●堀辰雄の奈良を歩く 【大和路編 -1-】
    初版2011年4月2日 
    二版2011年7月31日  <V01L02>  一部の写真を追加、入替え

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。今回は東京から離れて奈良を歩きます。堀辰雄は奈良を複数回訪ねており、今回は堀辰雄の「大和路・信濃路」に沿って歩きました。「大和路・信濃路」は昭和16年10月、12月、昭和18年4月の奈良訪問を書いたものです。




「大和路・信濃路」
<堀辰雄 「大和路・信濃路」>
 堀辰雄は昭和12年(1937)から昭和18年(1943)にかけて計6回奈良を訪ねています。1回目は昭和12年(1937)6月で、京都に滞在して奈良を訪ねています。2回目は昭和14年(1939)5月で神西清と日吉館に滞在しています。昭和16年(1941)10月の訪問時に書いた多恵子夫人宛の手紙が元になって「大和路」の”十月”に、12月に再度奈良を訪ねたときのことが”古墳”に、昭和18年(1943)4月の多恵子夫人との奈良訪問が”浄瑠璃寺の春”になっています。昭和16年(1941)12月の奈良訪問時に神戸経由で倉敷の大原美術館まで足をのばしています(この時のことは「堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年」を参照して下さい)。最後の奈良訪問は昭和18年(1943)5月になります。この時は京都に滞在して奈良を訪ねたようです。
 まずは新潮文庫版「大和路・信濃路」の最後に書かれた丸岡明の解説からです。
「…『大和路・信濃路』も本によって、多少の異同が見られる。この集では、序にあたる『樹下』をのぞき、『信濃路』の一章をなす『斑雪』がはぶかれ、雑誌に発表された当時の順序に従って、大和路と信濃路とを別けることにした。…
… その十六年の秋、大和路へ旅した先々から、多恵子夫人宛てに書き綴った手紙をもとにして、それに加筆したものが『大和路』の『十月』であり、十二月になって又奈良へいった時のものが、『古墳』である。そしてその翌々年の十八年の春、夫人と一緒に、木曾路を通り、伊賀を経て、大和に出た時のものが、『浄瑠璃寺の春』である。…」

 昭和16年(1941)12月は日米開戦で大変な時期だったのですが、全く関係ないようです。「大和路・信濃路」には全く書かれていません。

左上の写真は新潮文庫版「大和路・信濃路」です。上記に書かれているとおり、本によって非掲載や掲載の順番が違うようです。”樹下”が無いのはすこし寂しいようなきがします(全集には”樹下”が入っている)。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「奈良 -西部-」
<岩波写真文庫 「奈良 -西部-」>
 堀辰雄の「大和路」を参照して歩くのですが、もう一つ岩波写真文庫「奈良 -西部-」を参考にしました。この本は昭和28年3月発行で、奈良は空襲を受けていませんので、建物もそのままで、堀辰雄の訪問時と比較的近い時期の発行だとおもいます。又、内容が堀辰雄の「大和路」と近いこともあり、当時の奈良の様子がよくわかります。
 岩波写真文庫「奈良 -西部-」からです。
「天平美術の数々を生んだ奈良の都平城京は、今、そのほとんどが田畠となってしまった。古の都大路、そして権勢を誇った薬師寺をはじめ、唐招提寺、法華寺、西大寺、大安寺などの寺々はどうなったか、古のおもかげを求める人々に、本書は平城京の昔に変る姿をくまなく案内する。…」
 岩波写真文庫「奈良 -西部-」は転害門前の佐保路から始まり、不退寺、海龍王寺、法華寺となります。「大和路」と全く同じ流れです。岩波写真文庫「奈良 -西部-」の方が詳細に寺を訪ねています。

写真は岩波写真文庫「奈良 -西部-」です。岩波写真文庫「奈良 -東部-」と対になっています。この2冊と「いかるがの里」で奈良が全て分かるようになっています。一読(一見)を進めます。

「奈良ホテル 絵はがき」
<奈良ホテル>
 2011年7月31日 写真を追加
 堀辰雄は昭和16年(1941)の奈良訪問時は超一流の奈良ホテルに滞在しています。その前は有名な日吉館に泊っていますので、奈良の旅館事情はよく分かっていたのだとおもいます。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中の”十月”からです。
「一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
 くれがた奈良に着いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭を剃ることにした。…」

 この時の奈良訪問は東京からですから、東京→京都→奈良のルートで乗り継いで来たものとおもいます。東京発 神戸行朝9時の急行に乗れば、京都着16時25分、17時15分発の奈良線に乗換えて奈良着18時14分となります。名古屋から関西本線経由で来ると、奈良18時21分着ですから余り変わりません。”くれがた奈良についた”と書いていますので、この時間帯に到着したものとおもいます。

写真は堀辰雄が多恵子夫人宛に書いた絵はがきです。拡大してみて貰うと分かるのですが、堀辰雄の滞在した部屋に印を付けています(拡大するとよく分かります)。同じ場所から撮影した現在の奈良ホテルの写真と、正面玄関の写真を掲載しておきます。

「転害門」
<転害門(てがいもん) 国宝>
 2011年7月31日 写真を入替え
 堀辰雄は宿泊した奈良ホテルから、京街道(東京極大路)を北に歩きます。「正岡子規の奈良を歩く」で掲載した「対山楼跡(現在は料理店「天平倶楽部」)」を過ぎて転害門まで歩きます。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」からです。
「午後、海竜王寺にて
 天平時代の遺物だという転害門(てがいもん)から、まず歩き出して、法蓮(ほうれん)というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい気もちそうに佐保路(さおじ)に向い出した。
 此処、佐保山のほとりは、その昔、―― ざっと千年もまえには、大伴氏などが多く邸宅を構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくっていたこともあったのだそうだけれど、―― いまは見わたすかぎり茫々(ぼうぼう)とした田圃(たんぼ)で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて歩いていると、背なかが熱くなってきて苦しい位で、僕は小説などをゆっくりと考えているどころではなかった。…」

 転害門については東大寺の境内の西北にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ奈良時代の建物です。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつです(東大寺のホームページ参照)。
 岩波写真文庫「奈良 -東部-」からです。
「轉害門
東京極大路(京街道)に面L,南一條大路(佐保路)の起点 ために古くは佐保路門といった 悪七兵衛景Cがここに隠れたとの話から一名景C門 天平時代の門の唯一の例…」

 悪七兵衛景Cとは平安時代の武士。藤原忠清の子。平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった(ウイキペディア参照)。

写真は現在の転害門です。昔と全く変わっていません(国宝ですから当然ですね!!)。この転害門の正面が佐保路となります。

「法蓮」
<法蓮>
 法蓮とは現在の法蓮町だとおもいます。転害門から佐保路を西に440mで法蓮橋となり、橋から同じく西に360mで法蓮町交差点となります。岩波写真文庫「奈良 -西部-」を見ると、転害門付近の佐保路は家並みがありますが、少し西に歩くと一面畑ばかりとなっています。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」からです。
「…午後、海竜王寺にて
 天平時代の遺物だという転害門(てがいもん)から、まず歩き出して、法蓮(ほうれん)というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい気もちそうに佐保路(さおじ)に向い出した。
 此処、佐保山のほとりは、その昔、―― ざっと千年もまえには、大伴氏などが多く邸宅を構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくっていたこともあったのだそうだけれど、―― いまは見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて歩いていると、背なかが熱くなってきて苦しい位で、僕は小説などをゆっくりと考えているどころではなかった。…」

 上記に”大伴氏などが多く邸宅を構え”とありましたので大伴氏の邸宅を探してみました。千年も前のことですので、正確なとことはわかりませんが、法蓮町交差点から西に350m歩いたところの春日野荘付近ではないかといわれています。興福院への参道の左側になります。奈良時代の佐保路には大伴氏の邸宅の他に藤原氏の邸宅、石上氏の邸宅等があったといわれています。

写真は現在の法蓮町交差点です。佐保路の東側手前から撮影しています。道幅は昔から変わらないようです。上記に書いている”いまは見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っている”ところの昔の写真を掲載しておきます(写真の右側の建物は戦前の県立奈良中学校とおもわれます。現在の春日野荘付近です)。


堀辰雄の奈良地図 -1-



「海龍王寺」
<海龍王寺(かいりゅうおうじ)>
 堀辰雄は大伴氏の邸宅があった法蓮を抜けて法華寺村に向かいます。この付近では法華寺が有名なのですが、どういうわけか隣の海龍王寺に向かいます。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」からです。
「…漸っと法華寺村に著いた。
 村の入口からちょっと右に外れると、そこに海龍王寺という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。
 私はそれからその廃寺の八重葎(やえむぐら)の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。……。…」

 現在の海龍王寺は整備されて綺麗になっていました。当時の海龍王寺の門前は何も無く、若草山まで見えていたようですが、現在の門前は建て込んでいて何も見えません。現在の西金堂の写真も掲載しておきます。
 岩波写真文庫「奈良 -東部-」からです。
「海龍王寺
その位置より隅寺の名がある 天平3年(731)光明皇后が玄ム入唐の際 海上平穏を龍王に所って建立したという 今はひどく荒廃している…」

 何時整備されたかは分かりませんが昭和20年代から30年代はまだ荒廃していたようです。

写真は現在の海龍王寺山門です。綺麗に整備されています。

「歌姫」
<歌姫>
 10月12日、海龍王寺から奈良への帰路、歌姫という小さな村を尋ねています。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」からです。
「…夕方、奈良への帰途
 海竜王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買って、それを皮ごと噛りながら、こんどは佐紀山らしい林のある方に向って歩き出した。「どうもまだまだ駄目だ。それに、どうしてこうおれは中世的に出来上がっているのだろう。いくら天平好みの寺だといったって、こんな小っちゃな寺の、しかもその廃頽した気分に、こんなにうつつを抜かしていたのでは。……こんな事では、いつまで立っても万葉気分にはいれそうにもない。まあ、せいぜい何処やらにまだ万葉の香りのうっすらと残っている伊勢物語風なものぐらいしか考えられまい。もっと思いきりうぶな、いきいきとした生活気分を求めなくっては。……」そんなことを僕は柿を噛り噛り反省もした。
 僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。歌姫という美しい字名だ。こんな村の名にしてはどうもすこし、とおもうような村にも見えたが、ちょっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。大きな門構えのなかに、中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も家畜小屋も果樹もならんでいる。そしてその日あたりのいい、明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながらのんびりと働いている光景が、ちょっとピサロの絵にでもありそうな構図で、なんとなく仏蘭西あたりの農家のような感じだ。…」

 海龍王寺から奈良への帰路で歌姫となると、方向的には反対になります。奈良ホテルまで歩いて戻るのはたいへんなので、近くの駅に向かったのかもしれません。

写真は現在の歌姫町です。写真のとおり町並みは昔と変わっていないようです。”大きな門構えのなかに、中庭が広くとってあって”と書かれていますが、今も全く同じ門構えでした。

 堀辰雄は転害門から佐保路を法華寺町まで歩いていますが、此路を歩くと、一般的には、奈良ホテル→(1.5km)→転害門→(480m)→聖武天皇陵→(700+300m)→幸福院→(860+300m)→不退寺→(700m)→海龍王寺→(400m)→法華寺と見ていきます(岩波写真文庫「奈良 -西部-」他、+300mは佐保路から門前までの距離)。何故、堀辰雄は法華寺等を書かなかったのでしょうか!!

 続きます!

堀辰雄の奈良地図 -2-


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良を訪問
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在、
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都を訪問、奈良も訪ねる
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る