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最終更新日:2006年2月19日


●川端康成の「上野桜木町時代」を歩く 初版2003年2月15日 <V01L03>
 今週は予定通り日曜日に更新できそうです。それにしても「川端康成特集」の第五週目になると少々疲れてきますね。特集は後何回掲載かと数えてみると、五回くらいは続きそうです。今週は「上野桜木町時代を歩く」ですが来週以降の「伊豆の踊子」と「雪国」がピークになりそうです。ご期待ください。

上野桜木町通り「喜久月」>
 大森の馬込から上野桜木町へ引っ越したきっかけを川端秀子さんは「川端康成とともに」の中で書いています。「大森から上野桜木町四十四番地へ引っ越したきっかけは、そのころ内幸町の大阪ビルにあった文藝春秋によくいらしてた小野田さんという方の持家がたまたま空いたということでした。大森はいろいろとゴチャゴチャしていて、それに家主さんともしっくり行きませんで、外へ出たい気分でしたから、渡りに舟だったのです。それに主人も桜木町へ行きたいということを始終ロにしていたもので、小野田さんの話が出た時、「川端君どうか」とすぐ声がかかったらしいのです。一高生の頃、上野桜木町四十八番地の貸間の広告を見て、わざわざ見に行くという話が日記にありますが(『汝』昭和五十四年六月号)、桜木町というのはその時以来憧れの町だったんですね。」、ひとつの場所にあまり長くいない川端康成なら当然だったかかもしれません。上野桜木町とは上野寛永寺と谷中霊園の間の言問通り(上野桜木町通りとも言う)沿いの町のことで、戦災にも遭わず現在も昔の雰囲気そのままです。大阪ビルの文藝春秋社については「文藝春秋社の足跡を歩く」を参考にしてください。上野桜木町で秀子さんは和菓子の「喜久月」へ通います。「この頃は外出も多く来客も多く雑然としていました。お客が多くてお菓子をたくさん買って、「喜久月」というお菓子屋さんで、おたく様、何の御商売ですかと言われるぐらいでした。川端は甘いものをお客の時によく食べて、おしまいには、谷中坂町の頃ですが、今で言う急性糖尿みたいになって、こんなにお客さんが多くては体がもちませんよと医者に言われました。」、川端康成が甘いものを好むのは何となくわかりますね。「喜久月」は川端康成がいたころと同じ場所に昔のままに営業されています。

左上の写真は上野桜木町通り「喜久月」の和菓子三品(菜の花等)です。昔からのお店ですので川端康成が食べた和菓子と同じ物が食べられます。現在はお店の隣に喫茶部も設けられていますので、お店でも和菓子を食べられます。
【喜久月:東京都台東区谷中6-1-3 03-3821-4192 9:00〜18:00 火休】

川端康成の「上野桜木町時代」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

川端康成の足跡

作  品

昭和4年
1929
世界大恐慌
30
9月 東京市下谷区上野桜木町四四に転居
浅草紅団
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
31
2月 東京市下谷区上野桜木町四九に転居
文化学院の講師となる

昭和6年
1931
満州事変
32
4月 桜木町三六番地に転居
12月2日 下谷区役所に秀子夫人との婚姻届を提出

昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
33
 
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
34
7月 上総興津 山岸屋に滞在 禽獣
昭和9年
1934
国際連盟成立
35
6月 越後湯沢に滞在
6月末 下谷区谷中坂町七九に転居

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
36
12月 神奈川県鎌倉町浄明寺宅間ケ谷に転居 雪国

下谷区上野桜木町四四番地>
 昭和4年9月、川端康成は騒がしい馬込から上野桜木町四四番地に引っ越します。その当時のことを日記で書き残しています。「この家に一年半ばかり、厭な気持これで終る。家賃の滞納一再ならねど、野菜なぞを、僕の家に隠れて両隣の店子に配る大家を見ては、僕はとにかく、家人は居づらし。……省線電車の鷺谷駅より、桜木町の新居に至れば、運送屋が荷物をおろし了えたるところ。家は寛永寺の北、谷中の墓地の南あたりなり。桜木町は、一高の時しばしば上野に散歩せし頃より、一度は住みたしと思い居りし土地なり。…二階一間、下玄関共三間。熱海、大森、上野−−と、次第に家の小さくなり行くこと笑止なり。近所の女中、子供等、道に並んで、僕の引越しを見物。二階は前の家よりから見え。これには弱る。瓦斯はまだ出ず。七時頃女房を連れて、食事に出る。近所のそば屋に寄り、大家さんと両隣へ、引越しそばを届けるよう命ず。世間並みに物をくれたり、貰ったりすること、大嫌いなれど、いたし方なし。アスファルト道を、逢初橋に下る。この立派な新道、自動車の往来しげきに驚く。鉄道線路に寛永寺陸橋が架かってから、北部山手と下町とを貫く、幹線道路となりし如し。」、とあります。”鉄道線路に寛永寺陸橋”とありますが、これはJR東北本線等を跨いでいる言問通りの陸橋のことで現在も寛永寺橋とよんています。つまり”立派な新道”とは言問通りのことになります。この頃から川端康成の浅草時代が始まります。

左の写真は言問通りの桜木町二丁目交差点から谷中霊園に入った所です。下谷区上野桜木町四四番地はこの左側になります。「裏が墓地だった」と書かれていますのでまさにこの左側辺り(現在の台東区上野桜木町2−20辺り)だと思います。

下谷区上野桜木町四九番地>
 どういう訳か、桜木町の町内で引越しを繰り返します。「『浅草紅團』の連載が終ってから、桜木町四十九番地へ引っ越してそこに一年ほど住みますが、この間、犬を飼うことと、夜になると浅草に行くこと、この二つだけが仕事みたいな生活でした。…四十九番地に来られた編集者もそう数多くはありませんが、講談社からはよくお使いの人が見えていたように思います。その頃、講談社の人はみなお揃いの縞の印半纏を着ていて、きちんとしつけられていたのでしょう、礼儀正しい人ばかりでした。二階からちらとのぞいて見ますと、人が出て来る前に門のところでちゃんとお辞儀をしているのです。……四十九番地の家は、二階が八畳と六畳、下が四間ありまして、風呂場はありましたがお風呂がなくて近所の風呂屋へ行っておりました。…昭和五年の六月頃でしたか、片岡鉄兵さんに頼まれて蔵原惟人さんがソビエトへ潜行する直前に、蔵原さんを預ったことがあります。…蔵原さんはとても感じのいいおだやかな方で、朝、食事をすませますと、別に変装をするというわけでもなく外出して、夜の食事をすませてから帰って来て寝るという具合でした。…十日ほど預ってくれということでしたが、一週間足らずで別なところに行かれ、清水さんという方が後の整理に来られました。多分蔵原さんはそのままソビエトへ行かれたのだと思います。」、昔の講談社の社員はしつけが行き届いています(いまの取材の記者などに聞かせてやりたいですね)。上記に書かれている”通っていた風呂屋”は「坊主湯」と呼ばれていた「柏湯」で、そこでの川端康成のあだ名は「うるめの干物」だったそうです。また近くの酒屋の上総屋には川端康成が電話を借りに来たそうです(「谷中・根津・千駄木」其の二十三より)。

右の写真が当時の上野桜木町四九番地付近(現在の上野桜木町2−2、25付近)です。写真中央辺りに京成電車の陸橋が見えますが、当時は京成電車がまだ上野までは開通しておらず、現在とは地形がかなり変わっています。

下谷区上野桜木町三六番地>
 馬込時代から犬を飼っていた様です。「四十九番地から三十六番地にかけての私たちの最大の関心事は何と言っても「犬」です。三十六番地の家を取材した新聞記事の切抜が二つ残っていますが、「愛犬も書斎の一部」とか「犬が標札と呼鈴代り」と見出しに書かれています。これは四十九番地の家でも同じことで、「呼鈴代り」のコリーの囁き声は御近所に随分迷惑をかけたようです。…『禽獣』は昭和八年、つまり桜木町三十六番地時代の作品で、ここに書かれている動物の話は、少し細部は変えてはいますが、ほとんど実際にあったことを基にしています。野良犬がかかったというので腹を蹴って流産させたという詰も笑話です。ただ小説ではドオペルマンとなっていますが、実際はコリーです。」、上野桜木町三六番地は谷中霊園に近く、当時の谷中斎場の裏手になります(今は斎場はありません)。

左の写真の右側が当時の上野桜木町三六番地付近(現在の上野桜木町2−15付近)です。上野桜木町でも、表通りから路地をかなり入ったところなので昔の面影がかなりあります。

下谷区谷中坂町七九番地>
 川端康成が上野桜木町付近で最古に住んだのが谷中坂町七九番地でした。「川端が湯沢に行ったのは年譜などでは昭和九年五月となっていますが、実際は六月に入ってからです。五月に水上から湯檜曾に行き、それから水上駅の一つ手前の上牧駅前の大室温泉旅館に行っています。この頃には桜木町から谷中坂町に引っ越すことがきまっていたのですが、桜木町の家を出る前に手入れをしろとか、出るについてはいくらか出してもらいたいという話が大家さんから出ていて、すんなりと引っ越しが出来ない状態でした。とに角お金がなくて、原稿をたくさん書かなくてはならなくて、そのための大室温泉行きでした。…六月十三日、『文学界』の原稿(「南方の火」でしょうか)を出しに水上駅へ行ったついでに、息抜きをするつもりでトンネルを越えて湯沢に行きました。そこで泊ったのが高半旅館で、十四日にまた大室温泉に荷物をとりにもどり、出直して湯沢に行きます。…川端が帰宅した後にやっと谷中坂町七十九番地に引っ越せました。これが六月の末頃だったと思います。」、この頃は流行作家だったのにいつもお金に困っているようで、越後湯沢の高半旅館に通いだしたのもこの頃のようです。しかし最初は水上駅の一つ手前の上牧駅の旅館に泊まっていたのですから、トンネルを超えて越後湯沢までいかなければ「雪国」は書かれなかったかもしれません。

右の写真の右側の住宅の処か谷中坂町七九番地(現在の谷中1−6付近)です。ちょうど妙福寺の隣で、本当に狭い路地の奥になります。

この後、川端康成は鎌倉に転居します。

川端康成 東京地図−2−



【参考文献】
・川端康成全集:川端康成 、新潮社
・伊豆の踊子:川端康成、近代文学館
・古都:川端康成、新潮社
・雪国:川端康成、鎌倉文庫版
・新潮日本文学アルバム川端康成:新潮社
・伝記 川端康成:進藤純考、六興出版
・小説 川端康成:澤野久雄、中央公論社
・川端康成とともに:川端秀子、新潮社
・川端康成の世界:川嶋至、講談社
・川端康成 文学の舞台:北条誠、平凡社
・実録 川端康成:読売新聞文化部
・川端康成:笹川隆平、和泉選書
・川端康成 三島由紀夫往復書簡:新潮社
・作家の自伝 川端康成:川端康成、日本図書センター
・川端康成展:日本近代文学館
・大阪春秋(川端康成と大阪−生誕100年−):大阪春秋社
・谷中・根津・千駄木(17、23、28):谷根千工房
・「雪国」湯沢事典:湯沢町教育委員会
・現代鎌倉文士:鹿児島達雄、かまくら春秋社
・文士の愛した鎌倉:文芸散策の会編、JTB
・川端康成その人とふるさと:茨木市川端康成文学館
・浅草紅團:川端康成、日本近代文学館
・浅草紅団:川端康成、講談社文芸文庫
・江戸東京坂道事典:石川悌二、新人物往来社

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