<「文壇資料 浅草物語」 高橋勇>
「文壇資料」は講談社から出版されたシリーズ本で8冊以上になるのではないかとおもいます。私も4〜5冊持っています。このシリーズの中の一冊「浅草物語」は高橋勇さんが書かれたもので、”本書は浅草と文学との因縁の糸をたぐり、各作家の交遊に実相、エピソードを資料に、大正末期から昭和初期の文壇動向を把えた書下ろし作”と書いてあります。読んでいて面白い本です。檀一雄については昭和32年頃のことを書いており、この本の趣旨からは少しズレていますが、当時、作者が実際に訪ねていますので、とても役に立ちます。
高橋勇の「文壇資料 浅草物語」からです。
「… この檀が、再び浅草に姿を現わすようになったのは、昭和三十二年(一九五七)頃のことである。
「ヨリ子」
「何でしょう?」
幾分硬わばった妻の顔がこちらを向いた。
「僕は恵さんと事をおこしたからね、これだけは云っておく……」
「知っています」
「知っている筈はないけれど……、どうしてだ?」
「あなたのような有名な方のなさる事は、いちいち何事でも伝わると思っていらっしゃらなくっちゃ……」(『火宅の人』)
この会話中の「僕」は、まさしく檀であり、「ヨリ子」は、檀夫人の耐え忍んだ声以外のものではない。なまなましい会話である。
昭和三十一年(一九五六)八月七日、青森の蟹田に建てられた「太宰治文学碑」の除幕式に、檀は入江久恵(作中では矢島恵子)を誘って参列した。その帰り、友だちを加えた三人で蔦温泉まで足をのばして泊ったが、その夜、二人ははじめて結ばれる。前記の会話は、檀が石神井の家に帰った夜の、夫人との会話ということになっている。
檀は入江久恵と、山の上ホテルや久恵の青山のアパートで同居生活をつづけていたが、そうした生活に厭気がさし、思い切って浅草千束町のマッサージ屋の二階へと移り、愛の生活を営むことになったわけである。…」
青森の蟹田に建てられた「太宰治文学碑」は太宰治が新風土記叢書の取材のため昭和19年5月13日土曜日、蟹田を訪ねたことを記念した碑です。蟹田には友人のN君(中村貞次郎)がおり、津軽の取材を始めるために訪ねたのですが、結局酒ばかり呑んでいたようです。詳細は「太宰治の津軽を歩く
-2- 【蟹田編】」を見て下さい。
★写真は高橋勇の講談社版「文壇資料 浅草物語」です。昭和54年5月発行です。作者の高橋勇さんは檀一雄とは軍隊仲間で、檀一雄は昭和12年7月に召集され、昭和15年に召集解除されていますからその間の出合いだったとおもわれます。