●海外散歩情報(YouTube)
    初版2019年4月19日  <V01L01> フェルメールの故郷 デルフトを訪ねる 暫定版
    二版2019年4月27日  <V01L01> 中世の面影を残したベルギーの町ブルージュを訪ねる 暫定版
    三版2017年7月21日  <V01L01> ウィーンのプラーター公園にある第三の男で登場の大観覧車を訪ねる 暫定版

 海外を自由、勝手気ままに散歩します。有名な教会、カフェ・レストラン、ストリート、何でも歩きます。ただ、更新は年単位となります。


「フェルメールの小路の場所」
<其の1 フェルメールの故郷 デルフトを訪ねる>
 2019年4月にヨーロッパの行く機会があり、オランダのデルフトを訪ねてきました。デルフトは日本で人気があるフェルメールの故郷です。名にし負うわたくしもフェルメールが大好きです。

<ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer 1632年10月31日? - 1675年12月15日?)>
 ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。彼は1632年にデルフトに生まれる。同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚した。この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されている。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した。12月15日に埋葬されたとの記録があるが、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガーが美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。(ウイキペディア参照)

写真はフェルメールの「小路」の場所とおもわれるところです。なんでここだったのかはよく分かりませんが、現地で調べた結果なのではないかとおもわれます。

 写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「ブルージュの運河」
<其の2-1 中世の面影を残したベルギーの町ブルージュを訪ねる>
 2019年4月にヨーロッパに行く機会がありましたので、ベルギーの町 ブルージュを訪ねました。一日時間が取れましたのでゆっくり回ることができました。二回に分けて映像を作成しています。最初は30分弱の運河クルーズです。中世の面影を残したベルギーの町 ブルージュの雰囲気を楽しんでいただけれればと思います。

<ブルージュについて>
  この町の呼び名はブルッヘまたはブリュッヘ、ブルグ、ブラヘなど(オランダ語:Brugge)、ブリュージュ(仏語:Bruges)、ブルージュ(英語:Bruges)ち呼ばれ、日本の百科事典や地名事典では「ブルッヘ」ないし「ブリュッヘ」が用いられることが多いが、観光業などの分野では「ブルージュ」や「ブリュージュ」も多く用いられている。なお、地名の由来は「橋」であり、市内に張り巡らされた運河に架かる無数の橋に因んでいる。ベルギー北西部、フランデレン地域の都市で、ウェスト=フランデレン州の州都。ベルギーの代表的な観光都市の一つであり、2002年には、スペインのサラマンカとともに欧州文化首都に選定された。9世紀、初代フランドル伯のボードゥアン1世によって建てられた城塞が街の起源とされる。3代アルヌルフ1世の時代に、聖ドナティアン教会や聖サルヴァトール教会が建てられ、城塞も強化された。13世紀になるとハンザ同盟の在外商館がおかれたほか、1277年にジェノヴァ商人が大西洋沿岸を経由してズウィン湾にまで訪れるようになり、金融・貿易の一大拠点として繁栄した。15世紀以降、運河やズウィン湾に土砂が堆積して大型船舶の航行に支障を来たすようになり、運河港としても経済の中心地としてもその重要性を失って、衰退していった。しかし、19世紀に運河が再生され、美しい水の都として再び人々を魅了するようになり、中世の面影を残した町並みが現在まで残されることとなった。 (ウイキペディア参照)

写真はブルージュの運河から中世の街並みを撮影したものです。ここも観光客で一杯です。京都が混みすぎているとおもっていたら、何処も同じなのですね!

 写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「大観覧車」
<其の3 ウィーンのプラーター公園にある第三の男(The Third Man)で登場の大観覧車を訪ねる>
 オーストリアのウィーンのレオポルトシュタット区のプラーター公園にある観覧車を訪ねました。映画「第三の男」に登場したことで有名です。私もハリーライムになって一度乗ってみたい思っていました。夢がかないました。

<第三の男」(The Third Man)>
  「第三の男」(The Third Man)は、1949年製作のイギリス映画。キャロル・リード監督作品。第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。 光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価されている。また、アントン・カラスのツィター演奏によるテーマ音楽や、ハリー・ライム役のオーソン・ウェルズの印象深い演技でも知られている。舞台は第二次世界大戦後、米英仏ソによる四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。当時ウィーンの酒場で人々に親しまれたツィターのメロディ(アントン・カラスによるテーマ曲)をBGMに物語の幕が開く。アメリカの売れない西部劇作家ホリー・マーチンスは、親友ハリー・ライムから仕事を依頼したいと誘われ、意気揚々とウィーンにやって来た。…
…ハリーのことを信じたいホリーは、彼とプラーター公園の観覧車の上で話し合うが、改めて彼の非情ぶりを悟る。その後、キャロウェイからハリー逮捕の助力を促されたホリーは、親友を売るもやむを得ずと決意し、アンナの保釈を条件に承諾。…(ウイキペディア参照)

<大観覧車(だいかんらんしゃ、独: Wiener Riesenrad)>
 オーストリアのウィーンのレオポルトシュタット区のプラーター公園にある観覧車。映画『第三の男』に登場したことで知られる。 概要 イギリスの退役軍人ウォルター・B.バセット (Walter Basset Basset, 1864 - 1907) により1897年に建設された。バセットはヨーロッパに4基の観覧車を建設したが、この観覧車はそのうち現存する唯一のもので、年次的にはイギリスのロンドン、ブラックプールに次ぐ3番目である。形状はかつてブラックプールに存在したものとほとんど同じである。 バセットは翌年フランス・パリに当時世界最大の観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」を建設するが、グランド・ルー・ド・パリが撤去されてからは、このプラーター公園の大観覧車が現役世界最大となった。第二次世界大戦の戦火に焼かれ、戦後には撤去の声も上がったが、30あった客車を15に減らして輪への負担を少なくすることで耐え抜き、1981年に神戸ポートピアランドに設置されたジャイアントホイール(現存せず)に抜かれるまで、半世紀以上現役世界最大の座を保持し続けた。…(ウィキペディア参照)

写真はオーストリアのウィーンのレオポルトシュタット区のプラーター公園にある観覧車です。見るからに古くて乗ってみる価値はあります。

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