●青山二郎の東京・川奈を歩く -4-
    初版2009年2月14日 <V01L01>

 「青山二郎の世界」の 第四回を掲載します。「小林秀雄と青山二郎の遊び場」も一通り掲載しましたので、今週は「青山二郎の世界」の一応、最終回です。京都と広島、その他は別途、掲載するつもりです(何時になるか分かりませんが!)。


「霞町マンション」
霞町マンション>
 昭和24年、青山二郎は伊東から東京に戻ります。五反田の高貴荘から新広尾町の自宅に戻り、昭和38年、霞町のマンションに移ります。このマンションは短期間滞在しただけで、渋谷区神宮前の高級マンションを購入します。今回も宇野千代の「青山二郎の話」から引用します。
「…みさちゃんと青山さんとが土地のことをめぐって係争中であるにも拘らず、同番地の二ノ橋の土地に住んでいるのは、おかしい、と言うことになって、青山さんは二ノ橋から赤坂の霞町マンションに移って行ったのであった。あれは昭和三十八年のことで…」
 宇野千代は”赤坂の霞町マンションに転居”と書いていますが、霞町は西麻布の交差点の近くですから、赤坂からはかなり遠く、実際は西麻布の霞町マンションとなります。この霞町マンションの名前は、向田邦子が住んでいたマンションで有名です。向田邦子がこのマンションに転居したのは、昭和39年10月で、青山二郎が転出したのは、昭和39年9月ですから、重なったときはありません。ひょっとすると、青山二郎が入っていた部屋に向田邦子が入居したのかも?

写真の正面、白い四階建てのビルが霞町マンションです。かなり古くなっています。向田邦子はエッセイの中で、”東京オリンピックの最中に、自信で探して見つけた”と書いていますが、偶然にしては出来過ぎです(「向田邦子の東京を歩く (4)」を参照)。青山二郎の奥様、和子さんと何らかの関係があったのかもしれません。今となっては推測ですが!

「ビラ・ビアンカ」
ビラ・ビアンカ>
 青山二郎は住みやすいマンションを探していたようで、「ピア・ビアンカ」という渋谷区神宮前二丁目の新築のマンションを購入します。当時としてはハイカラなマンションでした。
「…昭和三十九年の九月、青山さんの最終の住居である現在のビラ・ビアンカに越す。
……或る日、その頃、私の麻雀仲間の一人である、夏ちゃんと呼ばれているバー勤めの古株が、私の家へ駆け込んで来て、「先生、じいちゃんと和ちゃんがいよいよ正式に結婚するんですってよ。新聞に大きく出てたわよ。」と、息せき切って報告したことがある。ひとり住居の不得手な青山さんではあるが、しかし、そのことで驚くには当らないではないか、と思いながら私は、それでも、なお、みさちゃんとのごたごたから逃れて、和ちゃんと正式の間柄になったことを、青山さんのために祝福しないではいられなかった。…」

 明治通りの新宮前、一等地に建つマンションです。終の棲家として購入し、亡くなられた場所もこのマンションでした。最後の奥様になられた和子さんは親子ほど歳が離れています。よく結婚されたとおもいます。

写真は現在の「ピラ・ビアンカ」です。築45年ですから、マンションとしては相当古い方です。写真で見ると分かりませんが、近くで見ると、ボロボロのところもあります。


青山二郎の東京地図 -2-


青山二郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 6月1日 麻布区新広尾町一丁目二四番地 青山八郎右衞門、きんの次男として誕生
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 8 4月 飯倉小学校に入学
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 麻布中学校に入学
大正8年 1919 松井須磨子自殺 18 4月 日本大学法学科に入学
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚
昭和17年 1942 ガダルカナル島撤退 41 秋 伊東町玖須美(くすみ)竹町竹の台に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
43 10月 服部愛子を入籍
昭和23年 1948 太宰治自殺 47 9月 服部愛子と正式離婚
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 48 12月 品川区五反田五丁目六〇番地の高貴荘に転居
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 50 4月 父死去
5月 新広尾町一丁目一二三番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定   11月 兄死去
昭和33年 1958 若乃花が横綱昇進
売春防止法が施行
長嶋茂雄が新人王
57 4月 坂本睦子自殺
昭和35年 1960 三池闘争
新安保条約が成立
自民党が、高度成長・所得倍増
浅沼稲次郎社会党委員長刺される
59 5月 和子入籍
新広尾町一丁目一三〇番地に転居
昭和38年 1963 黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
62 7月 霞町マンションに転居
昭和39年 1964 東海道新幹線開業
東京オリンピック開催
63 9月 渋谷区神宮前2-33-2 ビラ・ビアンカに転居
昭和45年 1970 日本万国博覧会
よど号ハイジャック事件
三島由紀夫自殺
69 伊東市川奈の別荘が完成
昭和50年 1975   74 伊東市川奈の別荘を売る
昭和54年 1979 5月 村上春樹群像新人文学賞を受賞 77 3月27日 自宅で死去



「川奈の別荘」
川奈の別荘>
 青山二郎は昭和45年、川奈に別荘を建てます。実家のあった新広尾町の土地が公団に売れて、お金が入って出来たきたとおもいます。
「…青山さんとみさちゃんとの間でいざこざが起きたのは勿論であるが、そのみさちゃんの相手が青山さん、と言うよりは、道路公団に移ったので、それはどながい問ではなく、二年くらいで解決がついたのである。そのときみさちゃんは土地の居住権のほかに、別に補償金と言うのを貰ったりしたのである…」
 別荘は東向きの鉄筋コンクリート建てで、相模湾を一望でき、川奈でも一等地に建てられていました。周りは高級別荘ばかりでした。

写真の右側、白い塔のような建物が青山二郎の別荘です。持主は変わっていますが、建物はそのままです。左側の赤い建物は「赤いやね(赤い屋根)」という名前の喫茶店です。結構有名だそうです。この喫茶店のベランダからよく見えます。私は二回ほど訪ねました。

「玉林寺のお墓」
玉林寺のお墓>
 昭和54年3月27日、自宅で死去します。若いときの放蕩から考えれば、長生きした方だとおもいます。
「…昭和五十四年三月二十七日の朝、青山二郎さんが亡くなった。持病はあったが、筋骨はまだ逞しく、死ぬことなど考えられもしなかった。和子さんからの知らせで、私は飛んで行った。もう死んでいた。死に顔は、あれが美しいと言うのであろう、少し痩せて、もうこれで休みたいと思ってでもいるような風に見えた。
……窓のそとの庭は、庭のように見えるが、六階のベランダに土を入れて、植木屋に作らせたもので、それでも普通の庭にあるような木々が植えてある。井戸の形に組んだ石の枠が、草の間から見える。人が亡くなると言うことは、まわりの風物がそのまま、まざまざと残っていると言うことであろうか。…」

 若いときから、好きなことをやるだけやって生きてきたのですから、本望だったとおもいます。父親が残した財産も殆ど使い果たしたのではないでしょうか。

左上の写真が台東区谷中、玉林寺にある青山二郎のお墓です。宇野千代が書いているとおり、青山家のお墓は三軒茶屋の正蓮寺にあるのですが、遺言で”他の寺にしろ”と書いています。
「…青山さんの家の、代々続いた菩提寺と言うのは、世田谷三軒茶屋にある正蓮寺である。祖先の墓地のあるところを、それほど心にとめてはいなかったのであろうか。青山さんも民吉さんもこの寺へは詣でることがなかった、と正蓮寺の住職が話していたのを、私は思い出した。それにもう一つ、いまから十五年前の昭和三十九年正月に、青山さんは遺言状と題した書き物を遺していて、「一 私は亡兄民吉の遺族に対しては、動産、不動産に限らず、何一つ、遺産として残さないことを誓う。二、私は兄並びに兄の遺族の墓のある寺には寝らない。」と書いている。寝らない、と言うのは、例によって青山さんの当て字である。青山さんの遺骸を葬むる寺は、全く新しい寺にしなければならぬことが分っていたので、宗旨が門徒であると言うことだけを残して、青山さんの家の近いところにあると言う、北青山の立泉寺に葬むることに決ったのである。…」
 宇野千代は青山二郎のお墓は北青山の立泉寺と書いていますが、実際は谷中の玉林寺となっています。なぜ変わったかはよく分かりません。もう少し、調べてみたいとおもいます。


青山二郎の伊東・川奈地図