●堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年
    初版2010年9月23日  <V01L03> 暫定版

 今回は番外編として『堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年』を掲載します。堀辰雄は昭和7年12月、竹中郁を訪ねて一週間ほど神戸に滞在しています。その滞在記が「旅の絵」となります。その後、堀辰雄は一度だけ神戸を訪ねています。昭和16年12月です。倉敷の大原美術館を訪ねる際に神戸に宿泊しています。




「旧オリエンタルホテル」
オリエンタルホテル>
 堀辰雄が二度目に神戸を訪ねたのは昭和16年12月4日でした。日米開戦の4日まえです。奈良から神戸経由で倉敷の大原美術館を訪ねています。
 堀辰雄の書簡で追いかけてみました。
「十二月五日 神戸オリエンタル・ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
四日夕方神戸についてオリエンタルホテルに一先づ宿をとった 竹中君がすぐ来てくれて寿司を御馳走になった 鯛とまぐろとあなごと海老などそりあうまかった 竹中君は六圓拂ってゐた
あすは朝早く倉敷にいく 夕方帰り又竹中君と落ちあってこんどは山の手の小さなホテルに泊る 何かお前に御土産を買ってやらうね」。

 日米開戦を4日後に控えた時期に、奈良から神戸を経由して倉敷の大原美術館を訪ねるとは余裕がありますね。戦争とか軍部とかには”我関せず”ということでしょうか。堀辰雄は神戸で竹中郁に合っていますので義理がたいですね。

写真正面やや右のビルがオリエンタルホテルです(昭和初期の写真です)。当時、神戸では高級ホテルです。現在は他のビルになっています。左側の通りが海岸通りです。左隣のビルは大阪商船ビルで、このビルは当時のままです。現在の写真 も掲載しておきます(反対側からで一番左の建物が大阪商船ビル、その右側がオリエンタルホテル跡です)。

「大原美術館」
<大原美術館>
 とても有名な大原美術館です。5日の朝 神戸を発って倉敷に向かい、夕方神戸に戻ってくるという強行軍です。
 ここも堀辰雄の多恵子さん宛の書簡を参考にします。
「十二月五日附 神戸ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
けふ倉敷へいってきた 静かな美術館でエル・グレコの「受胎告知」の前でソファに三十分ほど腰かけて眺めてゐるうちにいい気持で居眠りしてしまった 目がさめたら又自分がグレコの絵の前にゐるのでとてもうれしかった 奈良から丸田君も絵をみにきて美術館の入口のロダンの彫像の前で写真をとつて貰った こんや泊る山の手の小さなホテルは外人の下宿屋みたいなところだ
あした燕で買るから駅で待ってゐておくれ。」

 昭和16年当時、神戸から倉敷まで、どのくらい時間がかかるか調べてみました。昭和15年10月号の時刻表(これしかなかった)では、東京発下関行急行が、神戸発8時40分、倉敷着11時17分で、2時間37分ですからかなり近いです。この急行は大阪発8時なので奈良を朝発って乗るのは難しいです。

写真は現在の大原美術館です。大原美術館は倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、昭和5年(1930)に開館しています。西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初のものです(ウイキペディア参照)。

「神戸ホテル跡」
<神戸ホテル>
 堀辰雄は神戸から倉敷の大原美術館を日帰りで訪ねます。神戸での最初の宿泊は神戸オリエンタルホテルでしたが神戸での二泊目は異人館の多い山手に宿泊場所をとります。
ここでも、堀辰雄の書簡からです。
「十二月六日(推定)附 神戸ホテルより
神西清宛(はがき)
又こちらに来てゐたがけふこれからすこし神戸を散歩して帰京する きのふ倉敷の美術館にいってグレコの絵を見てきた
いまゐるホテルの界隈は昔ながらの外人屋敷がならんでゐる そんなのの廃屋に近いやつを一軒買ひたくなった」

 上記に”いまゐるホテルの界隈は昔ながらの外人屋敷がならんでゐる”とかいていますが、二日目に宿泊したホテルは山本通り二丁目の「神戸ホテル」でした。山手通りより北側ですので、戦前のこの付近から北側は異人館だらけだったとおもいます。このホテルの所在についてはよく分からなかったのですが、昭和16年の神戸商工名鑑に掲載されていました。所在は当時の住所で神戸区山本通二丁目11-4です。山手通りから少し上ったところです。

写真の正面辺りに「神戸ホテル」がありました。現在の住所で中央区山本通り二丁目4付近です。12月6日には東京に戻ります。帰りの列車は神戸始発特急”燕”です。12時20分神戸発、東京着は当日の夜9時です。8時間40分かかっています。


堀辰雄の神戸地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
         
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 37 7月 軽井沢の別荘に滞在
10月 奈良に滞在(奈良ホテル)、月末東京に戻る
12月 奈良に戻る、神戸で宿泊し大原美術館を訪ねる