●永井荷風の「深川の散歩」(第二回)
 初版2001年4月7日
 二版2016年8月27日 <V01L01> 新規に作成し直しました、暫定版

 『永井荷風の「深川の散歩」』の第二回です。15年ぶりに永井荷風の「深川の散歩」を一新しています。以下は2001年に書かれたはじめの文章です。
 三名の作家の深川を追いかけて見たいと思います。今週は第一回目として永井荷風の「深川の散歩」に沿って散歩してみたいと思います。この「深川の散歩」の最後に”甲戌十一月記”と書いてあります。特に”甲戌”が分からないと思いますが干支の読み方で”きのえいぬ、こうじゅつ”と読み、昭和9年のことです(永井荷風55歳)


「中央公論」
<「中央公論 昭和10年3月號」 中央公論(前回と同じ)>
 「深川の散歩」が書かれたのは”甲戌十一月記”とあります。”甲戌”は干支の一つで、西暦年を60で割って14が余る年が甲戌の年となります(ウイキペディア参照)。昭和ですから、1934(昭和9年)となります。因みに、その前後の甲戌の年は、1874年と1994年となり、昭和では一回しかありません。こうゆう書き方も上手ですね、流石、荷風です。

 永井荷風の「深川の散歩」の最後です。
「… 崎川橋という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹が二本、少しばかり蘆のはえた水際から天を突くばかり聲え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音《あしおと》がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面《おもて》をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。
 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。

                    甲戌十一月記」

 永井荷風はその土地の描写が本当に上手です。読み手が興味を引くように書きます。読み手がその土地に行きたくなります。

写真は中央公論、昭和10年3月号です。目次には「深川の散歩」としては書かれておらず、”残冬雑記”のタイトルで、その中の一節が”深川の散歩”となっています。その他では”元八まん”、”里の今昔”となっています。順次掲載したいとおもいます。

「荷風の永代橋」
<「荷風の永代橋」 草森紳一(前回と同じ)>
 荷風が通っていた大石病院について調べていたら、良い本を見つけました。草森紳一さんの「荷風の永代橋」です。分厚くてビックリしました。878ページありました。普通なら上巻、下巻に分かれますが、一冊になっています。十分に枕になる本です。

  草森紳一さんの「荷風の永代橋」から、”序”です。
「 私は、かならずしも荷風の文業の熱烈な愛読者といえない。随筆の類はともかく、彼の小説はさほど好まないが、『断腸亭日乗』のみは、近代日本の叙事詩として嘆賞してやまないものである。たまたま私は、深川寄りの永代橋のたもとに二十年来住んでいる縁と、中国文学の徒であるというかぼそき縁をたよりに『断腸亭日乗』の空間を泳いでみたい欲望に駆られている。漢詩文は、荷風にとって、趣味というより、確執のあった父そのものである。わが永代橋は、体弱な彼が通いつづけた中洲病院にきわめて近い。
 「その頃、両国の川下には、葭簀張の水練場が四、五軒も並んでゐて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来
たくらゐで、かなり賑かなものであった」
 と永井荷風は、最晩年の随筆『向島』の中で、かく回想している。…」

 荷風と永代橋のみについて書かれているのではなく、隅田川全般について書かれていますので大変参考になります。特に大石病院については詳しく書かれています。

写真は草森紳一さんの「荷風の永代橋」です。2004年12月、青土社より発行されています。 残念ながら草森紳一さんは2008年に亡くなられています。

【草森 紳一(くさもり しんいち、1938年2月23日 - 2008年3月20日)】
 日本の評論家。北海道河東郡音更村(現・音更町)生まれ。北海道帯広柏葉高等学校を経て、1浪後慶應義塾大学文学部に入学して中国文学科に進む。大学時代は奥野信太郎や村松暎に師事。また慶應義塾大学推理小説同好会に参加、このときの先輩に紀田順一郎や田波靖男がいる。映画監督を志望し、1960年に東映の入社試験を受けたが面接で失敗。1961年、大学卒業後は婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社し、『男の服飾』を『MEN'S CLUB』に改名する発案をする[1]。編集室にあった『ELLE』『Mademoiselle』『PLAYBOY』『COSMOPOLITAN』『GQ』等に刺激を受ける。『婦人画報』編集部に移り伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』などを担当。真鍋博の推薦で『美術手帖』にマンガ評論を書き始める。1964年に退社し、慶應義塾大学斯道文庫勤務や慶應義塾大学文学部非常勤講師などを経て評論家となる。1973年『江戸のデザイン』で毎日出版文化賞受賞。マンガ、広告、写真など当時、文化の周縁とみなされていたジャンルを論じる著作が多い。
莫大な数の蔵書を保有していたことで知られる。30歳前後から、いわゆる「資料もの」といわれる仕事をするようになって、本がねずみ算式に増殖したとは本人の弁。「ひとたび『歴史』という虚構の大海に棹を入れると、収入の七割がたは、本代に消える。異常に過ぎる。いっこうに古本屋の借金は、減らない」と、自著『随筆:本が崩れる』に記している。(ウイキペディア参照)



「霊岸町駅跡」
<霊岸町の手前>
 前回は大石病院から長慶寺までを歩きましたが、今回は最後まで歩きます。唖々は深川座へ向うため、森下から市電(都電に名称変更は昭和18年)に乗って黒江町に向います。当時のこの付近の東京市電の路線図を掲載しておきます。

 永井荷風の「深川の散歩」より。
「…明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のお神さんと阿久とを先に出懸けさせて、私は三十分ばかりして後から先になるように電車に乗った。すると霊岸町の手前で、田舎丸出しの十八、九の色の蒼い娘が、突然小間物店を拡げて、避ける間もなく、私の外出着の一張羅へ真正面に浴せ懸けた。私は詮すべを失った。娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓が頻に詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた。癪に障って忌々しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。…」
 ”突然小間物店を拡げて”は、へどを吐くという意味の俗語です。今ではこんな俗語は使わなくなって、そのまま言いますね。

写真は清澄庭園近くの清澄通りです。バス停は”清澄庭園前”で、正面の家の向こう側が清澄庭園です。左側方面が門前仲町となります。右側の信号の所に東京市電の霊岸町駅がありました。駅名はその後、深川区役所前に変っています。



箱崎・深川附近地図



「深川座跡」
<深川座>
 服に吐かれたまま、目的地の黒江町迄行き、市電を降りています。黒江町駅は今の永代二丁目の交差点にありました。深川座には一つ手前の黒亀橋駅の方が近いとおもうのですが、待ち合わせが黒江町駅だったようです。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 黒江町で電車を下りると、二人に逢った。今これこれだと阿久に話すと、人に歩かせて、自分は楽をしたものだから、その罰だと笑いながらも、汚れた羽織の仕末には困った顔をした。幸いとお神さんの亭主の妹の家が八幡様の前だというので、そこへ行って羽織だけ摘み洗いをしてもらうことにして、その間寒さを堪えて公園の中で待っていた。芝居へ入って前の方の平土間へ陣取る。出方は新次郎と言って、阿久の懇意な男であった。一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが重立ったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が台辞を邪魔することなぞは、他では余り見受けない景物である。寒い芝居小屋だ。それに土間で小児の泣く声と、立ち歩くのを叱る出方の尖り声とが耳障りになる。中幕の河庄では、芝三松の小春、雷蔵の治兵衛、高麗三郎の孫右衛門、栄升の太兵衛に蝶昇の善六。二番目は「河内山」で蝶昇が勤めた。雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の直侍などで、清元の出語りは若い女で、これは馬鹿に拙い。延久代という名取名を貰っている阿久は一々節廻しを貶した。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の前でお神さんに別れて帰りに阿久と二人で蕎麦屋へ入った。歩いて東森下町の家まで帰った時が恰度夜の十二時。
 かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。…」

 「酒井の太鼓」とは
 新歌舞伎十八番の一、「太鼓音智勇三略(たいこのおとちゆうのさんりやく)」の通称、河竹黙阿弥作。明治6年(1873)東京村山座初演。大軍に囲まれた浜松城で、酒井左衛門が櫓の太鼓を打って、敵軍を引きあげさせるという筋で、「後風土記」の逸話を脚色したものといわれています。 (辞書より)
 「河内山(こうちやま)」とは
 河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)の傑作。6人の悪党が描かれた全七幕の世話物、天衣紛上野初花(くもにまごう うえののはつはな)の三幕目にあたります。

 ”会計は祝儀を合せて二円二十三銭也”と書いていますが、昭和初期の大卒初任給は80〜90円位ですので、今の初任給を25万円とすると、6、500円位になります。

写真は門前仲町の赤札堂前から南西を撮影したものです。写真の正面付近に深川座がありました。戦前に名前は辰巳松竹館に変り、空襲でこの付近はすっかり焼けてしまっていますが、建て直されて昭和40年代まであったようです。

「鶴屋南北の墓」
<鶴屋南北の墓>
 「深川の散歩」に従って紹介していきます。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺に鶴屋南北の墓を掃ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)…」
”むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたり”と書いています。”今の黒亀橋”は高速道路の下で、既に埋め立てられています。”むかしの黒江橋”を探してみました。
 1.安政5年(1858)の地図に黒江橋の記載あり
 2.明治43年(1910)の地図に富岡橋と黒江橋の場所を推定
 3.昭和16年(1941)の地図に黒江橋の場所を推定
 と、昔の地図から推定しました。だいたい荷風の書いた通りとおもわれます。

 「丁度所も寺町に、娑婆と冥土の別れ道、其身の罪も深川に、橋の名さえも閣魔堂、こんな出合いもそのうちに、てっきりあろうと、ふところえ、かくしておいたこのあいくち、刃物があれば鬼に金棒どれ血まぶれ仕事だ覚悟しろ」
 は近世の名劇作家河竹黙阿弥の傑作のひとつで「髪結新三」の狂言「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」の大詰め、髪結新三が閻魔堂橋の上でで源七に言う名セリフです。髪結新三は明治6年、五代目尾上菊五郎のために書いたもので、河原崎座で上演され好評を博しています。この閻魔堂橋は当初は旧富岡橋のことで、明治34年に富岡橋が無くなった後は黒亀橋のこと(江東区の文化財より)のようなのですが、地図に記載されたものはありませんでした。少し前まで、この閻魔堂の中に電動式の賽銭箱があって、賽銭を自分のお願い事(交通安全とか)に入れると、自動的にお言葉が聞けました。現在はダメなようです。閻魔堂には月に二回ほどしか入れないようになっています。

 ”電車通の心行寺に鶴屋南北の墓”はいまも心行寺にありました。推定ですが墓の位置は変っているのではないかとおもいます。心行寺も道路が広くなる度に削られています。此のお墓は五代目 鶴屋南北のお墓で、通常 鶴屋南北と言うと4代目を指します。4代目のお墓は墨田区業平の春慶寺にあります。

 ”油堀の下流に、三角屋敷の址”は安政5年(1858)の地図に記載がありました。”三角ヤシキ”と書かれた部分を赤い破線で囲っています。又、油堀とは十五間川の通称です。”三角屋敷”は”三角屋鋪”の間違いとおもわれます。「江東区の文化財」によると、三角屋鋪は、元禄12年(1699)までの材木置場(元木場)の一部でしたが、同14年(1701)に本所上水請負人の吉右衛門という老の拝借町屋敷となっています。名称の由来は不明ですが、家作を建てたところ、「鱗形」だったのでそのころより三角屋鋪といわれるようになったようです。「御府内備考」三角屋鋪の項によると、「当町里俗三角と唱申侯右老町内鱗形二付右之通相唱 候由申伝侯」とあります。また「葛西志」には次のようにあります。「三角屋鋪は、富久町の南にあり、わづかばかりなる町にて、その形ち三角なれば、たゞちに名とすといへり。」なお、四世鶴屋南北作の「東海道四谷怪談」の四幕直助権兵衛は、この三角屋鋪でおきた事件を題材にしているといわれています。(江東区の文化財より)

写真は現在の鶴屋南北の墓です。心行寺を入って、左先にあるお墓の入口を入り、直ぐ左に入った先にあります。分からず探してしまいました。

【五代目 鶴屋南北 】
 四代目の外孫・門人、四代目の子の二代目勝俵蔵の養子、1796–1852。三代目尾上菊五郎に付き四代目の旧作の手直しに尽力。弟子に三代目瀬川如皐、二代目河竹新七(黙阿彌)などを出す。(ウイキペディア参照)

「冬木町の弁天社」
<冬木町の弁天社>
 関東大震災後、黒亀橋から東に向って新しい道が出来ます。当時は福砂通(江東区福住から砂町を結ぶことから、福砂通りと呼ばれた)と名付けられたようです。現在は葛西橋通りとなっています。又、清砂通(清洲橋から砂町を結ぶことから、清砂通りと呼ばれた)は現在は清洲橋通りとなっています。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 災後、新に開かれたセメント敷の大道は、黒亀橋から冬木町を貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通と称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る清砂通と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯タンクばかりで、鳶や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。昼中でも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。…

 冬木町の弁天社は新道路の傍に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔に改称の禍を免れた。)…」

 ”また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。”は、推定ですが、三ツ目通り、四ツ目通り、明治通りの事ではないかとおもったのですが、明治通りは一部市電が通っています。三ツ目通り、四ツ目通りの名称は、竪川(両国の少し南にあり、東西に通っている川で、現在は上を首都高速小松川線が走って居ます)に架かる橋の名前が隅田川から東に順に一之橋、二之橋、三之橋、四之橋、五之橋(昔は渡し船だったという話もあります)と名付けられており、それに因んで、南北の道が、三ツ目通り、四ツ目通りと名づけられたようです。因みに、一之橋の通りは万年橋通り、二之橋の通りは清澄通り、五之橋の通りは明治通りと呼ばれています。

 ”冬木町の弁天社”は現在もありました。ここに書かれている”冬木町”は 宝永2年(1705)に日本橋の豪商冬木氏が命名した町名で、その屋敷の中の鎮守が冬木弁天社でした。冬木家は姓を上田と称し、承応3年(1654)上田直次が上野国(群馬県)から江戸に出て、茅場町で材木商を営み、冬木屋と称し豪商となっています。冬木家が深川に来たのは、三代目弥平次が土地を買って移転して来てからです。宝水2年(1705)冬木家が戸田土佐守から、深川永代新田と海辺新田の土地合わせて、4万1千69平方メートルを千六百両で買い、冬木町としています。冬木弁天堂の本尊弁才天は冬木家の祖、五郎右衛門直次が、承応3年(1654)に、江州竹生島の弁才天の分霊を日本橋茅場町の邸内にまつり、宝水2年(1705)その孫弥平次がいまの土地に移したそうです。(江東辞典より)

写真は現在の冬木弁天社です。知十翁の”名月や銭金いはぬ世が恋ひし”の句碑は今も残っていました。解説の看板もありました。解説文には”岡野知十の一周忌の記念に贈られた雪、月、花の句碑のひとつ”と書かれているのですが、後の二つが分かりません。一つは飛鳥山公園に有るようです。

【岡野 知十(おかの ちじゅう、安政7年2月19日(1860年3月11日) - 昭和7年(1932年)8月13日)】
、 野 知十は俳人。本名は、岡野 敬胤。通称は正之助、別号は正味。旧姓は木川、北海道日高様似(現在の様似郡様似町)に生まれる。『半面』を創刊し、新々派俳風を鼓吹した。俳書の収集に努めた。集めた俳書は、関東大震災後に東京帝国大学の図書館に寄贈され、「知十文庫」として収められている。子に仏文学者の岡野馨がいる。(ウイキペディア参照)



明治40年深川地図



「崎川橋」
<崎川橋>
 関東大震災後、新道路(荒涼たる福砂通り)と呼ばれていた通りは現在は葛西橋通りと名付けられ、昔は清洲橋通りにあった葛西橋がこの葛西橋通りに付け替えられています。葛西橋通りを閻魔堂から葛西橋西詰まで4.1Km、歩いて50分です。

 永井荷風の「深川の散歩」より
「… 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川の岸に出る。仙台堀と大横川との二流が交叉するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来ると、案外空気の好い事が感じられるのである。
 崎川橋という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹が二本、少しばかり蘆のはえた水際から天を突くばかり聲え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。
 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。
                                      甲戌十一月記」

 ”仙台堀と大横川との二流が交叉するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。”と書いています。昭和の初期はこの辺りが貯木場で水面が広がっていたとおもいます。現在は清洲橋通りの両側が埋め立てられて木場公園になっています。

 ”崎川橋という新しいセメント造りの橋”とありますが、崎川橋は仙台堀川に架かるトラス橋(三角形に繋いだ構造で、それを繰り返して桁を構成する橋)で、昔からこの構造のようです。仙台堀と大横川との二流が交叉するあたりで、清洲橋通りの橋は茂森橋で、此の橋はセメント造りの橋です。橋を間違えたか、橋の造りを間違えたかのどちらかだとおもいます。

写真は現在の崎川橋です。トラス構造になっています。茂森橋手前の横断歩道上から砂町方面を見た写真を掲載しておきます。荷風が見たら驚くことでしょう!!

 永井荷風の「深川の散歩」はこれで終ります。次週は永井荷風の「元八まん」を歩きます。



昭和16年深川区地図



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月 自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院へ転地療養のため入院
7月 逗子の永井家別荘十七松荘に静養
明治29年 1896   17 荒木古童(竹翁)に弟子入りして尺八を習う
岩渓裳川の講義を聴講
明治30年 1897 金本位制実施 18 2月 吉原に遊ぶ
3月 高等師範学校附属学校尋常中学校卒業
春 入試準備のため神田錦町の英語学校へ通う
7月 第一高等學校入試失敗
9月 両親と上海に渡る
11月 高等商業学校附属外国語学校清語科に臨時入学
明治31年 1898 アメリカがハワイを併合
日本初の政党内閣誕生
戊戌の変(中国)
19 4月 金港堂の子息を龍泉寺村の寮に訪ねる(吉原へ)
9月 牛込矢来町の広津柳浪を訪問
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居
         
大正8年
1919
松井須磨子自殺 40 11月 麻布区市兵衛町1-6に土地百坪を借りる
         
大正9年 1920 蒋介石北伐を開始
NHK設立
41 5月 新居完成、5月23日引越し、偏奇館と名付ける
         
大正12年 1923 関東大震災 44 7月 井上精一(唖々子)死去
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
65 3月22日 杵屋五叟(大島一雄)の次男永光を養子とする
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに引越す
5月25日 空襲で焼け出され、宅氏邸に身を寄せる
6月3日 明石へ疎開する