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最終更新日:2006年2月21日


●洲崎遊廓跡を歩く 初版2001年5月12日 V01L04

 今週は東京の遊廓を巡るの第一回として江東区東陽町の洲崎遊廓跡を歩いてみました。地下鉄の東西線で木場まで行き、後は歩きです。木場の駅からかなり距離があります。こんな所に良く遊廓が出来たなと思います。

suzaki2w.jpg 遊廓を語るには江戸時代にさかのぼります。江戸時代には江戸で唯一の官営の遊廓であった「吉原」があり、その他では五街道の入口(品川、内藤新宿、板橋、千住)の江戸四宿に遊里があったようです。明治時代には、明治12年2月の朝野新聞によると吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋と5ヶ所になっています。根津の街は、根津神社の門前町として甲府徳川家屋敷跡に開かれ、門前町は自然と岡場所となるもので、江戸中期には江戸屈指の盛り場となっています。天保の改革(1841)で一時は姿を消しましたが、明治2年に復活、同18年には遊女943人(吉原は1424人)に達したそうです。しかし東京帝国大学が本郷に出来ると、教育機関の側に遊廓はまずいという事で、洲崎に強制的に移転させられています。昭和9年ころは「吉原大名、洲崎半纏」などと言われ、1日と15日の職人たちの給料日には”宵越しの金は持たない”職人たちで賑わったそうです。

左の写真が現在の東陽3丁目の交差点です。正面が洲崎遊廓跡への入口(洲崎大門前)で、永井荷風の断腸亭日乗では昭和6年11月27日に「・・・遠く境野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿びたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり。豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し。」とあります。写真正面の右側にそば屋(志の田そば)がありますが、昭和9年の写真にも同じ場所にありますので当時からのそば屋さんだと思います。

suzaki3w.jpg<洲崎遊廓>
 現在の東陽1丁目は、住居表示制度実施前は深川洲崎弁天町1丁目及び2丁目で、明治19年根津遊廓の移転のために海面を埋立てて造成したところです。根津遊廓は、慶応4年(1868)に設置されましたが、明治17年大学南校医科(のちの東京大学医学部)設置の都合によって、明治21年12月をもって禁止の通達が出されました。しかし、吉原に移転するにもその余地がないので、平井新田の近くを埋め立てることになり明治20年5月に工事を完了、深川区に編入され、21年6月根津遊廓が移転してきました。のちに品川からも移転してきたようです。はじめに根津から移転してきた業者は83軒でしたが、明治42年には、業者160軒、従業婦1700人、大正10年には業者277軒、従業婦2112人になったといわれています。戦後「洲崎パラダイス」となってからは、昭和29年にはカフェー220軒、従業婦800人といわれています。昭和33年4月1日の売春防止法施行によってすべての営業が廃止されました。

右の写真が「洲崎パラダイス」の頃からありました「大賀」です。下の地図のの所に昔の面影もそのままに現存しています。昔の写真と比べると全くが変わっていないのが分かるかと思います。入口がアルミサッシの戸に変わってしまったのと、正面角にネオンサイン(大賀)があったのくらいです。

suzaki4w.jpg<永井荷風 「深川の唄」より>
 「夏中洲崎の遊廓に、燈寵の催しのあった時分、夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。水門の忍返しから老木の松が水の上に枝を起した庭構え、燈影しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞える。」と相変わらず風景描写がすばらしいですね。昭和30年代前半の特飲街の玉代は「ショート」で300円から500円、「時間」で700円から千円、「泊まり」で千円から二千円だった様です。野坂昭如が新宿花園での「ショート」が300円、「時間」が500円、一時すぎての「泊まり」が1500円立ったと書いています。又、漫画家の滝田ゆう(寺島町出身で「寺島町綺譚」などを漫画で書いています)も洲崎で1500円の散在をしたと書いています。みなさんよく遊ばれたようです。

左の写真も元の遊廓の雰囲気を残しています。とうも遊廓はブルー系が多いみたいで、また派手な色のタイルが張られているのが特徴です。下の地図のの場所です。

suzaki1w.jpg<洲崎パラダイス・赤信号>
 「洲崎パラダイス・赤信号」(日活)は、芝木好子の小説「洲崎パラダイス」を映画化したもので、売春防止法が施行される昭和33年4月1日の2年前に川島雄三監督作品で、制作されています。我々が期待している昭和30年代の都電や洲崎川、洲崎橋の「洲崎パラダイス」のアーチまでが映像に撮られています。金も無く、行くあてもない男女のカップル(三橋達也・新球三千代)が勝鬨橋の上で隅田川を眺めているシーンから始まるこの映画、洲崎橋の手前の一杯飲み屋「千草」が舞台になっていて、そこに立ち寄る赤線の女たちと、そこに遊びに来る男たちの模様を描いています。 洲崎遊廓は周りを洲崎川や大横川に囲まれた遊廓だけしかないの町で、戦後は赤線として、洲崎橋を渡った西側を住宅地、東側をいわゆる赤線、特飲街にまとめられていました。ですから下記の地図でも東側に赤線の跡が点在していますが、西側はもうなにもありません。

<洲崎パラダイス・赤信号>
製作:日活(1956) 監督: 川島雄三 出演:新珠三千代、三橋達也、芦川いづみ、小沢昭一

右の写真は下の地図のの所にあります。現在はアーケードになっている商店街の角にあります。屋根、外壁を見ると赤線時代の建物である事がわかりますね。タイル張りの円柱の柱、アーチ状の屋根の特徴がまだ残っています。

洲崎付近地図



【参考文献】
・洲崎遊廓物語:岡崎柾男、青蛙房
・江東区の文化財:江東区教育委員会
・江東区辞典:江東区教育委員会
・荷風語録:岩波現代文庫
・断腸亭日乗:岩波書店(上)
・昭和の東京:石川光陽、朝日文庫

【交通のご案内】
・洲崎:営団東西線「木場駅」下車 徒歩10分

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