<逗子の永井家別荘>
前回は明治23年春の三べ坂転居から明治27年10月の麹町区一番町四十二番地転居までを掲載しましたが、その間に荷風は体調を崩して、何度か入院しています。
永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「 十六、七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった。もしこの事がなかったなら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。
わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中である。流行感冒に罹ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。
二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。……」。
それにしても良く本を読んでいます。自分自身を考えてみると、そういう時期があったようにおもえます。文庫本を一週間に何冊も読んでいた時がありました。
荷風の入院を少し整理すると、
・明治27年:下谷の帝国大学第二病院に入院
・明治28年:小田原の足柄病院に療養のため入院
・同年:逗子の永井家別荘十七松荘で静養
最後に静養で滞在したのが逗子の”永井家別荘十七松荘”でした。この”永井家別荘”については荷風本人以外で記述している本を探しました。神奈川県立図書館、横浜市立図書館、逗子市立図書館で調べたところ数冊見つけることができました。
昭和52年発行の「逗子 道の辺史話」の第一集に”永井荷風と逗子”として書かれていました。
「… 私は両別荘の跡を確めたく松と徳富邸を目印に富士見橋へ向った。「冷笑」の中の別荘が即ち対君山楼と思われるので、作中の文面通り橋手前の小径を山へと曲ってみたが何しろ明治時代の話とあっては正碓な見当は付けようがない。しかし徳富邸は現在も鬱然たる大邸宅を構え昔の名残をとゞめているので、徳富邸に隣接し海に面していたと云う十七松荘はその隣家ではなかろうか、松の多い閑雅な邸宅である。土地の古老達も前後どちらの別荘も覚えはなく、これは土地の人よりも、むしろ多くの荷風愛好者、研究者の方々に御存知の向きがあられるのではないか
── 昭和四十六年に故人となられた荷風の実弟永井威三郎博士なら両方の別荘をはっきり覚えていられたに逮いない。また荷風が未熟を恥じて自ら川に投じたと云われている(焼却したとも云う)青少年時代の日記、作文類が残されていたとしたら、多分逗子に於ける若き日の姿も一層明らかになったであろう。…」。
上記に書かれている徳富邸とは徳富蘆花の兄蘇峰と両親が住んでいた別荘「老龍庵」のことです。徳富蘆花は別荘「老龍庵」のすぐ側にあった旅館柳屋(跡地に祈念碑)に滞在しています(有名です)。永井家の”両別荘”とも結局、場所の特定はできていないようです。
★写真は昭和52年(1977)発行の「逗子 道の辺史話」第一集です(合本の発行年なので、第一集はもうすこし早いかかもしれません)。その他で荷風について書かれたのは、「手帳
第101号」、「逗子の文学」で、「『断膓亭日乗』と逗子」のタイトルで内容は同じでした。