<堀辰雄 「大和路・信濃路」>
《この項から「婦人公論」までは「堀辰雄の奈良を歩く
飛鳥編-1-」と同一です》
堀辰雄は昭和12年(1937)から昭和18年(1943)にかけて計6回奈良を訪ねています。
・1回目:昭和12年(1937)6月、京都に滞在して奈良を訪ねています。
・2回目:昭和14年(1939)5月、神西清と日吉館に滞在しています。
・3回目:昭和16年(1941)10月、多恵子夫人宛の手紙が元になり「大和路」の”十月”が書かれています。
・4回目:昭和16年(1941)12月、この年の2度目の訪問が”古墳”に書かれています。この時に神戸経由で倉敷の大原美術館まで足をのばしています(「堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年」を参照して下さい)。
・5回目:昭和18年(1943)4月、多恵子夫人との奈良訪問が”浄瑠璃寺の春”になっています。
・6回目:昭和18年(1943)5月、最後の奈良訪問で、この時は京都に滞在して奈良を訪ねたようです。
まずは新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”の書き出しからです。
「… この秋はずっと奈良に滞在していましたが、どうも思うように仕事がはかどらず、とうとうその仕事をかたづけるためにしばらく東京に舞いもどっていました。それからすぐまたこちらに来るつもりでいましたが、すこし無理をして仕事をしたため、そのあとがひどく疲れて一週間ばかり寐たり何かしているうちに、つい出そびれて、やっと十二月になってこちらに来たような始末です。この七日にはどうしても帰京しなければならない用事がある上、こんどはどうしても倉敷の美術館にいってエル・グレコの「受胎告知」を見てきたいので、奈良には三四日しかいられないことになりました。まるでこの秋ホテルに預けておいた荷物をとりにだけきたような恰好です。
でも、そんな三四日だって、こちらでもって自分の好きなように過ごすことができるのだとおもうと、たいへん幸福でした。僕は一日の夜おそくホテルに著いてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床にはいりました。……
…」
堀辰雄が奈良を訪ねた昭和16年(1941)12月は日米開戦で大変な時期だったのですが、全く関係ないようで、「大和路・信濃路」には書かれていません。
堀辰雄が東京から乗った列車は「鷗(かもめ)」(多恵子宛書簡から)です。東京発13時で、京都着20時42分、奈良線に乗換えて、21時29分京都発、22時35分奈良着です。
★左上の写真は新潮文庫版「大和路・信濃路」です。本によって”、”樹下”、”十月”、”古墳”等の非掲載や掲載の順番が違うようです。
初出を掲載しておきます。
・「十月(一)」:「婦人公論」「大和路・信濃路(一)」昭和18年(1943)1月号
・「十月(二)」:「婦人公論」「大和路・信濃路(二)」昭和18年(1943)2月号
・「古墳」:「婦人公論」「大和路・信濃路(三)」昭和18年(1943)年3月号
・「樹下」:「文藝」昭和19年(1944)年1月号
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953)
5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)