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最終更新日:2006年4月22日

江戸五色不動とは、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のことで、寛永年間(1624〜43)の中頃、徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝えられています。

■「江戸五色不動」(「府内五色不動」とも呼びます)■

 江戸五色不動とは、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のことで、寛永年間(1624〜43)の中頃、徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝えられています。

平直方の『夏山雑談』(寛保元年)によれば、江戸城鎮護のために不動明王像を造立し、王城鎮護の四神にならい江戸城の四方に配置したのが目黒・目白・日赤・目青の四不動であろうとしています。
 これを後になって徳川将軍家光が、四不動に目黄不動尊を加えた五つの不動尊を「五眼不動」としてまとめあげたそうです。即ちこの五色とは[目」にあるのではなく、東西南北中央の五方角を色で示したものなのです。

 不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来が悪を断じ、衆生を教化するため、外には憤怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現われたとされています。また、宇宙のすべての現象は、地、水、火、風、空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれます。不動尊信仰は密教が盛んになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、平安時代すでに存在したといわれています。

  1. 目黒不動は天台宗滝泉寺(ロウセンジ)(目黒区下目黒3丁目)。
  2. 目白不動は真言宗豊山派金乗院(豊島区高田2丁目)。もと新長谷寺(文京区関口2丁目)にありましたが戦災で廃寺になったために金乗院に移転。
  3. 目青不動は天台宗数学院(世田谷区太子堂4丁目)。もとは港区麻布谷町(現:六本木)の勧行寺(または正善寺)にありましたが1882(明治15年)青山南町にあった数学院に移転。数学院は1910(明治43年)三軒茶屋に移転。
  4. 目赤不動は天台宗南谷寺(文京区本駒込1丁目)。三重県赤目山で授かった赤目不動が本尊ですが、家光の命で改名。
  5. 目黄不動は天台宗永久寺(台東区三輪2丁目)。

◎天台宗最勝寺(江戸川区平井1丁目)、龍厳寺(渋谷区)の両寺を目黄不動として江戸五色不動に含めることもあります。最勝寺は墨田区東駒形にありましたが、大正時代に現在地に移転。(詳細は各不動尊を参照してください)
一般的(各区の教育委員会等が出版している書物)には目黄不動は三ノ輪の永久寺となっている場合いが多いのですが、関東三十六不動霊場ガイドブックでは最勝寺となっています。(もちろん地元の教育委員会は自分のところを目黄不動としています)

<参考図書>
文京のあゆみ:文京区教育委員会
ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
下谷・浅草 史跡をたずねて:台東区役所企画部広報課
江戸川区の文化財:江戸川区教育委員会
関東三十六不動霊場ガイドブック;関東三十六不動霊場会


五色は東西南北中央の五方角を表しているといわれていますが、下記の地図を見てもらうと、全然方向はあっていません。特に現在の不動尊は移っており、以前の場所で考えてもうまくいきません。お城を中心にして考えてみると、目黒不動の位置だけが離れています。どうしてでしょうか? 何方か教えて下さい。

●「目黒不動散歩」
●「目青不動散歩」

●「目白不動散歩」
●「目赤不動散歩」
●「目黄不動散歩」

地図のそれぞれの場所をクリックしてください。紹介ページにリンクします。

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