<「中央公論 昭和10年3月號」 中央公論(前回と同じ)>
「深川の散歩」が書かれたのは”甲戌十一月記”とあります。”甲戌”は干支の一つで、西暦年を60で割って14が余る年が甲戌の年となります(ウイキペディア参照)。昭和ですから、1934(昭和9年)となります。因みに、その前後の甲戌の年は、1874年と1994年となり、昭和では一回しかありません。こうゆう書き方も上手ですね、流石、荷風です。
永井荷風の「深川の散歩」の最後です。
「… 崎川橋という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹が二本、少しばかり蘆のはえた水際から天を突くばかり聲え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音《あしおと》がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面《おもて》をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。
セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。
甲戌十一月記」。
永井荷風はその土地の描写が本当に上手です。読み手が興味を引くように書きます。読み手がその土地に行きたくなります。
★写真は中央公論、昭和10年3月号です。目次には「深川の散歩」としては書かれておらず、”残冬雑記”のタイトルで、その中の一節が”深川の散歩”となっています。その他では”元八まん”、”里の今昔”となっています。順次掲載したいとおもいます。