遊廓を語るには江戸時代にさかのぼります。江戸時代には江戸で唯一の官営の遊廓であった「吉原」があり、その他では五街道の入口(品川、内藤新宿、板橋、千住)の江戸四宿に遊里があったようです。明治時代には、明治12年2月の朝野新聞によると吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋と5ヶ所になっています。根津の街は、根津神社の門前町として甲府徳川家屋敷跡に開かれ、門前町は自然と岡場所となるもので、江戸中期には江戸屈指の盛り場となっています。天保の改革(1841)で一時は姿を消しましたが、明治2年に復活、同18年には遊女943人(吉原は1424人)に達したそうです。しかし東京帝国大学が本郷に出来ると、教育機関の側に遊廓はまずいという事で、洲崎に強制的に移転させられています。昭和9年ころは「吉原大名、洲崎半纏」などと言われ、1日と15日の職人たちの給料日には”宵越しの金は持たない”職人たちで賑わったそうです。
★左の写真が現在の東陽3丁目の交差点です。正面が洲崎遊廓跡への入口(洲崎大門前)で、永井荷風の断腸亭日乗では昭和6年11月27日に「・・・遠く境野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿びたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり。豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し。」とあります。写真正面の右側にそば屋(志の田そば)がありますが、昭和9年の写真にも同じ場所にありますので当時からのそば屋さんだと思います。
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