以前に「中央公論社」の足跡を歩いてみましたが、今週は「文藝春秋」の足跡をを歩いてみたいとおもいます。たまたま、昭和34年4月発行の「文藝春秋三十年史稿」が手に入りましたので、この本を参考にして、大正12年の創刊号から昭和34年までの文藝春秋の足跡を巡ってみました。昭和34年以降は別の機会に行いたいとおもいます。今回は写真が多くて、Loadに少し時間が掛かります。
<文藝春秋> 文藝春秋を語ることは、菊池寛を語ることになります。「文藝春秋三十年史稿」の冒頭を読むと『「文藝春秋」は、大正十二年一月号(一九二三年)を以て、創刊第一号とする。大正十一年の歳末もなかばを過ぎた頃、まず東京市内の書店の店頭に、堆く積まれた部厚な他の様々な新年特大号の片脇に並んで、「文藝春秋」は文藝雑誌としての誕生を告げた。……本文は二十八頁。手の中に軽くまるめられる厚さで、定価は十銭だつた。「月刊 文藝春秋」と、上部に木版を使った表紙は、粗末な活版刷りの窯一色であるばかりか、ただちに目次をも兼ねる簡潔さである。第一頁、芥川龍之介の「侏儒の言葉」から、巻末の(菊池)と署名のある編集後記まで、ギッシリ活字の詰った四段組だつた。発行所は東京市小石川区林町十九番地、文藝春秋社となつていた。発行編集兼印刷人菊池寛の任所である。発売元には、常時文藝図書の出版社として知られていた春陽堂が雷った。貴行部数は三千だった。この四段組の新形式は、今日まで絶ゆることなく継承され「文藝春秋」の名物とも謂うべき随筆欄に創刊以来の姿を見せているが、…』と書かれています。文藝春秋は、なにか、菊池寛の個人雑誌だったようです。四段組みは現在でも続いていますね。けっこう読みやすいとおもいます。
★左上の写真は今年の11月号です。私の親が買っていたので、小学校の頃から読んでいましたが体裁はまったく変わりませんね、感心します。
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