●檀一雄の東京を歩く (昭和32年〜34年頃)
    初版2013年8月31日  <V01L02> 暫定版

 久しぶりに「檀一雄を歩く」を掲載します。高見順や川端康成の関連で「文壇資料 浅草物語」を読んでいたら、檀一雄が昭和32年に浅草に住んでいたことが書かれていました。これは是非とも掲載したいとおもい、少し遅くなりましたが「檀一雄の東京を歩く 昭和32年〜34年頃」として掲載しました。基本的に檀一雄の「火宅の人」を読んでいないと面白くありません。


「浅草物語」
<「文壇資料 浅草物語」 高橋勇>
 「文壇資料」は講談社から出版されたシリーズ本で8冊以上になるのではないかとおもいます。私も4〜5冊持っています。このシリーズの中の一冊「浅草物語」は高橋勇さんが書かれたもので、”本書は浅草と文学との因縁の糸をたぐり、各作家の交遊に実相、エピソードを資料に、大正末期から昭和初期の文壇動向を把えた書下ろし作”と書いてあります。読んでいて面白い本です。檀一雄については昭和32年頃のことを書いており、この本の趣旨からは少しズレていますが、当時、作者が実際に訪ねていますので、とても役に立ちます。

 高橋勇の「文壇資料 浅草物語」からです。
「… この檀が、再び浅草に姿を現わすようになったのは、昭和三十二年(一九五七)頃のことである。
 「ヨリ子」
 「何でしょう?」
  幾分硬わばった妻の顔がこちらを向いた。
 「僕は恵さんと事をおこしたからね、これだけは云っておく……」
 「知っています」
 「知っている筈はないけれど……、どうしてだ?」
 「あなたのような有名な方のなさる事は、いちいち何事でも伝わると思っていらっしゃらなくっちゃ……」(『火宅の人』)

 この会話中の「僕」は、まさしく檀であり、「ヨリ子」は、檀夫人の耐え忍んだ声以外のものではない。なまなましい会話である。
 昭和三十一年(一九五六)八月七日、青森の蟹田に建てられた「太宰治文学碑」の除幕式に、檀は入江久恵(作中では矢島恵子)を誘って参列した。その帰り、友だちを加えた三人で蔦温泉まで足をのばして泊ったが、その夜、二人ははじめて結ばれる。前記の会話は、檀が石神井の家に帰った夜の、夫人との会話ということになっている。
 檀は入江久恵と、山の上ホテルや久恵の青山のアパートで同居生活をつづけていたが、そうした生活に厭気がさし、思い切って浅草千束町のマッサージ屋の二階へと移り、愛の生活を営むことになったわけである。…」


 青森の蟹田に建てられた「太宰治文学碑」は太宰治が新風土記叢書の取材のため昭和19年5月13日土曜日、蟹田を訪ねたことを記念した碑です。蟹田には友人のN君(中村貞次郎)がおり、津軽の取材を始めるために訪ねたのですが、結局酒ばかり呑んでいたようです。詳細は「太宰治の津軽を歩く -2- 【蟹田編】」を見て下さい。

写真は高橋勇の講談社版「文壇資料 浅草物語」です。昭和54年5月発行です。作者の高橋勇さんは檀一雄とは軍隊仲間で、檀一雄は昭和12年7月に召集され、昭和15年に召集解除されていますからその間の出合いだったとおもわれます。

「火宅の人」
<「火宅の人」 檀一雄>
 『火宅の人』(かたくのひと)は、檀一雄の長編小説で遺作。『新潮』昭和30年(1955)11月号より20年にわたり断続的に連載され、昭和50年(1975)に新潮社で刊行(現在は新潮文庫 上下巻で2003年改版)。没後に第27回読売文学賞(小説部門)と、第8回日本文学大賞を受賞しています。あらすじは、”作家 桂一雄は、妻のほか、精神障害を持つ息子のほか三人の子を持ちながら、女優を愛人として、通俗小説を量産しながら、自宅をよそに放浪を続けている”お話しです。(ウイキペディア参照)

 檀一雄の「火宅の人」からです。
「… その浅草の、千束の部屋を借りたのは、まったくの行き当りバッタリからであった。新しく私の連載を受持つことになる週刊誌のN君が、
「じゃ、今日中に部屋を借りちゃいましょうよ」
「そうしたいもんだね」
「浅草でしょう?」
「ああ」
 N君は私の稿料を先借りしてくれて、タクシーに乗った。まっすぐ千束に行ったのはN君の裁量であったろう。周旋屋に訊くと、マッサージ屋の二階だが、新築で、八畳二間の部屋と、六畳四畳半の二つがあり、ほら、あすこです、見ていらっしゃい、と斜め向いの家の二階を指さしてみせた。隣が銭湯だと云っている。なるほど、高い煙突が、その貸間の横から、さかんな煙を吐いている。
「銭湯の横はいいじゃないか」
「冗談じゃない。酒屋も隣ですよ」
 とN君はマッサージの看板と、酒屋の看板を等分に見くらべながら、笑い出した。…」


 檀一雄のこの辺りのことについては、野原一夫が「人間 檀一雄」としても書いていますが、読み比べると「火宅の人」は実生活そのものを小説として書いています。私小説です。登場人物の名前が違うだけのようです。だから面白いのかもしれません。第二の太宰治かもしれません。

写真は檀一雄の新潮社版「火宅の人」です。昭和50年11月発行です。当時はセンセーショナルだったような気がします。

「千束の五叉路」
<千束の五叉路>
 高橋勇の「浅草物語」に従って、檀一雄が入江杏子(本名:入江久恵)さんと移り住んだ浅草 千束を歩いてみたいとおもいます。

 高橋勇の「文壇資料 浅草物語」からです。
「… いささか私事にわたるが、私は檀を思い出すとき。最初に頭に浮ぶのは、もっとも情けない顔をした檀 ── それは満洲の新京(現在の長春)で、補充兵教育の訓練が公園の広場で、一週間にわたって行われた。檀と私は朝早くから一緒にきびしい訓練を受けた。くたくたになった昼の休憩の時間、芝生に腰を下ろし、寄り添うようにして話した。そのときの、なんとも形容しがたい情けない顔である。 ──
 私は、そんなことを思い出しながら、師走の一日、今は大分変わったであろう檀の住んだ浅草干束町の仮宅を、遠い記憶をたどりながら確かめに行ってみた。
 現在の道順でいうと、国際通りをまっすぐ干束町へ向かっていくと、言問通りの交差点にぶっかる。そのまま言問通りをまっすぐ突っ切って、二百メートルほど行った最初の交差点を、右の道へ曲るとすぐ右側に、新井はり灸療院がある。…」

 ここで「文壇資料 浅草物語」の作者 高橋勇さんと檀一雄の関連がわかります。
 
写真は「千束の五叉路」です。地下鉄の田原町駅から国際通りを北に上がって行きます。浅草ビューホテルを過ぎると言問通りと交わる西浅草三丁目の交差点です。この交差点から更に北に140m歩くと千束五叉路の交差点です。上記には”二百メートルほど行った最初の交差点”と書かれています。

「新井はり灸療院跡」
<新井はり灸療院>
 檀一雄が入江久恵(芸名:入江杏子)さんとこの浅草 千束に移り住んだのは昭和32年春でした。

 高橋勇の「文壇資料 浅草物語」からです。
「… 現在の道順でいうと、国際通りをまっすぐ干束町へ向かっていくと、言問通りの交差点にぶっかる。そのまま言問通りをまっすぐ突っ切って、二百メートルほど行った最初の交差点を、右の道へ曲るとすぐ右側に、新井はり灸療院がある。すぐ裏隣には、北松の湯というのがあり、檀が一番湯に入ったという風呂屋である。檀のいた仮宅の隣の細い道をまたいだ隣に、美濃屋本店という酒屋がある。私は二十年前に、この檀の仮り住居に来たことかある。それも二回きりなのだが、おぼろげな記憶はぴたりと当たった。主人の新井留治さんは、にこにこして私を迎えてくれた。一面識のある顔である。私が檀の住んでいた家を確かめに来たことをいうと、「それはそれは。檀さんがここにいたのは四十七歳のときでしたよ。それから足かけ三年いましたね」と語った。…

 檀がよく飲みにいった店のことを、昔の大家の新井さんにたずねてみた。新井さんは、「染太郎」と「峠」と、そして「魚直」あたりだと教えてくれた。「ふぐ魚直」は。ここに来る前によってみた。言問通りを少しばかり入谷町の方へ行ったところにある。九州育ちの檀が好みそうな古めかしい平家の店で。開放された座敷のテーブルは、いっも満員の客でにぎわっていた。
 檀の住んでいた部屋は、新井さんの家の隣の二階であり、ちょうど改築中であった。「この部屋が斜めになっているところが気に入った」と、檀が言ったその部屋は、もう二度と造られることはないであろう。…」。


 この千束五叉路の交差点を右に曲がって30m、最初の右角が”新井はり灸療院”です。正確には跡です。この二階に檀一雄は入江杏子さんと住んでいました。
 上記に書かれている「北松の湯」はマンションに変り、「美濃屋本店」は酒問屋に、「染太郎」は変らず、電気館の裏の「峠」は無くなり(ヨシカミの北側3軒目辺りに在った)、「魚直」は大きなビルになり健在でした。

 同じ場面を檀一雄の「火宅の人」からです。
「…   風の奈落

 私と矢島恵子のかくれ家は、国際劇場の大通りをつき当ったところからわかれる五叉路……、その五叉路を右に、千束に向って折れこんだマッサージ屋の二階であった。
 場所が場所だから、まわりの街の喧噪と叫喚は、午前二時三時になっても、鎮まることがない。家に折れ込む街角には、エロ写真の立売りはむろんのこと、黒白、白々、花電車、エロ映画のポン引等が、夜どおしひしめいているのである。…

 電気館の裏の「峠」にもよく出掛けた。「峠」のおかみさんのベタペタもせず、また突っけんどんでもないのかとでもいいなどと、恵子は云うし、私もまた、そこへ出入りする客の談笑から浅草の人々の息づいている気配を感じとるのである。…

 床屋は私達の部屋から五六軒先に、きさくな後家の床屋があり、あまり散髪の好きではない私も、二月に一度ずつ
ぐらいは出掛けていく。…」


 上記に書かれている「五六軒先に、きさくな後家の床屋」は「スパル床屋伊藤」でははないかと推測しています。”新井はり灸療院”から東に約70mです。後家かどうかは分りませんでした。

入江杏子(いりえ・きょうこ)さんは、昭和2年(1927)7月14日大阪生まれで、その後福岡に移り、福岡高等女学校卒業。舞台芸術学院を経て、昭和26年劇団「民藝」付属演技研究所に入所、昭和31年同劇団に入団。以後、舞台女優として活躍。主な役は「最後の人々」(ゴーリキー)リュボーフィ、「アンネの日記」(ハケット夫妻脚色)母エディス、[セールスマンの死](アーサー・ミラー)妻リンダ「君はいま、何処に…」(小島政二郎原作・砂田量爾脚色)お清、「精霊流し」(岡部耕大)おばば、「草文」(石牟礼道子)一人芝居、などです(文藝春秋社版を参照)。檀一雄とは福岡時代からの知合いで、東京に出てきてからも石神井公園の檀一雄の自宅に出入りしていたようです。檀一雄とは15歳違いです。

写真は現在の新井はり灸療院跡です。この二階に昭和32年春から33年初まで檀一雄は入江杏子さんと住んでいました。この辺りは当時は凄かったようです。当時の面影はこの辺りの路地に少しだけ残っていました。


檀一雄の浅草地図(浅草紅団の地図を流用)


「目白駅」
<目白駅>
 檀一雄は昭和33年初に浅草 千束から豊島区西池袋三丁目に引越します。浅草の環境が入江杏子さんには合わなかったようで、それに檀一雄も一年も住めば飽きてきたようです。ここでは野原一夫さんに登場してもらいます。

 野原一夫の「人間 檀一雄」からです。
「…   4 目白のころ

 『太陽』が第五号で廃刊になったのは三十二年の暮であるが、檀さんが入江さんと目白の安アパートの一室に移ったのは、次の年の二月か三月であったろう。青山の劇団に通うには浅草は不便だったし、ポン引きやパンパンや愚連隊がたむろするいかがわしい環境が帰りが遅いことの多い入江さんを怯えさせていたからであるが、またひとつには、定着心の薄い檀さんの性分から、またぞろどこかに居所を移したいという気持も動いていたのかもしれない。といってもそのアパートの狭い一室は必要最小限度の道具類を運びこんで仕事部屋としたので、浅草の二間は借りたままにしておき、往き来をしてはいたのである。
 目白のアバートの一室を借りたのは偶然のきっかけからである。
 そのころ檀さんは、小学館から発行されていた『中学生の友』にナポレオンの伝記を連載していた。その担当編集者の林四郎が、雑談の折に、目白に部屋をひとつ持っているのだが買ってくれる人はいないだろうかと、なにげなく言った。終戦直後に建てられた木造のアパートの四坪の一室で、友入から譲り受けて住んでいたのだが、日本住宅協会の抽籤に当ってそちらに移り、空室になっていたのである。なに、部屋? 俺が買おうか、と檀さんは膝をのりだした。林はあわてた。ひどいボロアパートで、とても先生の住めるような部屋ではない、学生が自炊生活をするには向いているだろうけど ── 。水道もガスも入っていて自炊ができる、それに建て増しもできるときくと、よし、不見転で買った、と檀さんは勢いよく言った。…」。

 文士が書く地図や道順ほど当てにならない物はありません。どうしても文章優先で書くので、読んでいて良く分からないことがおおいのです。上記には”目白のアパート”と書かれていますが、場所的には豊島区西池袋です。ここでは”西池袋のアパート”が正しい表現なのですが、”目白のアパート”の方が響きがいいですから、どうしても目白になってしまいます。

写真は現在の山手線目白駅です。ここから目白通りを200m程西に歩き、右に曲がって路地を西池袋三丁目の方へ歩いて行き、西武池袋線の踏切を越えます。

「第一共栄荘跡」
<第一共栄荘>
 檀一雄の”目白のアパート”の所在は直ぐに分りました。野原一夫の「人間 檀一雄」の中に”第一共栄荘”というアパートの名前が書いてあったのと、檀一雄が旅先から出した”第一共栄荘”の入江杏子さん宛の絵葉書が「新潮日本文学アルバム 檀一雄」の中に掲載されていたので、住所が分りました。「人物書誌大系 檀一雄」の中の年譜にも”第一共栄荘”の住所が書かれているのですが、少し間違えていました(138番地⇒1380番地が正しい)。

 野原一夫の「人間 檀一雄」からです。
「… 林四郎さんの記憶によると、八万円で買ってもらったという。当時としてもずいぶん安い売値であるが、たしかにそれは、ひどいボロアパートであった。
 移って早々に第一共栄荘という名のそのアパートを訪ねていったとき、さすがに私もおどろいた。目白駅と池袋駅のほぼ中間あたりのゴミゴミとした裏町にあったのだが、いかにも終戦直後の俄普請を思わせる粗末な造りである。買いとった部屋は二階の一番奥の右手にあったのだが「ギシギシ鳴る木造の階段を踏み上り、そこから靴をぬいで、くたびれた杉の古板の廊下を歩いてゆくと、その両側に、自転車だとか、漬物の桶だとか、沢庵石だとか、盥だとか、雑多な生活の器具が、所狭く吊上げられたり、伏せられたりしてあって、私達はその細い通路を、覚束なく、踏みよけてゆくわけである」と『火宅の人』第六章「火宅」に書かれてあるが、饐えたようなへんな臭気がその廊下にただまい流れているのである。
 移ってすぐに檀さんは、六畳一間に流しと半坪の押入れのその部屋を改造し建て増しした。洋室にして絨緞を敷き、ソファを置き、机を入れ、流しのあたりを全部ステンレスに換え、和室風の二畳を建て増しし、床と壁に防音装置をほどこした。電話も入れた。その工事費が電話共に三十五、六万円ほどかかったということだが、買値と合わせれば四十三、四万円となる。それだけの金を投げ出せば、もっと快適な環境に手頃な部屋を購入できたのではなかろうか。不見転で即決したのも檀さんらしいが、改造や建て増しに精を出し、それをたのしんだのも檀さんらしい。…」。


 西池袋三丁目の”第一共栄荘”は昭和60年代まで在ったようです。住宅地図では1980年代まで確認ができました。分譲アパートだったので立て直しが難しかったのだとおもいます。

 同じ場面を檀一雄の「火宅の人」からです。。
「… 目白駅と池袋駅の、そのどちらからも十分足らずと思えるゴミゴミとした裏町に、全く同じ形の、烏が羽をひろげたような、みすぼらしい木造アパートが二つ、時間に取落されたようにして、ならんで立っていた。…

 私は即座に、知人の室内装飾屋を電話で呼びよせ、早急な改造と建増しを頼みこんだ。
 床も壁も二重に張って防音装置をほどこすことにする。流しのあたり全部ステンレスに換えて、吊棚を吊る。建増・
しの二畳だけ和室風にして、半間の押人れをとりつけることにした。
 冬分のことだから、工事は思ったようにほかどらなかったが、それでもその小さいキッチン附きの洋室に、絨緞を入れ、ソファを入れ、机を入れ、カーテンを入れ、ユトリロのかなり精巧な複製を壁に吊りかけてみると、私の勉強部屋にはもってこいの簡素と落着きである。
 工費は電話共に三十五六万円ばかりかかったが、ドアチェックをつけたドアをガッキリと閉じて、恵子と二人、並んでソファに腰を落しこんでみると、やっぱりどちらからともなくとめどない微笑に変る。…」


 西池袋三丁目の”第一共栄荘”跡には新しいマンションが建っていました。もう10年くらい早く撮影に行っていれば、”第一共栄荘”の写真が撮れたかもしれません。

写真は現在の西池袋三丁目の”第一共栄荘”跡に建った新しいマンションです。現在の住居表示で豊島区西池袋三丁目9番です。

<協力依頼>
・檀一雄が浅草 千束の”新井はり灸療院”に転居するまえは、青山一丁目の入江杏子さんのアパートに短期間滞在したそうですが、詳細の場所が分りません。
・目白のアパートの後に住んだ三番町のアパートの詳細の場所が分りません。


檀一雄の目白、池袋地図


檀一雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 檀一雄の足跡
         
大正8年 1919 松井須磨子自殺 7 9月 足利尋常高等小学校に転入(けやき小学校)
大正9年 1920 国際連盟成立 9 5月 国分男子尋常小学校に転校(九州に戻る)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 9 1月 足利尋常高等小学校に戻る
9月 母、出奔
大正12年 1923 関東大震災 11 9月 関東大震災
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 12 4月 県立足利中学校入学(足利高等学校)
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
16 4月 福岡高等学校文科乙類に入学
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
20 4月 東京帝国大学経済学部経済学科に入学
      下宿 滝松(本郷)
   淀橋区上落合の借家に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
21 4月 「なめくぢ横丁」に転居
10月 古谷網武と「ワゴン」で出会う
       太宰治と出会う
       尾崎一雄が「なめくぢ横丁」に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 22 4月 「はせ川」で井伏鱒二から坂口安吾を紹介される
9月 尾崎一雄が「なめくぢ横丁」から転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 23 9月 東京帝国大学経済学部卒業(野原一夫)
昭和11年 1936 2.26事件 24 2月 第二回芥川賞候補となる
8月 中国に渡る
11月頃 帰国後本郷の栄楽館に下宿
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 25    本郷の下宿 栄楽館、芳賀檀宅、碧雲荘、
   同和荘、桜井浜江宅などを転々とする
7月 「花筐」を出版するも、27日に動員令を受ける
         
         
昭和31年 1956 日ソ国交回復 44 3月 次女さと出生
8月 青森蟹田の太宰治記念碑の序幕式に入江杏子と出席
昭和32年 1957   45 春 浅草 千束で入江杏子と同棲生活に入る
昭和33年 1958   46 9月 西池袋三丁目の第一共栄荘に入江杏子と転居