●堀辰雄の奈良を歩く 【山の辺、恭仁京編】
    初版2013年9月21日
    二版2013年10月30日 柳本駅を追加  <V01L01> 暫定版

 9月上旬、関西に仕事で行っていましたので、奈良を少し歩いてきました。今回は「堀辰雄の奈良を歩く 飛鳥編-1-」の続編で、”山の辺の道”と”恭仁京址”を掲載します。堀辰雄は6回奈良を訪ねていますが、4回目の昭和16年(1941)12月の奈良訪問時を辿ってみました。




「大和路・信濃路」
<堀辰雄 「大和路・信濃路」>
《この項から「婦人公論」までは「堀辰雄の奈良を歩く 飛鳥編-1-」と同一です》
 堀辰雄は昭和12年(1937)から昭和18年(1943)にかけて計6回奈良を訪ねています。

・1回目:昭和12年(1937)6月、京都に滞在して奈良を訪ねています。
・2回目:昭和14年(1939)5月、神西清と日吉館に滞在しています。
・3回目:昭和16年(1941)10月、多恵子夫人宛の手紙が元になり「大和路」の”十月”が書かれています。
・4回目:昭和16年(1941)12月、この年の2度目の訪問が”古墳”に書かれています。この時に神戸経由で倉敷の大原美術館まで足をのばしています(「堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年」を参照して下さい)。
・5回目:昭和18年(1943)4月、多恵子夫人との奈良訪問が”浄瑠璃寺の春”になっています。
・6回目:昭和18年(1943)5月、最後の奈良訪問で、この時は京都に滞在して奈良を訪ねたようです。

 まずは新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”の書き出しからです。
「… この秋はずっと奈良に滞在していましたが、どうも思うように仕事がはかどらず、とうとうその仕事をかたづけるためにしばらく東京に舞いもどっていました。それからすぐまたこちらに来るつもりでいましたが、すこし無理をして仕事をしたため、そのあとがひどく疲れて一週間ばかり寐たり何かしているうちに、つい出そびれて、やっと十二月になってこちらに来たような始末です。この七日にはどうしても帰京しなければならない用事がある上、こんどはどうしても倉敷の美術館にいってエル・グレコの「受胎告知」を見てきたいので、奈良には三四日しかいられないことになりました。まるでこの秋ホテルに預けておいた荷物をとりにだけきたような恰好です。
 でも、そんな三四日だって、こちらでもって自分の好きなように過ごすことができるのだとおもうと、たいへん幸福でした。僕は一日の夜おそくホテルに著いてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床にはいりました。……
 …」

 堀辰雄が奈良を訪ねた昭和16年(1941)12月は日米開戦で大変な時期だったのですが、全く関係ないようで、「大和路・信濃路」には書かれていません。

 堀辰雄が東京から乗った列車は「鷗(かもめ)」(多恵子宛書簡から)です。東京発13時で、京都着20時42分、奈良線に乗換えて、21時29分京都発、22時35分奈良着です。

左上の写真は新潮文庫版「大和路・信濃路」です。本によって”、”樹下”、”十月”、”古墳”等の非掲載や掲載の順番が違うようです。

初出を掲載しておきます。
・「十月(一)」:「婦人公論」「大和路・信濃路(一)」昭和18年(1943)1月号
・「十月(二)」:「婦人公論」「大和路・信濃路(二)」昭和18年(1943)2月号
・「古墳」:「婦人公論」「大和路・信濃路(三)」昭和18年(1943)年3月号
・「樹下」:「文藝」昭和19年(1944)年1月号

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「堀辰雄全集 第八巻」
<堀辰雄全集 第八巻 書簡集>
 堀辰雄の昭和16年12月初めの奈良でのスケジュールを新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”と「堀辰雄全集 第八巻」の”書簡”から追ってみました。

 新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”からです。
「…翌朝、食堂の窓から、いかにも冬らしくすっきりした青空を見ていますと、なんだかもう此処にこうしているだけでいい、何処にも出かけなくったっていいと、そんな欲のない気もちにさえなり出した位ですから、勿論、めんどうくさい室生寺ゆきなどは断念しました。そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。…
… 次ぎの日 ― きのうは、恭仁京の址をたずねて、瓶原にいって一日じゅうぶらぶらしていました。…
… きょうは、朝のうちはなんだか曇っていて、急に雪でもふり出しそうな空合いでしたが、最後の日なので、おもいきって飛鳥ゆきを決行しました。……」


 「大和路・信濃路」の”古墳”から読めるスケジュールです。
・1日目:一日の夜遅く奈良に到着(12月1日)
・2日目:山の辺の道
・3日目:恭仁京の址をたずねて、瓶原
・4日目:飛鳥

 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
 「…479
十二月一日附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふの出がけは随分おももろかったね、あれから僕は豫定を欒更して、根津コレクシオンにもう一度いってみた 最初にいってみたときよりもつと感動した、いいものは見れば見るほどよくなってくるものだね、やはり光琳の燕子花圖が一番好きだ あんまり見売れてゐて漸つと鷗(かもめ)に問に合ったほどだ、ゆうべ十時奈良ホテル著、菱山君ではないが何んだかわが家に掃ってきたやうな気もちなり、すぐ風呂を浴びて寝た けさの朝食にはさすがに玉子がなくちょっと淋しい、けふは柿本人麿の住んでゐた村の方へいってみる

480
十二月二日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふはあれから三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた 蜜柑がいっぱい賣ってゐて娘たちが唄ひながら鋏の音を立てて探ってゐた 思ひがけず明るい景色だつたが、そんな蜜柑山からすぐ向うに畝傍も耳成も香久山も手にとるやうに見えるのだよ そんな可愛らしい山の問を汽車が煙を出しながらのろのろ通ってゐるのなんぞ見てゐると大へん好い気持ちだ 三輪の驛の附近では卵や饅頭や眞綿なぞも賣ってゐたがそんなものを抱へては歩かれないから止めた

481
十二月三日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふは瓶原といふ村を一日中ぶらぶら歩いてきた 菜畑や蜜柑畑の間を抜けたり楔の裸かになった林のなかをいくら歩いてゐても汗も出ず、塞くもなくて、なかなか好い初冬の一日だった しかしけふはすこし薄曇ってゐる もうすこし様子を見てから何處かへ行かうとおもつてゐる 僕は五日朝ホテルを立って倉敷に繪を見にゆき、夜は神戸で一泊、燕で歸京することにした…」


 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡集から読める昭和16年12月のスケジュールです。
・12月1日:鷗に乗り夜10時に奈良ホテル着
・12月2日:三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた、三輪の驛
・12月3日:瓶原といふ村
・12月4日:飛鳥の村、途中の村で日が暮れ、満月の光をあびながら畝傍の駅、夕方神戸着

 「大和路・信濃路」と書簡集ではスケジュールは一致しています。ただ、12月4日の神戸に着いた時間が書簡集の中で一致していません。4日の飛鳥では畝傍の駅で”満月の光”と書いていますので12月ですから18時前後と推測できます。ここから奈良ホテルに戻って神戸までは最低でも3時間は掛ります。そうすると神戸着は21時以降となります。5日の書簡では”四日夕方神戸”と記しています。また竹中郁と鮨を食べに行っています。私の推定ですが、飛鳥は15時頃に発ったのではないでしょうか?

写真は「堀辰雄全集 第八巻」です。全て書簡集です。

「婦人公論」
<婦人公論 昭和18年3月号>
 堀辰雄が飛鳥について初めて書いたのは「婦人公論」昭和18年3月号です。「大和路・信濃路(三)」として掲載されていました。多恵子夫人と初めて奈良を訪ねたのは昭和18年4月になりますから、多恵子夫人と奈良を訪ねた話は無いはずですが、下記には”三年まへの五月、ちやうど桐の花の咲いてゐたころ、君といつしよにこのあたりを二日つづけて歩きまはつた”と書いています。やはり、紀行文ではなく、小説なのでしょうか!

 堀辰雄の「婦人公論」昭和18年3月號からです。
「… けふは、朝のうちはなんだか曇つてゐて、急に雪でもふり出しそうな空合ひでしたが、最後の日なので、おもひきつて飛鳥ゆきを決行しました。が、畝傍山のふもとまで來たら、急に日がさしてきて、きのふのように気もちのいい冬日和になりました。三年まへの五月、ちやうど桐の花の咲いてゐたころ、君といつしよにこのあたりを二日つづけて歩きまはつた折のことを思い出しながら、大體そのときと同じ村村をこんどは一人きりで、さも自分のよく知つてゐる村かなんぞのような氣やすさで、歩きまはつて來ました。が、歸りみち、途中で日がとつぷりと昏れ、五条野あたりで道に迷ったりして、やっと月あかりのなかを岡寺の驛にたどりつきました。……」

 婦人向けの雑誌ですから、やはり女性(君)が出てこないと面白くないので、無理矢理話を作って入れたのでしょうか。この辺りの事情はよく分りません。この本が出版された翌月の四月に多恵子夫人と奈良を訪ねています。

 上記に書かれている場面を発行順に追ってみました。昭和21年発刊の「花あしび」には「大和路・信濃路(三)」の代わりに「古墳」として書かれていました。内容は初出の「婦人公論」昭和18年3月號と同じでした。新潮文庫版は下記を見て下さい。

写真は「婦人公論」昭和18年3月號です。2月にはガダルカナル島から撤退していますので、丁度太平洋戦争の分岐点になったころです。

堀辰雄の山の辺の道地図(桜井駅〜長柄駅間)


「聖林寺」
<聖林寺>
 今回は昭和16年12月2日から3日にかけて堀辰雄が歩いた奈良 ”三輪山付近の山の辺の道”、”恭仁京(くにのみや)の址”を巡ります。「大和路・信濃路」の”古墳”と書簡を参照します。

 堀辰雄の新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”からです。
「…僕は一日の夜おそくホテルに著いてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床にはいりました。…」

 堀辰雄は昭和16年の奈良を訪ねるにあたって、二つの方向を示しています。一つは”室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などの寺社仏閣”を訪ねる、二つ目は”飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさと”をぶらぶらと歩くということ。結局今回は二つ目の”飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさと”をぶらぶらと歩く方を選びます。

 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
「…563 五月二十二日附 京都河峯旅館より
堀多恵子宛(はがき)
いま聖林寺に向ふ途中だ こんどはバスがだめなら歩いてもいって見ようとおもふ、僕はあす(日曜)京都を立ち濱松で一泊、さうして月曜日の夜歸宅のつもり、毎日元気だ…」


 昭和16年に訪問予定だった聖林寺について、上記の書簡から昭和18年5月にようやく訪ねています。桜井駅から多武峯街道を南に3Km弱、歩いて40分程度ですが、山の辺の道の南の端から少し離れているので、じっくり訪ねたかったので日を改めたのかもしれません。

写真は現在の聖林寺です。坂道の上の小山の途中にあり、なにか古城みたいにおもえました。このお寺を有名にしたのは国宝の十一面観音立像を所蔵することもあるのですが、明治20年にフェノロサがこの聖林寺を訪ねて十一面観音立像に感服していることのほうが有名みたいです。堀辰雄が訪ねたのもフェノロサの線かもしれません。

 聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院です。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされています。又、国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られています。聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にあり、伝承では和銅5年(712)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したといわれています。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置しています。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管されています。(ウイキペディア参照)

「JR三輪駅」
<三輪駅>
 堀辰雄は山の辺の道を何処から何処まで歩いたか、具体的に書いていません。「大和路・信濃路」と書簡から推測しました。

 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
「…480
十二月二日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふはあれから三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた 蜜柑がいっぱい賣ってゐて娘たちが唄ひながら鋏の音を立てて探ってゐた 思ひがけず明るい景色だつたが、そんな蜜柑山からすぐ向うに畝傍も耳成も香久山も手にとるやうに見えるのだよ そんな可愛らしい山の間を汽車が煙を出しながらのろのろ通ってゐるのなんぞ見てゐると大へん好い気持ちだ 三輪の驛の附近では卵や饅頭や眞綿なぞも賣ってゐたがそんなものを抱へては歩かれないから止めた…」


 下車した駅と帰りに乗車した駅を考えてみました。
・”三輪の驛の附近では卵や饅頭や眞綿なぞも賣ってゐたがそんなものを抱へては歩かれない”
・”三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた”
 下車した駅は桜井線三輪駅に間違いないようです(”抱へては歩かれない”と書いているので)。又、”穴師の里”から帰りに乗車した駅は柳本駅ではないかと、こちらは推測です。穴師からは巻向駅が近いのですが、巻向駅が開業したのは昭和30年で当時はありませんでした。

写真は現在のJR桜井線三輪駅です。単線ですが電化されており、ワンマン運転で、色々の色の電車が走っていました(スカイブルー赤帯ライトパープル)。JR桜井線は”万葉まほろば線”の名称が付けられています。今年からスイカも使えるようになったので便利です。三輪駅付近には上記の書簡にも書いていますが現在でも出店が多いです。この三輪駅が有名なのは、近くに日本最古の神社の一つである大神神社(おおみわじんじゃ)があるからです。この神社は三輪山がご神体となっています。山の辺の道はこの大神神社のところを通っています。

「そうめん定食」
<三輪そうめん>
 奈良の三輪といえば”そうめん”ですね。三輪駅前で名物の”三輪そうめん”を食してきました。

 三輪素麺(みわそうめん)は、奈良県桜井市を中心とした三輪地方で生産されている素麺(そうめん)で、特産品となっています。三輪地方はそうめん発祥の地とも言われています。伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田子根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐の次男穀主が初めて作ったそうです。
 原料に小麦粉を使い極寒期に手延べ法により精製したもので、腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを特徴とします。製造から1年以上寝かしたものを『古物(ひねもの)』、2年以上は『大古(おおひね)』と呼ばれ珍重されています。
 伝統ある三輪では、昔はそうめんのランク(細さ)を上から、
神杉(かみすぎ)…極細の最高級品
緒環(おだまき)…神杉より少々太い高級品
瑞垣(みずがき)…誉より少し細い高級品
誉(ほまれ)  …通常の三輪そうめん
の大きく4つに区分していました。しかし最近は各メーカーで独自に生産するそうめんの方が細くなり、この区分は不明確となっています。一般的には瑞垣(鳥居の金帯)、誉(鳥居の黒帯)という大まかな区分けがされています。(ウイキペディア参照)

写真は三輪駅前の”みわ寿司”のそうめん定食です。三輪そうめんの高級店もあったのですが、一番庶民的なお店を選びました。そうめんと巻き寿司のセットです。美味しかったです。

「巻向川と三輪山」
<三輪山>
 桜井線三輪駅から山の辺の道が通っている大神神社へ向います。国道169号線のところにある鳥居の大きさにはびっくりしました。

 大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社で、式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社です。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社となります。日本で最古の神社の1つとされています。三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残しています。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されています。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものです。例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされます。これが各地の造り酒屋へと伝わっています。(ウイキペディア参照)

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「… 翌朝、食堂の窓から、いかにも冬らしくすっきりした青空を見ていますと、なんだかもう此処にこうしているだけでいい、何処にも出かけなくったっていいと、そんな欲のない気もちにさえなり出した位ですから、勿論、めんどうくさい室生寺ゆきなどは断念しました。そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。三輪山の麓をすこし歩きまわってから、柿本人麻呂の若いころ住んでいたといわれる穴師の村を見に纏向山のほうへも往ってみたりしました。…」

 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
「…480
十二月二日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふはあれから三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた 蜜柑がいっぱい賣ってゐて娘たちが唄ひながら鋏の音を立てて探ってゐた 思ひがけず明るい景色だつたが、そんな蜜柑山からすぐ向うに畝傍も耳成も香久山も手にとるやうに見えるのだよ そんな可愛らしい山の問を汽車が煙を出しながらのろのろ通ってゐるのなんぞ見てゐると大へん好い気持ちだ 三輪の驛の附近では卵や饅頭や眞綿なぞも賣ってゐたがそんなものを抱へては歩かれないから止めた…」


 大神神社については書簡にも全く書かれていません。
 堀辰雄は大神神社から山の辺の道を北に向い、穴師から山の辺の道を離れて、柳本駅に向ったと推測しています。

写真は桜井線の東側、巻向川沿いから三輪山を撮影したものです。正面が三輪山で、三輪山の後に巻向山、左に巻向となります。三輪山の北西山麓、山の辺の道から穴師山方面の写真を掲載しておきます。

「ホケノ古墳」
<名もないような古墳>
 桜井から天理までの桜井線沿線は古墳だらけです。有名な古墳から名も無い古墳まで沢山見つけることができます。一寸した丘があれば古墳としてみて間違い在りません。

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「…このあたり一帯の山麓には名もないような古墳が群らがっているということを聞いていたので、それでも見ようとおもっていたのだけれど、どちらに向って歩いてみても、丘という丘が蜜柑畑で、若い娘たちが快活そうに唄い唄い、鋏の音をさせながら蜜柑を採っているのでした。何か南国的といいたいほど、明るい生活気分にみちみちているようなのが、僕にはまったくおもいがけなく思われました。――が、そういう蜜柑山の殆どすべてが、ことによったら古代の古墳群のあとなのかも知れません。そんな想像が僕の好奇心を少しくそそのかしました。…」

 ホケノ山古墳の周囲には纒向遺蹟がひろがっています。纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡です。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされています。邪馬台国に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持ちます。
 遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものです。
 2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km²になります。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3,000m²に達しています。
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びています。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。しかし、2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるといわれています。(ウイキペディア参照)

写真は巻向川右岸にあるホケノ古墳です。前方後円墳の後部側です(馬の背あたりから撮影)。前部側の写真も掲載しておきます(はっきりは分りません)。

「柿本人麻呂公屋敷蹟」
<柿本人麻呂公屋敷蹟>
 JR桜井線巻向駅近くに柿本人麻呂公屋敷蹟という記念碑があります。裏側を見たかったのですが「JAならけん纒巻支店」の中で、裏側まで入れませんでした。推定ですが戦前からあったとおもわれます。山の辺の道からは遠く、この近くの巻向駅が開業したのは昭和30年なので、堀辰雄辰雄がこの付近を歩いたとはおもわれません。

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「… そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。三輪山の麓(ふもと)をすこし歩きまわってから、柿本人麻呂の若いころ住んでいたといわれる穴師(あなし)の村を見に纏向山(まきむくやま)のほうへも往ってみたりしました。このあたり一帯の山麓(さんろく)には名もないような古墳が群らがっているということを聞いていたので、それでも見ようとおもっていたのだけれど、どちらに向って歩いてみても、丘という丘が蜜柑畑(みかんばたけ)で、若い娘たちが快活そうに唄い唄い、鋏(はさみ)の音をさせながら蜜柑を採っているのでした。何か南国的といいたいほど、明るい生活気分にみちみちているようなのが、僕にはまったくおもいがけなく思われました。――が、そういう蜜柑山の殆どすべてが、ことによったら古代の古墳群のあとなのかも知れません。そんな想像が僕の好奇心を少しくそそのかしました。…」

この付近で柿の木を探して写真を撮ってきました。

写真は巻向駅から東にすこし歩いたJAならけん纒巻支店(巻向支店)の前庭にある「柿本人麻呂公屋敷蹟」です。ただこの石碑の場所についてはまったく裏付けがありません。
 一般的には、
・巻向川(痛足川)沿いの穴師付近に住んでいた
・妻がこの付近に住んでいた
としか云われていません。

 柿本人麻呂については別途掲載したいとおもっています。
「JR柳本駅」
<柳本駅>
 2013年10月30日 柳本駅を追加

 昭和16年12月2日の堀辰雄の行動は、
1.奈良駅から桜井線に乗車し三輪駅で下車
  (奈良駅から約40分、一時間に一本程度)
2.三輪駅から大神神社に向います
3.大神神社から山の辺の道を北に向います
4.巻向川から穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社に向います
5.穴師から景行天皇陵、崇~天皇陵を通って柳本駅に向います
6.柳本駅から奈良駅着
以上ではないかと推測しています。穴師からは巻向駅が近いのですが、巻向駅が開業したのは昭和30年で当時はありませんでした。

 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
「…480
十二月二日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふはあれから三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた 蜜柑がいっぱい賣ってゐて娘たちが唄ひながら鋏の音を立てて探ってゐた 思ひがけず明るい景色だつたが、そんな蜜柑山からすぐ向うに畝傍も耳成も香久山も手にとるやうに見えるのだよ そんな可愛らしい山の間を汽車が煙を出しながらのろのろ通ってゐるのなんぞ見てゐると大へん好い気持ちだ 三輪の驛の附近では卵や饅頭や眞綿なぞも賣ってゐたがそんなものを抱へては歩かれないから止めた…」


 穴師の新池付近から三輪山を撮影した写真を掲載しておきます。

写真は現在の柳本駅です。三輪駅から山の辺の道経由で柳本駅までは約8Km、ゆっくり歩いて2〜3時間という所だとおもいます。

堀辰雄の山の辺図(巻向駅周辺)


「恭仁京の址」
<恭仁京(くにのみや)の址>
 日が変って昭和16年12月3日です。奈良駅から関西本線で名古屋方面に向います。木津駅で奈良線と別れて次駅の賀茂駅で下車、恭仁京址に向います。

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「… 次ぎの日――きのうは、恭仁京(くにのみや)の址をたずねて、瓶原にいって一日じゅうぶらぶらしていました。ここの山々もおおく南を向き、その上のほうが蜜柑畑になっていると見え、静かな林のなかなどを、しばらく誰にも逢わずに山のほうに歩いていると、突然、上のほうから蜜柑をいっぱい詰めた大きな籠(かご)を背負った娘たちがきゃっきゃっといいながら下りてくるのに驚かされたりしました。ながいこと山国の寒く痩(や)せさらぼうたような冬にばかりなじんで来たせいか、どうしても僕には此処はもう南国に近いように思われてなりませんでした。だが、また山の林の中にひとりきりにされて、急にちかぢかと見えだした鹿背山(かせやま)などに向っていると、やはり山べの冬らしい気もちにもなりました。………」

 関西本線賀茂駅で降りて、木津川を渡り、3Km程歩くと恭仁京址です。

 恭仁京(くにきょう、くにのみやこ)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地。現在の京都府木津川市加茂地区に位置します。昭和32年(1957)「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定されています。その後の学術調査の進展に伴い、2007年2月6日付で史跡指定範囲が拡大され、指定名称も「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更されています。
 藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都されます。相楽が選ばれた理由として左大臣・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されています。741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられます。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に、都は平城京に戻されます。
 748年(天平18年)には恭仁宮大極殿が山城国分寺に施入されます。遷都後、宮城跡地は山城国分寺として再利用されることになり、大極殿は金堂に転用されます。南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域を有していた。金堂の東側は国分寺の鎮守社である御霊神社の境内地だったとされます。現在は広大な平原となっており、金堂(大極殿)礎石と七重塔礎石が地表にのこされています。(ウイキペディア参照)

「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
「481
十二月三日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふは瓶原といふ村を一日中ぶらぶら歩いてきた 菜畑や蜜柑畑の間を抜けたり楔の裸かになった林のなかをいくら歩いてゐても汗も出ず、塞くもなくて、なかなか好い初冬の一日だった しかしけふはすこし薄曇ってゐる もうすこし様子を見てから何處かへ行かうとおもつてゐる 僕は五日朝ホテルを立って倉敷に繪を見にゆき、夜は神戸で一泊、燕で歸京することにした…」


写真は現在の恭仁京址です。広い草原に山城国分寺跡の石碑木津川教育委員会の説明看板大きな礎石しかありません。

堀辰雄の恭仁京図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良を訪問
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在(20日間程)
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都を訪問、奈良も訪ねる
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る