●「京都人の密かな愉しみ Blue」のロケ地を歩く 番外編(YouTube)
    初版2018年8月1日  <V01L01> 其の一 上嵯峨の「生の六道」を探す 暫定版
    二版2018年8月19日  <V01L01> 其の二 大文字の送り火の松割木を奉納 暫定版
    三版2018年9月14日  <V01L01> 其の三 小野篁、紫式部の墓を訪ねる 暫定版

 「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」は「京都人の密かな愉しみ 秋 冬 桜散る」の続編として2017年9月にNHK BSプレミアムで放送されたドラマです。前編からは出演者はほとんど入れ替わっています。内容は前編と同じく観光旅行では見えにくい京都人の生活や文化を、京都独特の風景をロケ地に使ってコミカルに描いています。番外編は放映されたロケ地ではなくて、関連のある場所をYouTubeで紹介します。


「京福電気鉄道 嵐山駅」
<其の一 上嵯峨の「生の六道」を探す>
 「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」では東山区六波羅松原通、五条坂から北に二筋上がった松原通にある六道珍皇寺の「迎え鐘」を紹介しています。私のYouTubeでは六道珍皇寺の「小野篁卿 冥土通いの井戸」も紹介しています。この井戸は小野篁が冥界へ行くときに利用したと伝えられる井戸で、現世に戻ってくる井戸は上嵯峨の「生の六道」にあったと伝えられています。今回は番外編として、上嵯峨野の現世に戻ってくる井戸があった「生の六道」を探します。

写真は京福電気鉄道 嵐山駅で、先ず最初は「生の六道」の石碑がある清凉寺(嵯峨釈迦堂)の塔頭 薬師寺(奈良の薬師寺とは関係ない)に向かいます。次に現在の「六道の辻」を訪ね、pウ寺跡も探します。その後、昔の六道の場所、小野篁石塔があったと伝えられている清淨寺を探します。

<上嵯峨の「生の六道」関連の参考図書>
・昭和45年10月号 月刊 京都 小野篁伝説考 竹村俊則(入手)
・昭和53年8月号 知恩 知恩院 生の六道と小野篁 安藤良全和尚(未入手)
・平成10年3月 嵯峨誌 平成版 福正寺跡(入手)
・平成22年6月 京都の地名検証 3 京都地名研究会編 六道町(入手)

 今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「大文字の送り火の松割木を奉納」
<其の二 大文字の送り火の松割木を奉納>
 「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、大文字の送り火が放映されています。今回はこの大文字の送り火で使われる松割木を奉納してきました。大文字の場合、特定非営利活動法人大文字保存会が運営されています。銀閣寺の門前でテントを張り、奉納の護摩木が300円、松割木が400円です。銀閣寺とは直接の関係は無く、隣の浄土院の(元)檀家による世襲で大文字保存会が成り立っているようです。

 五山送り火(ござんのおくりび)は、毎年8月16日に京都府京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)などで行われるかがり火。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。 京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事。葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる。(ウイキペディア参照)

写真は銀閣寺前の特定非営利活動法人大文字保存会が運営している護摩木、松割木の受付テントです。8月15日の午後と16日の一日が受付です。私は15日に訪ねましたが、並ぶ程は混んでいませんでした。ただ、書くところは混んでいますので、太いマジック等を持って行かれた方が良いとおもいます。

 今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「小野篁、紫式部の墓」
<其の三 小野篁、紫式部の墓を訪ねる>
 「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」では東山区六波羅松原通、五条坂から北に二筋上がった松原通にある六道珍皇寺の「迎え鐘」を紹介しています。この六道珍皇寺には「小野篁卿 冥土通いの井戸」があり、小野篁が冥界へ行くときに利用したと伝えられる井戸で、現世に戻ってくる井戸は上嵯峨の「生の六道」にあったと伝えられています。前々回は番外編として、上嵯峨野の現世に戻ってくる井戸があった「生の六道」を紹介しましたので、今回は小野篁のお墓を訪ねて見ました。なんと、紫式部の墓所と並んでありました。

竹村俊則氏が「月刊 京都(1970/10/01)」に「小野篁伝説考」として墓の所在を書いています。
 「…篁の墓については、現在北区紫野西御所田町(堀川通北大路下ル西側)、島津製作所紫野工場の一画内にある古塚をそれとつたえる。塚は東西にならぶ二つの墳丘からなり、古来右を小野篁、左を紫式部の墓とつたえる。船岡山周辺に散在する古墳の一つで、なににもとづいてかく称するのかは明らかではないが、比較的古くからのいい伝えによるものらしい。南北朝時代に成立した源氏物語註釈本「河海抄」巻一に式部の墓所は雲林院の白毫院の南に在り。小野篁の墓の西なり。(原漢文)としるされているのが文献による初見であろう。右の一文は、式部の墓は雲林院村の白毫院の南にあって、その東に当って篁の墓があると解すべきで、二つの墓はややはなれて存在していたように思われる。現在の如く二つの墓が相接している場合は「右同所に在り」とか「その傍らに在り」と書かれるべきで、すでにこの時点において疑義がある。…
…幕末の頃、篁の後裔と称する横山政和(金沢藩家老)によって墓の修復がおこなわれ、明治二年(一八六九)「参議小野公坐域碑」としるした立派な石碑が建てられて現在に至っている。…」


写真は島津製作所紫野工場横にある小野篁、紫式部墓所の入口です。少し交通の便が悪いところにあります。バスなら「堀川鞍馬口」で降りればすぐです。

 今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。