●堀辰雄の奈良を歩く 【飛鳥編 -1-】
    初版2013年6月22日  <V03L02> 暫定版

 東京 浅草が複数回続きましたので、今回は東京から離れて「堀辰雄の奈良を歩く 飛鳥編-1-」を掲載します。堀辰雄は6回奈良を訪ねていますが、4回目の昭和16年(1941)12月の奈良 飛鳥を歩いてみました。同じ時期に歩いたので凄く寒かったです。




「大和路・信濃路」
<堀辰雄 「大和路・信濃路」>
 堀辰雄は昭和12年(1937)から昭和18年(1943)にかけて計6回奈良を訪ねています。

・1回目:昭和12年(1937)6月、京都に滞在して奈良を訪ねています。
・2回目:昭和14年(1939)5月、神西清と日吉館に滞在しています。
・3回目:昭和16年(1941)10月、多恵子夫人宛の手紙が元になり「大和路」の”十月”が書かれています。
・4回目:昭和16年(1941)12月、この年の2度目の訪問が”古墳”に書かれています。この時に神戸経由で倉敷の大原美術館まで足をのばしています(「堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年」を参照して下さい)。
・5回目:昭和18年(1943)4月、多恵子夫人との奈良訪問が”浄瑠璃寺の春”になっています。
・6回目:昭和18年(1943)5月、最後の奈良訪問で、この時は京都に滞在して奈良を訪ねたようです。

 まずは新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”の書き出しからです。
「… この秋はずっと奈良に滞在していましたが、どうも思うように仕事がはかどらず、とうとうその仕事をかたづけるためにしばらく東京に舞いもどっていました。それからすぐまたこちらに来るつもりでいましたが、すこし無理をして仕事をしたため、そのあとがひどく疲れて一週間ばかり寐たり何かしているうちに、つい出そびれて、やっと十二月になってこちらに来たような始末です。この七日にはどうしても帰京しなければならない用事がある上、こんどはどうしても倉敷の美術館にいってエル・グレコの「受胎告知」を見てきたいので、奈良には三四日しかいられないことになりました。まるでこの秋ホテルに預けておいた荷物をとりにだけきたような恰好です。
 でも、そんな三四日だって、こちらでもって自分の好きなように過ごすことができるのだとおもうと、たいへん幸福でした。僕は一日の夜おそくホテルに著いてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床にはいりました。……
 …」

 堀辰雄が奈良を訪ねた昭和16年(1941)12月は日米開戦で大変な時期だったのですが、全く関係ないようで、「大和路・信濃路」には書かれていません。

 堀辰雄が東京から乗った列車は「鷗(かもめ)」(多恵子宛書簡から)です。東京発13時で、京都着20時42分、奈良線に乗換えて、21時29分京都発、22時35分奈良着です。

左上の写真は新潮文庫版「大和路・信濃路」です。本によって”、”樹下”、”十月”、”古墳”等の非掲載や掲載の順番が違うようです。

初出を掲載しておきます。
・「十月(一)」:「婦人公論」「大和路・信濃路(一)」昭和18年(1943)1月号
・「十月(二)」:「婦人公論」「大和路・信濃路(二)」昭和18年(1943)2月号
・「古墳」:「婦人公論」「大和路・信濃路(三)」昭和18年(1943)年3月号
・「樹下」:「文藝」昭和19年(1944)年1月号

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「堀辰雄全集 第八巻」
<堀辰雄全集 第八巻 書簡集>
 堀辰雄の昭和16年12月初めの奈良でのスケジュールを新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”と「堀辰雄全集 第八巻」の”書簡”から追ってみました。

 新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”からです。
「…翌朝、食堂の窓から、いかにも冬らしくすっきりした青空を見ていますと、なんだかもう此処にこうしているだけでいい、何処にも出かけなくったっていいと、そんな欲のない気もちにさえなり出した位ですから、勿論、めんどうくさい室生寺ゆきなどは断念しました。そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。…
… 次ぎの日 ― きのうは、恭仁京の址をたずねて、瓶原にいって一日じゅうぶらぶらしていました。…
… きょうは、朝のうちはなんだか曇っていて、急に雪でもふり出しそうな空合いでしたが、最後の日なので、おもいきって飛鳥ゆきを決行しました。……」


 「大和路・信濃路」の”古墳”から読めるスケジュールです。
・1日目:一日の夜遅く奈良に到着(12月1日)
・2日目:山の辺の道
・3日目:恭仁京の址をたずねて、瓶原
・4日目:飛鳥

 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡からです。
 「…479
十二月一日附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふの出がけは随分おももろかったね、あれから僕は豫定を欒更して、根津コレクシオンにもう一度いってみた 最初にいってみたときよりもつと感動した、いいものは見れば見るほどよくなってくるものだね、やはり光琳の燕子花圖が一番好きだ あんまり見売れてゐて漸つと鷗(かもめ)に問に合ったほどだ、ゆうべ十時奈良ホテル著、菱山君ではないが何んだかわが家に掃ってきたやうな気もちなり、すぐ風呂を浴びて寝た けさの朝食にはさすがに玉子がなくちょっと淋しい、けふは柿本人麿の住んでゐた村の方へいってみる

480
十二月二日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふはあれから三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた 蜜柑がいっぱい賣ってゐて娘たちが唄ひながら鋏の音を立てて探ってゐた 思ひがけず明るい景色だつたが、そんな蜜柑山からすぐ向うに畝傍も耳成も香久山も手にとるやうに見えるのだよ そんな可愛らしい山の問を汽車が煙を出しながらのろのろ通ってゐるのなんぞ見てゐると大へん好い気持ちだ 三輪の驛の附近では卵や饅頭や眞綿なぞも賣ってゐたがそんなものを抱へては歩かれないから止めた

481
十二月三日(朝)附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふは瓶原といふ村を一日中ぶらぶら歩いてきた 菜畑や蜜柑畑の間を抜けたり楔の裸かになった林のなかをいくら歩いてゐても汗も出ず、塞くもなくて、なかなか好い初冬の一日だった しかしけふはすこし薄曇ってゐる もうすこし様子を見てから何處かへ行かうとおもつてゐる 僕は五日朝ホテルを立って倉敷に繪を見にゆき、夜は神戸で一泊、燕で歸京することにした

482
十二月四日附 奈良ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
きのふ心細いやうな天気のなかをどこへ行くあてもなくホテルから出ていつたら急に日がさしてきて、すばらしいお天気になったので息ひ切って飛鳥の村へ行って一日中また歩いてきた 途中の村で日が暮れ、満月の光をあびながら畝傍の駅にたどりついた ホテルに帰ったら丸田君がきてゐた 新薬師寺に泊る由、僕はけふ豫定を欒へて神戸にゆく オリエンタルホテルに泊るつもりだ 倉敷行は五日 奈良からの直行では無理らしいから

483
十二月五日 神戸オリエンタル・ホテルより
堀多恵子宛(はがき)
四日夕方神戸についてオリエンタルホテルに一先づ宿をとった 竹中君がすぐ来てくれて寿司を御馳走になった 鯛とまぐろとあなごと海老などそりあうまかった 竹中君は六圓拂ってゐた あすは朝早く倉敷にいく 夕方帰り又竹中君と落ちあってこんどは山の手の小さなホテルに泊る 何かお前に御土産を買ってやらうね…」


 「堀辰雄全集 第八巻」の書簡集から読めるスケジュールです。
・12月1日:鷗に乗り夜10時に奈良ホテル着
・12月2日:三輪山の麓を歩き人麿の住んでゐた穴師の里をうろついてきた、三輪の驛
・12月3日:瓶原といふ村
・12月4日:飛鳥の村、途中の村で日が暮れ、満月の光をあびながら畝傍の駅、夕方神戸着

 「大和路・信濃路」と書簡集ではスケジュールは一致しています。ただ、12月4日の神戸に着いた時間が書簡集の中で一致していません。4日の飛鳥では畝傍の駅で”満月の光”と書いていますので12月ですから18時前後と推測できます。ここから奈良ホテルに戻って神戸までは最低でも3時間は掛ります。そうすると神戸着は21時以降となります。5日の書簡では”四日夕方神戸”と記しています。また竹中郁と鮨を食べに行っています。私の推定ですが、飛鳥は15時頃に発ったのではないでしょうか?

写真は「堀辰雄全集 第八巻」です。全て書簡集です。

「婦人公論」
<婦人公論 昭和18年3月号>
 堀辰雄が飛鳥について初めて書いたのは「婦人公論」昭和18年3月号です。「大和路・信濃路(三)」として掲載されていました。多恵子夫人と初めて奈良を訪ねたのは昭和18年4月になりますから、多恵子夫人と奈良を訪ねた話は無いはずですが、下記には”三年まへの五月、ちやうど桐の花の咲いてゐたころ、君といつしよにこのあたりを二日つづけて歩きまはつた”と書いています。やはり、紀行文ではなく、小説なのでしょうか!

 堀辰雄の「婦人公論」昭和18年3月號からです。
「… けふは、朝のうちはなんだか曇つてゐて、急に雪でもふり出しそうな空合ひでしたが、最後の日なので、おもひきつて飛鳥ゆきを決行しました。が、畝傍山のふもとまで來たら、急に日がさしてきて、きのふのように気もちのいい冬日和になりました。三年まへの五月、ちやうど桐の花の咲いてゐたころ、君といつしよにこのあたりを二日つづけて歩きまはつた折のことを思い出しながら、大體そのときと同じ村村をこんどは一人きりで、さも自分のよく知つてゐる村かなんぞのような氣やすさで、歩きまはつて來ました。が、歸りみち、途中で日がとつぷりと昏れ、五条野あたりで道に迷ったりして、やっと月あかりのなかを岡寺の驛にたどりつきました。……」

 婦人向けの雑誌ですから、やはり女性(君)が出てこないと面白くないので、無理矢理話を作って入れたのでしょうか。この辺りの事情はよく分りません。この本が出版された翌月の四月に多恵子夫人と奈良を訪ねています。

 上記に書かれている場面を発行順に追ってみました。昭和21年発刊の「花あしび」には「大和路・信濃路(三)」の代わりに「古墳」として書かれていました。内容は初出の「婦人公論」昭和18年3月號と同じでした。新潮文庫版は下記を見て下さい。

写真は「婦人公論」昭和18年3月號です。2月にはガダルカナル島から撤退していますので、丁度太平洋戦争の分岐点になったころです。

「畝傍山」
<畝傍山>
 それでは、「大和路・信濃路」の”古墳”に書かれている順に沿って歩いてみます。12月4日の朝から午後までとおもわれます。最初の書き出し部分は堀辰雄の飛鳥でのイメージを書いたものとおもわれ、色々な場所が書かれています。

 堀辰雄の新潮文庫版「大和路・信濃路」の”古墳”からです。
「… きょうは、朝のうちはなんだか曇っていて、急に雪でもふり出しそうな空合いでしたが、最後の日なので、おもいきって飛鳥ゆきを決行しました。が、畝傍山のふもとまで来たら、急に日がさしてきて、きのうのように気もちのいい冬日和になりました。三年まえの五月、ちょうど桐の花の咲いていたころ、君といっしょにこのあたりを二日つづけて歩きまわった折のことを思い出しながら、大体そのときと同じ村々をこんどは一人きりで、さも自分のよく知っている村かなんぞのような気やすさで、歩きまわって来ました。が、帰りみち、途中で日がとっぷりと昏れ、五条野あたりで道に迷ったりして、やっと月あかりのなかを岡寺の駅にたどりつきました……」

 奈良ホテルに宿泊していますから、奈良市内から畝傍山を訪ねるには関急奈良駅(現 近鉄奈良駅)から大阪電気軌道奈良線に乗り大軌西大寺駅(現 大和西大寺駅)で橿原線(昭和14年まで畝傍線)に乗換え、橿原神宮駅(現 橿原神宮前駅)で降りたものとおもわれます。何故、堀辰雄が畝傍山は書いて橿原神宮は書かなかったのかは不明です。意識的なのかもしれません。ここで書かれている地名は、”畝傍山”、”五条野”、”岡寺の駅”の三ヶ所です。

 橿原神宮は記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890)4月に官幣大社として創建されています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の橿原神宮から畝傍山を撮影したものです。橿原神宮前駅の西口の写真も掲載しておきます。立派な駅です。

「飛鳥川」
<飛鳥川>
 ここでの堀辰雄は、三年前に彼女と二人で廻った道のイメージを追っています。(実際は廻っていない)

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「… その三年前のこと、僕はいままでの仕事にも一段落ついたようなので、これから新らしい仕事をはじめるため、一種の気分転換に、ひとりで大和路をぶらぶらしながら、そのあたりのなごやかな山や森や村などを何んということなしに見てまわって来るつもりでした。それが急に君と同伴することになり、いきおい古美術に熱心な君にひきずられて、僕までも一しょう懸命になって古い寺や仏像などを見だし、そして僕の旅嚢はおもいがけなくも豊かにされたのでした。きょう僕がいろいろな考えのまにまに歩いてきた飛鳥の村々にしたって、この前君と同道していなかったら、きょうのようには好い収穫を得られなかったのではないかと思います。もし僕ひとりきりだったら、僕はただぼんやりと飛鳥川だの、そのあたりの山や丘や森や、そのうえに拡がった気もちのいい青空だのを眺めながら、愉しい放浪児のように歩きまわっていただけだったでしょう。…」

 ここで書かれている地名は”飛鳥川”です。

写真は甘橿丘の東、飛鳥川右岸から甘橿丘と飛鳥川を撮影したものです。12月なので寒々としています。堀辰雄も同じような風景を見たものとおもいます。

「川原寺跡」
<礎石>
 ここも前項と同じく、彼女と廻ったイメージで書いています。もう少し彼女との関係を膨らませたらいいのにとおもいます。やはり谷崎潤一郎や川端康成にはなれないようです。真面目ですね!

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「…――が、君に引っぱってゆかれる儘、僕はそんなものをついぞ見ようとも思わなかった古墳だの、廃寺のあとに残っている礎石だのを、初夏の日ざしを一ぱいに浴びながら見てまわったりしました。そのときはあんまり引っぱりまわされたので少し不平な位でした。しかし、どうもいまになって考えて見ると、そのとき君のあとにくっついて何気なく見たりしていたもののうちには、その後何かと思い出されて、いろいろ僕に役立ったものも少くはないようです。…」

 ここで書かれている”廃寺のあとに残っている礎石”は何処かとおもったのですが、飛鳥ではココしかないとおもいました。川原寺跡の礎石です。この辺りでは一番大きいとおもいます。

 川原寺(かわらでら)は、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に所在した仏教寺院。金堂跡に弘福寺(ぐふくじ)が建てられています。その川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたものと思われますが、正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がありません。そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、「謎の大寺」とも言われています。平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移しますが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまっています。平安時代最末期の建久2年(1191年)の焼失後は歴史の表舞台から姿を消し、発掘された瓦や塼仏(土で作り焼成した仏像)、堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはないようです。(ウイキペディア参照)

写真は橘寺から見た川原寺跡です。非常に大きな礎石跡が見られます。この礎石跡は南大門、中門、廻廊などの旧位置がわかるように整備されています。写真の左側、中金堂跡付近に建つ弘福寺は川原寺の法灯を継ぐ寺院で、重要文化財の木造持国天・多聞天立像(平安時代前期)を安置しています。

 下記に昭和15年発行の「旅の讀本 畝傍と飛鳥」に掲載されている地図の一部を掲載します。堀辰雄も似たような地図を見たものとおもわれます。現在の地図は一番下に掲載しています。

堀辰雄の飛鳥地図(昭和15年発行、一部加筆) -1-


「久米寺」
<久米寺>
 ここからが、堀辰雄が歩いたところになります。「古墳」の書き順に沿って順に廻っています。橿原神宮の直ぐ南側にある久米寺です。順番としては橿原神宮の次に訪ねたところとおもわれます。このお寺は”若い娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説”で有名なお寺です。笑いますね!!

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「… そうです、そのときはまず畝傍山の松林の中を歩きまわり、久米寺に出、それから軽や五条野などの古びた村を過ぎ、小さな池(それが菖蒲池か)のあった丘のうえの林の中を無理に抜けて、その南側の中腹にある古墳のほうへ出たのでしたね。…」

 久米寺は、橿原神宮の南にあり仁和寺(にんなじ)別院の真言宗のお寺です。開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)とも久米仙人とも言われていますが、詳細は不明だそうです。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られ娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が有名です。『和州久米寺流記』には来目皇子の開基を伝える一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙人と結び付けています。創建の正確な事情は不明ですが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力です。境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思われます。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を感得(発見)したとされています。空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には、「来眼精舎」(くめしょうじゃ)として言及されており、空海とも関係があったと思われます。(ウイキペディア参照)

写真は現在の久米寺です。”若い娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説”があるようには見えない静かなお寺です。入口が分り難いので入口の写真を掲載しておきます。

「菖蒲池古墳」
<菖蒲池古墳>
 「古墳」のタイトルになった「菖蒲池古墳」です。大きな古墳かとおもって訪ねたら小さな古墳でした。堀辰雄らしいです。

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「…――古代の遺物である、筋のいい古墳というものを見たのは僕にはそれがはじめてでした。丘の中腹に大きな石で囲った深い横穴があり、無慙にもこわされた入口(いまは金網がはってある……)からのぞいてみると、その奥の方に石棺らしいものが二つ並んで見えていました。その石棺もひどく荒らされていて、奥の方のにはまだ石の蓋がどうやら原形を留めたまま残っていますが、手前にある方は蓋など見るかげもなく毀されていました。
 この古墳のように、夫婦をともに葬ったのか、一つの石廓のなかに二つの石棺を並べてあるのは比較的に珍らしいこと、すっかり荒らされている現在の状態でも分かるように、これらの石棺はかなり精妙に古代の家屋を模してつくられているが、それはずっと後期になって現われた様式であること、それからこの石棺の内部は乾漆になっていたこと、そして一めんに朱で塗られてあったと見え、いまでもまだところどころに朱の色が鮮やかに残っているそうであること、――そういう細かいことまでよく調べて来たものだと君の説明を聞いて僕は感心しながらも、さりげなさそうな顔つきをしてその中をのぞいていました。その玄室の奥ぶかくから漂ってくる一種の湿め湿めとした気とともに、原始人らしい死の観念がそのあたりからいまだに消え失せずにいるようで、僕はだんだん異様な身ぶるいさえ感じ出していました。…
… そうやって君と一しょにはじめて見たその菖蒲池古墳、――そのときはなんだか荒んだ、古墳らしい印象を受けただけのように思っていましたが、だんだん月日が立って何かの折にそれを思い出したりしているうちに、そのいかにもさりげなさそうに一ぺん見たきりの古墳が、どういうものか、僕の心のうちにいつも一つの場所を占めているようになって来ました。…」


 菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は橿原市の南東部、明日香村との境界線付近に位置し藤原京の朱雀大路(すざくおおじ)の南の延長上にある古墳です。横穴式石室を埋葬施設としており、石室部分が国の史跡に指定されています。横穴式石室の中を覗くことができます。中には、非常に優美な家形石棺2基が納められています。明日香村との境に位置し、南の方角には天武・持統(じとう)天皇合葬陵が望めます。墳丘の形状はこれまで不明とされていましたが、2010年(平成22)に行った発掘調査によって一辺約30m、二段築盛の方墳であることが明らかになりました。(橿原市ホームページ参照)

写真は現在の「菖蒲池古墳」 です。右側の小さな祠のような建物が古墳です。中へは入れません。道路から小さな階段を上がって行きます

「橘寺」
<橘寺>
 今回の最後は橘寺です。”古墳”の書き順に沿って紹介しているのですが、それぞれの位置からすると、歩いた跡にはなっていないとおもいます。橘寺は川原寺跡の南側になります。

 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”古墳”からです。
「…――やっとその古墳のそばを離れて、その草ふかい丘をずんずん下りてゆくと、すぐもう麦畑の向うに、橘寺のほうに往くらしい白い道がまぶしいほど日に赫きながら見え出しました。僕たちはそれからしばらく黙りあって、その道を橘寺のほうへ歩いてゆきました。………」
 
 橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。

写真は現在の橘寺です。写真の反対側に川原寺跡があります。お寺の中の写真も掲載しておきます。

 続きます!

堀辰雄の飛鳥地図 -2-


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良を訪問
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在(20日間程)
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都を訪問、奈良も訪ねる
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る