●豊臣秀吉 中国大返し(YouTube)
  初版2020年7月22日  <V01L01> 中国大返し 其の一 備中高松城(上) 備中高松城阯を歩く
 二版2020年7月29日  <V01L01> 中国大返し 其の一 備中高松城(中) 備中高松城水攻め
 三版2020年8月5日  <V01L01> 中国大返し 其の一 備中高松城(下) 毛利との和睦と撤退
 四版2020年8月19日  <V01L01> 中国大返し 其の二 備中高松城を撤退し備前野殿へ(中国大返しが始まります)
 五版2020年9月9日  <V01L01> 中国大返し 其の三 石山城(岡山城)と備中高松城の屋敷門
 六版2020年9月30日  <V01L01> 中国大返し 其の四 備前亀山城(沼城)と福岡の渡し
 七版2020年10月21日  <V01L01> 中国大返し 其の五 秀吉 片上津から船で赤穂へ
 八版2020年11月11日  <V01L01> 中国大返し 其の六 秀吉 姫路にたどり着く
 九版2020年12月2日  <V01L01> 中国大返し 其の七 秀吉 姫路を出発 明石へ
 十版2020年12月23日  <V01L01> 中国大返し 其の八 秀吉 明石か兵庫に到着
 十一版2021年1月13日  <V01L01> 中国大返し 其の九 秀吉 兵庫から尼崎に到着(山崎の戦いまで2日)
 十二版2021年2月3日  <V01L01> 中国大返し 其の十 秀吉 尼崎から富田に到着(山崎の戦いの前日)
 十三版2021年2月7日  <V01L01> 中国大返し 其の十一 秀吉 山崎に布陣 山崎の戦い始まる
 十四版2021年7月13日  <V01L01> 中国大返し 番外編 其の一 信孝は丹羽長秀・蜂屋頼隆と謀って、明智光秀の娘婿である織田信澄を殺害

 今週からから「豊臣秀吉 中国大返し」です。「明智光秀の本能寺の変」以降が一通り終ったので「山崎の戦い」に向けて豊臣秀吉の番となるわけです。「豊臣秀吉の中国大返し」は岡山の備中高松城から岡山城、沼城、姫路城、尼崎城等を経由して山崎に到達するまで、かなりの回数になりそうです。ただ、「豊臣秀吉の中国大返し」は参考資料が乏しく、不明な点も多々あり、ある程度類推するしかありませんでした。


「備中高松城阯碑 」
<其の一 備中高松城(上) 備中高松城阯を歩く>
 今日から「豊臣秀吉 中国大返し」です。なるべく分かりやすくしたいので、最初は「其の一 備中高松城」で、三回に分けて掲載します。
1.備中高松城(上) 備中高松城阯を歩く
2.備中高松城(中) 備中高松城水攻め
3.備中高松城(下) 毛利との和睦と撤退
 順次掲載して、最後は「山崎の戦い」までの予定です。

<備中高松城(たかまつじょう)>
 戦国時代、備中国賀陽郡中島村高松 (現・岡山県岡山市北区高松)に存在した日本の城。讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれる。羽柴秀吉による水攻めで有名である。
 城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。築城時期ははっきりしないが、松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城である。天正3年(1575年)の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。清水宗治は備中兵乱の際、石川氏の娘婿・重臣でありながら主家を離れて毛利氏に加担したが、清水宗治が城主となった経緯は不詳である。石川氏滅亡以前より宗治が城主であったともいわれる。天正10年(1582年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻め(備中高松城の戦い)にかかった。… (ウイキペディア参照)

<清水宗治(しみず むねはる)>
 戦国時代の武将。備中高松城主。三村氏、毛利氏に仕えた。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となった。 天文6年(1537)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。 備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。また、永禄8年(1565)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国路の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。(ウイキペディア参照)

写真は備中高松城阯碑です。城阯はさほど広くないので一時間もあれば見て回れます。ここのポイントは城址以外の見るところが多いことです。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「蛙ヶ鼻(かわずがはな) 築堤跡 」
<其の一 備中高松城(中) 備中高松城水攻め>
 今回は備中高松城水攻めです。高松城阯公園の駐車場に車を止めて、水攻めの蛙ヶ鼻(かわずがはな)築堤跡まで歩きます。蛙ヶ鼻築堤跡は秀吉が築いた築堤が唯一残っているところです。築堤は僅かしか残っていませんが、標高8m超えは迫力があります。其の後、築堤の北西の端、水の取り入れ口に向かいます 。

<築堤>
 秀吉は高松城の攻略を、軍師黒田官兵衛の策を採用して水攻めにし、城地の南東約700mの山根(蛙ヶ鼻)から、西北西約1.500mの足守川上流まで約3Kmの堤防を、わずか12日間で築いたと伝えられています。堤防の内側は約200haの人造湖となり、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまいました。江戸時代の地誌類では、基底部幅24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤と記録されています。近年の一部発掘調査によって基底部幅約22〜24m(12〜13間)ということが確認され、築堤に際して土留めなどに使われたと思われる木杭や、上俵・むしろ等が確認されました。
(岡山市教育委員会説明看板より)

<築堤の規模はどの位だったのか>
 では実際にどのように築堤を作ったか考えてみます。現実的な話をすれば、高さ4m(標高8.4m) 3Kmもある築堤を12日間で作るのは不可能です。備中高松城が盆地にあることを考えれば、排水口になる蛙ヶ鼻には高さ4m程の築堤が必要だったとおもわれますが、水取入れ口は標高が8mあり、築堤の必要はありません。又、松山往来の街道は標高が 6〜7.5m で築堤の役目を果たしていたと考えられます。上手に作れば手間は掛からなかったと思えます。流石、秀吉です!(黒田官兵衛も!)

写真は蛙ヶ鼻(かわずがはな) 築堤跡です。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「秀吉本陣跡から備中高松城阯を見る 」
<其の一 備中高松城(下) 毛利との和睦と撤退>
 「豊臣秀吉 中国大返し」“其の一 備中高松城”の最終回“毛利との和睦と撤退”です。「本能寺の変」を知り(和睦前に「本能寺の変」を知っていたかは不明)、毛利との和睦と撤退を上手にこなしていきます。

<スケジュール>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く(長谷川宋仁の使者が有力)
6月4日 信長の死を秘して毛利輝元と和議 午前、高松城主清水宗治切腹を見分
6月6日 正式にはこの日から中国大返しを開始 。
秀吉は4日以降、撤退と光秀対策の手は打っていたと思われえます。

<「本能寺の変」の知らせが何時届いたか?>
6月2日朝が本能寺の変で、200Km以上離れた岡山に何時間で 着くのか
・馬で時速15Km/h(一時間が限度)→乗換えたとして14時間
・人間が早足で時速6Km→34時間(200Km) (京都を2日夕刻出立すれば4日昼前着)
・現在のウルトラマラソン(200km超)なら→ トップの方は7分/Km位なので、時速は8.6km/h→23時間 (京都を2日夕刻出立すれば3日夕刻着)

写真は石井山 秀吉本陣跡から備中高松城阯を見たものです。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「野殿の城の内にある水路 」
<其の二 備中高松城を撤退し備前野殿へ(中国大返しが始まります)>
 備前軍記を参考にすると、毛利と和睦後、6月6日備前勢が先に岡山に帰陣し、次に同日未の刻(午後2時頃)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次姫路に向かいます。秀吉は矢坂を越えて岡山に向かいます。梅林寺文書では、茨木城主 中川清秀への返書で、場所は“の殿”と書かれています。

<スケジュール>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
6月6日 中国大返しを開始

<備前軍記(軍記類纂より)>
 扨六月六日早朝に、先づ備前 勢岡山へ歸陣ある。次に同日未の刻、秀吉陣拂ひし、辛川村に至り、爰にて人數を 分け、總軍をば半田山の前の古道より、釣の渡りを越して、先陣より次第に押返し、 秀吉は旗本の人數計りを殘し、矢坂を越え岡山へ赴かれぬ。…
「備前軍記」で書かれた地名:辛川村、半田山、釣の渡り、矢坂、岡山

<梅林寺文書(大日本史料より)>
 尚々、の殿迄打入候之處、御状披見申候、今日成次第、ぬま迄通申候、古左(吉田左門重然)へも同前候、 自是可申も存刻、預示快然候、仍只今京より罷下候者慥申候、上様併殿様、何 も無御別儀御きりぬけなされ候、ぜゝの崎へ御のきなされ候内に、福平左 三度つきあい、無比類動候て無何事之由、先以目出度存候、我等も成次第歸 城候條、獪追々可申承候、其元之儀無御油斷御才覺専一候、恐々謹言、                     羽筑
 天正十年六月五日
 この書状は茨木城主 中川清秀への手紙の返書で“信長は生きている”という嘘を書いた有名な文書です。場所は“の殿”と書かれています。

<「岡山城史 第三編 富山城跡と野殿 第二章 野殿の古城考」から>
 “富山城跡の所在する矢坂山山塊の南南西の山麓部に近接する沖積地一帯に、江戸時代に野殿村とされ、 現在は岡山市野殿となっている地区がある。…
… 野殿の地名を富山城の根小屋あるいは関連城郭施設の城跡とする見解は、すでに江戸時代の地誌等に記 述されており”とあります。この作者は“野殿の地名を富山城の根小屋あるいは関連城郭施設の城跡とする見解” を否定されていますが、何らかの城に類する建物があったことは否定されていないので、野殿を秀吉が休憩、若しくは通ったとおもわれます。

写真は野殿の城の内です。遺構は何も残っていませんが直線的な水路が残っており、掘割りではないかとおもっています。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「石山城(岡山城) 」
<其の三 石山城(岡山城)と備中高松城の屋敷門>
 秀吉は備中高松城から野殿を経て宇喜多直家の石山城(岡山城)に向かっています(備前軍記)。この石山城は現在の岡山城の西部にありました。又、備中高松城の屋敷門が京都にあると言うことで、この謎にも迫ってみました。

<スケジュール>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
   (この頃から先発隊は姫路に向かっていたと思われます)
6月5日 野殿にて茨木城主 中川清秀への手紙の返書
    石山城(岡山城)に寄って備前亀山城(沼城)に向かう
6月6日 中国大返し(全軍撤退か?)

<備前軍記(軍記類纂より)>
 扨六月六日早朝に、先づ備前 勢岡山へ歸陣ある。次に同日未の刻、秀吉陣拂ひし、辛川村に至り、爰にて人數を 分け、總軍をば半田山の前の古道より、釣の渡りを越して、先陣より次第に押返し、 秀吉は旗本の人數計りを殘し、矢坂を越え岡山へ赴かれぬ。宇喜多八郎は、明石飛騨差添ひて、町口迄迎に出でられしを、懇の挨拶ありて、岡山の城へ入りて、暫し八郎に、秀吉對面あり。…
 秀吉は岡山の城に入ったようです。

<石山の城(前岡山城)説明看板>
 「備前軍記」によると、南北朝時代の正平 年間(1346一1370)には、南朝方の上神高直 の居城でした。その後、約150年間の城主は明 らかではありませんが、付近には摂関家領・ 鹿田荘の中心部がぁったとされ、旭川河口の 港町として栄えていたと伝えられています。  戦国時代の大永年間(1521一1528)には、 金川城主であった松田氏に仕えていた金光氏が 居城としていましたが、元亀元年(1570)、 宇喜多直家によって謀殺されました。天正元 年(1573)直家が石山の城に入城し城の 改築と城下町の形成を行いました。当時の城 は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定さ れています。
(看板提案:NPO法人元気創生プ口ジェクト あしたり岡山) 岡山市

 備中高松城の屋敷門についての詳細はYouTubeを見て下さい。

写真は石山の城(前岡山城)説明看板です。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「亀山城(沼城)の石碑」
<其の四 備前亀山城(沼城)と福岡の渡し>
 秀吉の行動については梅林寺文書が5日(野殿)なので、5日に備中高松城を撤退し、石山城(岡山城)経由、5日夜、亀山城(沼城)だとおもわれます。その後は、梅雨で水かさの増した福岡の渡し(吉井川)を渡るのを苦労したようで、6日中に渡れたのか定かではありません。次は西片上に向かいます。

<スケジュール>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
   (この頃から先発隊は姫路に向かっていたと思われます)
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上
6月7日 海路姫路着
 中国大返しを開始した時期については諸説あり、秀吉の部隊は 4日午後には先発隊が姫路へ向かっていたとおもわれます。 秀吉本人は梅林寺文書が5日(野殿)なので、5日に備中高松城 を撤退し、石山城(岡山城)経由、5日夜、亀山城(沼城)、6日西片上泊、7日海路姫路着だ とおもわれます。(私の個人的見解です)

<備前軍記(軍記類纂より)>
 …岡山の城を出でて、 共夜は沼村に宿陣ある。…
 秀吉は岡山の城に入ったようです。

<亀山城跡 説明看板>
 亀山城は、城の本丸、二の丸のあった 弁天山の形が亀に似ているところから名 づけられた・沼城ともいう。小学校の所 在地に西の丸、楢部に出丸があり、これ らを総称して亀山城と呼んだ。  戦国時代、中山備中守信正によって築 城され、宇喜多直家が永禄二年(一五五 九年)浦上宗景よりこの城を賜り、新庄 山城より移った。以来直家の壮年時代活 躍の拠点となった城跡である。天正元年(一五七三年)岡山城に移るまでの十四年 間在城した。…                亀山城跡保存会

写真は亀山城(沼城)の石碑です。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「太閤門」
<其の五 秀吉 片上津から船で赤穂へ>
 秀吉が西片上から船に乗って赤穂に向かった説と、そのまま山陽道を三石まで出て姫路に向かった説があり、現状では確証が無く、どちらが正しいとも言えません。本体は備中高松城から撤退する西片上経由の南の右翼体と、和気経由の北の左翼体が三石で一緒になりました。一万七千人が天正10年6月6日〜8日にかけて徒歩で三石を通って姫路に向かっていったわけです。

<スケジュール>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
   (この頃から先発隊は姫路に向かっていたと思われます)
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上
6月7日 海路姫路着
 中国大返しを開始した時期については諸説あり、秀吉の部隊は 4日午後には先発隊が姫路へ向かっていたとおもわれます。 秀吉本人は梅林寺文書が5日(野殿)なので、5日に備中高松城 を撤退し、石山城(岡山城)経由、5日夜、亀山城(沼城)、 6日西片上泊、7日海路姫路着だとおもわれます。 (私の個人的見解です)

<武功夜話(前野家文書)>
一、筑前様は、沼より吉井川を渡河なされ、福岡より長船、伊部まで御急ぎなされ、片山(片上の間違い?)なる処より御乗船、明の午の刻までには赤穂岬へ御着の次第、右の次第我等両名殿より申し付けられ、馬を乗り次ぎ注進候なり、と委細申し伝え  候なり。 …
 武功夜話(前野家文書)では秀吉は片上より船で赤穂御崎に着き、姫路に向かったと書いています。

写真は西片上の太閤門です。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。
「姫路城」
<其の六 秀吉 姫路にたどり着く>
 秀吉は7日前後にやっと姫路城に帰り着くことが出来ました。経路については西片上から船に乗って赤穂に向かった説と、そのまま山陽道を三石、有年(宇根)経由で姫路に向かった説があり、現状では確証が無く、どちらが正しいとも言えません。本体は備中高松城から撤退する西片上経由の南の右翼体と、和気経由の北の左翼体が三石で一緒になりました。一万七千人が天正10年6月6日〜8日にかけて徒歩で三石を通って姫路に向かっていったわけです。

<スケジュール>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上泊
6月7日 海路姫路着(三石、有年(宇根)経由の説もあり)
中国大返しを開始した時期については諸説あり、秀吉の部隊は 4日午後には先発隊が姫路へ向かっていたとおもわれます。 秀吉本人は梅林寺文書が5日(野殿)なので、5日に備中高松城 を撤退し、石山城(岡山城)経由、5日夜、亀山城(沼城)、 6日西片上泊、7日海路姫路着だとおもわれます。
6月9日 姫路出発 (私の個人的見解です)

<備前軍記(軍記類纂)>
 秀吉は其翌七日、沼を立ちで播州宇根に着ありて、姫路へ歸陣なり。
 備前軍記では三石、有年(宇根)経由姫路となっています。

<武功夜話(前野家文書)>
一、筑前様は、沼より吉井川を渡河なされ、福岡より長船、伊部まで御急ぎなされ、片山(片上の間違い?)なる処より御乗船、明の午の刻までには赤穂岬へ御着の次第、右の次第我等両名殿より申し付けられ、馬を乗り次ぎ注進候なり、と委細申し伝え  候なり。 …
 武功夜話(前野家文書)では秀吉は片上より船で赤穂御崎に着き、姫路に向かったと書いています。

写真は現在の姫路城です。姫路城の最初の天守は天正8年(1580)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられます。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用されています。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。
「枝吉城址」
<其の七 秀吉 姫路から明石へ>
 秀吉は9日に姫路を出発します。11日に尼崎に到着したことに関しては書き物があるのですが、その間については書き物がありません。推定では9日は明石周辺に、10日は兵庫周辺だとおもわれます。その頃の明石周辺には城が二つありました。西明石から少し歩いた枝吉城と、明石に近い船上城(ふなげじょう)です。明石城は江戸時代の築城です。一万七千人が一つの城で過ごせるはずがありませんので、分散したとおもわれます。先遣部隊は兵庫から尼崎に向かっていたとおもわれます。

<スケジュール(私の個人的見解です)>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上泊
6月7日 海路姫路着(三石、有年(宇根)経由の説もあり)
中国大返しを開始した時期については諸説あり、秀吉の部隊は 4日午後には先発隊が姫路へ向かっていたとおもわれます。 秀吉本人は梅林寺文書が5日(野殿)なので、5日に備中高松城 を撤退し、石山城(岡山城)経由、5日夜、亀山城(沼城)、 6日西片上泊、7日海路姫路着だとおもわれます。
6月9日 姫路出発、明石着(推定)
6月10日 兵庫着(推定)
6月11日 尼崎着

写真は現在の枝吉城跡です。西明石駅か1.6Km 20分程です。船上城(ふなげじょう)は明石駅から1.8Km程です。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。
「兵庫城跡」
<其の八 秀吉 明石から兵庫に到着>
 前回の其の八と同じで、秀吉は9日に姫路を出発します。11日に尼崎に到着したことに関しては書き物があるのですが、その間については書き物がありません。推定では9日は明石周辺に、10日は兵庫周辺だとおもわれます。兵庫については城は一つで、兵庫城となります。2020年4月8日に放映されたNHK BSプレミアム「英雄たちの選択」で、秀吉の中国大返しについて考察した番組の中で「兵庫城の御座所普請」を放映していました。中国大返しで秀吉が宿泊したのは間違いないようです。

<スケジュール(私の個人的見解です)>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く
6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦 午前、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上泊
6月7日 海路姫路着(三石、有年(宇根)経由の説もあり)
中国大返しを開始した時期については諸説あり、秀吉の部隊は 4日午後には先発隊が姫路へ向かっていたとおもわれます。 秀吉本人は梅林寺文書が5日(野殿)なので、5日に備中高松城 を撤退し、石山城(岡山城)経由、5日夜、亀山城(沼城)、 6日西片上泊、7日海路姫路着だとおもわれます。
6月9日 姫路出発、明石着(推定)
6月10日 兵庫着(推定)
6月11日 尼崎着

写真は現在の兵庫城跡です。現在はイオンモール神戸南になっています。東側に記念の石垣があります。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「兵庫城跡」
<其の九 秀吉 兵庫から尼崎に到着(山崎の戦いまで2日)>
 秀吉は10日に兵庫を出発します。その日の10日に尼崎に到着します。この頃になってくると秀吉の「中国大返し」が尼崎に近づくにつれて、面白い逸話が、 色々出てきます。
・最初は光秀の家臣、四王天但馬守が秀吉を襲う逸話です。
・次の逸話は武庫川左岸の雉が坂(きじがさか)です。 ・最後の逸話は 絵本太閤記 四遍巻之貳 栖賢寺広徳寺寺領賜からです。
光秀は秀吉を忙殺しようとして、四方天但馬守と明石儀太夫を 尼崎に差し向けますが、四方天但馬守は加藤清正に殺され、 明石儀太夫は裸で逃げさります。秀吉は栖賢寺に逃げ込み、 髷を切って坊主になりすまして難を逃れました。それで本陣を 栖賢寺に、秀勝は広徳寺に陣を置かせたようです。

<スケジュール(私の個人的見解です)>
<豊臣秀吉 中国大返し 天正10年6月(西暦1582年6月-7月)>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く 6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上泊
6月7日 海路姫路着(三石、有年(宇根)経由の説もあり)
(中国大返しを開始した時期については諸説あり)
6月9日 姫路城を出発 明石に到着
6月10日 兵庫着
6月11日 尼崎着
6月12日 富田に到着
6月13日 山崎に到着、中国大返しを完了 (日付は旧暦)

写真は尼崎の広徳寺です。広徳寺の右側に栖賢寺があったのですが、現在は京都に移っています。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

普門寺
<其の十 秀吉 尼崎から富田に到着(山崎の戦いの前日)>
 秀吉は12日に尼崎を出発します。その日の12日中に富田(高槻市)に到着します。高山右近等の摂津衆、織田信孝、丹羽長秀とも合流しており、かなりの勢力になっていたようです。一説には4万とも!、この頃になると、ほぼ先が見えていたようで、山崎での決戦では勝ちは間違いなかったようです。

<富田(とんだ)>
 現在の大阪府高槻市富田町付近の地域。後に蓮如が加賀一向一揆を避けて戻ってきた後に富田荘の光照寺に一時滞在し、文明13年(1481)に教行寺を建立して8男蓮芸を住持とした。以後富田は本願寺門徒が集まり、寺内町が形成されるようになる。永禄の変で13代将軍足利義輝が暗殺されると、三好三人衆に擁立された従弟の足利義栄が普門寺に入って「普門寺城」として次期将軍にしての根拠地とする。この富田付近はやや小高い丘となっており、当時南北西の三方が湿地で、淀川による水運の便もよく、軍事的な拠点としての価値も高かった。 永禄11年(1568)義栄は念願の14代将軍に任じられるものの、政情不安定により京都に入れずそのままここに幕府を設置する。だが、義輝の弟・足利義昭を擁立した織田信長の上洛によって将軍の座を追われて間もなく没した。その後、信長と本願寺の間で石山合戦が始まると、本願寺・三好氏によって長年拠点とされた富田は信長によって攻撃されて破壊された。更にキリシタン大名の高山右近が高槻城に入ると、寺内町である富田の存在自体を許さず、度々威圧を加えたという。また、山崎の戦いの直前、織田信長の3男信孝がこの地において中国大返しで機内に戻ってきた羽柴秀吉と合流した事でも知られている。(ウイキペディア参照)

<スケジュール(私の個人的見解です)>
<豊臣秀吉 中国大返し 天正10年6月(西暦1582年6月-7月)>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く 6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上泊
6月7日 海路姫路着(三石、有年(宇根)経由の説もあり)
(中国大返しを開始した時期については諸説あり)
6月9日 姫路城を出発 明石に到着
6月10日 兵庫着
6月11日 尼崎着
6月12日 富田に到着
6月13日 山崎に到着、中国大返しを完了 (日付は旧暦)

写真は高槻市富田の普門寺です。この付近に秀吉は陣を置いたとおもわれます。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「JR京都線 山崎駅」
<其の十一 秀吉 山崎に布陣 山崎の戦い始まる>
 秀吉は13日に富田を出発し、その日中に山崎の本陣 宝積寺に到着します。前日から小競合いがあったようですが、戦が始まったのは天正10年6月13日(新暦で1582年7月12日)申ノ刻(午後四時半頃)で、戦力差は如何ともし難く、僅か2時間で決着が付いてしまいます。短期間で決着するのは、戦力差が大きいためです。光秀としては、籠城しても勝ち目はないとおもって一か八かの賭に出たのだとおもいますが、その割には平凡な戦術です。

 今回の山崎訪問は、JR山崎駅から宝積寺を経由して山崎町が設置した記念碑や展望台、山崎の戦いの大きな陶板画(堺屋太一氏の監修・解説、岩井弘氏の屏風画)を見ながら天王山山頂(標高270.4m)まで登り、下山して西国街道から大山崎東黒門跡まで訪ねました。秀吉方は最後は高山右近等の摂津衆、織田信孝、丹羽長秀とも合流しており、かなりの勢力になっていたようです。一説には4万とも!、この頃になると、ほぼ先が見えていたようで、山崎での決戦では勝ちは間違いなかったようです。

<スケジュール(私の個人的見解です)>
<豊臣秀吉 中国大返し 天正10年6月(西暦1582年6月-7月)>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く 6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
6月6日 中国大返し(全軍撤退)、西片上泊
6月7日 海路姫路着(三石、有年(宇根)経由の説もあり)
(中国大返しを開始した時期については諸説あり)
6月9日 姫路城を出発 明石に到着
6月10日 兵庫着
6月11日 尼崎着
6月12日 富田に到着
6月13日 山崎に到着、中国大返しを完了 山崎の戦い始まる(日付は旧暦)

写真はJR京都線 山崎駅です。JR山崎駅から宝積寺を経由して天王山山頂(標高270.4m)まで登ります。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「大阪城」
<番外編 其の一 信孝は丹羽長秀・蜂屋頼隆と謀って、明智光秀の娘婿である織田信澄を殺害>
 「本能寺の変」の三日後、大阪にいた織田信孝(信長の三男)は丹羽長秀・蜂屋頼隆と謀って、明智光秀の娘婿であることを理由に大坂城千貫櫓を襲って織田信澄(津田信澄、従兄弟)を殺害します。信澄が関与しているという噂が流れていたのは事実のようです。(ウイキペディア参照)

<織田信孝(おだ のぶたか)(ウイキペディア参照)>
 安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。

<織田信澄(おだのぶずみ)(ウイキペディア参照)>
 付帯状況や史料を見る限り、智光秀の娘婿である信澄が本能寺の変に加担していた様子はないが、『家忠日記』の3日の条にも「明智日向守(=光秀)小田七兵衛(=信澄)別心か」とあるように信澄が関与しているという噂が流れていたのは事実のようである。

<スケジュール(私の個人的見解です)>
<豊臣秀吉 中国大返し 天正10年6月(西暦1582年6月-7月)>
6月2日 本能寺の変
6月3日 夜〜翌朝の間に本能寺の変報届く 6月4日 信長の死を秘して毛利と和睦、高松城主清水宗治切腹
6月5日 野殿、石山城(岡山城)→亀山城(沼城)
    織田信孝(三男) 大坂城千貫櫓を襲って明智光秀の娘婿である織田信澄を殺害

写真は現在の大阪城です。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。