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弓之町松月旅館>
余りに岡山ホテルの宿泊費が高いので安い旅館を探して転居します。「断腸亭日乗」の昭和20年6月を参照します。
「…六月十六日、晴、停車場前の路傍に靴直し多く出づ、通りがゝりに立たずみて靴の修繕をなさしむ、古本屋にて菊池三渓の虞初新誌を買ふ、行李の中に漢文の書一冊もなければなり、午後ホテルの食膳あまりに粗悪なれば池田優子の来るを待ち、其の周旋にて弓之町松月といふ旅館に宿替をなす、…」。
松月旅館は岡山ホテルから東に200m程の所です。少し路地にはいりますが場所的には殆ど変わりません。(松月旅館は空襲で焼けますが戦後建て直されています)
★写真の正面やや右にある眼鏡のような窓のある建物が戦後の「松月旅館」です。現在、旅館は廃業されているようですが、戦後の建物はそのままのようです。この旅館に宿泊中に空襲に逢うことになります。
「…六月廿八日。晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。…」。
旭川まで東に300m、其処から北に山陽本線の鉄橋まで1400mです。結構距離がありますね。
下記に昭和初期の地番入り地図と現在の地図を重ねたものを掲載します。戦前と大きく変わっているところは、
1.桃太郎大通りが北側に大きく拡張されている(路面電車の線路が大きく北側に変わっています)
2.区画整理されて道が大きく変わっている(碁盤の目のように新しく道路が出来ています)
の二点です。光藤宅離れは夏目漱石が明治25年夏に滞在したところですが、その後、幾つかに分割されています。荷風が昭和20年6月の「斷腸亭日乗」に
「六月十九日、晴、客舎より四五軒隔りしところに銭湯あり」、と書いていますが、戦前の地図には湯屋が見られました。