●散歩情報(YouTube)
 初版2019年7月6日  <V01L01> 奈良編 菅原道真 生誕の地とされる奈良 菅原天満宮を訪ねる
 初版2019年7月24日  <V01L01> 京都編 生誕の地とされる京都 菅大臣天満宮、北菅大臣天満宮(紅梅殿社)を訪ねる
 初版2019年8月7日  <V01L01> 京都編 北野天満宮の前身と言われる文子天満宮を訪ねる
 初版2019年8月15日  <V01L01> 京都編 東山の新日吉神宮(いまひえじんぐう)末社の飛梅天満宮を訪ねる
 初版2019年9月4日  <V01L01> 京都編 道真が文子に北野の右近の馬場に祀ってもらいたいと託宣された場所を探す
 初版2019年10月26日  <V01L01> No.06 京都編 文子天満宮舊址(あやこてんまんぐうきゅうし)を訪ねる
 初版2019年11月2日  <V01L01> No.07 京都編 京都編 満願寺の文子天満宮を訪ねる

 菅原道真は忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめています。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ左遷され現地で没します。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となっています。現在は学問の神として親しまれています。


「奈良 菅原天満宮」
<奈良編 生誕の地とされる奈良 菅原天満宮を訪ねる>
今回から菅原道真を歩いてみたいとおもいます。まず最初は菅原道真生誕の地の一つである(複数あります)奈良 菅原天満宮を訪ねます。最寄りの駅は近鉄大和西大寺駅で近鉄橿原線に乗換えて一つ目の尼ヶ辻駅で下車です。私は大阪から近鉄奈良線に乗り大和西大寺駅で下車すると向いのホームに橿原線の電車が止まっていたので飛び乗りました。動いてから急行と気が付きましたが時既に遅し、下車駅の尼ヶ辻駅は止まらず一つ先の西の京駅まで行ってしまいました。仕方が無く一駅戻りました。

<菅原天満宮(奈良)>
菅原天満宮または菅原神社は式内社で、旧社格は郷社。古代氏族の土師氏(後の菅原氏)に関係する神社として知られています。土師氏は埴輪・土器の製作や葬礼・陵墓管理にあたる土師部の伴造氏族で、後にこの地の地名をとって菅原氏と改名しています。菅原は菅原神社以外にも菅原伏見東陵(垂仁天皇陵)・菅原伏見西陵(安康天皇陵)・菅原寺(現在の喜光寺)の名称が当地の地名に由来するものとして知られるほか、菅原氏の氏名も前述の通り当地の地名に由来するものとされています。菅原神社の祭祀は、このような菅原の土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀ったことに始まると見られていますが、後世に菅原道真の誕生地とする説も生じ、現在は天神信仰の神社として信仰されています。(ウイキペディア参照)

<菅原道真>
菅原道真(すがわら の みちざね 承和12年(845) - 延喜3年(903))
日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生天満宮(堺市美原区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
寛平9年(897)に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。
昌泰2年(899)右大臣に昇進して、藤原時平と道真が左右大臣として肩を並べた。
昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。 左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903)に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59歳。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名です。(ウイキペディア参照)

写真は菅原道真生誕の地とされている奈良 菅原天満宮です。菅原道真の生誕の地については諸説あるため順次回りたいとおもっています。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「菅大臣天満宮」
<京都編 生誕の地とされる京都 菅大臣天満宮、北菅大臣天満宮(紅梅殿社)を訪ねる>
 菅原道真を歩いています。今回は生誕の地とされる京都 京都 菅大臣天満宮、北菅大臣天満宮(紅梅殿社)。京都 四条烏丸から烏丸通を下って高辻通を西に向かい、室町通、新町通を過ぎて右側に菅大臣天満宮の鳥居が見えてきます。ここから入って菅大臣天満宮、北菅大臣天満宮(紅梅殿社)を訪ねます。

<菅大臣神社(かんだいじん じんじゃ)>
 正式名称は「菅大臣社」(かんだいじん の やしろ)。通称、菅大臣天満宮(かんだいじん てんまんぐう)の名で知られる。菅公聖蹟二十五拝の第3番であり、洛陽天満宮二十五社順拝にも含まれています。
 社地は今から約1000年前、菅原道真公の紅・白梅殿という邸宅や、また菅公生誕の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。仏光寺通を中心に南北二町、東西一町が当時の邸宅で、菅公が、大宰府へ左遷に当り 東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ と詠んだ「飛梅の地」と伝えられています。
 神社は道真公の薨去の後、間もなく創建されましたが、度々、兵火にさらされ、鎌倉期には南北両社に分かれ、南社にあたる当社を天神御所または白梅殿社として呼ばれるようになり、北社を紅梅殿社(現在の北菅大臣神社)と分離します。応仁の乱後、慶長19年に菅家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王(まんしゅいんのみや りょうじょほうしんのう)により再興され、今日に至っています。この間、天明の大火、元治の兵乱で再度焼失するが、現本殿は、天保6年(1835年)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、明治2年に移築し、その後幣殿を建立して、いわゆる八棟造をなしています。(ウィキペディア参照)

<北菅大臣天満宮>
神社の所在地一帯にはかつて菅原家の広大な邸宅があり、特に神社の敷地(平安京左京五条三坊二町)は菅原氏の学問所である菅家廊下があった場所とされており、時代が下ると邸宅を紅梅殿(こうばいでん)と称されるようになります。神社は道真の没後まもなく御霊社として創建されたものであり、元々は菅大臣社と称して現在の菅大臣神社と同じ地続きの同一境内にありました。 鎌倉時代末期に『拾芥抄』によると菅大臣社をめぐって北野社と地元住民と論争が起こり、菅大臣社が南北両社が分離して南社は白梅殿社(菅大臣神社)と称されるようになり、北社である当社は紅梅殿の旧跡にあることから紅梅殿社と呼ばれるようになります。 (ウィキペディア参照)

写真は生誕の地とされる京都 菅大臣天満宮です。菅原道真の生誕の地については諸説あるため順次回りたいとおもっています。(ウイキペディア参照)

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「下京の文子天満宮」
<京都編 北野天満宮の前身 下京の文子天満宮を訪ねる>
 菅原道真を歩いています。今回は北野天満宮の前身と言われている文子天満宮を訪ねます。

 文子天満宮の社伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)に59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれています。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられています。ただ、多治比文子が道真の託宣を受けて小さな祠を建てた場所は七条二坊(現在の西大路七条付近)で、現在の下京の文子天満宮の場所とはかけ離れています。その上、七条二坊(現在の西大路七条付近)のあった小さな祠は西ノ京に遷されます(現在の上京区北町の文子天満宮舊址)。 明治6年(1873)上京区北町の文子天満宮は北野天満宮境内に遷されます。これで北野天満宮内にある文子天満宮以外は無くなったはずなのですが、どういう訳か下京に文子天満宮があります。
 「京都史跡事典」によると、下京の文子天満宮は1600年代の創建のようです。
 文子天満宮神社が発刊された「天神信仰のはじまりと文子天満宮」によれば、「本社は左京域にあり、文子が託宣をうけた場所と異なる。西七条の地は右京に位置し、低湿地帯であったため早くにすたれたとされている。平安京は東の方向に発達したとされ、本社はいずれかの時期かはわからないが、文子の後裔が現在地にうつったのかもしれない。」と書いています。(一部ウィキペディア参照)

<文子天満宮(あやこてんまんぐう)>
 京都府京都市下京区にある神社(天満宮)。旧社格は村社。天神信仰発祥の神社であり、上京区にある北野天満宮の前身と伝えられる。登記上の宗教法人名称は文子天満宮神社(あやこてんまんぐうじんじゃ)
祭神
 菅原道真と乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)を祀る。
歴史
 社伝によれば、大宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)に59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建て、道真を祀ったといわれている。これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。 以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。現在の社殿は、大正7年(1918)に造営されたものである。毎年4月16日に近い第3日曜日に、例祭が執り行われる。(ウィキペディア参照)

<京都の文子天満宮>
・文子天満宮(下京区)
・文子天満宮舊址(上京区北町)
・文子天満宮(北野天満宮末社)
・文子社(北野天満宮末社)
・文子天満宮(満願寺境内、台風で拝殿が倒壊していました)

写真は茅の輪(ちのわ)が作られた下京区の文子天満宮です。京都の文子天満宮は順次全て回りたいと思っています。次回は七条二坊(現在の西大路七条付近)付近を歩きます。

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「飛梅天満宮」
<京都編 東山の新日吉神宮(いまひえじんぐう)末社の飛梅天満宮を訪ねる>
 菅原道真を歩いています。今回は東山の新日吉神宮(いまひえじんぐう)末社の飛梅天満宮を訪ねます。飛梅ですので、なにか伝説か秘密が隠されているのではないかと思って調べたのですが、永暦元年、後白河天皇の命により菅公之御霊天満宮大自在天神と菅公遺愛之飛梅之霊を祀られたようで、特になにもありませんでした。残念!

<新日吉神宮(いまひえじんぐう)>
 京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。
歴史
 社伝によれば、永暦元年(1160)後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、現在より南に創建されたと伝えられる。その後、社地を転々とし、一時はほとんど廃絶という状態であったが、寛永17年(1640)現在地のやや北側、旧豊国神社の参道上に再建された。あたかも参道を塞ぐように再建されたため、「幕府が豊国廟への参拝を妨げるために再建した」との説が明治以降流布したが、この再建に幕府が積極的に関わった形跡はなく、伝承では再建したのは後水尾上皇、直接に関与したのは妙法院の尭然法親王(後水尾実弟)である。再建新日吉神社には明暦元年(1640)に樹下(このした)社(現在は豊国社と改称)が勧請され、そこには妙法院で密かに保管されていた豊国神社のご神体も祀られた。これらのことから新日吉社の再建は、実は「豊国神社の復活」ではなかったかとの見方もある。このような説が生まれる背景には、秀吉の元姓が「木下」(樹下に通ずる)、また幼名が「日吉丸」(日吉社に通ずる)と符合する点がある。豊国廟参道から移動させられ現在の社地となったのは、豊国廟が再興された明治30年(1897)の時である。昭和33年(1958)、後白河天皇を増祀し、翌昭和34年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。。(ウィキペディア参照)

<飛梅天満宮>
御祭神
 菅原道真公、菅公遺愛の飛梅之霊
御由緒
 永暦元年後白河天皇により菅公之御霊天満宮大自在天神と菅公遺愛之飛梅之霊を祀られる
 飛梅之霊は菅公が大宰府下向の際
  東風吹かば匂いをこせよ梅の花
              主なしとも春を忘るな
を詠まれて別れを惜しまれた旧宅の梅が一夜の中に配所に花を咲かせたという故事による

写真は東山の新日吉神宮(いまひえじんぐう)末社の飛梅天満宮です。

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「綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえ)」
<京都編 菅原道真が多治比文子に北野の右近の馬場(北野天満宮)に祀ってもらいたいと託宣された場所を探します(多治比文子宅跡)>
 菅原道真を歩いています。今回は菅原道真が道真の乳母をつとめていたとされている多治比文子(たじひのあやこ)に北野の右近の馬場(北野天満宮)に祀ってもらいたいと託宣された場所を探します(多治比文子宅跡)。北野天満宮の創設に関しては「北野天神縁起」が書かれているのですが、諸々の版があり読むだけで大変です。又、絵巻物もあり愉しませてくれます。

<群書類従(ぐんしょるいじゅう) 9 北野縁起 下 神祇部 塙保己一編纂>
「 天慶五年七月 西京七条に住せし賎女にあや子といひける者に託宣ましまして我昔世に有り時右近の馬場にあそぶ事多年也 都のほとりの閑勝の地此所にしくはなし 我非道の罪を蒙りて西海の波にしづむといへどもひそかにかの所にゆきてあそぶ時ばかりこそす こし心なぐさめほこらをかまへて立よるたよりをえせしめよと託宣ありけれども身のほどのいやしさに はゞかりて社をもつくり奉らで柴の蘆にいかきをむ すびて五年の間あがめ奉りけるに天慶九年六月九日 にぞ北野にうつし奉りける。…」
 と書かれており、託宣をうけたあや子の住まいは“西京七条”と書かれています。

<群書類従(ぐんしょるいじゅう) 9 北野天満自在天神宮創建山城国葛野上林郷縁起 神祇部 塙保己一編纂>
「 右天神最初以去天慶五年歳次壬寅七月十二日於右京七条二坊十三町而相託多治比奇子(文子)給御託宣云…」
 と書かれており、“右京七条二坊十三町”で詳細の場所が分かります。(現在の西七条北衣田町)

 ただ、この付近で現在残っているのは下京区西七条北東野町にある綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえ)のみです。綱敷行衛天満宮は昭和9年に綱敷天満宮と、多治比文子の住まい跡とされている行衛天満宮(靱負天満宮)を合祀し綱敷行衛天満宮となっています。綱敷天満宮は同地に、行衛天満宮(靱負天満宮)は同地の西方に鎮座しており、共に洛陽天満宮二十五社に数えられています。現在は松尾大社の境外末社の一つであり、本殿は寛政年間の建立されているようです(ウイキペディア参照)。行衛天満宮(靱負天満宮)跡は“右京七条二坊四町”で上記に書かれている“右京七条二坊十三町”とは場所が違います。又、行衛天満宮(靱負天満宮)が多治比文子の住まい跡とされる書き物は見つける事が出来ませんでした。要調査です。

写真は現在の綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえ)です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「文子天満宮舊址」
<京都編 文子天満宮舊址(あやこてんまんぐうきゅうし)を訪ねる>
 菅原道真を歩いています。今回は北野天満宮に近い天神通にある文子天満宮舊址(あやこてんまんぐうきゅうし)を訪ねます。

「天神信仰のはじまりと文子天満宮」から
「 北野天満宮内の文子天満宮は、境内の北の端にある末社で、御祭神は菅原大神(菅原道真公)で、明治六年(1873)に京都市上京区北町から現在地にうつされたものである。菅公の託宣をうけた多治比文子の家は神殿につくり改められ、後に西の京にうつされたとされる。明治三十五年(一九〇二)、もとあった場所に小祠を建て御旅所とし、四月十二日から十六日まで御輿を奉安することになった。現在は、四月の第二木曜日もしくは第三木曜日に、北野天満宮から御輿が御旅所に出御し(神幸祭)、神幸祭の日に続く日曜日に北野天満宮に還幸し(還幸祭)、西の京の氏子区域を練り歩く。この文子天満宮の祭は、「あやこさんのお祭り」として親しまれている。…」
 託宣をうけたあや子の住まいは“菅公の託宣をうけた多治比文子の家は神殿につくり改められ、後に西の京にうつされたとされる”と書かれています。つまり、菅原道真公の乳母(うば)をつとめていた多治比文子は、最初、平安京の右京七条二坊十三町に住み、行衛天満宮(靱負天満宮)跡に移って、その後に、この西ノ京の文子天満宮舊址に移ったと推定しています。文子は、北野天満宮の創建時から明治維新まで、 代々巫女として北野天満宮に使えていました。近くに住むのも納得です。

写真は西ノ京 天神通の文子天満宮舊址です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「満願寺の文子天満宮」
<No.07 京都編 満願寺の文子天満宮を訪ねる>
 菅原道真を歩いています。今回は満願寺(まんがんじ)の文子天満宮を訪ねます。

「京都市指定有形文化財 満願寺 六棟 京都市」から
「本堂、鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿、文子天満宮拝殿
 満願寺は示現山と号する日蓮宗の寺院で、もとは西ノ京にあって、天慶三年(940)に北野朝日寺の最珍を開山として創建されたと伝える。当初は真言宗に属し、北野天満宮の御供所であった北野七保のなかの五の保ともなっていた。その後、元禄十年(1697)に日蓮宗へ改宗するとともに、元禄十五年に現在地に移転してきた……」

 京都市の説明文では、満願寺の創建時は多治比文子と関係があったとは書かれていません。その後、北野天満宮が創建された後に北野七保ができて五之保となり関係ができたのではないかと考えています。ウイキペディアには創建時から関係があったと書かれています?です。

<ウイキペディア>では
延喜3年(903)菅原道真 薨去
天慶3年(940)多治比文子が道真を追悼するため西ノ京に堂宇を建立(満願寺)
天慶5年(942)菅原道真は文子に北野に社殿を構えて祭祀すべきと託宣
天暦元年(947)北野天満宮の址に、菅原道真公を奉祀する社殿を創建
 文子が託宣される前に満願寺が創建されています。

写真は満願寺の文子天満宮です。昨年の台風で拝殿が倒壊したままになっていました。詳細はYouTubeを見て下さい。

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