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最終更新日:2006年4月22日

江戸五色不動とは、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のことで、寛永年間(1624〜43)の中頃、徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝えられています。


<目黒不動 (泰叡山瀧泉寺 目黒区下目黒3-20-26)>

東急目蒲線不動前から歩くのですが、かなり距離があります。お寺の開基は、天台座主第三祖・慈覚大師円仁で、大同三年(808)大師がまだ十五歳の時、師の広智阿閣梨に伴われて比叡山へ登る途中、目黒の地に立寄り、その夜に不動明王の霊夢を感じ、自らその専像を彫刻して安置したのに始まります。その後再び目黒の地に下り、堂宇の建設に着手したとされています。天安二年(八五八)大師は伽藍の造営に当たり自ら筆を執り、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と堂宇の棟札にしたためました。この「瀧泉」を以って寺号を「瀧泉寺」と名づけ、不動専像を奉安しています。家光公の帰依を受け、寛永七年(1630)上野護国院の開祖・生順大僧正が当寺を兼董するに当たり、堂宇の再建に着手され、五〇余棟の大伽藍の復興が成りました。家光の不動尊に対する信仰は儀く、その伽藍は「目黒御穀」と杯されるほど華麗を極めました。歴代将軍も家光の志を准ぎ、また江戸の庶民もその風に倣い多く訪れた。不動信仰は益々江戸時代を通じて隆盛を極め、参詣客は常に絶えず、門前は市をなし、文人なども多く、江戸随一の名所となりました。



<目青不動(天台宗 最勝寺 教学院 世田谷区太子4-15-1)>

 創建は応長元年(1311)で、江戸城内の紅葉山の位置にあったそうです。その後、太田道潅の江戸城築城により麹町貝塚に移され、次に赤坂三分坂に移されました。開基は法印・玄応大和尚(1615年没)である。慶長九年(1604)に青山南町にある三千坪以上の土地を拝領し、みたび移転。五世・岸能(中興関山)の代、寛永九年(1632)に移転を完了し、この時に寺門を構えました。当初は赤坂日枝神社別当寺である山王城琳寺の末寺でしたが、小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となるに及び、東叡山寛永寺末となりました。以後当院は相州小田麻大久保氏の菩提を弔う習いとなりました。
<閣魔堂と双盤念仏>
同心が百人も住む青山南町は百人町とも言われ、このうち三十七名が当院の檀家でしたが、残りの六十三名も信者となって共に念仏講を結んだようです。講の維持にと、一人三合宛の米を奉納していたので、「三合山」との山号でも呼ばれ親しまれました。この三合の仏米拠出により閣魔堂が建立され、この堂内で念仏講が集まって、双盤念仏が盛んに行われました。
<明治期の変遷>
 明治八年七月には、境内地100坪分さいて「幼童学校」を創立しました。これが青山南町小学校の前身です。 同十五年には、港区旧麻布谷町(今井三谷町・谷町榎木坂)にあった観行寺が廃寺となり当院に併合されました。もともと当院の目青不動尊は、この際に観行寺の本尊が達し奉られたものです。観行寺は「随縁山教解院」と号していましたが、また「三谷山源理院正善寺」であったとも伝えられています。永萬元年(1165)に源三位頼政の命により天台僧・義周が創建したものです。この遷座された日青不動尊は、念仏講によって建てられた閣魔堂に奉安され、以後は不動堂と称されるようになりました。更に同四十二年には、太政官布達により世田谷の現在地に四度目の移転。完了には三年間を要しました。本寺は慶長九年 (1604)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられたといわれています。本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられています。境内には相州小田原城主大久保家歴代の墓等があります。


<目白不動 (真言宗 金乗院[こんじょういん] 豊島区高田2-12-39)>

「弘法大師が、羽州(出羽国)湯殿山に篭ったときに、大日如来忽然とと不動明王の姿に変わり滝の下に現れ、汝に無漏(悟りが開け迷いや欲望がなくなる)の上火を与うべしと持てる剣で左の肘を切り給えば霊火盛んに燃え出たそうです。大師はそのすさまじい不動明王の姿を刻んだといわれています。後年、野州(上野国)足利住の憎この地の住人松村某とはかり、一字を開き右の不動明王(断腎不動明王)を移し本尊としました」(『江戸名所図会』)。
 元和四年(1618)大和の長谷寺の四世秀算が再興したので新長谷寺と称したそうです。三代将軍家光の信仰厚く、鷹狩の途中に拝して、城南の目黒に村して目白と呼ぶべしといい、これから目白不動、このあたりを目白と呼ぶようになりました。五色不動の一つとして有名。また、観音霊場としても名が高かったようです。目白台の崖の上にあリ、下は大洗堰の流れ日夜絶えず 早稲田たんぼを越えて高田の森を望む絶景の地でした。境内に茶屋や料理屋などもあったようです。江戸時代から繁栄し「…・おしあひてまゐりのつどふ寺なればめじろ不動と名づけそめけん」 (『江所名所記』) とあります。
 時の鐘 「寺門の傍に鐘楼あり、昼夜時を報ず、目白の鐘と称す、上野、浅草と美名を斉うす、楼下に番人家居す、世話人ありてこれを司どれるなり。鐘の響く所、毎月鐘銭を集む」(『新撰東京名所図会』) とある。戦災で焼けて廃寺となり、不動尊と門前の不動石像は金乗院)に移されました。跡地は現在住友生命関口寮となっています。その名を留めるものは目白板だけです。
音羽と駒込源平の目玉なり(古川柳) 注・目白と日赤を源平の白旗赤旗にかけています。


<日赤不動 (天台宗 南谷寺[なんこくじ] 本駒込1-20-20)>

元和年間(1615〜24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像(黄金一寸二分)を授けられたという。衆生を救うため像を護持して諸国を巡り、駒込村の動坂に庵を設けました。そして、不動尊を造り、授かった像を胸中におさめて赤目不動としたそうです。寛永のころ、三代家光将軍が鷹狩の途中立寄り、赤目不動を目黒・目白に対して日赤不動と呼ぶべしと命あり、寺地を現在地に賜っています。
<動 坂(不動坂・堂坂)>
本駒込四丁目と千駄木木四丁目の間「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。」 (『江戸名所図会』)「動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動の像在り、是目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを 上略せるなりといふ、」 (『御府内備考』)坂上の北側に、もと日限地蔵堂があった。ここは目赤不動尊の旧跡といわれています。

1.<目黄不動 (永久寺 台東区三ノ輪2−14−16)>

営団日比谷線の三ノ輪の駅を降りると(地下鉄なので上に上がるのですが)10m位の近さです。永久寺は通称、目黄不動といわれていますが、正しくは養光山永久寺で天台宗に属し、開基は古く鎌倉時代末期といわれています。お寺自体はさびれた感じで、もう少しなんとかならないかと思います。せっかくの目黄不動なのに残念です。遠くから見に来るような、お寺ではないので、ついでに来るようにしましょう。都電荒川線の終点が三ノ輪なのでこのついでが一番いいのではないでしょうか。


2.<最勝寺(さいしょうじ 江戸川区平井1−25−32)>


天台宗に属し、牛宝山明王院と号して、大正2年(1913)本所(墨田区)表町から現在地に移転しています。開山は貞観2年(860)で、慈覚太師の建立である。本堂の不動尊は、もと本所表町にあった東栄寺の本尊で、明治初期に東栄寺から同町内の最勝寺に移され、大正2年(1913)に最勝寺とともに現在地に移転、名僧良弁の作といわれる不動尊が安置されています。


3.<龍岩寺(渋谷区 旧原宿78番地)>

古碧山と称します。禅宗臨済派にして南禅寺の末寺です。
昭和5年12月発行の千駄ヶ谷町誌によると目黄不動と書かれています。
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