●太宰治の津軽を歩く -2- 【蟹田編】
    初版2010年6月26日 <V01L01> 暫定版

 今回は「太宰治の津軽を歩く」の第二回目です。太宰は新風土記叢書の取材のため昭和19年5月13日土曜日、午前8時に青森に到着、T君(外崎勇三)宅で休んだ後、青森駅からバスで蟹田に向かいます。蟹田には友人のN君(中村貞次郎)がおり、津軽の取材を始めることになるばすだったのですが……やっぱりお酒が!!


「蟹田の町」
<蟹田の町>
 青森を出発してから最初に到着するのが蟹田です。青森駅から約29Km程、当時は国鉄津軽線がまだ開通しておらず、バスが交通手段でした。当時はバスで約二時間弱程度だったとおもいます。
 太宰治の「津軽 2.蟹田」からです。
「…津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟(うしろがた)、蓬田(よもぎた)、蟹田、平館(たひらだて)、一本木、今別(いまべつ)、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩(みまや)に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛《たつぴ》の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。…」

 国鉄津軽線が青森から蟹田まで開通したのが昭和26年(1951)12月、終点の三厩まで開通したのが昭和33年(1958)10月ですから、全線開通までかなり時が掛かっています。津軽海峡線が開通したのは昭和66年(1988)です。太宰が津軽を訪ねた昭和19年当時は、青森合同乗合自動車株式会社が青森〜蟹田〜三厩間で乗合自動車を運行していました。昭和26年の津軽線開通による経営悪化で、昭和28年に青森市営バスに買収されています。当時のバス停は駅前の道を少し歩いた右側になります。残念ながら青森からのバス路線が無く、太宰と同じ道を辿ることは出来ませんでした。

写真は観瀾山から撮影した蟹田の町並みです。同じ場所から撮影した戦前の絵はがきがあるので見比べてください。

「外ヶ浜町中央公民館」
<外ヶ浜太宰会>
 今回の「津軽」については、外ヶ浜太宰会の皆様に大変お世話になりました。やはり現地に行かないと分からないことが多く、また、自身で歩かないと正確な取材になりません。太宰が小山書店から依頼された新風土記叢書を書くために実際に津軽を回って取材したように、私も足で稼いで取材をさせて頂きました。
「 …この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つてもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えてゐる様子である。…」

 外ヶ浜太宰治会は外ヶ浜町中央公民館の二階で蟹田と太宰治に関する展示をしています(普通の部屋に写真や刊行物等を展示しています)。かなり詳細に展示していますので、大変参考になりました。事前に青森県立図書館等で住宅地図や参考図書で詳細に調べていたのですが、現地を訪ねると地図と違っていたりして、最後は現地の人に尋ねるしかないわけです。蟹田ではまず最初に外ヶ浜町中央公民館を訪ねてから町を回った方がよいとおもいます。

写真は観瀾山から撮影した外ヶ浜町中央公民館です(中央の建物)。この二階に展示場があります。公民館の入口に担当の方がいらっしゃいますので”太宰治の展示を見たい”と言って頂ければ見せてもらえます。道からの入り口が分からず探してしまいました。下記の地図に入り口を書いておきますので参考にして下さい。

「蟹田駅」
<蟹田駅>
 JR津軽線の蟹田駅です。太宰が訪ねた頃は鉄道線はなかったのですが、駅のホームに太宰治の記念碑がありましたので、ホームまで入って撮影してきました。
「…その前日には西風が強く吹いて、N君の家の戸障子をゆすぶり、「蟹田つてのは、風の町だね。」と私は、れいの独り合点の卓説を吐いたりなどしてゐたものだが、けふの蟹田町は、前夜の私の暴論を忍び笑ふかのやうな、おだやかな上天気である。そよとの風も無い。観瀾山の桜は、いまが最盛期らしい。静かに、淡く咲いてゐる。爛漫といふ形容は、当つてゐない。花弁も薄くすきとほるやうで、心細く、いかにも雪に洗はれて咲いたといふ感じである。違つた種類の桜かも知れないと思はせる程である。ノヴアリスの青い花も、こんな花を空想して言つたのではあるまいかと思はせるほど、幽かな花だ。…」
 ホームに入るの入場券を買いました。無人駅かとおもったら駅員さんがいました。「津軽」の中で蟹田に関して有名なのが”蟹田つてのは、風の町だね。”のフレーズです。このフレーズを記念碑に書いています。本当かなとおもっていたら、本当に風が強かったです。

 昭和19年当時は、青森合同乗合自動車株式会社が青森〜三厩間で乗合自動車を運行していました。昭和26年の津軽線開通による経営悪化で、昭和28年に青森市営バスに買収されています。当時のバス停は駅前の道を少し歩いた右側になります。

写真は蟹田駅のプラットホームにある太宰治の記念碑です。

「蟹田警察署跡」
<蟹田警察署>
 蟹田警察署が「津軽」の中に登場していましたので、訪ねてみました。
「…ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、…」
 新築したばかりと上記に書いてありましたので、建物が残っているかなとおもったのですが、現地を訪ねてみましたら何も残っていませんでした。警察署も名前と場所が変わっていました。外ヶ浜警察署になって、蟹田川を越えて北に1Km程移動していました。

写真は蟹田駅前通りです。昔の蟹田警察署は写真の左側、青い看板のところになります。昭和30年代の地図を見ると、左の肌色の塀のところが日通蟹田営業所、右隣が蟹田警察署、道路を挟んで向かい側に青森市バス蟹田出張所がありました。この道の突き当たりが国道280号線となります。

「蟹田のN君の家」
<蟹田のN君の家>
 太宰が蟹田に着いて尋ねたのがN君宅です。N君とは中村貞次郎さんのことです。中村貞次郎さんは青森中学校で太宰と同級生で、下宿も太宰の豊田家の直ぐ近くの塚本家に下宿していて、よく一緒に通学したり、二人で遊んでいます。中村貞次郎さんは青森中学校卒業後は東京に出て働いており、太宰が東京帝大入学後は東京で二人でよく遊んでいたようです。仲がよかったのですね。
「…  蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。
「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人」の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞いてゐたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 N君は、ほつとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。…」

 中村貞次郎さんが住まわれていたところが残っていました。建物は当時から建て直されていますが、場所は同じ場所のようです。太宰はこの場所でもてなしを受け、宿泊したのだとおもいます。太宰はこのN君宅に13日から16日まで四泊宿泊しています。

 2010年6月18日(金) の東奥日報によると、”太宰治が原稿を郵送するため何度か蟹田郵便局を訪れていた”、ことを窓口係の方が覚えていたそうです。蟹田郵便局は蝦田旅館から少し南に下がった海側にあります(昔と場所は変わっていません)。

写真の右側の建物が中村貞次郎宅跡です。建物の上の看板には中貞商店とあります。又、中貞商店の精米所は道路を挟んで反対側ですので、写真左側付近かなとおもいます。

「蟹田観瀾山太宰治文学碑」
<観瀾山>
 太宰は蟹田の観瀾山でお花見をはじめます。メンバーは青森から一番のバスできたT君(外崎勇三)、小説の好きなTさんの同僚のHさん(樋口定夫)、蟹田分院の事務長をしているSさん(下山清次)、今別のMさん(松尾清照)、N君(中村貞次郎)です。
「… 観瀾山(くわんらんざん)。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。…」
 観瀾山は高さは余りないのですが、海の直ぐ側で眺めがよく、蟹田の町がよく見渡せます。津軽では5月14日でお花見かなとおもいました。今年は五月の連休で弘前が満開でしたので、時期的には少し遅いですが60年以上前なので、少し寒かったとおもえば、時期的には丁度かなともおもいます。

写真は蟹田観瀾山太宰治文学碑です。佐藤春夫の筆で、「正義と微笑」から”かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった”と書かれています。この文学碑は太宰が観瀾山で座っていた石で作ったそうです。

「Eといふ旅館跡」
<Eといふ旅館>
 太宰は蟹田で接待攻勢をうけます。朝から観瀾山でのお花見を終えて「Eといふ旅館」へ昼食に向かいます。蟹田分院の事務長のSさん(下山清次)のセットでした。
「…みんな、ひどく笑つた。笑はれて、私も、気持がたすかつた。蟹田分院の事務長のSさんが、腰を浮かして、
「どうです。この辺で、席を変へませんか。」と、世慣れた人に特有の慈悲深くなだめるやうな口調で言つた。蟹田町で一ばん大きいEといふ旅館に、皆の昼飯の仕度をさせてあるといふ。いいのか、と私はT君に眼でたづねた。
「いいんです。ごちそうになりませう。」T君は立ち上つて上衣を着ながら、「僕たちが前から計画してゐたのです。Sさんが配給の上等酒をとつて置いたさうですから、これから皆で、それをごちそうになりに行きませう。Nさんのごちそうにばかりなつてゐては、いけません。」
 私はT君の言ふ事におとなしく従つた。だから、T君が傍についてゐてくれると、心強いのである。
 Eといふ旅館は、なかなか綺麗だつた。部屋の床の間も、ちやんとしてゐたし、便所も清潔だつた。ひとりでやつて来て泊つても、わびしくない宿だと思つた。いつたいに、津軽半島の東海岸の旅館は、西海岸のそれと較べると上等である。昔から多くの他国の旅人を送り迎へした伝統のあらはれかも知れない。昔は北海道へ渡るのに、かならず三厩から船出する事になつてゐたので、この外ヶ浜街道はそのための全国の旅人を朝夕送迎してゐたのである。旅館のお膳にも蟹が附いてゐた。…」

 「Eといふ旅館」とは「蝦田旅館」のことで、金木の津島家本宅に匹敵するくらいの旅館だったそうです。かなり大きな旅館ですね。

写真の左側、中野菓子舗の右隣のところが蝦田旅館跡です。「蝦田旅館」は昭和33年に火事で焼けてしまっています。

「Sさんのお家跡」
<Sさんのお家>
 最後の接待は蟹田分院の事務長のSさん(下山清次)宅になります。朝から留まるところを知らないくらいのお酒責めです。
「…「どうです。お酒もそろそろ無くなつたやうですし、これから私の家へみんなでいらつしやいませんか。ね。ちよつとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢つてやつて下さい。たのみます。……
… Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Sさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買つて来い。待て。その縁側にかけてある干鱈をむしつて、待て、それは金槌でたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。…」

 蟹田分院の事務長のSさん(下山清次)宅は病院の官舎だったようです。国道280号線から少し路地を入ったところにありました。

写真の右側、ブロック塀のところに蟹田分院の事務長のSさん(下山清次)宅がありました。

次回は今別から竜飛を掲載します。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
5月12日 「津軽」の取材に青森に向かう
11月 「津軽」発刊
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開(青森空襲)
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆



太宰治の蟹田地図