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最終更新日:2006年2月20日

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●向田邦子の東京を歩く(3) 2003年11月29日 V01L02
 向田邦子原作の「阿修羅のごとく」が、森田監督、大竹しのぶ、黒木瞳、深田恭子などの出演で映画化され、現在東宝系で公開中です。映画化を記念して、向田邦子を旅してみました。今週は第三回目として、実践女子専門学校国語科卒業後の東京中心に歩いています。

<東京人>
 「東京人」の168〜169号、2001年10〜11月号に高島俊男が「向田邦子の昭和をさがして」を書いています。「向田邦子が作品の中に閉じ込めた昭和の旧蹟を検索するため、八人の探検隊は出発した。しかし、一行の行く手を阻むのは住居表示の変更と開発の壁。旧住所を現在の住所に翻訳して訪ね当てれば、そこには高速道路が走っているというぐあい。でも、めげない探検隊は足掛け二ヶ月におよぶ探索の旅を続ける。」、私と同じように向田邦子の東京を歩いてみたようです。二ヶ月で回られたようですが、私は延べで半年くらい掛かってしまいました。その代わり、高島俊男さんよりはすこし詳しく回れたようです。今週はこの「東京人」を参考にしながら、戦後の向田邦子を歩きました。

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

左の写真は「東京人」の168号、2001年10月号表紙です。「東京人」は私の愛読書の一つです。

向田邦子東京年表(昭和25年〜35年)

和 暦

西暦

年  表

年齢

向田邦子の足跡

作 品

昭和25年 1950 朝鮮戦争 21 3月 実践女子専門学校国語科卒業
4月 財政文化社に入社
5月 父親が東京に転勤のため杉並区久我山三丁目七十番地に転居

昭和27年 1952 対日講和条約
日米安保条約発効
23 6月 雄鶏社「映画ストーリ」編集部に転社
昭和33年 1958 東京タワー完成 29 春頃、シナリオライター集団「Zプロ」に参加 テレビ台本「ダイヤル110番」
昭和35年 1960 カラーテレビ本放送 31 5月 女性のフリーライター事務所「ガリーナクラブ」に参加
12月24日 雄鶏社を退社


<財政文化社>
 向田邦子は実践女子専門学校国語科卒業後、四谷駅近くの財政文化社に勤めます。卒業式の時には就職先は決まっていなかったと、書かれていますので、4月までの間に決まったのだと思われますか、就職先の決定に関する経緯はどこにも書かれていません。想定ですが、やはり父親の紹介かなともおもいます。「向田邦子 心の風景」では、「…株式会社財政文化社に入り、社長秘書として勤務することになった。財政文化社は新宿区四谷一丁目五にあり、……邦子は教育映画をつくる会社であったと言っている。…」、と書いてあります。東京人の「向田邦子の昭和をさがして」では、「…当時とくらべると、いまは外堀通りがうんとひろくなっている。この外堀通りかち第一勧業銀行のところを直角にはいるのが三栄通り。この通りにはいってすぐの右がわに東交(東京交通)ビルというのがある。…財政文化社はこの東交ビルの何階かにあったらしい。…東交ビルのちょっと先に四谷第三小学校。三栄通りの背後(北がわ)一帯に広い敷地をしめるのが四谷第三小学校である。これは四谷から本塩町にまたがっている。東交ビルのちょつと先に四谷第三小学校の裏門がある。この裏門のわきに当時花柳軒という中華料理屋があった。「手袋をさがす」の五目そばはここからとつたのであろう。また「下駄」の新陽軒もこの花柳軒がモデルであるかもしれない。…」、と書かれています。ここに書かれている四谷第三小学校裏門脇の花柳軒という中華料理屋を探したのですが、残念ながら確認できませんでした。

左の写真中央の一階にコージーコーナが入っているビルが東交ビルです。ビル自体は新しくなっており、当時の面影はありません。

<杉並区久我山三丁目>
 昭和11年7月11日、向田邦子は父の東京転勤にともなって、下宿先であった麻布区市兵衛町の母方の祖父の家から、杉並区久我山三丁目七十番地に転居します。東京人の「向田邦子の昭和をさがして」では、「向田邦子が昭和二十五年から三十七年まで住んだところである。向田家は井の頭線久我山駅をおりて北へ五十メートル坂をのぼり、左へまがって五十メートルのところ。当時の地番は久我山三丁目70。現在は久我山四丁目47でかなりひろい駐車場になっている。向田邦子がわるい男につかまってひきずりこまれた竹薮は家の手前二十メートルほどの左がわ、当時は秦さんという大きな農家の前面であった。現在は住宅。…」、と書いています。男にひきずり込まれた痴漢の件は、後に「霊長類ヒト科動物図鑑」で書いています。「…その頃は、家は井の頭線の久我山に越しており、私は勤めを終えてから英語を習っていた。その帰り道、うちまでもう一息という暗がりで、いきなり刃物をつきつけられた。私は、うちの近所で災難に逢う星らしい。「お金ですか」と二度言ったが男は答えず、私はそばの竹薮まで引きずられた。うちの門灯が見えているのに、どうすることも出来ない。私は左手にカメラを持っていた。友人から借りた外国製である。これを盗られたらどうしよう。カメラより大事な、女として盗られたら困るもののことは思い到らなかった。カメラ、カメラ、と思っていた。竹薮の入口で男が咳をした。私は左手のカメラを大きく振った。カメラは男の腹に当り、私は彼の手を振り切って駆け出した。…」、このあと、後日談があり、痴漢を捕まえてしまいます。「…勤め先から帰る時間半分ずつずらして、井の頭線の車輛見て歩き、ちょうど一週間目の夕方、痴漢をみつけて警察へ突き出したのだから、今から考えると、恐いもの知らずとしか言いようがない。…」、なんと言っていいのかわかりませんが、怖いもの知らずですね。痴漢に襲われた場所はこの辺ではないでしょうか。

右の写真右側が当時の住まいです。現在は新築の個人住宅になっています。久我山の住んでいた場所をさがしました。上記には「久我山駅をおりて北へ五十メートル坂をのぼり、左へまがって五十メートルのところ、久我山四丁目47」と書かれていますが、正確には、”北へ百五十メートル、左に曲がって百五十メートル”です。久我山四丁目47と書かれていますが、旧住所表示では久我山三丁目70なので、新住所表示での四丁目47にはなりません。四丁目9番地となります。(今回は個人宅が多いため地図等での表示は控えさせて戴きます)

<雄鶏社「映画ストーリー」編集部>
 昭和27年6月、雄鶏社「映画ストーリ」編集部に転社します。5月30日付けの東京新聞朝刊の女子求人広告をみて応募したようです。五百人の応募で、合格したのは向田邦子を入れて三名ですから凄い競争率です。「映画ストーリー」の編集後記に向田邦子が登場します。「新しく編集部のスタッフに加わり津し田。どうぞよろしく。映画は私達の夢、周囲は暗くともこれある限り、心がなごみます。皆様の心のオアシスたれと小さな情熱を傾けて参るつもりで居ます。どうぞ全国のたくさんのお友達の皆様、他の新お便りや、或は厳しいお小言をどしどしお寄せ下さいませ。」、なかなか面白いですね。

左の写真正面がコスモ証券ビルです。東京人の「向田邦子の昭和をさがして」では、「…日本橋江戸橋。昭和通りに面した山叶証券ビルのなかに雄鶏社があった。山叶証券ビルは現在はなく、その位置にコスモ証券がある。昭和通りをわたってすこし行ったところに「たいめいけん」がある。雄鶏社は現在新宿区西五軒町に移っている。」、と書かれています。此処では正確に書かれています。

<喫茶店ブリッヂ>
 雄鶏社に勤めていた時によく通っていたのが有楽町の喫茶店「ブリッヂ」です。向田邦子の「父の詫び状」の中に登場します。「有楽町に「ブリッジ」という有料喫茶室があった。十五年ばかり前、私はこの店の常連だった。昼は出版社につとめ、夕方からは週刊誌のルポ・ライター、そのあい間にラジオの原稿を書くという気ぜわしい暮しをしていたので、一時間たしか五十円払えば半日いても嫌な顔をされないこの店はもってこいの仕事場であった。ここのテレビの下が私の指定席だった。うるさいし、首を曲げて見上げなければ野球もプロレスも見えないが、自分に関係のない騒音は音楽と同じで、あまり気にならない。うしろの席で別ればなしをされたりするとかえって気が散るので、私はいつもテレビの下の、誰もすわらない席で内職原稿を書いていた。この店には十人ほどの女の子がつとめていたが、中に一人とても気のつく子がいた。十七、八の小柄な細面の子で、小まめにお茶を入れかえてくれたり、伝言なども正確に伝えてくれた。ある時、私が仕事の疲れでうつぶして寝込んでしまい、頬にビニルをバラの花形に切りぬいたテープル・クロスの型が赤くついてしまった時も、彼女は、笑いをこらえながら、蒸しタオルを何回も取りかえてくれたりした。心づけ代りにハンカチでも買ってそっと手渡もうかな、と思っていた矢先、おひるのテレビ・ニュースに突然、被害者として彼女の写真があらわれた。つきあっていた男友達に殺されたのである。みごもっていたこともあり烈しく結婚を迫ったのが理由だとアナウンサーは事務的な口調でしゃべっていたが、首を絞められ古材木の浮かぶ濁った掘割に投げ込まれていたと聞いて、私は食事をつづけることが出来なかった。…」、大変な思いをしています。私も向田邦子と同じ様に「ブリッヂ」でコーヒーを頼みました。向田邦子がいつも座っていた場所の写真しっかり撮影してきました。

右の写真が西銀座デパートB1ある「ブリッヂ」です。東京人の「向田邦子の昭和をさがして」では、「…有楽町西銀座デパート地下の喫茶店「ブリッヂ」。向田邦子がここで原稿を書いていたのは四十年も前だが、いまもたずねてくる人があるらしく、若い女店員が「ここにテレビがあって向田さんはここの席で原稿を書いてました」とついきのうのことのように敢えてくれた。…」、と書いています。西銀座デパートは首都高速道路の高架下をデパートとして使っており、B1から二階まであります。もともとは数寄屋橋の掛かっていた掘割を埋め立てて作ったデパートです。上記に「ブリッジ」と書かれていますが、写真を見てもらうとわかりますが、「ブリッヂ」となっています。


●向田邦子の東京を歩く(4) 2003年12月13日 V01L02
 先週は「向田邦子を旅する」をお休みして、五木寛之の「金沢を歩く」を紹介しましたが、今週は向田邦子に戻って、「東京を歩く」の最終回を掲載します。昭和 30年代後半から昭和56年に飛行機事故で亡くなられるまでを歩いてみました。

< 直木賞受賞>
 昭和55年7月、向田邦子 は第83回(昭和55年上半期)直木賞を受賞します。受賞作品は、「花の名前」、「かわうそ」、「犬小屋」 (小説新潮)の三作品で、51歳での受賞でもあり、少々出来レースの感もあります。これで向田邦子は押しも押されぬ流行作家になります。同時に志茂田景樹の「黄色い牙」も受賞しています。
 直木賞の選考委員は阿川弘之、五木寛之、源氏鶏太、今日出海、城山三郎、水上勉、村上元三、山口瞳の8名です。

【向田邦子】
昭和4年(1929)東京生れ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。代表作に「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「隣の女」等がある。55年には初めての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し作家活動に入ったが、56年8月航空機事故で急逝。(文春文庫より)

左の写真が 「花の名前」、「かわうそ」、「犬小屋」 が掲載された向田邦子の「思い出トランフ」の表紙です。

向田邦子東京年表(昭和37年〜56年)

和 暦
西暦
年  表
年齢
向田邦子の足跡 作  品
昭和37年
1962
キューバ危機
33
2月 東京都杉並区本天沼三丁目三十五番地に転居  
昭和39年
1964
東海道新幹線開業
東京オリンピック開催
35
10月 東京都港区霞町に転居  
昭和45年
1970
日本万国博覧会
よど号ハイジャック事件
三島由紀夫自殺
41
12月 東京都港区南青山五丁目のマンションに転居 だいこんの花
昭和55年
1980
モスクワ・オリンピックボイコット
51
7月 第八十三回直木賞受賞 思い出トランプ
昭和56年
1981
スペースシャトル打上げ
52
8月22日 台湾旅行中に飛行機事故で死去 男どき女どき

< 杉並区本天沼三丁目>
 向田邦子は父親の定年退職により、久我山の社宅から転居します。この転居についての向田邦子の書き物は殆どないのですが、弟の向田保雄が「姉貴の尻尾」の中で書いています。「…それまで住んでいた久我山の社宅を出ることになって、姉と私は家を探し歩いた。茗荷谷(東京・文京区)に恰好の家を見つけたが、出入り口の私道が極端に狭いのが難点だった。そのことを父に報告しながら、「あれじゃお棺も出ないわよ」と姉は言った。父は退職の気落ちも手伝ってか、少し嫌な顔をしただけで、怒らなかった。……お棺の出ない家は見送って、姉の知人の紹介で荻窪に家を買った。父は退職金を全部はたいたが、平家建てで、子ども達にそれぞれ一部屋とはいかなかった。姉は持ち金で二階に二部屋造った。そんなに稼いでいた頃ではなかったから、オケラになってしまったようだったが、しよげてはいなかった。御神楽の家(平家に二階を建増しした家)だが、家の中が片付いて家族がそろった晩、姉は父に酒を注いだ。少しばかり娘に負い目はあったかもしれないが、十数年来、喉の奥にひっかかったままだった??ウダチ″を、注がれた酒で流し込んだような、父の貌だった。」。久我山の社宅は駅から近かったのですが、本天沼三丁目の旧宅はJR荻窪駅から1.4Km、歩いて20分程度掛かります。通りから少し入った、小道に小さな玄関が見える家でした。

左の写真の正面 やや左側に少し見えているのが、旧向田宅です。家は当時のままの様ですが、持ち主が変わってしまっています。(今回は個人宅が多いため地図等での表示は控えさせて戴きます)

< 港区霞町>
 東京オリッピックが開催された昭和39年10月、向田邦子は 両親と住んでいた杉並区天沼から独立し、港区霞町に転居します。「…二十代の 終りから、ぽつぽつとラジオやテレビの仕事をするようになっていたが、家を出て別に住むようになったのは三十を過ぎてからである。些細なことから父といい争い、「出てゆけ」「出てゆきます」ということになったのである。正直いって、このひとことを待っていた気持もあって、いつもならあっさり謝るのだが、この夜、私はあとへ引かなかった。次の日一日でアパートを探し、猫一匹だけを連れて移ったのだが、……「邦子は本当に出てゆくのか」とだけ母にたずねたという。生れて初めてのひとり暮しは、霞町であった。マンションとは名ばかりのアパートだったが、静かな屋敷町の中にあるのは悪くなかった。…」。 この後、両親はこのアパートを見に来ます。「…ひと月後、母に引っばられるようにして、父が部屋を見にきた。伽俚伽は、うれしいのだろう、怒ったように烈しく囁き、父の足にからだをすりつけてぐるぐる回っていた。父は何もいわず伽俚伽の背を撫でていた。…」。”伽俚伽”とは父親が付けた猫の名前で、”かりか”と読みます。

右の写真 のマンション(アパート?)が霞町マンションです。二階2B(向田邦子の本には”Bの二”と出てきます)に住んでいました。「…うちを出て「霞町マンションBの二」へ引越した時は、ほっとした。徹夜で脚本を書き上げ、朝風呂に入って、好物の鰻重を頼み、ビールの小ビンをあける!親と一緒では絶対に出来なかったことをして浮かれていたのも、この頃である。…」。簡単に言うと、二階の二番目の部屋で、2Bが正解、マンションには2Bと書いてありました。場所的には、西麻布の交差点から徒歩で5分位で、すこし坂を登って路地へ入った所にあります。

< 港区南青山五丁目>
 昭和45年、向田邦子は 青山の超高級マンション「南青山第一マンションズ」に転居します。「…七年前から青山のアパートに住んでいる。越して来た当座は静かな住宅街で、アパートは数えるほどであつたが、ここ三、四年の間にめつきり数が増え、住んでいる五階の窓から見える空の形も、四角ではなくなって来た。自分の住まいに庭がないせいか、買い物の往き帰りはなるべく広い魔のある家の横を通る。どの庭には何の木があり、何月頃にはどんな花をつけ、どんな匂いがするか、七年の間に覚え込み、これが私のささやかな四季であった。……」。表参道の交差点から根津美術館方面に最初の角を右に曲がったところのマンションです。まわりは、高層ビルばかりですが直ぐに分かります。

左の写真が 青山の超高級マンション「南青山第一マンションズ」です。このマンションの隣に小さな御社があります。「私の住まいは青山のマンションだが、すぐ隣りはお稲荷さんの社である。大松稲荷と名前は大きいが、小ぢんまりしたおやしろで、鳥居の横にあまり栄養のよくない中位の松がある。……神様や仏様というのは、自分の住まいと離れて、少し遠い方が有難味が湧く。すぐ隣りが神様というのは御利益がうすいような気がして、つい失礼を重ねてきた。ところが、つい先だって通りかかると、初老の男性が、鳥居に寄りかかつて靴を脱ぎハダシになり、ポケットからセロハンに包んだ黒い靴下を取り出し、正札を取つてはき替えている。黒い背広で喪章をつけていた。茶の縞模様の靴下をポケットに仕舞い、拝殿にちょつと頭を下げて出て行つた。これから葬儀に行くのだ。 私は、何となく素直な気持になり、十円玉をひとつほうつて、頭を下げた。隣りの神様を拝むのに、七年かかつてしまった。」。何となく素直になった気持ちがよく分かりませんが、この御社はマンションへ向かう角にあります。

< 多磨霊園>
 昭和56年8月、 向田邦子は台湾で飛行機事故に遇い、亡くなられます。向田邦子は多磨霊園の向田家のお墓に埋葬されます。

右の写真 が多磨霊園の向田家のお墓です。お墓の右側に向田邦子の碑が建てられています。には森繁久弥が書いた、「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」、が刻まれています。

多磨霊園では正面事務所で「東京都立多磨霊園案内(著名人のお墓の場所が分かる地図です)」、たしか50円だったとおもいますが、購入されると場所はすぐに分かります。(向田邦子:12区1種29側52番)

<向田邦子の東京地図 −2−>


<向田邦子の東京地図 −3−>



【参考文献】
・父の詫状:向田邦子、文春文庫
・無名仮名人名簿:向田邦子、文春文庫
・夜中の薔薇:向田邦子、文春文庫
・霊長類ヒト科動物図鑑:向田邦子、文春文庫
・向田邦子の手紙:クロワッサン別冊
・向田邦子ふたたび:文藝春秋
・向田邦子を旅する:クロワッサン別冊
・向田邦子をの原点:向田和子、文藝春秋
・向田邦子暮しの愉しみ:向田邦子、向田和子、新潮社
・向田邦子鑑賞事典:井上謙、神谷忠孝
・思い出トランプ:向田邦子、新潮社
・寺内貫太郎一家:向田邦子、サンケイノベルス
・姉貴の尻尾:向田保雄、文化出版局
・東京人 168,169号「向田邦子の昭和を探して 前後篇 高島俊男」:都市出版

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