●村上春樹の「羊をめぐる冒険」を歩く -東京編-
   初版2007年7月7日 <V01L06> 
 しばらく村上春樹を特集しておりませんのでしたので「富永太郎」を特集する前に、初期三部作の最終「羊をめぐる冒険」を歩いてみました。東京、北海道と二回に分けて掲載します。今週は上編を中心とした東京編です。

「羊をめぐる冒険」
<「羊をめぐる冒険」(文庫本)>
 村上春樹シリーズの初期三部作の最後になる「羊をめぐる冒険」を歩きます(今週は上編を中心として歩きます)。このころの村上春樹は千駄ヶ谷のピーターキャットを止め、習志野の一軒家で小説を書き続けていました。この本が書かれたのが昭和57年、「風の歌を聴け」から三年経っていました。ようやく小説家として一人立ちしてきたころだとおもいます。この頃の雑誌の取材記事が一番面白いです。
「 第一章 1970/11/25     水曜の午後のピクニック
 新聞で偶然彼女の死を知った友人が電話で僕にそれを教書くれた。彼は電話口で朝刊の一段記事をゆっくりと読み上げた。平凡な記事だ。大学を出たばかりの駆けだしの記者が練習のために書かされたような文章だった。何月何日、どこかの街角で、誰かの運転するトラックが誰かを轢いた。誰かは業務上過失致死の疑いで取り調べ中。雑誌の扉に載っている短かい詩のようにも聞こえる。「葬式はどこでやるんだろう?」と僕は訊ねてみた。「さあ、わからないな」と彼は言った。「だいいち、あの子に家なんてあったのかな?」  もちろん彼女にも家はあった。…」
。「羊をめぐる冒険」の書き出しです。1970年11月から始まり、1978年7月から冬にかけての話になります。「風の歌を聴け」が1970年の8月8日から26日までの物語で、「1973年のピンボール」はタイトル通り、1969年から1973年の物語となっています(殆ど1973年の話ですが)。それぞれの小説は新しいタイトルで書かれていますが、共通点を持ち経過を説明しながら書かれています。文学論を書くつもりはないのですが共通点は”鼠”ですね。鼠から読み解いていくと面白いです。

左上の写真が講談社版文庫の「羊をめぐる冒険」です。私の文庫本は47版ですが現在はどのくらいの版数になっているのでしょうか。よく売れているようです。

「緬羊」
<緬羊>
 「羊をめぐる冒険」はタイトル通り「羊」のお話です。本文の中にも村上春樹流に北海道十二滝町(小説の中の町名です)の羊について詳細な説明をしています(北海道編は次回です)。「…明治三十五年には村のすぐ近くにある台地が牧草地として適していることがわかり、そこに村営の緬羊牧場が作られた。道庁から役人がやってきて、柵の作り方や水の引き方、牧舎の建築どを指導した。次いで川沿いの道が凶人工夫によって整備され、やがて政府からただ同然の値段で払い下げられた羊の群れがその道を辿ってやってきた。…… 牧場に来たのはサウスダウン羊三十六頭とシュロップシャー羊二十一頭、それにボーダー・コリー犬が二匹だった。アイヌ青年はすぐに有能な羊飼いとなり、羊と犬は毎年増えつづけた。彼は羊と犬を心から愛するようになった。役人は満足した。仔犬たちは優良牧羊犬として各地の牧場に引き取られていった。…」。物語ですがかなり詳しく書かれていましたので、何処かで調べたのだとおもわれます。何処かの本に札幌市立中央図書館を訪ねたと書いてありましたのでこの図書館で調べられたとおもいます。私も札幌市立中央図書館を訪ねて少し調べて見ました。次回の「北海道編」で書く予定の「美深町」を少しここで掲載します。「…本町に緬羊が導入されたのは大正末期であって、昭和2年(1927)6月発行の『北海道市町村総覧』によると、美深町の緬羊3頭と記載されている。また、上川支庁の統計には昭和2年12月末2頭、同5年1頭、10年1戸3頭という記録がある。本町で緬羊が本格的に飼育されるようになったのは昭和11年からであり、戦時中は衣料品の自給自足を目的に緬羊を飼うようになった。当時,智恵文村の緬羊飼育熱は盛んで,その影響もあって、昭和15年8月18日美深競馬場において、中川郡一円の緬羊品評会が開催された。17年2月1日の統計によると、133戸193頭とあり,この年は緬羊種付所を設置して、牝羊の大量移入(コリデール種)を図り、翌18年には277戸447頭に増加している。戦争の激化によって羊毛の供出割当もおこなわれるようになり,昭和20年(1945)は目標の115%を出荷したが、終戦によってこの羊毛は供出農家に返還されたという記録がある。さらに,戦後の衣料危機は緬羊飼育熱を高め、各家庭でも「尼ぶみ」の紡毛機で毛糸をつむぐ姿が随所で見られた。ホームスパンや毛糸の委託加工が盛んになり、23年旭川に「北紡」が操業開始、美深町授産場でも26年から紡毛機を導入、羊毛の委託加工を始めた。こうした情勢の中で、統計上では昭和29年(1954)の飼育戸数890戸、2,011頭を頂点として、その後は年々減少の一途をたどった。衣料不足を補うため、毛取りを目的に飼っていた緬羊も、合成繊維の進歩と貿易の自由化、経済の高度成長によって自家製の毛糸は利用されなくなり、昭和30年頃から綿羊は食肉用にと移行した。ジンギスカソ鍋が盛んになったのもこの頃からである。近年、経済性の低い緬羊の飼育数は極めて少ない。」。美深町史(昭和46年度版)からの抜粋です。時期的にも少しずれています。北海道で緬羊が飼育されたのは明治10年のようです。「羊をめぐる冒険」はフイクションですからどのように書いてもいいのですが、いかに真実らしく書くのかがポイントですので、よく調べて書かれているとおもいます。

左上の写真が北海道の緬羊です。札幌市豊平区羊ヶ岡展望台近くで撮影しました。

【村上春樹(むらかみはるき)本名】
1949(昭和24)年、京都府生れ。直ぐに神戸に転居、小、中、高校時代を芦屋、神戸で過ごす。一浪して早稲田大学文学部入学。1971年陽子婦人と学生結婚。1974年、国分寺にジャズ喫茶「ピーターキャット」をオープン、千駄ヶ谷にお店を移し小説を書き始める。’1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき烏クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』など訳書も多数。(新潮文庫を参照)



村上春樹の1070年代初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和44年 1969 東大安田講堂封鎖解除 20 春、三鷹のアパートに転居
昭和45年 1970 三島由紀夫割腹自殺
よど号事件
21 アルバイトに精を出す
昭和46年 1971 ニクソンショック 22 陽子夫人と学生結婚
10月 文京区千石の夫人の実家に転居



村上春樹の初期三部作年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の初期三部作
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981   32 10月 北海道を訪ねる(『すばる』1982/1)
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 7月 「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)
11月 野間文芸新人賞(発表)(『群像』1983/1月号)
昭和60年 1985 石川達三死去
夏目雅子死去
36 6月 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」 (新潮社)
8月 谷崎潤一郎賞(発表)(『中央公論』11月号)
昭和62年 1987 国鉄分割民営化 38 9月 「ノルウェーの森」 (講談社)
昭和63年 1988 ソウル五輪開催
リクルート事件
39 10月 「ダンス・ダンス・ダンス」 (講談社)


「早稲田駅」
都電早稲田駅>
 「羊をめぐる冒険」の書き出しは1970年から始まり、昔の彼女の交通事故死から始まります。彼は彼女のお葬式に向かいます。「…彼女の家は下町にあった。僕は東京都の区分地図を開き、彼女の家の番地に赤いボールペンでしるしをつけた。それはいかにも東京の下町的な町だった。地下鉄やら国電やら路線バスやらがバランスを失った蜘妹の糸のように入り乱れ、重なりあい、何本かのどぶ川が流れ、ごてごてした通りがメロンのしわみたいに地表にしがみついていた。 葬儀の日、僕は早稲田から都電に乗った。終点近くの駅で降りて区分地図を広げてみたが、地図は地球儀と同じ程度にしか役に立たなかった。おかげで彼女の家に辿りつくまでに幾つも煙草を買い、何度も道を訊ねねばならなかった。彼女の家は茶色い棟塀に囲まれた古い木造住宅だった。門をくぐると、左手には何かの役には立つかもしれないといった程度の狭い庭があった。庭の隅には使いみちのなくなった古い陶製の火鉢が放り出され、火鉢の中には十五センチも雨水がたまっていた。庭の土は黒く、じっとりと湿っていた。…」。「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」と比べると直接的な地名の掲載が少なくなっています。ここで書かれている地名も”早稲田から都電に乗って”位です。この早稲田駅は「ノルウエーの森」でも登場し、大塚辺りに向かいます。”終点近くの駅”と書かれていますが多分「ノルウエーの森」と同じ場所をイメージしているのだとおもいます。この場所は大塚からは少し離れますが奥様の実家がある「千石」辺りではないかとおもいました。空襲にも焼け残った地域です。

左上の写真が都電、早稲田駅です。この駅の右側に向かって少し歩くと村上春樹が下宿していた「和敬塾」です。左に行くと早稲田大学になります。

「モズ跡」
ジャズ喫茶モズ跡>
 交通事故で亡くなった彼女に始めてあったのが早稲田大学近くのハードロックの聴ける喫茶店でした。「…僕がはじめて彼女に会ったのは一九六九年の秋、僕は二十歳で彼女は十七歳だった。大学の近くに小さな喫茶店があって、僕はそこでよく友だちと待ちあわせた。たいした店ではないけれど、そこに行けばハードロックを聴きながらとぴっきり不味いコーヒーを飲むことができた。 彼女はいつも同じ席に座り、テ−ブルに肘をついて本を読み耽っていた。歯列矯正器のような眼鏡をかけて骨ばった手をしていたが、彼女にはどことなく親しめるところがあった。彼女のコーヒーはいつも冷めて、灰皿はいつも吸殻でいっぱいになっていた。本の題名だけが違っていた。ある時にはそれはミッキー・スピレインであり、ある時には大江健三郎であり、ある時には「ギンズハーグ詩集」であった。…」。ミッキー・スピレインは分かりませんが大江健三郎はよく分かります。

右上の写真の正面、少し低い屋根の建物が「ジャズ喫茶モズ跡」です(西早稲田一丁目4番地、早稲田通)。「スメルジャコフ 対 織田信長家臣団」を参照すると、「…早稲田の「モズ」ってまだあったんだ。僕が学生をしているときにもあったんだけど、同じ店なのかな。たぶんそうですよね。もう30年も前のことなんだけど。…」、と書かれています。ハードロックが聴ける喫茶店が「モズ」なのかは確証はありませんが、村上春樹が早稲田近くのジャズ喫茶店を語っているのはこの「モズ」のみでしたので、推定とさせていただきます。モズは現在、西早稲田二丁目15番地に移転しています(近頃、訪ねてないのでよく分かりません)。

「ICU本館」
ICU>
 村上春樹の初期の作品にはICU(国際基督教大学、東京都三鷹市)が度々登場します。「…その年の秋から翌年の春にかけて、過に一度、火曜日の夜に彼女は三鷹のはずれにある僕のアパートを訪れるようになった。彼女は僕の作る簡単な夕食を食べ、灰皿をいっぱいにし、FENのロック番組を大音量で聴きながらセックスをした。水曜の朝に目覚めると雑木林を散歩しながらICUのキャンパスまで歩き、食堂に寄って昼食を食べた。そして午後にはラウンジで薄いコーヒーを飲み、天気が良ければキャンパスの芝生に渡転んで空を見上げた。 水曜日のピクニック、と彼女は呼んだ。「ここに来るたびに、本当のピクニックに来たような気がするのよ」「本当のピクニック?」 「うん、広々として、どこまでも芝生が続いていて、人々は幸せそうに見えて…」 彼女は芝生の上に腰を下ろし、何本もマッチを無駄にしながら煙草に火を点けた。「太陽が上って、そして沈んで、人がやってきて、そして去って、空気みたいに時間が流れていくの。なんだかピクニックみたいじゃない?」…」。神戸高校で一緒だったガールフレンドのKさんは村上春樹よりも一年早くICUに入学しています。Kさんの関係、村上春樹の三鷹での住居、KさんのICUでの住いは……‥

左上の写真がICU本館です。学園祭の時の写真です。

「ICU食堂」
ICUの食堂>
 どういう訳か、ここで三島由紀夫が登場してきます。「…我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆んど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドッグを食べてしまうと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。一人の学生が椅子に乗ってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。「君が欲しいな」と僕は言った。「いいわよ」と彼女は言って微笑んだ。…」。三島由紀夫事件は1970年11月25日です。村上春樹の年表を見ると、三鷹市のICU近くに下宿していたときです。”午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が”と書かれていますので相当インパクトがあって記憶していたのだとおもいます。

右上の写真はICUの食堂です。この食堂の中にTVがあるかとおもったのですが、隣のラウンジの所にTVがおかれていました。村上春樹がみたTVとは時代が違っていますね。

この後、主人公(春樹自信か!)は神戸に戻ってジエイズバーを訪ねています。ジエイズバーについては、「風の歌を聴け」の中で解説していますのでそちらのホームページを見てください。次回は下編を中心に北海道を歩きます。

現在のICU地図