●村上春樹の「1973年のピンボール」を歩く  芦屋編
    初版2009年10月25日  <V01L02>

今週は「村上春樹の『1973年のピンボール』を歩く 芦屋編」を掲載します。『1973年のピンボール ICU編』は掲載済みですので合わせて見ていただければとおもいます。鼠と鼠の彼女とジェイズバーが度々登場する『1973年のピンボール』ですが、選定場所は前作と同じく芦屋市です。少し芦屋を歩いてみました。 「ジェイズバー」については、「ジェイズバーを歩く」を参照してください。


「鼠のマンション」
<鼠のマンション>
 先ずは鼠の住まいですが、前作(「風の歌を聴け」)では鼠の実家が登場しています。”鼠は三階建ての家に住んでおり、屋上には温室までついている。”と書かれています。『1973年のピンボール』では、鼠は自宅から出て父親が所有していたマンションが住まいとなります。前作は1970年8月が舞台ですから、3年が経過しています。
「…鼠は大学に入った年に家を出て、父親が一時書斎がありに使っていたマンションの一室に移った。両親も反対はしなかった。ゆくゆくは息子に与えるつもりで買ったわけだし、
当分一人暮しで苦労してみるのも悪くはあるまいと思ったわけだ。
 もっともそれは誰がどう眺めまわしても苦労といった類いのものではなかった。メロンが野菜に見えないのと同じことだ。部屋は実にゆったりと設計された2DKで、エアコンと電話、17インチのカラー・テレビ、シャワー付きのバス、トライアンフの収まった地下の駐車場、おまけに日光浴には理想的な洒落たベラソダまでが付いていた。南東の隅にある最上階の窓からは街と海が一望に見下ろせる。両側の窓を開け放つと、豊かな樹々の香りと野鳥のさえずりを風が運んだ。…」

 大森一樹監督で映画化された「風の歌を聴け」 でも鼠のマンションが登場しています。「1973年のピンボール」が書かれた1980年頃は”エアコンと電話、17インチのカラー・テレビ、シャワー付きのバス”が独身男性から見て夢だったとおもいます。

左上の写真は大森一樹監督で映画化された「風の歌を聴け」で登場した鼠のマンションです。このマンションは1980年前後に建てられ、阪神大震災で全損し、その後の1997年に建て直されています。「1973年のピンボール」が書かれた1979年には既にありました。建物も当時と変わっていないようで、村上春樹がイメージしたマンションのようです。

「西宮今津灯台」
<無人灯台>
 鼠が訪ねる場所として次に登場するのは無人灯台です。芦屋付近で1980年代まで残っていた灯台は西宮にある今津灯台のみです。ただ芦屋からは少し離れるのが気になります。
「…無人灯台は何度も折れ曲がった長い突堤の先にぽつんと立っていた。高さは三メートルばかり、さして大きなものではない。…
…左手の遠くには巨大な港があった。何本ものクレーン、浮ドック、箱のような倉庫、貨物船、高層ビル、そういったものが見渡亘る。右手には内側に向って湾曲した海岸線に沿って、静かな住宅街やヨット・ハーバー、酒造会社の古い倉庫が続き、それが一区切りついたあたりからは工業地帯の球形のタンクや高い煙突が並び、その白い煙がぼんやりと空を被っていた。そしてそれが十歳の鼠にとっての世界の果てでもあった。…」

 少し調べたところ、芦屋の浜にも一時期、灯台が建てられていたようです。ただ、昔からの灯台としてはこの今津灯台のみのようです。

写真が西宮にある今津灯台です。昔はこの灯台までが陸地で、この先は大阪湾だったのですが、写真のように今津灯台の先の海が埋め立てられたのは平成になってからです。上記に書かれている"ヨットハーバー"や”酒造会社の古い倉庫”等は残っています。

「芦屋市霊園入口」
<霊園>
 鼠(村上春樹本人か!)がよくデートしていた場所が霊園です。普通ではちょっと奇異な感じですが、村上春樹がイメージしていた霊園の場所を知ると納得します。
「…霊園は山頂に近いゆったりとした台地を利用して広がっている。細かい砂利を敷きつめた歩道が縦横に墓の間をめぐり、刈りこまれたつつじが草をはむ羊のような姿でところどころにちらぼっていた。そしてその広大な敷地を見下してぜんまいのように曲った背の高い水銀灯が何本も立ち並び、不自然なほど白い光を隅々にまで投げかけていた。…」
 芦屋市では市営の霊園が六甲山系の中腹にあります。先程説明した鼠のマンションのすぐ横になります。櫻の綺麗な場所でもあり、日中はデイト場所としてなかなかよい場所です。特に眺めが良く、天気のよい日は大阪湾から紀州、淡路島まで見えます。高級住宅街の近くで、安全であり、人出も殆どありませんので、デートとしては最適です。

写真は芦屋市霊園入り口です。JR「芦屋駅」、阪神「芦屋駅」、阪急「芦屋川駅」よりバスで約20分「霊園前」下車です。歩くとずっと上り坂で40分以上かかるとおもいます。近くに芦屋神社などもあり、日中の温かいときに散歩に来られるのがよいとおもいます。


村上春樹の西宮地図


村上春樹年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和39年 1964 東京オリンピョク 15 4月 兵庫県立神戸高校入学
昭和43年 1968 エンタープライズ寄港阻止衝突
パリ5月革命
19 4月 一浪して早稲田大学第一文学部演劇科入学
昭和44年 1969 東大安田講堂封鎖解除 20 春、三鷹のアパートに転居
昭和45年 1970 三島由紀夫割腹自殺
よど号事件
21 アルバイトに精を出す
昭和46年 1971 ニクソンショック 22 陽子夫人と学生結婚
10月 文京区千石の夫人の実家に転居
昭和49年 1974 長島茂雄引退 25 ジャズ喫茶「ビーター・キャット」を国分寺に開店
昭和52年 1977 巨人優勝 28 ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 4月 神宮球場で「僕は小説を書けると悟った」
11月 第22回群像新人文学賞に応募
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「jazzLife」6月号臨時増刊
「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)
11月 野間文芸新人賞(発表)(『群像』1983/1月号)



「川沿いの坂道」
川沿いの坂道>
 この場所も大森一樹監督で映画化された「風の歌を聴け」で登場した所です。フィアットがユーターンする場面で使われています。大森一樹監督は初期の三部作を合わせて神戸の町(芦屋も含む)を撮影したとおもいます。
「…まだ車には乗れない高校生のころ、鼠は250ccのバイクの背中に女の子を乗せ、川沿いの坂道を何度も往復したものだ。そしていつも同じ街の灯を眺めながら彼女たちを抱いた。様々な香りが鼠の鼻先を緩やかに漂い、そして消えていった。様々な夢があり、様々な京しみがあり、様々な約束があった。結局はみんな消えてしまった。…」
 芦屋市で”川沿いの坂道”と書くと、この場所しか有りません。250ccのバイクで走るには丁度よい道です。

左の写真が芦屋川の傍を走る”川沿いの坂道”です。この道を登って少し先で右に曲がると、鼠のマンションになります。下記の地図を参照してください。

「女のアパート」
<女のアパート(推定)>
 最後が鼠の女のアパートです。1970年の頃の芦屋と現在の芦屋では、海辺の景色がすっかり変わっています。海が埋め立てられたのは、1969年(昭和44年)から1975年(昭和50年)にかけてです。ですから、この小説の1973年(昭和48年)は芦屋浜の埋立の真っ最中だった訳です。
「…階段を上り外に出ると、冷ややかな秋の匂いがした。街路樹のひとつひとつを拳で軽く叩きながら鼠は駐車場まで歩き、パーキング・メーターを意味もなくじっと眺めてから車に乗り込んだ。少し迷ってから車を海に向けて走らせ、女のアパートが見える海岸沿いの道路に車を停めた。アパートの半分ばかりの窓にはまだ灯りがともっていた。幾つかのカーテン越しには人影も見える。
 女の部屋は暗かった。ベッドサイドのランプも消えている。もう眠ったのだろう。ひどく寂しかった。…」

 女のアパートは海岸沿いの道から見えたわけなのですが、1973年には埋立てで海岸沿いの道は変わっていたとおもわれます。下記の地図で埋立て前の海岸線を書いておきます。

左上の写真が芦屋浜の昔の海岸線です。中央やや右に防波堤が伸びています。この防波堤の右側が海だったわけです。道路はこの防波堤の左側にあったものとおもわれます。この左側に女のアパートがあったはずなのですが、当時の地図見てみると、ホテル芦屋清風荘がありました。この清風荘をイメージしたものと推定しています(清風荘は昔からありました)。


村上春樹の芦屋地図