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最終更新日:2006年3月26日

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●文藝春秋の足跡を歩く 2002年10月12日 <V02L01>
  以前に「中央公論社」の足跡を歩いてみましたが、今週は「文藝春秋」の足跡をを歩いてみたいとおもいます。たまたま、昭和34年4月発行の「文藝春秋三十年史稿」が手に入りましたので、この本を参考にして、大正12年の創刊号から昭和34年までの文藝春秋の足跡を巡ってみました。昭和34年以降は別の機会に行いたいとおもいます。今回は写真が多くて、Loadに少し時間が掛かります。

<文藝春秋>
 文藝春秋を語ることは、菊池寛を語ることになります。「文藝春秋三十年史稿」の冒頭を読むと『「文藝春秋」は、大正十二年一月号(一九二三年)を以て、創刊第一号とする。大正十一年の歳末もなかばを過ぎた頃、まず東京市内の書店の店頭に、堆く積まれた部厚な他の様々な新年特大号の片脇に並んで、「文藝春秋」は文藝雑誌としての誕生を告げた。……本文は二十八頁。手の中に軽くまるめられる厚さで、定価は十銭だつた。「月刊 文藝春秋」と、上部に木版を使った表紙は、粗末な活版刷りの窯一色であるばかりか、ただちに目次をも兼ねる簡潔さである。第一頁、芥川龍之介の「侏儒の言葉」から、巻末の(菊池)と署名のある編集後記まで、ギッシリ活字の詰った四段組だつた。発行所は東京市小石川区林町十九番地、文藝春秋社となつていた。発行編集兼印刷人菊池寛の任所である。発売元には、常時文藝図書の出版社として知られていた春陽堂が雷った。貴行部数は三千だった。この四段組の新形式は、今日まで絶ゆることなく継承され「文藝春秋」の名物とも謂うべき随筆欄に創刊以来の姿を見せているが、…』と書かれています。文藝春秋は、なにか、菊池寛の個人雑誌だったようです。四段組みは現在でも続いていますね。けっこう読みやすいとおもいます。

左上の写真は今年の11月号です。私の親が買っていたので、小学校の頃から読んでいましたが体裁はまったく変わりませんね、感心します。

文藝春秋 年表

和  暦

西暦

年    表

文藝春秋の足跡を歩く

大正12年 1923 9月 関東大震災 1月 文藝春秋創刊、所在地は小石川区林町十九番地
7月 本郷駒込神明町三一七に転居
10月 震災のため東京市外田端五二三の室生犀星宅に転居
大正13年 1924   1月 市外高田雑司ヶ谷金山三三九に転居
大正15年 1926   6月 麹町下六番町一○番地に移転
昭和2年 1927 金融恐慌
7月 芥川龍之介自殺
9月 麹町区内幸町大阪ビル 2階211号室に移転
昭和9年 1934 2月 直木三十五死去  
昭和10年 1935   8月 第一回芥川賞、直木賞発表
昭和21年 1946   6月 大阪ビルが接収され、幸ビルに移転
昭和25年 1950 朝鮮戦争 6月 中央区銀座西5丁目5番地の新ピルに移転
昭和30年 1955 自由民主党結成 11月 中央区銀座西8丁目4番地のビルに移転

bunshun13w.jpg東京市小石川区林町十九番地>
 文藝春秋の三千部の創刊号はあっと言う間に売り切れます。創刊号をみると、芥川龍之介、今東光、川端康成、直木三十二等のそうそうたるメンバーが名前を連ねています。売れるわけです。発行部数は創刊号から増え続け、9月号では一万一千部までになります。文藝春秋は菊池寛が個人で創った雑誌ですから、当然発行所は菊池寛の自宅です。上記にも書かれていにとおり、創刊号が発行された大正12年1月に住んでいたところが小石川区林町十九番地です。

左の写真の右側辺りが小石川区林町十九番地です。現在の文京区千石1−17付近で、白山通りから少し入った、住宅街の中です。

本郷駒込神明町三一七番地>
 大正時代に入るとブルジョア文学とプロレタリア文学の対立が始まります。高見順の「昭和文学盛衰史」では「大正13年6月、「文藝戦線」が創刊された。思想と無縁であった文学界に、思想に拠る文学が登場した。同年10月「文藝時代」が創刊された。」とあり、このなかで文藝春秋は創刊されます。菊池寛はブルジョアの権化みたいにいわれていますが、この頃の発言を読むと「…世の中が社会主義化することは、ただ時の問題である。時と手段の問題が残っている丈である。」と述べています。菊池寛は”きを見るに敏”であったのでしょう、なかなか面白いです。大正12年夏、東京市本郷駒込神明町三一七番地に移転します。文藝春秋が売れるにつれ、今までの家が手狭になったからで、今度の借家はコンクリートの塀に囲まれていて、母屋が二階建て、洋館までついた堂々たる家だったようです。

右の写真の右側ビル辺りが当時の東京市本郷駒込神明町三一七番地で、現在の文京区本駒込5−70付近です。当時は写真に写っている不忍通りがまだなく、この付近の通りと言えば、岩槻街道が東大前から駒込まで通っているだけでした。

東京市外田端五二三>
 大正12年9月、関東大震災が起こります。文藝春秋の9月号は印刷所ごと焼けてしまいます。その上、借りていた本郷駒込神明町の家の家主から転居を求められ、たまたま地震に恐れをなして郷土の金沢に帰ったしまった室生犀星の家が近くにあり、そこに転居することになります。この当時のことが近藤富枝の「田端文士村」に詳しく書かれています。「室生犀星が出たあとの五二三番地の家には、芥川龍之介の世話で、菊池寛が入ることになった。…菊地は芥川より四歳の年長だが、明治四三年に一高に入学し、同級生となった。…室生の家は地坪は五十つぼほどだろうか、家賃五十円ほどの狭い家である。八畳、六畳、納戸三畳、玄関二畳の四間である。これに彼自身が庭に建てた六畳の離れがあった。のちに金沢へ運び暮笛庵と名づけたものである。…」。しかしあまりにも狭いので、菊池寛は翌年早々に雑司ヶ谷に引っ越します。このあと、この家を借りたのが酒井真人で、室生犀星は結局14年4月まで、この家に戻ることができませんでした。

左の写真の右側のところが当時の東京市外田端五二三番地で、現在の北区田端5−5付近です。

<雑司ヶ谷の菊池寛旧宅>
 大正13年1月、田端の家があまりに狭いので市外高田雑司ヶ谷金山三三九番地に転居します。この後、昭和12年、雑司ヶ谷391番地付近に住居を求め、そのまま戦後も住み続けます。現在はマンションになっていますが、マンションの前に菊池寛記念会館とかいてある記念碑がたっています。マンションの地下に記念会館の場所はあるようなのですが、費用が無くて記念会館にできないようです。

右の写真のマンションの所が昭和12年より生涯住んだところです。雑司ヶ谷の先の住居である市外高田雑司ヶ谷金山三三九番地はこの写真をみてください。このマンションから徒歩で5分くらいのところです。ただし、この金山三三九番地は「文藝春秋三十年史稿」からなのですが、近藤富枝の「田端文士村」では二三九番地と書いています。もう少し調べてみたいとおもいます。

麹町下六番町一○番地>
 大正15年6月、麹町下六番町一○番地の有島武郎邸を借りて、文藝春秋は初めて菊池寛家と独立した社屋に転居しました。嵐山光三郎が「文人悪食」の中で菊池寛のことを書いています。「全盛期は中央公論社へ殴り込んだ。喧嘩の始まりは広津和郎が「婦人公論」に連載した小説『女給』だった。これは銀座のカフェ 「太訝(タイガー)」の一女給の身の上を書いた話で、ここに出てくる主人公小夜子の客は、明らかに寛をモデルにしたものだった。「文壇の大御所」という表現になっており、菊池寛をモデルに擬して、世間の呂をひき、それを売り物にした。寛は激怒して、中央公論社の鴫中雄作にあてて「僕の見た彼女」という抗議文を送った。すると、それは雑誌に掲載され、題が「僕と小夜子の関係」と変えられていた。寛はカンカンに怒り、一人で中央公論社へ乗りこんで、「中央公論」編集長を呼びつけて殴った。ついでに鴫中にも飛びかかろうとしたが周囲の者に押さえられた。この事件は新聞に報道され世間を騒がせた。」。菊池寛も血気盛んです。やっぱり文藝春秋社と中央公論社はなかが悪かったようですね。銀座のカフェ タイガーについては別に書こうとおもっています。

左の写真の真ん中のマンションの所が当時の麹町下六番町一○番地、有島武郎邸付近です。現在は千代田区六番町3付近です。

麹町区内幸町大阪ビル>
 昭和2年5月 麹町区内幸町大阪ビル 2階211号室に移転します。これは麹町下六番町一○番地の有島武郎邸の費用や新劇協会への援助などが重なり資金的に苦しくなったためでした。このあと、昭和3年5月に文藝春秋は株式会社化します。資本金五万円、社長菊池寛で、年六分の配当をしていたようです。昭和10年新年号て、芥川賞、直木賞の制定を発表します。これは2月、8月の売れ行き不振月をカバーするために考え出された施策のようで、菊池寛はなかなか商才があったようです。第一回の芥川賞は石川達三の「蒼氓(そうぼう)」、直木賞は川口松太郎の「鶴八鶴次郎」で、芥川賞選定員は、菊池寛、久米正雄、山本有三、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星、小島政二郎、佐々木茂索、瀧井孝作、横光利一、川端康成でした。この時、川端康成が太宰について、「…この二作は一件別人の作のごとく、そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観をいっぱいに盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾み庵た。…」と書いています。この最後の文が、のちに太宰治と川端康成との論争に発展します。

右の写真が大阪ビルの跡地に建てたダイビルです。一号館と二号館が建っていたのですが、写真の通り、一号館跡にダイビルが建てられ、二号館跡は空地スペースとなっています。このスペースに大阪ビルで使われていた当時の壁彫刻等が飾られています。

麹町区内幸町幸ビル>
 戦争が激しくなるにつれて、文藝春秋は昭和20年3月号で一時休刊しますが、終戦後の10月、再発行を始めます。しかしながら昭和21年3月、菊池寛は文藝春秋社を解散します。経営に行き詰まったためでしたが、同月、社員たちは佐々木茂索を社長として文藝春秋新社を設立します。また事務所も移転を強いられます。昭和20年の空襲にも耐えた大阪ビルでしたが、昭和21年6月、進駐軍に大阪ビルの接収を受けます。そこで、大阪ビルのすぐ裏の幸ビルに移転します。また昭和22年10月、菊池寛と佐々木茂索は戦時中文藝春秋社の役員だったことにより、公職追放の指令を受けます。菊池寛は文藝春秋社を佐々木茂索に譲ったあと、昭和23年3月6日、狭心症のため60歳で死去します。

左の写真の真ん中のビルが幸ビルです。正面の通りは日比谷通りで、次の交差点を右に曲がったところが大阪ビル跡、現在のダイビルになります。

中央区銀座西5丁目5番地>
 文藝春秋の発行部数増大に伴い、幸ビルの事務所が手狭になり、昭和25年1月、中央区銀座西5丁目5番地の本田ビルを買収、6月に移転します。ちなみに、昭和25年の文藝春秋新年号は232ページ、定価90円でした。

右の写真、真ん中の赤い看板の所が文藝春秋ビルです。現在も文藝春秋が所有しているビルのようです。銀座通りがら数寄屋橋側に少し入ったところにあり、一等地です。

中央区銀座西8丁目4番地>
 銀座5丁目のビルも手狭になり、昭和30年6月、中央区銀座西8丁目4番地 Aワンビルを買収、11月に移転します。この11月は文藝春秋創刊500号となり、364ページ、定価95円の記念号を発行しています。この年の下半期の芥川賞(発表は昭和31年3月)が、石原慎太郎の「太陽の季節」です。時代の移り変わりを感じますね、やはり文藝春秋は時代の先端を常に走っています。この時の芥川賞選定員は宇野浩二、瀧井孝作、佐藤春夫、川端康成、舟橋聖一、石川達三、丹羽文雄、井上精、中村光夫で、石川達三は「太陽の季節」について「欠点は沢山ある。気負ったところ、稚さの剥き出しになったところなど、非難を受けなくてはなるまい。疑問の点も少なくない。論理性について「美的節度」について問題は残っている。しかし如何にも新人らしい新人である。危険を感じながら、しかし私は推薦していいと思った。危険だからこそ新人だと云えるかも知れない。…」と書いています。とにかく若さが全てを押し切ったようです。この昭和30年代を象徴した受賞ではないかと思います。

左の写真の真ん中、やや左のビルの所が文藝春秋新社ビル跡です。現在は京都新聞のビルになっています。

ここまでが昭和34年までです。これ以後は別途書きたいとおもっています。


文藝春秋 都区内地図
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【参考文献】
・文藝春秋三十年史稿:文藝春秋
・田端文士村:近藤富枝、中公文庫
・文人悪食:嵐山光三郎、新潮文庫
・文藝春秋11月号:文藝春秋
・昭和文学盛衰史(上、下):高見順、福武書店
・「文藝春秋」にみる昭和史(一、二):半藤一利、文春文庫
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