<藤原定家散歩 其の一 定家生誕の地を歩く>
今回から藤原定家散歩です。生誕の地から順に歩いていきます。定家は平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族で、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。2つの勅撰和歌集「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」を撰進したほか、秀歌撰に「定家八代抄」があり「小倉百人一首」も撰じています。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」いいですね!(ウイキペディア参照)
<定家の住まいの移り変りを中心とした略年譜>
応保二年(1162) 0歳 父 俊成の五条宅で生まれる (左京五条四坊十三町)
治承四年(1180) 19歳 2月14日 父の五条宅火事により北小路成実朝臣宅に移る
5月23日 法性寺の外祖母の家華亭に移る
(父 俊成は北小路成実朝臣宅のあとは「新玉津神社」のある烏丸の俊成屋敷に移ったとおもわれます)
(藤原定家 村山修一 略年譜参照)
<新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)>(京都市の説明看板より)
この神社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅旨により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として 名高い藤原俊成が、五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、和歌山県 和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫」を勧請したことに由来する。… ちょうどその年、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちするが、門下の一人である平忠度は、 危険を顧みずこの屋敷に引き返し、「一首を選び、千載和歌集に載せたという。 さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
<俊成社(しゅんぜいしゃ)>(京都市の説明看板より)
この社は平安時代(794年〜1185年)末期 から鎌倉時代(1185年〜1333年)初期にかけ、 当代一の歌人といわれた藤原俊成卿を祀る。元久元年(1204年)11月30日、九一歳の天 寿を全うした後、町民が民家の裏に祀ったと伝承さ れる。俊成卿の本邸宅は、五条大路(現在の松原通)の 鳥丸小路から室町小路に及び、そのため卿は五条 三位と呼ばれていた。
寿永二年(1183年)「千載和歌集」を撰集せ よとの後白河院の院宣が、俊成卿に伝えられ、時あ たかも木曽義仲が延暦寺に入ったとの報に、平家 公達の都落ちが始まっていた。
平清盛の弟平忠度も、鳥羽のあたりまで落ちて いたが、どうしても、自らの秀歌から一首でも、この 「千載和歌集」に採歌してほしいという想いを抑え 切れず、俊成卿の五条の家まで引き返し、秀歌の 巻物を差し出した。俊成卿は、「ゆめゆめ粗略にはいたしません。 お疑いのないように。」と返答した。千載和歌集は 丈治四年(1188年)に完成し、その中の一首は、 俊成卿の歌の境地を示している。
世の中よ道こそなけれおもひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 京 都 市
★写真は「藤原定家散歩」の表紙です。専用の表紙を作ってみました。背後は二尊院の参道で、小倉山がはっきりみえます。動画は途中から常寂光寺に変ります。詳細は写真をクリックしてYouTubeを見て下さい。
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