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最終更新日:2006年2月19日

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●荷風 断腸亭から偏奇館までを歩く 2001年1月20日 V01/L06
  (牛込区余丁町から麻布区市兵衛町まで)


 今回は戦前の永井荷風特集の第二弾として牛込区余丁町(断腸亭)から麻布区市兵衛町(偏奇館)まで永井荷風の引越しを追いかけて見ました。(明治36年から昭和20年3月まで)

danchoutei2w.jpg 今までの新宿区余丁町は交通の便が悪く新宿からバスでしか行けませんでしたが、昨年都営大江戸線が開通して便利になりました。元々は都電が走っていたのですが、いつのまにかバス路線に変わっていました。都電が走っていたころは新宿駅前からは?J?K?Lの3系統が走っていて、?Lの系統に乗って東大久保駅で降りると丁度永井家入り口の左の写真の「厳島神社(抜弁天)」の所になります。?L系統はこの先飯田橋から万世橋、岩本町からなんと水天宮までいっています。昔の市電の方が便利な気がします。抜弁天は江戸時代から庶民から広く信仰され、江戸六弁天の一つに数えられています。江戸幕府の地誌、大久保絵図(安静4年)には別当に村院・抜弁天と記載されています。綱吉の「生類哀れみの令」によりこの付近に二万五千坪の犬小屋が設けられました。
 話は変わりますが松本哉さんが書かれた「荷風極楽」に石川啄木が書いた永井荷風論が書かれています。「荷風氏の非愛国思想なるものは、じつは欧米心酔思想なり。・・・ 宰へて言へば、田舎の小都会の金持の放蕩息子が、一二年東京に出て新橋柳橋の芸者にチヤホヤされ、帰り来りて土地の女の土臭きを逢ふ人ごとに罵倒する。その厭味たつぶりの口吻そのままに御座候。しかして荷風氏自身は実に名うての富豪の長男にして、朝から晩まで何の用もなき閑人たるなり」(明治四十二年『胃弱通信』)」と!、よっぽど荷風が羨ましかったのかなと思いますね!また荷風は正式には2度結婚し、すぐに離婚しています。彼の結婚観については「婦人公論」昭和33年1月号で「いやになって来たそもそものはじまりは、その女の兄貴だの弟だのっていうのが、むやみと押しかけてきて、人の部屋に上がりこんで勝手に机の引出しを開けたり、本を持ってったりしたからですよ」と言っています。

danchoutei1w.jpg<余丁町断腸亭跡>
 上記の抜弁天から余丁町通りを曙橋の方向に少し歩いて、ローソンのある交差点の小道を左に入ると右手に「余丁町郵政宿舎」があります。看板も説明文も何もないのですが、ここが永井家跡で、明治35年5月麹町区から転居してきています。この後明治36年荷風は米国、フランスへ旅立ちます。明治41年帰国し、慶応義塾大学文学科の教授となり「三田文学」を創刊します。またこの頃は個人的には結婚、父親の死去、離婚、そして再婚と激しい人生を過ごしています。そして大正5年37歳のときに余丁町の邸内に一室を新築し断腸亭と名付けます。(これが断腸亭日乗の初めか!) 「荷風極楽」では「向こうに見えるのが東京女子医大。手前左手に見える(私の写真では右手です)三階建てが「余丁町郵政宿舎」で、永井家の跡地として有名だ。・・・ いつぞや古本屋の店先の均一棚で『余丁町停留所』(昭和五十二年、人文書院)という本を見つけて買つてきた。著者は入江郁呼、昭和天皇の侍従としておなじみだった人だが、永井家の敷地の半分を買つたのはこの人の父親、入江為守子爵である。その本を開くと次のような一節が目についた。 「亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからのしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった。」とあります。

右の写真の右側のマンションが「余丁町郵政宿舎」で左側の上の方に東京女子医大の看板が見えます。この「余丁町郵政宿舎」の小道から曙橋側の次の小道まで全て永井家の土地だったようです。次の小道も歩いてみましたが入江家はもうなく分譲住宅とアパートになっています

kafu-tsukiji1w.jpg<築地周辺を歩く>
 荷風は大正4年八重次と離婚、余丁町の邸宅を残して、築地一丁目6に転居しています。まだその頃は三十間堀(現在の首都高速道路の築地から箱崎までの路線で昔の堀の跡を高速道路にしています)があり銀座方面からの市電(今の都電)が現在の京橋郵便局の所を左に曲がって茅場町へ行っており、丁度市電の築地橋駅の所が築地一丁目でした。(現在の築地本願寺前の新大橋通りはまだありませんでした)

左の写真が昔の市電通りの築地一丁目界隈で右側が荷風か住んだ築地一丁目6番辺りです。

 荷風はこの後、一度余丁町に戻り「断腸亭」を新築したりしましたが、結局大正6年新橋演舞場近くの木挽町9丁目に借家を借りています。このころから「断腸亭日乗」を書き始めています。その「断腸亭日乗」では「九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く往診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんがために借りたるなり。南郷は区内の富家高鳴氏の屋敷。北郷は待合茶屋なり。・・・」とあります。体の調子が悪くて病院に近い所を借りたようです。次に移転した築地本願寺横の築地二丁目30へは余丁町の邸宅を手放しその資産を基に借家ではなく自宅を購入しています、大正7年のことです。

henkikan1w.jpg<麻布偏奇館跡>
 大正9年5月23日麻布区市兵衛町に引っ越しています。「断腸亭日乗」では「五月廿三日。この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。」とあります。
六本木アークヒルズの前の六本木通りから偏奇館跡へ向かうのには道源寺坂を上がっていくしか道はありません。現在は大きな工事が行われており、(森ビルが再開発で大きなビルを建てようとしている)道が途中で切れてしまっています。アメリカ大使館の横の霊南坂の方から回って御組坂を下りて行っても、工事中で道が途中切れてしまっています。工事が終わらないと偏奇館跡までは行けません、残念です。
 この辺りのことを荷風は大正10年の「偏奇舘漫録」に「赤坂霊南坂を登りて行く事二三町。道の右側に見渡すところ二三千坪にも越えたるほどの空地あり。宮内省の御用地といふ。草肯く喬木描くが如し。我が偏奇館この空地を去る事遠からざれば散策の途次必ず過ぎて夏の夕には緑蔭に涼風を迎へて時に詩を読み、冬の夜には月中落葉を踏んで・・・」と書いています。「宮内省の御用地」と書かれている場所は今のアークヒルズの所です。

右の写真が御組坂上から撮影したものです。写真を見て頂くと分かりますが、まさに工事中です。やや左正面のビルはIBM六本木ビルだと思います。工事か終わったら又撮影に行こうと思います。

この後昭和20年3月11日の東京大空襲で偏奇館は焼けてしまいます。続きは「荷風 昭和20年夏」をご覧ください。

余丁町付近地図


築地付近地図


六本木一丁目付近地図

【参考文献】
・永井荷風の東京空間:河出書房新社 松本哉
・荷風極楽:三省堂 松本哉
・断腸亭日乗(上)(下):永井荷風 岩波書店
・永井荷風ひとり暮し:松本はじめ 朝日文庫
・荷風散策:江藤 淳 新潮社
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風と東京:川本三郎 都市出版

【交通のご案内】
・断腸亭跡:都営大江戸線「若松河田駅」下車 徒歩5分
・築地周辺:営団日比谷線「築地駅」/「東銀座駅」下車 徒歩3分
・偏奇館跡:営団南北線「六本木一丁目駅」下車 徒歩3分

【見学について】
・断腸亭跡:東京都新宿区余丁町1-5-2
・築地周辺:東京都港区築地2-7、3-12、銀座7-16付近
・偏奇館跡:東京都港区六本木1-6-5

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