●「京都人の密かな愉しみ Blue」のロケ地を歩く(YouTube)
    初版2017年11月15日  <V02L01> 其の一 八瀬 瑠璃光院 暫定版
    二版2017年11月24日  <V02L01> 其の二 「玉井パン(まっしゅ京都)」を訪ねる 暫定版
    三版2017年12月2日  <V02L01> 其の三 ドラマの最初の映像 四ヶ所(つかみ部分) 暫定版
    四版2017年12月5日  <V01L01> 其の四 大文字の送り火 暫定版
    五版2017年12月16日  <V02L01> 其の五 Bar Forest Downを探す 暫定版
    六版2017年12月23日  <V01L01> 其の六 三上家路地と周辺を訪ねる 暫定版
    七版2018年1月6日  <V02L01> 其の七 芸妓一筋の花街 宮川町を歩く 暫定版
    八版2018年1月28日  <V01L01> 其の八 京漬物 松長を探す 川勝総本家、田中長奈良漬店 暫定版
    九版2018年6月22日  <V01L01> 其の九 料亭「萩坂」と女将 萩坂唯子が歩いた道を探します 暫定版
    十版2018年7月20日  <V01L01> 其の十 お盆の行事の六道珍皇寺「六道詣り(迎え鐘)」 暫定版
    十一版2018年7月27日  <V01L01> 其の十一 お盆の行事の矢田寺「送り鐘」 暫定版
    十二版2018年8月3日  <V01L01> 其の十二 伏見の映像のつかみの部分に使われたところを探す 暫定版
    十三版2018年8月7日  <V01L01> 其の十三 伏見区下鳥羽長田町の増田徳兵衛商店で「月の桂」を買う 暫定版
    十四版2018年9月6日  <V01L01> 其の十四 おひな様で登場の「料亭ちもと」を探す 暫定版
    十五版2018年9月19日  <V01L01> 其の十五 “とある非公開のお寺”を探す 暫定版
    十六版2018年9月23日  <V01L01> 其の十六 パンオタクのけったいな天才がいるパン屋さんを訪ねる 暫定版
    十七版2018年10月6日  <V01L01> 其の十七 宮坂羊山の陶芸展示会が開かれた「隨心院」を訪ねる 暫定版
    十八版2018年10月14日  <V01L01> 其の十八 四方参りの北野天満宮を訪ねる 暫定版
    十九版2018年11月3日  <V01L01> 其の十九 送る夏編、節分の鬼 立春のアホ編で登場した壬生寺 暫定版
    廿版2018年11月6日  <V01L01> 其の廿 嵯峨野 御室焼窯元 羊山窯を探す 暫定版
    廿一版2018年12月12日  <V01L01> 其の廿一 「Blue 修行中/祝う春」のつかみ部分のロケ地を探す 暫定版
    廿二版2018年12月26日  <V01L01> 其の廿二 とある非公開のお寺(厭離庵(えんりあん) 暫定版
    廿三版2019年2月15日  <V01L01> 其の廿三 洛北 大原の里 三千院 暫定版
    廿四版2019年3月1日  <V01L01> 其の廿四 江波杏子さん演じる松陰タエさんの京野菜農家を探す 暫定版
    廿五版2019年3月13日  <V01L01> 其の廿五 北野天満宮の梅と老松の干菓子 暫定版  
    廿六版2019年3月17日  <V01L01> 其の廿六 壬生寺 節分会を訪ねる 暫定版  
    廿七版2019年3月21日  <V01L01> 其の廿七 八坂神社の節分祭を訪ねる 暫定版
    廿八版2019年3月27日  <V01L01> 其の廿八 京都 吉田神社の節分祭を訪ねる 暫定版
    廿九版2019年4月21日  <V01L01> 其の廿九 京都 大覚寺の「左近の梅」と梅林を訪ねる 暫定版
    卅版2019年5月10日  <V01L01> 其の卅 城南宮 神苑のしだれ梅と椿の花の風情 暫定版
    卅一版2020年2月11日  <V01L01> 其の卅一 節分の鬼編 北野天満宮の節分祭を訪ねる 暫定版
    卅二版2020年8月5日  <V01L01> 其の卅二 庭師の二人が玉井パンでパンを買って食べている公園を探す 暫定版  

 「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」は「京都人の密かな愉しみ 秋 冬 桜散る」の続編として2017年9月にNHK BSプレミアムで放送されたドラマです。前編からは出演者はほとんど入れ替わっています。内容は前編と同じく観光旅行では見えにくい京都人の生活や文化を、京都独特の風景をロケ地に使ってコミカルに描いています。このロケ地をYouTubeで紹介します。


「八瀬 瑠璃光院」
<其の一 瑠璃光院(修正再アップ)>
今回の「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」は出演者が全員修行中ということで、8月の暑い京都で親方について修業を行なっているところをドラマ化しています。今回は若林ケント幸太郎演じる庭師見習い 林遣都が石橋蓮司演じる作庭家 大十五代 美山清兵衛に鍛えられている場面です。八瀬の瑠璃光院の「瑠璃の庭」、「臥龍の庭」で撮影しています。

写真は八瀬 瑠璃光院の山門です。今回は特別公開日に合せて訪ねました。拝観料が2千円と高いので空いているかなとおもったら、一杯でした。紅葉の頃は山門前に行列が出来るそうです。(拝観料を見て帰った方もいました)

<瑠璃光院>
ここ「八瀬」の地は、「矢背」とも記されるように、壬申の乱で背に矢傷を負った大海人皇子(天武天皇)が「八瀬のかま風呂」で傷を癒したことから、平安貴族や武家の時代を通じて「やすらぎ」の郷として長く愛されてきた。
この地には、当初、明治に建てられた別荘があり、三条実美はこれを「喜鶴亭」と名づけ、直筆の命名額が当院に残されている。…
その後、昭和初期にかけて、一万二千坪の敷地に東山を借景とした築庭と延べ二四〇坪に及ぶ数奇屋造りに大改築された。建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された中村外二、築庭は、佐野藤右衛門一派の作と伝えられている。…
山門を入ると、数十種類のもみじや苔、数百本の馬酔木(あせび)、比叡山の伏流水が、主庭「山露地の庭」、「瑠璃の庭」、「臥龍の庭」を四季折々で趣で彩っている。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「まっしゅ京都」
<其の二 玉井パン(まっしゅ京都)>
2018年8月10日 BGM変更及び一部修正の上、再アップ
今回の「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」は出演者が全員修行中ということで、8月の暑い京都で親方について修業を行なっているところをドラマ化しています。今回は趣里(水谷豊&伊藤蘭ご夫妻のお嬢さん)演じるパン職人見習い 上町葉菜が勤めるパン屋 玉井パン(実際は「まっしゅ京都」)で頼りないパン職人 甲本雅裕演じる玉井利夫を支えているところです。

写真は「ブランジュリーまっしゅ京都」です。「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で「玉井パン」として撮影されました。

<ブランジュリーまっしゅ京都>
The Bakery Shop 京都四条烏丸近く東洞院高辻「ブランジュリーまっしゅ京都」。
パンを探究する毎日。そんな古都、ぱんの店です。(ホームページより)
住所:京都市下京区東洞院通高辻下る灯籠町568

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「大文字山から京都市内を撮影」
<其の三 ドラマの最初の映像 四ヶ所(つかみ部分)>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」のつかみ部分、最初の映像四ヶ所を撮影してきました。三脚を持って行けば良かったのですが、重たいので全て手持ち撮影となっています。特に今回の撮影は望遠が多かったので、通常撮影時に使っている”ジンバル+カメラ”では無く、SONYのビデオ FDR−AX55で、手振れを有効にして撮影しています。手持ちなので、かなりの望遠で撮影すると、どうしてもブレが出てしまいます。

<撮影場所>
・大文字山から京都市内を撮影(送り火の大の字のところから撮影)
・千本中立売から東を撮影
・西大路三条から西を撮影(嵐電を撮影)
・鴨川の荒神橋から北を撮影
・千本中立売から一本南の千本仁和寺街道から東を撮影

写真は大文字山から京都市内を撮影(送り火の大の字のところから撮影)したものです。銀閣寺から山登りで30分程なのですが、重たいとおもって三脚を持って行かなかったのが失敗でした。望遠だと、どうしても手振れが出てしまいます。
・修正版をアップ(2018/09/04)
今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「大文字の金尾(かなわ)」
<其の四 大文字の送り火 (2017/12/05)>
(2020年9月20日 BGMを変更及び一部修正の上、再アップ)
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、大文字の送り火を手伝うところが描かれていましたので、実際に「大文字の送り火」のところまで登ってみました。ドラマでは、毎熊克哉さん演じる松陰鋭二(農家見習い)が大文字保存会の「大文字送り火」を手伝います。先ずは銀閣寺の左にある八神社に集まって準備を始めます(送り火の五日前から準備)。前日と当日には人々は送り火で燃やす割り木と護摩木を求めて銀閣寺にやってきます。そして、求めた木に願い事や故人の戒名を書いて再び冥府に送り返すために送り火で燃やす訳です。

<登山ルート>
・銀閣寺道バス停で下車
・銀閣寺道を銀閣寺正面入口まで進む(約650m)
・銀閣寺正面を左に曲り八神社まで進む(約60m)
・八神社から荷物運搬用ケーブルまで(約550m)
・荷物運搬用ケーブルから大文字送り火まで(約700m)
休まず歩くと、30分程度で登れますが、途中からかなりキツイ登りになります。お子様も登っていました。

<大文字の送り火>
京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事。葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされます。
毎年8月16日に
「大文字」(京都市左京区浄土寺・大文字山(如意ヶ嶽)。20時00分点火)
「松ヶ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
「舟形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)
「左大文字」(京都市北区大北山・左大文字山。20時15分点火)
「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼陀羅山。20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされます。点火時間は1962年までまちまちだったが、1963年から観光業界からの要請により、大文字が20時ちょうどの点火となり、反時計回りに20時10分から松ヶ崎妙法、20時15分から舟形万灯籠および左大文字、20時20分から鳥居形松明と固定化した。2014年に51年ぶりに点火時間が変更され、松ヶ崎妙法および舟形万灯籠がそれぞれ5分点火時間が早まった。この変更により5山が5分おきに点火されていくことになる。(ウイキペディア参照)

写真は大文字の金尾(かなわ)のところから京都市内を撮影したものです。金尾(かなわ)は大の字の丁度真ん中になります。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「cafe mole」
<其の五 Bar Forest Downをさがす>
(2018年8月9日 BGMを変更及び一部修正の上、再アップ)
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、修行中の5人が集まるバーがBar Forest Down(バー フォレスト ダウン)です。林遣都が演じる若林ケント幸太郎(庭師見習い)の母親(秋山菜津子演じる若林志保)がやっているバーという設定です。このバーには団時朗が演じるエドワード・ヒースローもやってきて、浅野和之演じる杉下民蔵(高校教師)とのやり取りが面白いです。秋山奈津子さんが演じる若林志保はケントが小さい時に離婚して、実家のある京都に戻り、昔からの夢であった店を開きました。留学でイギリスに行き10年暮らし、京都に戻って20年の設定になっています。

写真は京都市中京区 御幸町通二条下る山本町424の”cafe mole”です。お店に入ってビックリ、ドラマとは全く違いました。ドラマではカウンターがU字型になっていましたが"cafe mole"はカウンターは直線のみで、左側に4人がけの座席が複数ある構造でした。お店の中はスタジオで撮影したのかともおもいましたが、天井のクーラー等がスタジオにしては余に良く出来ていたので何処かのお店ではないかと思ったりしています。京都住まいではないのでこれ以上は分かりません。残念!!

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「三上家路地」
<其の六 三上家路地と其の周辺を訪ねる>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、上杉祥三さん演じる染上染工所社長の上町光治が客先から出てくると、目の前を娘の葉菜(水谷豊&伊藤蘭ご夫妻のお嬢さん)演じるパン職人見習い(玉井パン)が自転車で通り過ぎて行くのを目撃します。後を追うと三上家路地へ入っていきます。三上路地の入口で、娘の葉菜がこの路地に住んでいるおばあさんにパンをあげているのを見ます。其の後、娘の作ったパンを買いに玉井パンを訪ねています。

写真は京都市上京区紋屋町319−3の”三上家路地”です。三上家は西陣の御寮織物司として長く続いた御家だそうで、昔はこの三上家路地に職人達を住まわせていましたが、近年、この路地をカフェやお店、芸術家達に解放して有名になっています。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「宮川町」
<其の七 芸妓一筋の花街 宮川町を歩く(修正再アップ)>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、高岡早紀さん演じる宮川町出身の料亭の女将・萩坂唯子が後輩の芸妓達に出会う場面に使われたところをあるいてみました。又、同じ所が「京都人の密かな愉しみ 秋編、月と京都人編」のも使われていました。此方は黒谷友香さん演じる宮川町の芸妓・葉月が後輩の舞妓と一緒に歩く場面です。どちらも、花街 宮川町の雰囲気が良くでていました。

写真は京都市左京区宮川筋5丁目の宮川町通から北を撮影したものです。この附近は宮川町のお茶屋さんと置屋さんが並んでいます。私にはお茶屋さんと置屋さんの区別がつきませんが、芸妓さんや舞妓さんがいるのが置屋さんで、お客さんに食事の接待をしたり藝を見せたりするのがお茶屋さんだとおもっております。この宮川町通も電柱が無くなるともっと良くなるとおもいます。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「川勝総本家」
<其の八 "京漬物 松長"を探す 川勝総本家、田中長奈良漬店>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、矢本悠馬さん演じる板前見習いの松原甚の実家が漬物屋(テロップには下京区綾小路室町の京漬物 松長)で、家に帰るところが撮されているのですが、実際のロケ地は下京区大宮通五条上ル上五条町の京漬物 川勝総本家が使われています。下京区大宮通五条上ル上五条町の京漬物 川勝総本家は京町家の建物で、ドラマでの京漬物屋のロケ地としてはピッタリだったのではないかとおもいます。矢本悠馬さん演じる板前見習いの松原甚が帰宅するのは夜で、回りが写っていないため場所がなかなか分かりませんでした。

<京町家とは>
京町家(きょうまちや)とは、昭和25年(1950)以前に京都市内に建てられた町屋を含む木造家屋です。昭和40年代の民家ブームの際につくられた造語であり、江戸時代にこのような言葉はありませんでした。町屋(まちや)とは、民家の一種で町人の住む店舗併設の都市型住宅です。(ウイキペディア参照)
「田中長奈良漬店」
 ドラマでは奈良漬けの紹介画面で"下京区綾小路烏丸西入ル 創業二百二十八年の老舗漬物屋"として田中長奈良漬店が紹介されています。又、”京漬物 松長”の場所のテロップは”下京区綾小路室町”なので田中長奈良漬店の場所です。又、京漬物の製造工程なども撮影されいますが、田中長奈良漬店ではないかと言われていますがよく分かりません。
 
写真上は下京区大宮通五条上ル上五条町の京漬物 川勝総本家です。交通の便が悪く、歩いて行ったので場所を探すのに苦労しました。写真下は下京区綾小路烏丸西入ルの田中長奈良漬店です。四条烏丸から直ぐで、交通の便の良いところです。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「高台寺和久傳」
<其の九 料亭「萩坂」と、高岡早紀さん演じる女将 萩坂唯子が歩いた道を探します>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏、祝う春」で、高岡早紀さん演じる宮川町出身の萩坂唯子が女将をしている料亭 「萩坂」と、萩坂唯子が日傘をさしながら歩いた道を探します。今回の料亭「萩坂」を探すのに参考になるのは、大津の石山寺 芭蕉庵で放映された大原千鶴さんの作られた花見弁当を持って大津 石山寺の芭蕉庵で 桑村祐子さん、永松仁美さん、松尾剛アナウンサーでお花見を愉しんいる場面です。桑村祐子さんは料亭「高台寺和久傳」の女将ですので、ここが「萩坂」ではないかと見当をつけました。その上で、日傘をさしながら歩いた道もこの付近ではないかと推定しました。

近くに谷崎潤一郎が戦後間もなく宿泊していた下河原の旅館「喜志元」も訪ねて見ました。参考に見て頂ければとおもいます。

写真は京都市東山区高台寺北門前鷲尾町にある料亭「高台寺和久傳」です。「京都人の密かな愉しみ Blue」の“修業中/送る夏”と“祝う春”の両方で使われている料亭「萩坂」のロケ地となった料亭「高台寺和久傳」です。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「六道珍皇寺 迎え鐘」
<其の十 道珍皇寺>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で紹介された六道珍皇寺を訪ねます。お盆で先祖の霊を迎える家族は六道珍皇寺の参道で魂の依り代になる高野槇(こうやまき)の枝を買い求め、本堂前で水塔婆に呼び寄せたい先祖の戒名や俗名を書いてもらいます。そして冥土にまで届くといわれる「迎え鐘」を突いて霊をこの世に呼び寄せます。お向かいされた先祖の霊は高野槇へ乗り移り家族と共に懐かしい家に帰っていきます。帰り道は寄り道をせずに帰ります。 尚、霊を冥土に送り返すのは寺町通三条上ルの矢田寺の「送り鐘」を撞いて行ないます(次回掲載予定)。

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7日 - 10日の「六道詣り」が有名、小野篁卿が冥界に通ったと伝わる井戸で知られています。この付近は平安時代の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれています。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされています。 (ウイキペディア参照)

写真は東山区六波羅松原通、五条坂から北に二筋上がった松原通にある六道珍皇寺の迎え鐘です。

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「矢田寺 迎え鐘」
<其の十一 矢田寺>
前回は「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏」で、お盆に先祖の霊を迎える六道珍皇寺の「迎え鐘」を紹介しました。今回はその続きで、お盆が終れば先祖の霊を冥土へと送りかえす寺町通三条上ル 矢田寺の「送り鐘」を紹介します。この鐘を撞いて送り返す訳です。

矢田寺は 金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田寺の名で知られています。寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め、大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)に創建され、以後、寺地を転々とし、天正七年(1579)に現在の地に移されたといわれています。(京都観光Navi参照)

写真は寺町通三条上ルの矢田寺です。写真正面に「送り鐘」があります。お寺自体は小さいですが、場所が良いのでお参りの方は多いです。()今回からYouTubeのサムネイルと同じ画像を使用しています)

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「松本酒造の酒蔵」
<其の十二 伏見の映像のつかみの部分に使われたところを探す>
今回は「京都人の密かな愉しみ Blue 祝う春」で、伏見の場面で、つかみの部分に使われた映像の場所を探します。二ヶ所使われているのですが、明け方の暗い場面の映像で、なかなか場所が分からなかったのですが、探し当てました。

<場所は全て月桂冠関連の建物でした>
・月桂冠大倉記念館から北に次の交差点から南側を撮影したものです。
・月桂冠大倉記念館の裏側、濠川(ほりかわ)側の南から撮影したものです。
いずれも明け方の暗い時に撮影されています。また冬の時期だとおもわれます。

写真は伏見(中書島)の松本酒造の酒蔵です。良くテレビや映画で使われている映像です。「京都人の密かな愉しみ Blue 祝う春」ではこの映像は使われていません。上記の通り二ヶ所全て月桂冠関連の建物の映像を使っています。どこが使われたかはYouTubeを見て下さい。(今回からYouTubeのサムネイルと同じ画像を使用しています)

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「増田徳兵衛商店「月の桂」」
<其の十三 増田徳兵衛商店で「月の桂」を買う>
前回に引き続き伏見(中書島駅)から出発です。「京都人の密かな愉しみ Blue 祝う春」で、立春の日の早朝に搾られる縁起物の酒として増田徳兵衛商店の“月の桂 立春朝搾り 純米吟醸”が紹介されていたので、伏見区下鳥羽長田町の増田徳兵衛商店まで「月の桂」を買いに出かけました。ただ、伏見区下鳥羽長田町の増田徳兵衛商店の場面では“月の桂 立春朝搾り 純米吟醸”でしたが、Bar Forest Downの場面では、名前が“月の露 立春朝搾り 純米吟醸”になっていました。商品名をそのまま出すのはまずいのか、桂→露に変えていました。

写真は伏見区下鳥羽長田町の増田徳兵衛商店で購入した「月の桂」です。美味しかったです。創業三百四十三年の蔵元だそうで、千本通に面していて、昔からの酒蔵ということがよく分かります。

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「料亭ちもと」
<其の十四 おひな様で登場の料亭ちもとを探す>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春、ひな祭りと京男編」で登場した毎年3月にはおひな様を飾る「料亭ちもと」を探します 。ドラマでは十三代目女将 松井薫さんが雛飾りの説明をしていました。大正時代に作られた「古今雛」、大正時代の京都の高名な人形師が二組だけ作ったという、もう一組は皇室に献上されたと言われています。先々代に娘が誕生したことからこの家にやってきたおひな様、代を重ねるごとに人形や道具を買い足し、今や広間一杯になったおひな様を愉しみながら、ひな祭りに因んだ料理と、ほんのり甘い白酒愉しむそうです。 「料亭ちもと」の場所は、ドラマではテロップで四条木屋町と紹介されたいますが、正確には西石垣通です。四条通を北に上がれば先斗町、南に下れば西石垣通です。読み方が難しくて「さいせきどおり」と読むようです。

おまけですが、山鉾巡行で京都四条河原町での鉾の方向転換を撮影しました。見て頂ければとおもいます。

写真は四条通の鴨川左岸(東側)から右岸を撮影したものです。正面のビルは東華菜館本店でその左側の三階建ての日本家屋が「料亭ちもと」です。「ちもと」のホームページによると、“享保3年(1718)に創業し、以来約300年の間、ここ京都の地で料理屋を営んでまいりました。創業時、ちもとは西陣の千本通にて産声をあげました。現在の地には明治初期に移転。その際、ちもとの原点である「千本通」から「ちもと」(千茂登)と名付けました。”とあります。“ちもと”は“千本”からきているのが分かりました。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「厭離庵」
<其の十五 つかみ部分の“とある非公開のお寺”を探す>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」の最初に、つかみ部分としてで登場した“とある非公開のお寺”を探しました。ドラマでは石橋蓮司さん演じる作庭家 十五代目 美山清兵衛が竹垣の細い道の先の門の前にすくっと立っている映像でした。最初はよく分からなかったのですが、竹垣の先の門から、二尊院の手前にある厭離庵(えんりあん)ではないかとおもい、実際に訪ねて見たところ、そのままの映像でした。入口が分り難く、二度程往復してしまいました。

<厭離庵(えんりあん)>
京都府京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院(尼寺)。山号は如意山。本尊は如意輪観音。 藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山荘跡にある寺として知られており、境内には書院の他、時雨亭・柳の水(硯の水)、定家塚や定家の嗣子である為家の墓が残されている。 また、紅葉の名所としても知られており、秋の紅葉シーズンに限り一般公開がされている。 厭離庵の所在地は、鎌倉時代初期の公家・藤原定家の山荘跡と伝えられる。しばらくして荒廃し、江戸時代初期には定家・為家塚が残るのみとなっていたが、元文元年(1736年)の頃、定家の子孫である公家の冷泉家がわずかに残っていた土台石をもとに修復し、霊元天皇が『厭離庵』という号を授けて、白隠禅師の弟子の霊源が開山したのに始まるという。 その後、安永元年(1772年)に(覺雄山大sc寶幢禪寺)鹿王院の末庵となったり、次いで明治20年(1887年)1月に大覚寺に属するなどしたが再び荒廃する。明治43年(1910年)に白木屋社長の大村彦太郎(10代)が佛堂と庫裡を建立し、山岡鉄舟の娘である素心尼が住職となって以後は尼寺になる。(ウイキペディア参照)

<中院山荘跡(ちゅういんさんそうあと)(小倉百人一首ゆかりの地)>
鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(このとき郎党60余人も同様に出家した。)後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山山麓に山荘を構えていた 藤原定家とも親交があり、彼の娘が定家の子 為家に嫁いでいる。嘉禎元年(1235)5月、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。(京都府の説明文)

写真は京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町の厭離庵入口を竹垣の小径から撮影したものです。天候が良くなかったので今一の写真です。紅葉の名所としても知られており、秋の紅葉シーズンに限り一般公開がされるので、再度訪問する予定です。又、つかみ部分としては、あと二ヶ所、広沢池付近の映像が使われていますので、時間を見つけて撮影してくる予定です。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「志津屋(イオンモール京都桂川)」
<其の十六 パンオタクのけったいな天才がいるパン屋さんを訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」に登場するパン屋さんを探しました。NHKでは会社名やお店の名前を言わないので、お店を探すのは大変です。「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」では“パンオタクのけったいな天才がいるパン屋さん”として紹介されていたので、放映された映像と合せて探しました。映像の中で“パンオタクのけったいな天才”はテロップで小林健吾さんと紹介されていたのと、食パンが「匠」となっていたので、パン屋さんは京都の「志津屋」さんと分かりました。放映されたお店を探しましたが、23店舗もあってよく分かりませんでした。ただ、イオンモールに出店しているお店のようでした(どのお店も同じような作りで判別が難しいです)。パンを買って中のカフェコーナーで食べたかったのですが、時間が無くて駅のベンチでの試食となりました。どのパンも美味しかったです。コーヒーを飲みながらゆっくりパンを食べたかったです。

写真はイオンモール京都桂川の中にある志津屋さんです。撮影はこのお店のようにも見えるのですが、よく分かりません。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「隨心院」
<其の十七 宮坂羊山と釉子さんの陶芸展示会が開かれた「隨心院」を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」の最後に本田博太郎さん演じる陶芸家 宮坂羊山と相楽樹さん演じる陶芸家見習いの宮坂釉子(羊山の娘)が「2018 花×陶」に出品している場面が放映されています。この展示会が開かれたのが「隨心院」です。本田博太郎さん演じる陶芸家 宮坂羊山の「仁清写し 梅月色絵壺」が展示されたのが表書院で、相楽樹さん演じる陶芸家見習いの宮坂釉子の「色絵大皿 苔に椿」が展示されたのが奥書院です。宮坂羊山が娘の宮坂釉子の「色絵大皿 苔に椿」を見て、「え〜ふぜいや」と言ったのが印象的でした。表書院、奥書院とも写真撮影が禁止でした。ふすま絵の保存のためとおもわれます。

<隨心院(ずいしんいん・ずいしんにん)>
京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、隨心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。隨心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。…(ウイキペディア参照)

写真は隨心院の薬医門です。薬医門、大玄関、表書院は九条家ゆかりの天真院尼の寄進により寛永年間(1624年-1631年)に建造されたと伝えられています。(ウイキペディア参照)。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「北野天満宮」
<其の十八 四方参りの北野天満宮を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」で、四方参りとして紹介された吉田神社、八坂神社、壬生寺、北野天満宮で今回は北野天満宮を訪ねます。御所から見ると北東(丑寅)の方角が鬼門で、季節の変わり目(節分)には 鬼が出ると言われています。御所の四方に鬼門を守る寺社を置いています。 表鬼門の北東には吉田神社、南東には八坂神社、裏鬼門の南西のは壬生寺、 北西には北野天満宮となるわけです。節分の鬼は北東にある吉田神社から南東にある八坂神社、南西にある壬生寺 と右回りで順次追われて来ます。最後に北西(戌亥)へ、しかしそこには 北西を守る北野天満宮があります。節分に北野天満宮で行なわれる北野追儺 (ついな)狂言では、鬼と福の神との直接対決となり、結局鬼は追い払われる運命となります。

<北野天満宮(きたのてんまんぐう)>
京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。 永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。 以来、北野天満宮は幕末の神仏分離令まで三院家(松梅院など)の社僧が、代々神官を務めた。明治4年(1871年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理(国家神道)を脱したあとである。 (ウイキペディア参照)

写真は北野天満宮の本殿です。季節が節分の後で、受験シーズンだったのでお参りの方が多かったです。ただ、梅の季節には早かったです。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「壬生寺」
<其の十九 送る夏と祝う春の二回登場した壬生寺を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏、祝う春」で二回登場した壬生寺を訪ねます。最初は「送る夏」の八月十日の万灯供養会で本堂と千体仏塔が蝋燭の火で美しく照らされていました。次が「祝う春」の四方参りとして紹介された吉田神社、八坂神社、壬生寺、北野天満宮で今回は壬生寺となります。御所から見ると北東(丑寅)の方角が鬼門で、季節の変わり目(節分)には 鬼が出ると言われています。御所の四方に鬼門を守る寺社を置いています。 表鬼門の北東には吉田神社、南東には八坂神社、裏鬼門の南西のは壬生寺、 北西には北野天満宮となるわけです。節分の鬼は北東にある吉田神社から南東にある八坂神社、南西にある壬生寺 と右回りで順次追われて来ます。壬生寺の節分会には壬生大念仏狂言の鬼払いの演目「節分」が行なわれ、結局鬼は追い払われる運命となります。

<壬生寺(みぶでら)>
京都市中京区壬生にある律宗大本山の仏教寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺、心浄光院と号した。園城寺(三井寺)の僧快賢が、正暦2年(991)に自身の母のために建立したとされる。寛弘2年(1005)には堂供養が行われ、この時小三井寺と名付けられた。白河天皇の行幸の際には、地蔵院の寺号を賜ったといわれている。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。 中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる。 江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。 (ウイキペディア参照)

写真は壬生寺の表門です。五条から京漬物の川勝総本家に寄ってきたので、撮影が夕方になってあまり綺麗な絵のはなっていません。尚、新撰組に関しては別途掲載する予定です。

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「林山陶苑さん」
<其の廿 嵯峨野 御室焼窯元 羊山窯を探す>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/送る夏、祝う春」の、僕らの師匠編、私の悩みは梅の花編のテロップで右京区嵯峨野 御室焼窯元 羊山窯と書かれた 羊山窯のロケ地を探しました。最初、周りの風景が嵯峨野風だったので、てっきり嵯峨野にあるとおもって探したのですが見つかりません。グッグても分かりませんでした。どうして見つける事ができたかというと、偶然インスタグラムで見つける事が出来たのです。ロケ地は遠くて、京都府宇治市炭山西ノ谷です。六地蔵から242号線を東に向かい、炭山から北に向かいます。本当に山の中です。Googleのストリートビューもありませんので、実際に現地に行って探すしかありませんでした。ロケ地に使われたのは林山陶苑さんというところです。よくロケに使われているようです。私は陶芸に関しては知識不足ですが、林山陶苑さんは京焼・清水焼では有名な工房のようです。

写真は林山陶苑さんです。京都陶磁器協同組合連合会のホームページによると、過去数百年の伝統と卓越した感覚と技術を誇る京焼を、ここ宇治上炭山の地に開花発展させようと昭和46年10月に過密化した京都市街の五条坂、泉涌寺地区をはなれ、気鋭の十業者がここに移転してきたと書かれています。

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「広沢池」
<其の廿一 「Blue 修行中/祝う春」のつかみ部分のロケ地を探す>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」で、つかみ部分に使われたロケ地を探します。京都 嵯峨野とテロップが出たのと、最初のつかみ部分が池だったので、広沢池か大沢池と見当をつけました。後はGoogleのストリートビューで探すだけです。最初のつかみ部分は広沢池と直ぐに分かりました。次のつかみ部分のロケ地がなかなか分からず苦労しました。Googleのストリートビューでは分かりませんでした。仕方が無いので、つかみ部分を何回も見て参考になるポイントがないか探しました。右に祠が映っており、この祠が大覚寺の大沢池の天神島の菅原道真公の祠でした。大沢池の天神島の北側から東を撮影したものと分かりました。

<広沢池(ひろさわのいけ)>
京都市右京区の嵯峨広沢町にある周囲1.3kmほどの池である。別名遍照寺池(へんしょうじのいけ)とも呼ばれる。 平安時代の中期、永祚元年(989)に遍照寺の建立にあわせ庭池として本堂の南に造営されたとも言われています。異説として、嵯峨野一帯を開墾した渡来系豪族の秦(はた)氏一族が溜池として造ったとも言われています。平安時代に作られた池は、遍照寺と共に廃れて行きましたが明治時代に、地元の人々の協力で修復されたそうです。(ウイキペディア参照)

写真は広沢池の南西の角から北側を撮影したものです。ここが「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」で、最初のつかみ部分に使われたロケ地です。次のつかみ部分のロケ地は大沢池の天神島の北側です。YouTubeを見て下さい。この場所は夏の台風で木々が倒れたままで入ることが出来ませんでした。遠目に撮影しています。

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「厭離庵(えんりあん)」
<其の廿二 とある非公開のお寺(厭離庵(えんりあん))>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」で、つかみ部分に使われたロケ地を探します。前回は広沢池と大覚寺の大沢池でしたが、最後の一ヶ所は、とある非公開のお寺(厭離庵(えんりあん))です。このお寺は通常非公開ですが秋に特別公開されましたので訪ねました。

<厭離庵(えんりあん)>
京都府京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院(尼寺)。山号は如意山。本尊は如意輪観音。 藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山荘跡にある寺として知られており、境内には書院の他、時雨亭・柳の水(硯の水)、定家塚や定家の嗣子である為家の墓が残されている。 また、紅葉の名所としても知られており、秋の紅葉シーズンに限り一般公開がされている。 厭離庵の所在地は、鎌倉時代初期の公家・藤原定家の山荘跡と伝えられる。しばらくして荒廃し、江戸時代初期には定家・為家塚が残るのみとなっていたが、元文元年(1736年)の頃、定家の子孫である公家の冷泉家がわずかに残っていた土台石をもとに修復し、霊元天皇が『厭離庵』という号を授けて、白隠禅師の弟子の霊源が開山したのに始まるという。 その後、安永元年(1772年)に(覺雄山大sc寶幢禪寺)鹿王院の末庵となったり、次いで明治20年(1887年)1月に大覚寺に属するなどしたが再び荒廃する。明治43年(1910年)に白木屋社長の大村彦太郎(10代)が佛堂と庫裡を建立し、山岡鉄舟の娘である素心尼が住職となって以後は尼寺になる。(ウイキペディア参照)

<定家の嗣子である為家の墓が横の公園にあります>
鎌倉時代中期の公家・歌人。藤原北家御子左流、正二位・権中納言藤原定家の三男。官位は正二位・権大納言。御子左家の嫡男として生まれた為家は、元久2年(1205年)に母方の祖父・藤原実宗邸で元服を行い、伯父・西園寺公経の猶子となる。嘉禄2年(1226)に参議として公卿に列すると、嘉禎2年(1236)に権中納言、仁治2年(1241)には、父・定家を越える権大納言にまで昇った。為家は後嵯峨院歌壇の中心的な歌人としても活躍。「宝治百首」に参加し、建長3年(1251)には『続後撰和歌集』を単独で撰進している。晩年は『十六夜日記』を記した阿仏尼と同棲して儲けた一子・為相を溺愛した。死後これが遺領相続問題に発展、その結果御子左家は嫡流の二条家と庶流の京極家・冷泉家に分裂するに至った。(ウイキペディア参照)

写真は厭離庵の本堂に向かう階段です。この本堂前の階段の上に立って望遠鏡で梅を見ている石橋蓮司さん演じる作庭家 十五代目 美山清兵衛が「ちょっと遅いか」と言っている場面と、林遣都さん演じる若林ケント幸太郎(庭師見習い)が枯葉の堆肥(土と混ぜて遅効性の肥料にする)で寒肥を行っている場面で、石橋蓮司さん演じる作庭家 十五代目 美山清兵衛から「優しさがだけが取り柄の男は結局女に捨てられるんや」言われる場面に使われています。

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「洛北 大原の里 三千院」
<其の廿三 洛北 大原の里 三千院>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春」の“節分の鬼 立春のアホ編”で、三千院 初午大根焚き(はつうまだいこんだき)が紹介されていました。今年の初午大根焚き(はつうまだいこんだき)は2月8日〜10日だったのですが、私の日程と合わず、仕方が無いので5日に訪ました。来年は日程を調整して訪ねて見たいとおもいます。

“節分の鬼 立春のアホ編”では初午大根焚き(はつうまだいこんだき)を下記のように紹介していました。
「洛北 大原の里の代名詞とも言える古刹 三千院 大原で農業を営む人々が寄進した大根を護摩供用し大釜で炊いて参拝者に振るまいます。 一年の農作業が始まるこの時期に五穀豊穰を祈り、合せて無病息災、開運招福を祈願します。 立春を過ぎた初めての午の日に行われる初午大根焚きは文字通り大原の里に春を告げる行事です。」

<三千院(さんぜんいん)>
左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。 三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、明治4年(1871)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は明治4年(1871)以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀如来及両脇侍像(阿弥陀三尊像)を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。(ウイキペディア参照)

写真は洛北 大原の里 三千院の御殿門です。流石に門跡の寺院で、両側に高い石垣があり、お城みたいです。

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「洛北 大原 わっぱ堂」
<其の廿四 江波杏子さん演じる松陰タエさんの京野菜農家のロケ地を大原で探します>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“節分の鬼 立春のアホ編”で、江波杏子さん演じる松陰タエさんの京野菜農家を大原で探します。毎熊克哉さん演じる松陰鋭二(農家見習い)も一緒に住んでいます。

“節分の鬼 立春のアホ編”では下記のように紹介していました。
「洛北 大原 二月八日 冬の農閑期の間、一息ついていたタエさんと鋭二はそろそろ畑仕事に取りかかる頃や、三千院 初午大根焚き(はつうまだいこんだき)の出す大根について話しています 二月九日 ぼくらの町は南北に長い、立春がすぎた言うても北の山里には雪が残ってたりする。」

江波杏子さん演じる松陰タエさんの京野菜農家のロケ地となった「わっぱ堂」さんのホームページには、“お客様に食べていただく米や野菜は、広大な里山の大自然の中で農薬、化学肥料を一切使用せず、真心こめて作られたもののみでお料理させていただいています。”との書かれており、食してみたかったのですが、完全予約制なのと一人だったので今回はパスしました。時期を選んで訪問する予定です。

写真は洛北 大原の里 わっぱ堂さんです。大原のバス停からは少し遠くて、途中でたどり着けるか心配になりましたが、無事たどり着きました。

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炮烙 (ほうらく)
<其の廿五 北野天満宮の梅と老松の干菓子>
“其の十八 四方参りの北野天満宮を訪ねる”で一回登場していますが、今回は梅見と七軒町の老松の干菓子を購入しました。
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“節分の鬼 立春のアホ編”です。“二月二十五日 北野天満宮 梅花祭”は混むので避けて、3月になってから訪ねました。

“祝う春 私の悩みは梅の花編”では、
“京都の人間は本当に梅が好きだ、桜より好きやと言やはる人が多い また格好つけて、て言われるかもしれんけど、ほんまのことやから仕方無い”と言って始まります。そして
“そやから梅の名所も多いし、桜のお花見よりもむしろ梅見を愉しみにしてはる、桜と違うて香りがあるのもええ、僕らの町に春の訪れを告げる匂いや”
林遣都さん演じる若林ケント幸太郎と井之上チャルさん演じる小島陽三郎はこの東門の前に車を止めて、
“どや、しますね!、イカ焼きに焼きそば、微かに鯛焼きも、 おい!、屋台の食いもん当ててどうすんねん、今日は天神さんの市も立っているし、あきませんね!、朝方やと、え〜感じに漂ってくるんやけどな〜!、行で、城南宮さんのしだれ梅の手入れ、終らしとかんと、花が開かんと…” と言って車を動かします。

<北野天満宮(きたのてんまんぐう)>
京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。 通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。 永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。 以来、北野天満宮は幕末の神仏分離令まで三院家(松梅院など)の社僧が、代々神官を務めた。明治4年(1871年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理(国家神道)を脱したあとである。 (ウイキペディア参照)

写真は北野天満宮 三光門左の白梅を通して撮影したものです。「京都人の密かな愉しみ」のつかみと同じ構図です。

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炮烙 (ほうらく)
<其の廿六 壬生寺 節分会を訪ねる>
“十九版2018年11月3日 <V01L01> 其の十九 送る夏編、節分の鬼 立春のアホ編で登場した壬生寺”で一回登場していますが、今回は節分会を撮影してきました。
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“節分の鬼 立春のアホ編”です。

2月2日〜4日の節分会の期間中、素焼きの炮烙 (ほうらく)に家族一同の名前や年齢、願いごとを書いて奉納すると、四月の壬生狂言「炮烙割り」の演目中に割られます。これで厄除開運になります。私も奉納しました。ちなみに、炮烙 (ほうらく)は参道で売られているので購入し、その場で書き込みます。それを持って100円で奉納します。

<壬生寺(みぶでら)>
京都市中京区壬生にある律宗大本山の仏教寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺、心浄光院と号した。園城寺(三井寺)の僧快賢が、正暦2年(991)に自身の母のために建立したとされる。寛弘2年(1005)には堂供養が行われ、この時小三井寺と名付けられた。白河天皇の行幸の際には、地蔵院の寺号を賜ったといわれている。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。 中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる。 江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。 (ウイキペディア参照)


写真は素焼きの炮烙 (ほうらく)です。厄除大念仏と書かれています。裏に家族一同の名前や年齢、願いごとを書きまます。後はYouTubeを見てください。

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「八坂神社の節分祭」
<其の廿七 八坂神社(やさかじんじゃ)の節分祭を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“節分の鬼 立春のアホ編”で、四方参りの吉田神社、八坂神社、壬生寺、北野天満宮の中の二番目に登場するのが八坂神社です。
御所から見ると北東(丑寅)の方角が鬼門で、季節の変わり目(節分)には鬼が出ると言われています。それで御所の四方に鬼門を守る寺社を置いているわけです。表鬼門の北東には吉田神社、南東には八坂神社、裏鬼門の南西のは壬生寺、北西には北野天満宮となるわけです。
節分の鬼は北東にある吉田神社から南東にある八坂神社、南西にある壬生寺と右回りで順次追われて来ます。


<八坂神社 2月2日-3日 節分祭スケジュール(2019年の節分は2月3日(日曜日))>
2日(節分祭前日)
午後1時 先斗町歌舞会舞踊奉納、芸妓舞妓・年男・年女による豆撒き。
午後2時 弥栄雅楽会舞楽奉納後豆撒き。
午後3時 宮川町歌舞会舞踊奉納、芸妓舞妓・年男・年女による豆撒き。
午後4時 祇園・四条の両参道商店街による豆撒き。
3日(節分祭当日)
午前11時 今様奉納、今様奉納者による豆撒き。
午後1時 祇園甲部歌舞会舞踊奉納、芸妓舞妓・年男・年女による豆撒き。
午後2時 祇園太鼓・祇園獅子舞太鼓・獅子舞奉納、奉納者による豆撒き。
午後3時 祇園東歌舞会舞踊奉納、芸妓舞妓・年男・年女による豆撒き。
午後4時 祇園・四条の両参道商店街による豆撒き。

写真は2日午後3時から奉納された“宮川町歌舞会舞踊奉納”です。芸妓さんが素晴らしいです!!

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「吉田神社の福豆と抽選券」
<其の廿八 京都 吉田神社の節分祭を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“節分の鬼 立春のアホ編”で、四方参りの吉田神社、八坂神社、壬生寺、北野天満宮の中の最初に登場するのが吉田神社です。
御所から見ると北東(丑寅)の方角が鬼門で、季節の変わり目(節分)には鬼が出ると言われています。それで御所の四方に鬼門を守る寺社を置いているわけです。表鬼門の北東には吉田神社、南東には八坂神社、裏鬼門の南西のは壬生寺、北西には北野天満宮となるわけです。
節分の鬼は北東にある吉田神社から南東にある八坂神社、南西にある壬生寺と右回りで順次追われて来ます。
吉田神社では2日18時から開催される追儺式(ついなしき)で鬼を追い払います。俗に「鬼やらい」と呼ばれ親しまれているようです。残念ながらすごい人出で追儺式(ついなしき)の撮影は諦めました。来年、チャンスがあれば再度チャレンジしたいとおもいます。

<京都 吉田神社の節分祭の主な祭事(2019年の節分は2月3日(日曜日))>
2月2日 午前8時 節分前日祭 本宮・大元宮
                       疫神祭 大元宮中門
           午後6時 追儺式(鬼やらい神事) 本宮前 舞殿
     3日 午前8時 節分当日祭 本宮・大元宮
           午後11時 火炉祭 本宮前 火炉
2,3日の両日には約800店の露店が立ち並びます 
     4日 午前9時30分 節分後日祭 本宮・大元宮
           節分3日間 大元宮内院特別参拝

写真は吉田神社の福豆と福引券です。今回は5枚買いましたが何も当たりませんでした。残念!!

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「大覚寺の梅林」
<其の廿九 京都 大覚寺の「左近の梅」と梅林を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“私の悩みは梅の花編”で、相楽樹さん演じる陶芸家見習いの釉子(宮坂羊山の娘)は花×陶展に出展する器について羊山から“梅を描くこと罷り成らぬ”と言われます。そこで友人の林遣都さん演じる若林ケント幸太郎(庭師見習い)に相談したところ、石橋蓮司さん演じる作庭家 十五代目 美山清兵衛が大覚寺さんの梅林の世話をしているので相談してみたらと言われます 。そこで相楽樹さん演じる陶芸家見習いの釉子(宮坂羊山の娘)は大覚寺の梅林の世話をしている作庭家 十五代目 美山清兵衛に会いに行きます。その場面でロケ地として使われていたのが大覚寺の梅林です。
相楽樹さん演じる陶芸家見習いの釉子(宮坂羊山の娘)は大覚寺の梅林で石橋蓮司さん演じる作庭家 十五代目 美山清兵衛から“上手いこと梅の花の持っている風情を写せるかが大切”と言われます。相楽樹さん演じる陶芸家見習いの釉子(宮坂羊山の娘)は随心院で開かれた花×陶展に、梅ではなく“色絵大皿 苔に椿”を出展します。本田博太郎さん演じる陶芸家 宮坂羊山はこれを見て“え〜風情やわ〜”と唸ります。娘の作品に感激したんですね!。

写真は大覚寺の梅林です。昨年の台風の影響でまだ立入禁止になっていました。倒木は撤去されていましたので、オープンは時間の問題とおもいます。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「城南宮 神苑のしだれ梅と椿の花」
<其の卅 城南宮 神苑のしだれ梅と椿の花の風情>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/祝う春編」の“私の悩みは梅の花編”で、相楽樹さん演じる陶芸家見習いの釉子(宮坂羊山の娘)は大覚寺の梅林で石橋蓮司さん演じる作庭家 十五代目 美山清兵衛から“上手いこと梅の花の持っている風情を写せるかが大切”と言われます。ついといでと言われて、梅と苔と椿が綺麗なところに連れて行かれます(行ったのは嵯峨野の非公開のお寺(厭離庵(えんりあん))なのですが、このドラマでは場所を特定していません)。そこで、梅の花を見ながら苔の上に落ちた椿の花を見せられます。“苔の上に落ちた椿の花もだんだんと茶色く汚くなってくる、それを何時拾うかは庭師の風情の問題”といわれます。厭離庵は秋のみの公開で春は公開していません。その場面を、しだれ梅と椿で有名な城南宮で撮影しようとしたのですが、良いロケ場所がなくて厭離庵になったのだと推定ています。結局、城南宮は最後の場面で使われるのみとなっています。

写真は城南宮の神苑で撮影したしだれ梅と苔の上に落ちた椿の花です。椿の花が少しずつ苔の上で朽ちていくのが風情があって良いとおもいます。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「北野天満宮の節分祭」
<其の卅一 節分の鬼 北野天満宮の節分祭を訪ねる>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/節分の鬼 立春のアホ編」で登場する北野天満宮の節分祭を訪ねました。2月3日 13時からが北野追儺式で、北野追儺狂言 茂山千五郎社中、日本舞踊 上七軒歌舞会があり、一番の楽しみは上七軒の芸妓さんと舞妓さんの踊です。

京都御所の四方には鬼門を守る寺社を置いています。表鬼門の北東(丑寅)には吉田神社、南東(辰巳)には祇園社(八坂神社)、裏鬼門の南西(未申)には壬生寺、北西(戌亥)には北野天満宮となります。節分の鬼は北東にある吉田神社から南東にある八坂神社、南西にある壬生寺と右回りで順次追われて、最後に北野天満宮にたどり着きます。

<追儺式>(ウイキペディア参照)
中国で宮中で行われる辟邪の行事として、新年(立春)の前日である大晦日に行われていた。(2020年の旧正月は1月25日で、立春は2月4日)
追儺式とは、儺(鬼)を追い払うといった意味で、熟語としての「追儺」や「鬼やらい」は宮中儀式を離れて、鬼を追い払う節分の行事全般の呼称として幅広く一般で用いられるようになり、節分の豆まきを称する熟語としても使用されるようになったようです。(ウイキペディア参照)

写真は北野天満宮の節分祭です。北野天満宮の摂社福部社(ふくべしゃ)の御祭神である福の神が 鬼を追い払っているところです。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。
「桜井公園」
<其の卅二 京都人の好きなもの編 庭師の二人が玉井パンでパンを買って食べている公園を探す>
「京都人の密かな愉しみ Blue 修業中/京都人の好きなもの編」で庭師の林遣都さん演じる若林ケント幸太郎と井之上チャルさん演じる小島陽三郎が玉井パンでパンを買って二人がパンを食べている公園を探しました。ついでに隣にあった源義経の奥州への出発の地である首途八幡宮(かどで はちまんぐう)も訪ねます。

<首途八幡宮(かどで はちまんぐう)>
 京都府京都市上京区にある神社(八幡宮)。源義経の奥州(東北地方)出発の地であり旅行安全の神社として崇敬を集める。 宇佐神宮から八幡大神を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(応神天皇)、比淘蜷_、息長帯姫命(神功皇后)を祭神とする。 元の名を「内野八幡宮」(うちの はちまんぐう)といい、平安京の大内裏の東北(鬼門)に位置したため、王城鎮護の神とされた。桃園親王がこの地に邸宅を建て、境内地に桃の木を植えたりして、諸人の崇敬の厚い神社として、天皇家からも深い信任を得ていた。 かつて、この地には奥州で産出される金を京で商うことを生業としていた金売吉次(かねうり きちじ)の屋敷があったと伝えられ、承安4年(1174)3月3日、源義経は奥州平泉に赴く際に、吉次の助けを得て、鞍馬山から当社におもむき、道中の安全を祈願して出発したといわれている。「首途」(かどで)とは「出発」を意味し、この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。このことから、特に旅立ち、旅行安全の神として信仰を集めている。 (ウイキペディア参照)

写真は上京区桜井町の桜井公園です。最初、この場所がなかなか分からなかったのですが、バックに移っていた建物からわかりました。

今回はテスト的に動画にしました。写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。