●永井荷風の幼少年期を歩く -3-
    初版2012年1月15日
    二版2012年1月28日 <V02L01> 暢春医院を追加

 「永井荷風の幼少年期を歩く」の第三回です。前回は明治23年春の三べ坂転居から明治27年10月の麹町区一番町四十二番地転居までを掲載しました。今回は荷風が幼少年期に通った病院や別荘を歩いてみました。


「逗子 道の辺史話 第一集」
<逗子の永井家別荘>
 前回は明治23年春の三べ坂転居から明治27年10月の麹町区一番町四十二番地転居までを掲載しましたが、その間に荷風は体調を崩して、何度か入院しています。
 永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「 十六、七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった。もしこの事がなかったなら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。
 わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中である。流行感冒に罹ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。
 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。……」

 それにしても良く本を読んでいます。自分自身を考えてみると、そういう時期があったようにおもえます。文庫本を一週間に何冊も読んでいた時がありました。

 荷風の入院を少し整理すると、
・明治27年:下谷の帝国大学第二病院に入院
・明治28年:小田原の足柄病院に療養のため入院
・同年:逗子の永井家別荘十七松荘で静養

 最後に静養で滞在したのが逗子の”永井家別荘十七松荘”でした。この”永井家別荘”については荷風本人以外で記述している本を探しました。神奈川県立図書館、横浜市立図書館、逗子市立図書館で調べたところ数冊見つけることができました。
 昭和52年発行の「逗子 道の辺史話」の第一集に”永井荷風と逗子”として書かれていました。
「…  私は両別荘の跡を確めたく松と徳富邸を目印に富士見橋へ向った。「冷笑」の中の別荘が即ち対君山楼と思われるので、作中の文面通り橋手前の小径を山へと曲ってみたが何しろ明治時代の話とあっては正碓な見当は付けようがない。しかし徳富邸は現在も鬱然たる大邸宅を構え昔の名残をとゞめているので、徳富邸に隣接し海に面していたと云う十七松荘はその隣家ではなかろうか、松の多い閑雅な邸宅である。土地の古老達も前後どちらの別荘も覚えはなく、これは土地の人よりも、むしろ多くの荷風愛好者、研究者の方々に御存知の向きがあられるのではないか ── 昭和四十六年に故人となられた荷風の実弟永井威三郎博士なら両方の別荘をはっきり覚えていられたに逮いない。また荷風が未熟を恥じて自ら川に投じたと云われている(焼却したとも云う)青少年時代の日記、作文類が残されていたとしたら、多分逗子に於ける若き日の姿も一層明らかになったであろう。…」
 上記に書かれている徳富邸とは徳富蘆花の兄蘇峰と両親が住んでいた別荘「老龍庵」のことです。徳富蘆花は別荘「老龍庵」のすぐ側にあった旅館柳屋(跡地に祈念碑)に滞在しています(有名です)。永井家の”両別荘”とも結局、場所の特定はできていないようです。

写真は昭和52年(1977)発行の「逗子 道の辺史話」第一集です(合本の発行年なので、第一集はもうすこし早いかかもしれません)。その他で荷風について書かれたのは、「手帳 第101号」、「逗子の文学」で、「『断膓亭日乗』と逗子」のタイトルで内容は同じでした。
「富士見橋付近」
 もう一冊、平成2年(1990)発行の「明治大正昭和 年表 逗子の三代史」に荷風の別荘について書かれていました。(出版元は「手帳」等と同じく「手帳の会」です)
…明治28年 永井久一郎(荷風の父)新宿一丁目に別荘「十七松荘」を設け、明治35年に桜山八丁目に「対君山楼」を新築した…
…明治44年 永井荷風逗子の別荘(対君山楼=桜山八丁目8番付近)を譲渡する…」

と書かれていました。
 上記の年表から永井家の逗子での別荘を整理します。
・明治27年〜明治35年:十七松荘(新宿一丁目)
・明治35年〜明治44年:対君山楼(桜山八丁目8番付近)
・明治44年:対君山楼を売却
 別荘の詳細の場所について分かるかとおもったのですが、詳細な場所の特定はなかなか難しいです。

 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」を参照します。
「… 逗子の永井家の別第には十七本の老松があったところから十七松荘と名けられ、また豆園とも呼ばれた。この永井家の別墅に隣接して徳富家の別邸があり、蘇峰の父洪水夫妻が住んでいた。…
…荷風も青年時にたびたびこの別荘に赴いて静かな目を送り、読書執筆の処としていたものの如く、明治三十五年早春、友人黒田湖山に送った荷風の手紙にも、「逗子は御存じの如く気候暖く候故、屋敷の梅花己に綻び、門前の柳枝も青き眉を作らんと致し居り候」と報じ、また同年九月金港堂発行の『地獄の花』の跋もここで執筆したとみえて、「三十五年六月 逗子海辺豆園にて 永井荷風」とある。…」

 上記からは”十七松荘”は徳富家の別荘に隣接していたと書かれています。秋庭太郎氏は”十七松荘”と”対君山楼”を混同しているようです。荷風は”十七松荘”を”逗子海辺豆園”と書いていますので海岸の近くと推定できます。”十七松荘”は「明治大正昭和 年表 逗子の三代史」の”新宿一丁目”が正解ではないかとおもいます。

 最後に明治43年に夏目漱石からの依頼で東京朝日新聞に掲載された「冷笑」の中に逗子の別荘について書かれたところがあります。
「…停車場前の休茶屋を始めその辺の人家は阜く寝静まっていて乗るへき人力車は一台もなかった。風のない夜を幸い、そのまま村の一筋道を歩いて行くと遠く彼方の眺望を遮って立つ丘陵の影と近くは道の行手を蔽う樹木の影の恐ろしい程暗いだけ、その上に広がる晴れた空は月の夜のように明るく鮮明な星の数は一つ残らず析から渡る田越川の水の面に浮んでいた。農家の犬の吠える声もない。松の梢も響を立てず芦の枯葉も囁きを止め海の彼方にも波の音は疲れたように寂然として聞えなかった。清はこの夜の静寂をば意味のない幾分かの恐怖をも交えて、何とも悲しいと感じた。暗さを恐れ明るきを求むる人間自然の情から都会の大通りを思い出した。砂路を踏む自分の足音のみ気味悪いほど鮮に響き渡るのを聞いて、行方知れず彷徨って行く寂しい旅人の心持をも想像した。
 やがて海に近い二度目の橋手前から、樹木の間の小径を曲って山際の別荘に着く。…」

 逗子駅から「冷笑」に沿って順に辿っていくと、
 駅前一筋道田越橋→”二度目の橋(富士見橋、一番目の橋は田越橋)”→橋の手前の小路小路を登る→突き当たり左に曲り直ぐに右に曲がった右手が「対君山楼」となるはずです。(個人宅の直接の写真は控えさせて頂きました)
 昭和初期の逗子の地図と下記の地図に「冷笑」に書かれた逗子駅からの道筋を記載しておきます(破線で記載)。

 逗子市郷土資料館で教えて頂いた久保木実氏の「絵葉書が語る三浦半島の百年」の中に徳富蘇峰邸と永井(医師)別荘と書いて場所を示しているページ(絵はがきと解説)がありました(明治末期の絵はがきで”永井(医師)別荘”が荷風の父親の別荘と推定)。「冷笑」の場所とも合っているようです。

写真は田越川に架かる富士見橋です(同じ場所の昔の絵はがきです)。橋を越えた左に現在も徳富家の住居がありますので、上記の絵はがきから判断して徳富家の北東の隣接地に”対君山楼”があったとおもわれます(推定)。”十七松荘”については、新宿一丁目ですので、富士見橋の北北西付近ではないかとおもわれます(推定)。富士見橋の西には有名な養神亭がありましたので、其の先辺りに”十七松荘”があったとおもわれます(推定)。




永井荷風の逗子地図 -1-



「神田区北神保町18番地」
<暢春医院>
 2012年1月28日 暢春医院を追加
 荷風が一番町時代に通っていた町医者が神田神保町の暢春医院です。
 永井荷風の「十六、七のころ」からです。
「… 鶯の声も既に老い、そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやっと病褥を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学年試験もそのまま打捨て、父につれられて小田原の町はずれにあった足柄病院へ行く事になった。(東京で治療を受けていた医者は神田神保町に暢春医院の札を出していた馬島永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさいていた。その頃市中の家の庭に池を見ることはさして珍しくはなかったのである。)…」
 この医院については秋庭太郎氏の「考証 永井荷風」には書かれていなかったため、少し調べてみました。永井荷風の「十六、七のころ」に医者の名前が書かれていたため、この名前で調べることができました。
・日本医籍(明22年刊):記載無し
帝国医籍宝鑑(明31年刊):神田区北神保町79番地(番地は19番までで”79”という番地は無い、家屋番号?)
日本杏林要覧(明42年刊):神田区北神保町18番地
・帝国医鑑 第1編(明43年刊):神田区猿楽町2-8(転居?)
 帝国医鑑 第1編(明43年刊)が一番詳細に書かれていました。「君ハ安政四年四月四日牛込区東五軒町四十七に生ル○明治二十年二月東京帝国大学医科大学ヲ卒業シテ開業免状ノ下附ヲ受ケ爾來前記ニ開業」、
 本によって住所がちがいます。「帝国医籍宝鑑」の北神保町79番地は地番ではなく家屋番号と考えると、「日本杏林要覧」の神田区北神保町18番地と町名は同じになります。「帝国医鑑第1編」の神田区猿楽町2-8は転居したと考えています。

写真は神田区北神保町18番地付近です。関東大震災後の区画整理でこの付近はすっかり変わってしまっていますが、18番地は左側から3〜4件目付近とその前の道路上です。当時は写真に写っている前後の道はありませんでした。



永井荷風の東京地図 -4-



「三井紀念病院」
<下谷の帝国大学の第二病院>
 荷風が初めて入院したのが下谷の帝國大学第二病院です。岩波版荷風全集も年譜には”瘰癧 か”と書かれています。”瘰癧”で調べると”結核性頸部リンパ節炎の古称、青年に多い病”とあります。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…病気のため一時学業を廃したとあるは、明治二十七年十六歳のとき療癧を治療するために下谷の帝国大学第二病院へ入院、付添いの看護婦に初恋をし、その看護婦の名がお蓮と云ったのでそれに因んで荷風と号し、片恋の悲しみを小説に綴りなどして退院したものの、ちょうど日清戦争の最中で、歳末に及び再び流行性感冒に確り、それがこじれて長患いとなり、翌二十八年の三月末まで臥床、…」
 下谷の帝國大学第二病院について一番詳しいのは、下谷の帝國大学第二病院跡地にある三井紀念病院前に建てられている記念碑に書かれた説明文でした。明治元年(1868) に横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転して、大病院としています。明治11年(1878)東京帝国大学第二医院と称し、本郷の医院を第一医院と称します。この病院は明治34年(1901)に全焼して廃院になり、この跡地に三井紀念病院ができたわけです。

写真は三井紀念病院前に建てられている記念碑です。かなり大きな記念碑です。



永井荷風の東京地図 -2-



「小田原市南町一丁目8番付近」
<小田原十字町の足柄病院>
 荷風は下谷の帝國大学第二病院からいったん退院しますが、また体調を崩し、転地療養で温かい小田原の病院に入院します。年譜には「正月より流感に羅り、腎臓を悪くして三月末まで病臥した。」と書かれています。お酒を飲まない青年が腎臓を悪くするのは、薬の後遺症ではないかと考えています(個人的見解です)。
 秋庭太郎氏の岩波現代文庫版「考証 永井荷風」からです。
「…翌二十八年の三月末まで臥床、四月に父久一郎に伴われて旧小田原城の西南に位した十字町の大西小三太院長の足柄病院へ転地療養に赴き、七月初旬に帰京、ついで相州逗子の別荘に九月まで家人と共に滞在、一ヶ年近く学校を休んだことをいうのである。…」
 小田原で入院したのは足柄病院です。この病院は小田原ではかなり有名で、関東大震災で倒壊していますが、昭和4年の地図に同じ場所で掲載されていますので建て直されたようです。

写真は現在の小田原市南町一丁目8番付近、足柄病院跡です(正面の岡の上にありました)。小田原は日本で最後の空襲(7都市が空襲を受けた)といわれている昭和20年8月14日夜半から15日未明にかけての空襲を受けていますが、南町界隈は焼け残っていたはずですので、戦後、廃院されたとおもわれます。

「小田原市南町一丁目5番付近」
<秋山真之終焉の地>
 永井荷風とは直接関係はないのですが、足柄病院跡を訪ねる途中に「秋山真之終焉の地」の記念碑が建てられていました。せっかくですので紹介しておきます。秋山真之については「正岡子規の東京を歩く -3-」で”神田猿楽町五番地で子規と同居した”と書いたことがあるだけです。
 「秋山真之終焉の地」の記念碑からです。
「 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていました。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867〜1944) の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにありました。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868〜1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」に ついて相談していましたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918)2月4日未明に対潮閣内で亡くなりました(享年49歳)。…」

 秋山真之中将の病状悪化につれて、各地から医者が呼ばれています。その中のひとりが足柄病院の医院長だったようです。

写真は「秋山真之終焉の地」の記念碑です。正確には「対潮閣(山下亀三郎別邸)跡 《秋山真之終焉の地》」です。山下亀三郎氏は堀辰雄が逗子で借りた別荘の持主 山下三郎氏の父親です。山下汽船の創業者ですから大金持ちです。



永井荷風の小田原地図 -1-



永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
明治12年
1879
沖縄県設置
日本人運転士が初めて、新橋−横浜間の汽車を運転する
0 12月3日 永井久一郎と恆(つね)の長男として生まれる。本名壮吉。父は内務官僚、母は漢学者鷲津宣光の長女。誕生地は東京市小石川区金富町45番地
明治16年 1883 鹿鳴館落成 4 2月5日、弟、貞二郎生まれる
明治17年 1884 森鴎外がドイツ留学 5 東京女子師範学校(現お茶の水女子大)附属幼稚園に入学
明治19年 1886 帝国大学令公布 7 黒田小学校尋常科入学
明治22年 1889 大日本定国憲法発布 10 7月 東京府立尋常師範学校附属小学校高等科入学(現学芸大学附属小学校)
明治23年 1890 ニコライ堂が開堂
ゴッホ没
帝国ホテルが開業
11 5月 永田町一丁目21番地の官舎に転居
9月 鷲津美代が死去
11月 神田錦町の東京英語学校に通う
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
12 6月 小石川金富町の自宅に戻る
9月 神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学校に編入学
明治26年 1893 大本営条例公布 14 11月  自宅を売却、飯田町三丁目黐の木坂下の借家に転居
明治27年 1894 日清戦争 15 10月 麹町区一番町42番地の借家に転居
年末 下谷の帝国大学の第二病院に入院
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
16 4月 小田原十字町の足柄病院に入院
この年、逗子の新宿一丁目に別荘を設ける
7月初旬 逗子の永井家別荘十七松荘で静養
         
明治35年 1902 日英同盟 23 5月 牛込区大久保余丁町七九番地に転居
この年、桜山八丁目に別荘を新築
         
明治44年 1911 辛亥革命 32 この年、逗子の別荘を売却