい。
「尖端的だわね。」という、すさまじい小唄映画を、松竹蒲田で作るそうな。
「鉄筋コンクリイトだわね。」という小唄映画も、今に出来るだろう。
 笑う人は、アスファルトやコンクリイトの魅力を知らないのだ。…」


写真は長命寺の「桜餅」です。美味しかったです。「長命寺の桜餅」の道路を挟んだ北側に「言問団子」があります。詳細は「墨堤通りと幸田露伴」を参照してください。

「観音劇場跡」
<観音劇場>
 浅草六区にあった劇場です。昭和5年10月には廃館しています。「浅草紅団」が掲載されたのは同年2月26日までなので、ぎりぎりです。その頃は松竹の配給映画館だたのでチャンバラ映画ばかり上映していたとおもわれます。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「… でも、恋をしていると、夜涙が出るものよ。別れると、朝涙が出るものよ。この朝の涙が出ないようになれば、まず女として一人前だわ。 ── ところが弓子さんときたら、男とチャンチャンバラバラ、ね、観音劇場の大看板ごらんになった? (チャンバラ劇とヨラバ斬るぞの幕なし芝居)この文句の通りですわ。まるで睡眠不足。何をどう考えて寝ないのか、分らないわ、私。可哀想に試験用の動物 ── 人間は幾日間眠らずに生きていられますか。」…」

 観音劇場(かんのんげきじょう)は大正6年(1917)東京市浅草区公園六区一号地、大勝館の裏手(現在の東京都台東区浅草2丁目11番1号)に開業した劇場です(映画館「キリン館」の跡地)。同劇場は、曽我廼家五九郎が根岸興行部から経営を任され、同年3月、原信子が結成した劇団「原信子歌劇団」で、アイヒベルク作のオペレッタ『アルカンタラの医者』、6月にはリヒャルト・シュトラウス作の『サロメ』を公演します。昭和2年(1927)からは日活作品を上映し、昭和3年(1928)には、マキノ省三(牧野省三)監督のサイレント映画『忠魂義烈 実録忠臣蔵』をマキノ正博監督の『間者』と併映で、日活のフラッグシップ館として本劇場で公開しています。昭和4年(1929)からは松竹キネマ(現在の松竹)の配給作品を上映するようになります。昭和5年(1930)8月、榎本健一(エノケン)が二村定一、武智豊子とともに「第2次カジノ・フォーリー」を脱退、「新カジノ・フォーリー」を同劇場で旗揚げします。同年10月の新カジノ解散とともに観音劇場は閉館します。現在は商店として分割されています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の浅草演芸ホールの北側から西側を撮影したものです。写真の右側に観音劇場がありました。

「田原町交番」
<松清町巡査派出所>
 浅草広小路の西端にある交番です。雷門通り(浅草広小路)と国際通りの交差する雷門一丁目交差点西側にある交番と言った方が分かりやすいかもしれません。戦前から戦後、現在にいたるまで継続してありました。

 川端康成の「東京紅団(東京紅團)」からです。
「…  その交番は、広小路が松清通へぶっつかったところにある。
 浅草の本願寺の裏門を出て来て左だ。田原町の停留場の西だ。いうまでもなく、雷門が浅草の東の表大門で、松清通が西の表大門だが、一年間に浅草へ流れこむ人波がざっと一億人、興行物と、飲食店と、芸者屋へ落ちこむ金が、年にざっと千二百六十万円 ── なんて統計だし、西の入口の煙草屋は、一日の売上げが、二百円だったとかいう。
 その煙草がばったり売れなくなった。煙草屋は公園と道を隔てている。復興局の道路改正が、その繁昌を昔話にしてしまったのだ。
 煙草を買いに渡るには広過ぎる。だから、例えば、ロシア娘が荒っぽく歩いても、人目に立たない片側が出来たわけだ。
「今夜は赤札がいるのかね。」と、私が春子の手の千社札を覗き込んだのも、この寂しい側の人道なのだ。
「あら。そう言われれば赤いのばっかりね。青札を使い過ぎちゃったわ、私、とても軟派なの、これでみると。」
 彼等の千社札は、彼等の罪のないいたずらであり、下町風なしゃれなのだ。しかしまた時としては、彼等の名刺となり、身分証明書となり、危険信号ともなるのだ。
 掌に隠れてしまう、厚ぼったい唐紙に、勘亭流で「浅草紅座」の四字を抜き出し ── 赤刷りと青刷りとがあるのだ。電車の信号やなんかの真似だ。
 例えば、春子がよその男をつかまえて、雷門前の明治製菓売店へ行くとする。入口に青い札を落しておく。通りがかった仲間がそれを見つけて、男にたかる。
 また、彼等はいつ、どんな人間に、どこで、どういう目にあわされるか分らない。相手の目を盗んで、汚い支那料理屋の表に赤い札をはりつける。暗い空地へ行く道に赤い札を撒いておく。危険を報せて、助けを求めるのだ。…」


 上記の”雷門前の明治製菓売店”は雷門前の区立浅草文化観光センターのところにありました。

写真は現在の雷門通りと国際通りの交差する雷門一丁目交差点西側にある交番です。雷門前の交番は浅草警察署管轄の雷門交番で、上記の交番は蔵前警察署管轄の田原町交番となります。この交番の右手に公衆便所があるのですがこの公衆便所も戦前からありました。


浅草地図 -2-



川端康成年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 川端康成の足跡
         
大正14年 1925 治安維持法 26 本郷区林町一九○、豊秀館
大正15年 1926 昭和元年 27 東京市麻布区宮村町大橋方に転居
4月 市が谷左内町二六で秀子夫人との生活に入る
9月 伊豆湯が島に戻る
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
28 4月 東京市外杉並町馬橋二二六に転居
11月 熱海の別荘鳥尾荘に転居
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
29 5月 尾崎士郎に誘われ、東京市外大森の子母沢に転居
馬込東の臼田坂に転居
昭和4年 1929 世界大恐慌 30 9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 31 2月 東京市下谷区上野桜木町四九に転居
文化学院の講師となる
昭和6年 1931 満州事変 32 4月 桜木町三六番地に転居
12月2日 下谷区役所に秀子夫人との婚姻届を提出
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
33  
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
34 7月 上総興津 山岸屋に滞在
昭和9年 1934 国際連盟成立 35 6月 越後湯沢に滞在
6月末 下谷区谷中坂町七九に転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 36 12月 神奈川県鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
39  
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
40