<堀辰雄 「大和路・信濃路」>
堀辰雄は昭和12年(1937)から昭和18年(1943)にかけて計6回奈良を訪ねています。1回目は昭和12年(1937)6月で、京都に滞在して奈良を訪ねています。2回目は昭和14年(1939)5月で神西清と日吉館に滞在しています。昭和16年(1941)10月の訪問時に書いた多恵子夫人宛の手紙が元になって「大和路」の”十月”に、12月に再度奈良を訪ねたときのことが”古墳”に、昭和18年(1943)4月の多恵子夫人との奈良訪問が”浄瑠璃寺の春”になっています。昭和16年(1941)12月の奈良訪問時に神戸経由で倉敷の大原美術館まで足をのばしています(この時のことは「堀辰雄の神戸を歩く 昭和16年」を参照して下さい)。最後の奈良訪問は昭和18年(1943)5月になります。この時は京都に滞在して奈良を訪ねたようです。
まずは新潮文庫版「大和路・信濃路」の最後に書かれた丸岡明の解説からです。
「…『大和路・信濃路』も本によって、多少の異同が見られる。この集では、序にあたる『樹下』をのぞき、『信濃路』の一章をなす『斑雪』がはぶかれ、雑誌に発表された当時の順序に従って、大和路と信濃路とを別けることにした。…
… その十六年の秋、大和路へ旅した先々から、多恵子夫人宛てに書き綴った手紙をもとにして、それに加筆したものが『大和路』の『十月』であり、十二月になって又奈良へいった時のものが、『古墳』である。そしてその翌々年の十八年の春、夫人と一緒に、木曾路を通り、伊賀を経て、大和に出た時のものが、『浄瑠璃寺の春』である。…」
昭和16年(1941)12月は日米開戦で大変な時期だったのですが、全く関係ないようです。「大和路・信濃路」には全く書かれていません。
★左上の写真は新潮文庫版「大和路・信濃路」です。上記に書かれているとおり、本によって非掲載や掲載の順番が違うようです。”樹下”が無いのはすこし寂しいようなきがします(全集には”樹下”が入っている)。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)