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最終更新日:2006年3月26日

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●「斜陽日記」を巡る(上) 初版2002年6月8日 V01L02
 今週は太宰治の「桜桃忌」が近づいてきましたので、「斜陽」の元になった太田静子の「斜陽日記」を巡ってみたいと思います(両者を読むとあまりにそっくりなのでビックリします)。太田静子が初めて太宰にあったのは昭和16年9月で友人と3人で三鷹の太宰を訪ねています。その時のことを野原一夫の「回想 太宰治」では「その年の九月のなかば、静子さんは三鷹に太宰を訪ねた。…太宰は外出していて、三人は外の道ばたに立って帰りを待った。そのとき友人のひとりが、「あなたは太宰さんにお会いすると、なにか起るのではないかしら。ただではすまないような気がする。」と言った。静子さんはさして気にもとめなかった。やがて和服姿の太宰が煙草を吸いながら足早に帰ってきた。……そして静子さんに、満里子ちゃんのことでも、またほかのどんなことでも、日記に書いておきなさい、楽な気持で、飾らず、素直に、と言った。太宰は三人を送ってきてくれた。井の頭公園を散策し、吉祥寺駅の近くで別れた。」とあります。その後、何度か太宰に呼び出されて合っていますが、昭和19年1月9日に下曽我で合ってから空襲が激しくなって太宰が金木に疎開してしまったため音信不通になります。しかし太宰にいわれた日記だけは書き始めていました。

oota-shisuko11w.jpg<斜陽日記>
 太田静子は戦後すぐに母親が亡くなったこともあり、再度太宰に連絡をとります。その結果昭和22年1月6日三鷹で久しぶりに太宰と会うことができます。そして昭和22年2月21日、太宰はこの日記を借りるため小田原 下曽我の大雄山荘に太田静子を訪ねます。この時の出会いで太田静子は身ごもります。太宰はこのあと三津の安田屋旅館に滞在し、「斜陽」を書き始めます。太田静子のこの日記は太宰に渡されたままだったのですが太宰が山崎富栄と玉川上水で入水自殺した時に「ノートに上には紙がおかれ「伊豆のおかたにお返しください」と伊馬春部氏宛に富栄さんの筆跡で書かれていた。「斜陽」の元になった太田静子さんの日記であろうか。」と野原一夫の「回想 太宰治」には書かれています。太田治子の「母の万年筆」には「それを母に返しにみえられたのが、井伏鱒二氏と伊馬春部氏だった。「これはすぐに公表してはいけません。金庫にでもいれておいて、十年もたったら公表されるといいでしょう」といわれたそうです。」と書いています。この後、太田静子は幼子を抱えて生活に困り、昭和23年10月「斜陽日記」を出版します。そのあとにつづいて出版したのが「あわれわが歌」でした。

左の写真が「斜陽日記」の初版本です。当然古本しかないのですが、ほとんど流通していないようで、一冊だけ見つけましたがぼろぼろでした(文庫では小学館文庫で出版されています)。この写真の本は神奈川県立図書館で借りて撮影したものです。この本も紙が変質してぼろぼろで角が 丸くなっていました。昭和23年頃は紙不足で質のよい紙が使えなかったのだと思います。

和  暦

西暦

年    表

年齢

太宰と太田静子の出会いを巡る

昭和16年
1941
太平洋戦争始まる
28
9月 友人2人と初めて太宰を訪ねる
12月 太宰から呼び出される(ニジ トウキョウエキ ダザイ)
12月 新宿で太宰と再び合う
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
30
4月 井の頭公園で太宰と合う
10月 下曾我に疎開する
昭和19年
1944
マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
31
1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
1月 太宰を小田原で迎えて母を見舞い下曽我で過ごす
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
33
1月 三鷹で戦後初めて太宰と会う
2月 太宰は日記を借りるため下曾我の太田静子を訪ねる
5月 三鷹の太宰を訪ねる(子供の件)
11月 太田治子生まれる
昭和23年
1948
太宰治自殺
34
6月 太宰、山崎富栄と玉川上水で入水自殺

oota-shizuko14w.jpg<洗足池の旧宅(推定)>
 「斜陽日記」の書き出しに「…海軍の山本長官が遠い海上で亡くなると…」とありますので昭和18年頃から書き始めたと思います(山本長官が亡くなられたのは昭和18年4月です)。その当時太田静子が住んでいたのが大田区洗足でした。その場所のことを「東京では、防空演習が俄かに盛んになった。防毒マスクをつけて洗足他のまわりを飽けまわったり、梯子で屋根の上に登ったり、バケツリレーをしたり、真夜中に町角に立って監視の稽古をしたりした。梯子のぼりは、毛利さんや、正宗さんの女中さんが上手だった。…前方のたそがれの靄の中に正宗さんの洋館が、そびえていた。…」と書いています。洗足池のすく側の小高い岡の上に正宗白鳥の洋館があったようです。また昭和20年5月の空襲では「宮城が炎上したのは、五月十五日の空襲のときであった。…正宗先生のお宅ももとの私たちの家も、洗足の二宮家もこの時全焼した。…正宗先生の三階に預かって頂いたお布団や、椅子や、テーブルを失った。洗足池の傍で、あの辺りは、庭や草地が多いので、まさか焼けることはないだろうと安心していた。その正宗先生の洋館に、焼夷弾の雨が降って来て、庭の松の木は、花火のように燃えたとのことであった。…」とあります。この付近も空襲ですっかり焼けてしまってなにも残っていません。現在の正宗白鳥旧宅跡にはご家族の方が住まわれているようです。

 左上の写真の左側が洗足池の旧宅付近です(右側手前が洗足池になります)。太田治子の「母の万年筆」に「昭和大学のある池上線の旗の台から二つ目の大岡山駅で降りた。そこは、母が近江から上京して、初めて東京で祖母と叔父と生活した思い出の地であり、そこから叔父は出征しているのだった。また、満里子を生んだ病院も、駅の近くにあったという。母の住んでいた家は、見越しの松もそのままに今も変わらずにあった。なつかしい家をみて、母の心は少し落ち着いたようだった。」と書いています。正宗白鳥の旧宅近くで、見越しの松があるのはここだけですので、たぶんここだと思われます。写真の左側奥に正宗白鳥の旧宅があります。正宗白鳥旧宅の入口は写真の道をまっすぐいって左に曲がりまた左に曲がって少し入った処にあります。

【洗足池付近地図】←クリックすると地図がでます。

oota-shizuko15w.jpg<七沢温泉(元湯玉川館)>
 下曾我に疎開する前に母親と二人で温泉に行っています。「「山の中で誰も知らない温泉があるの。七沢って温泉なの。今日これから行けば、ちょうど、夕方着けるのです。行きましょう。お母さま。」 お母さまは、こうして引っ張ってでも行かなければなかなか何処へもお出掛けにならないようなかただった。今行かなければ、もう二度と、そんな所へ、お母さまと行く機会はないような気がした。伊勢原に着いたのは、夕方だった。それから又、バスに乗って田圃道を、一時間ばかり揺られつづけて、田園の真中に降りた時は、あたりはすっかり、夜になっていた。暗い山陰の道を、谷間の方へ、歩いて行った。やがて谷間の中に灯が見えて、揚の宿らしい家が、二三軒見えた。一番奥の、一番古いらしい家のなかへ入って行った。世の中に忘れられたような、わびしい谷間の温泉には、浴みに来ているらしい人影も見えなかった。」とあります。伊勢原からバスで一時間かかる七沢って温泉は現在でもあり、厚木市七沢にある七沢温泉だと思われます。

右上の写真が「元湯玉川館」です。この七沢温泉は現在でも旅館が全部で七軒しかありません。上記に書かれた「一番奥の」温泉は推定ですが「元湯玉川館」だと思われます。

oota-shizuko48w.jpg<大雄山荘>
 下曾我で住んだのが大雄山荘です。「斜陽日記」では「国府津で御殿場線に乗換えて、一つ目の駅で、降りて、山の方へ向って少し行くと、加来夫人が、お嬢さまと二人で迎えに来て下さった。D山荘は、曾我兄弟の遺跡のお寺の前で、支那風のお寺のような感じの家であった。加来氏は、玄関の羊の横の、車輪梅の手入れをしていらっしゃった。大坂璃戸を開け放したお座敷で、御馳走を頂いた。村の料理屋のお料理で、鯵と大豆のお煮付であった。食後私達が持って来た手製のおはぎを頂きながら、加釆氏とお母さまの間に、お話は、すらすらとはこんだ。お座敷からの眺めは絵のように美しく、初冬の晴れた日で、青い海に白い浪が走っているのがよく見えた。伊豆半島の天城山も、熱海の十国峠もよく見えた。西の空に箱根、足柄、富士がつらなっている。庭には京都の北野の家の庭によく似た家があった。空気がおいしかった。柔らかに、澄んだ空気。絹ごしのような空気。私は、幾度も深呼吸をした。」と大雄山荘のことが書かれています。東京から下曾我まで順に辿っていくと、東京から東海道線で国府津までいき、ここで御殿場線にのりかえると次が下曾我駅です。昭和15年に丹那トンネルが開通して熱海経由が東海道線になり旧御殿場周りは御殿場線となっています。ここの場所を決めたのは伯父の大和田悌二(当時は日本曹達社長)で、縁戚の加来氏の所有の別荘でした。昭和12年には高浜虚子がここで句会を催しています。太宰が初めて下曾我に来たのは昭和19年1月で、小田原駅で太田静子と待ち合わせ、小田原の小澤病院に入院していた太田静子の母親を見舞った後、下曾我に向かいます。太宰の二度目の下曾我訪問は戦後の昭和22年2月、日記を借りるためでした。しかしこの時太田静子は身ごもります。

左上の写真が現在の大雄山荘の正面です。戦後所有者も住む人も変わり現在は荒れ果ててしまっています。現在保存運動が起こっており、小田原市で何とか保存してもらいたいと思います。われわれも協力していきたいと思います。

【下曽我付近地図】←クリックすると地図がでます。

oota-shizuko46w.jpg<城前寺>
 疎開先の大雄山荘に行くには曽我兄弟の仇討ちで有名な城前寺の前を通っていきます。「疎開日記」では「満開になって間 もなく、私は子供達に案内して貰って、村の梅を見て歩いた。一番に、城前寺へ行った。お寺の、石段の傍に、淡い桃いろの花びらが散っていた。」と城前寺のことを書いています。下曾我の辺りは「曽我の梅林」で有名で季節になるとすばらしい花をつけるそうです。残念ながら私が訪ねたときは5月で季節はずれで梅を見ることができませんでした。この城前寺の前を通って100m位歩くと大雄山荘です。下曾我の駅前は「下曾我に着くと駅前の運送屋が、馬車で、荷物を運び始めた。」とありますが駅前の運送屋は今はスズキ自動車の販売会社になっています。駅前の商店街を登ってコンピニの処を左に曲がり少し歩くと松田国府津線の交差点にでます。そのまま直進すると右に交番があり、その先に宗我神社の大きな鳥居があります。鳥居の手前を右に曲がり少し進と左手に標識があり、そこを右に曲がるとすぐに城前寺です。

右上の写真が城前寺です。曽我兄弟の仇討ちで有名なお寺です。今は幼稚園が併設されて小さくなっていますが、階段は昔のままです。城前寺の階段の前を少し歩くと右手が大雄山荘です。


 次回は昭和22年の三鷹での太宰との二度の再開を追ってみたいと思います。

【お店の住所】

・元湯玉川館:神奈川県中郡大磯町東小磯151 電話 0463-61-9771
・城前寺:神奈川県小田原市曽我原347

【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
 
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