●明智光秀 本能寺の変後を追う(YouTube)
 一版2020年2月22日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の一 織田信忠(嫡嗣)と闘った二条御新造址、妙覚寺跡を歩く
 二版2020年2月22日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の二 安土城へ向かうため 光秀 瀬田の唐橋へ
 三版2020年3月06日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の三 山崎合戦の三日前 坂本城から京へ向かう
 四版2020年3月20日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の四 光秀 洞ヶ峠で筒井順慶を待つ
 五版2020年3月27日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の五 光秀 淀城(淀古城)を普請
 六版2020年5月13日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の六 山崎の戦いの2日前 光秀 下鳥羽の南殿寺に本陣
 七版2020年6月10日  <V01L01> 本能寺の変後を追う 其の七 下鳥羽の南殿寺の本陣から久我畷を通り勝竜寺城に向う

 今週から「明智光秀 本能寺の変後を追う」です。山崎合戦から戻っていきます。「本能寺の変」から「山崎合戦」までを追います。光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間の子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。(ウイキペディア参照)


二条御新造跡
<本能寺の変後を追う 其の一 織田信忠(嫡嗣)と闘った二条御新造址、妙覚寺跡を歩く>
 今回から「明智光秀 本能寺の変後を追う」掲載します。其の一は、“織田信忠(嫡嗣)と闘った二条御新造址、妙覚寺跡を歩く”です。明智光秀は本能寺を焼き尽くした後、大軍を引き連れて織田信忠(嫡嗣)が滞在していた妙覚寺に向かいますが、信忠は直ぐ傍の二条御新造に入り、馬周り衆を千人程集めていました。結局は多勢に無勢で信忠は自害しますが、光秀側も馬周り衆にかなりの損害を受けます。これが後の山崎の戦いに影響を及ぼします。この闘いが明智光秀の終わりの始まりです。

<二条御新造(にじょうごしんぞう)>
 二条殿は,南北朝時代太政大臣を務め,和歌連歌で著名な二条良基(1320~88)の邸宅で,押小路殿とも呼ばれた。室町時代の洛中洛外図屏風に描かれる。邸内には龍躍池があり,その景観の美しさから皇族や織田信長(1534~82)が好んだ。信長は天正5年(1577)に移り住み,天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上した。天正10年(1573)本能寺の変の際には信長の長男信忠(1557~82)がこの地で自害し,二条殿は焼失した。(ウイキペディア参照)

<妙覚寺>
 永和4年(1378)日実によって創建された。寺は寛正7年(1466)近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げる。文明15年(1483)には足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した。本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく二条御所へ向かうが、果たせず自害する。 寺は天正11年(1583)豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。 

写真は中京区二条殿町にある二条殿阯(二条御新造址)です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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瀬田の唐橋
<本能寺の変後を追う 其の二 安土城へ向かうため 光秀 瀬田の唐橋へ>
 明智光秀は本能寺で織田信長を、二条御新造で織田信忠を自害に追込み、その後安土城に向かうため瀬田の唐橋に向かいます。信長の部下であった山岡景隆は光秀が安土城向かうのを阻止するため唐橋を落とし自身の城の瀬田城を焼いて退去します。光秀が唐橋を渡るのは6月4~5日(本能寺の変は2日)となり、かなりの時間をロスします。光秀はこの辺りから自身の思惑と現実のズレが生じてきます。終わりの始まりが現実味を帯びてきます。

<瀬田の唐橋(せたのからはし)>
 唐橋を本格的に渡したのは織田信長です。架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、若狭の神宮寺山と近江朽木山から材木を取り寄せ、天正3年(1575)長さ約324 m(180間)余り、幅約7.2 m(4間)両側に欄干を備えた橋を完成させます。天正10年( 1582)明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、光秀が安土を攻めようと橋を渡るのを阻止するため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いた(『フロイス日本史』によれば切断した)。光秀が仮橋を架けるのに3日かかっている。 中島を挟んだ大橋と小橋の形となったのは織田信長の架橋時以降と考えられる。焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、その時に初めて現在の位置に、大小2橋の橋を架けたとされる。(ウイキペディア参照)

<山岡景隆(やまおか かげたか)>
 山岡氏は勢多城を中心とする近江国南部を領する国人。 大永5年(1525)山岡景之の子として誕生。当初は六角氏及び足利義輝に属していた。 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し、近江南部の国人の旗頭として抵抗した。しかし、永禄12年(1569)には織田軍の攻撃を受けて大和国柳生氏の領内へ逃亡、一時は松永久秀に人質を差し出しこれに属したが(『柳生文書』)、後に信長に降伏し、その家臣となる。元亀4年(1573)からの信長と足利義昭との戦いでは信長側に付き、槇島城攻めなどで戦功を挙げた。天正3年(1575)頃には、上洛の行き帰りに信長・信忠親子が度々、勢多に宿泊するなど、かなりの信用を得ていた様子である(『信長公記』)。天正10年(1582)本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなど抵抗し、山岡一族は山中へ逃走。羽柴秀吉方に逐一光秀軍の行動を報告し、このために明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、また時間的余裕を失ったとまでいわれている。(ウイキペディア参照) 

写真は大津の瀬田の唐橋です。瀬田の唐橋を日本三名橋とする説もありますが、「日本三古橋」ではないかとおもわれます。日本三古橋:瀬田の唐橋、宇治橋、山崎橋(現存しない)。 江戸時代の橋:日本橋、錦帯橋、眼鏡橋となります。詳細はYouTubeを見て下さい。

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志賀越道(山中超え)
<本能寺の変後を追う 其の三 山崎合戦の三日前 坂本城から京へ向かう>
 本能寺の変の7日後の9日、明智光秀は志賀越道(山中超え)で坂本城から京に向かいます。この京入りを白川で吉田兼和他の公家衆が出迎えます。4日~5日には安土城にも入城していますので、この頃が光秀の最も絶頂期ではなかったかとおもいます。ただ、9日には秀吉が姫路城まで到達しており、ノンビリしている状況ではありませんでした。光秀は自身の思惑と現実のズレが最も大きくなっていた時期だとおもいます。

<秀吉の中国大返し>
6月6日 中国大返しを開始
6月7日 姫路城に帰還
6月9日 姫路城を出発 正午に明石に到着
6月10日 兵庫に到着

<兼見卿記 天正十年六月>
九日、乙未、早々自江州折帋到来云、唯今此方へ可来之由申了、不及返事、飛脚直出京、郎予爲迴罷出白川、数刻相待、未刻上洛、直同道、公家衆・攝家・清華、上下京不殘爲迴至白川・神樂岡邊罷出也、向州云、今度上洛、諸家・地下人礼之義堅停止之由被申、於路次封面勿論、於此方無封面之義也、次至私宅、向州云、一昨日自禁裏御使忝、爲御礼上洛也、隨而銀子五百枚進上之由、以折帋予二相渡之、印可持参候由申訖、次五  山之寺へ百枚充各遺之、大徳寺へ百枚、予五十枚、爲當社之御修理賜之、五山之内依不足、賜予五十枚之内廿枚借用之、次於小座敷羞小漬、相件紹巴・昌叱・心前也、食以後 至下鳥羽出陣、次進上之銀子五百枚令持参罷出、以勸黄門申人候処、親王御方御封面、 委細申入訖、銀子長橋御局披露了、…
要約すると
9日 光秀手書を以て兼和第に来るべきを告ぐ 13時から15時に白川にて廷臣等悉く光秀を出迎ふ 光秀兼和をして迎禮を辭さしむ 光秀兼和第に入る光秀兼和をして禁裏及び誠仁親王に銀五百枚を獻ぜしむ 五山及び大徳寺に銀百枚充をまた吉田社に五十枚を寄進す 夕食を饗す 紹巴等相件 光秀下鳥羽に出陣す 兼和光秀進獻の銀子を禁裏へ持参す 女房奉書を光秀の陣に齎す  …

写真は京阪石山坂本線 滋賀里駅近くにある志賀八幡神社の西側鳥居前にある志賀越道(山中超え)の道標です。明智光秀はこの道を通って京に向かいます。詳細はYouTubeを見て下さい。

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筒井順慶陣所址の碑
<本能寺の変後を追う 其の四 光秀 洞ヶ峠で筒井順慶を待つ>
 本能寺の変の8日後の10日、明智光秀は下鳥羽から洞ヶ峠(ほらがとうげ)に向い筒井順慶を待ちます。光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れていますが、順慶はこれを追い返しています。筒井順慶が秀吉への恭順を決意した時期です。ただ、10日には秀吉が兵庫にまで到達しており、このままでは秀吉との軍事力の差は如何ともしがたく、ノンビリしている状況ではありませんでした。終わりの始まりではなく、終わりの終わりが近づいてきました。

<秀吉の中国大返し>
6月6日 中国大返しを開始
6月7日 姫路城に帰還
6月9日 姫路城を出発 正午に明石に到着
6月10日 兵庫に到着

<多聞院日記 (たもんいんにっき)>
 奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478)から元和4年(1618)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料である。(ウイキペディア参照)
<多聞院日記. 第3巻 巻28>
九日、…
一.今日河州へ筒衆可有打廻之由沙汰之處、俄二延引云々、叉郡山城へ塩米俄被入伝々、いかゝ覺悟相遑哉ふしん/\、いかゝ、
十日、先日山城へ立筒人数咋今打返了、藤吉近日二上決定/\卜、依之覺悟替卜聞へ了、
十四日、…
一.昨日從向州使二藤田傅五順慶へ來、無同心之通返事切レテ昨夜木津迄歸テ叉呼返了卜、いかゝ、心苦敷事也、 一.藤吉ヘハ既順慶無別儀間、誓帋被遣之、村田・今中使伝ゝ
要約すると
 最初、筒井順慶は光秀に組するつもりで軍勢も出したが、結局、秀吉側に鞍替えします。光秀の使者も送り返します …

写真は八幡洞ヶ峠交差点にある筒井順慶陣所址の碑です。この碑は当初の位置から移されています。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「淀古城跡」
<本能寺の変後を追う 其の五 光秀 淀城(淀古城)を普請>
 「太閤記」では、
“惟任は洞が峠にて筒井をまてども/\きたらざれば、手もちわるふして、淀之城へ引て入、普請の縄張などし侍りけり…”
(11日には秀吉は尼崎まで戻って来ています!)
 「兼見卿記 天正十年六月」によると、
“十一日、丁酉、向州至本陣下鳥羽皈陣、淀之城普請云九”
 要約すると 10日まで洞ヶ峠で筒井順慶を待ったが来ず、11日下鳥羽本陣まで戻る、淀城を普請 光秀も遂に切羽詰まってきています。

<秀吉の中国大返し>
6月6日 中国大返しを開始
6月7日 姫路城に帰還
6月9日 姫路城を出発 正午に明石に到着
6月10日 兵庫に到着
6月11日 尼崎に到着

<淀古城(よどこじょう)>
 京都府京都市伏見区納所(のうそ)北城堀にあった日本の城。納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、3面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。 1582年(天正10年)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、秀吉と光秀の山崎の戦いでも利用された。秀吉の天下となってからは、1589年(天正17年)3月に、秀吉の弟豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴松が産まれるが、1591年(天正19年)に死去してしまった。 鶴松が死亡した後は、甥の秀次が秀吉の養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、1595年(文禄4年)、切腹。家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、城も廃城となった。

写真は境内に淀古城跡の碑がある妙教寺(みょうきょうじ)です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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鳥羽離宮 南殿跡
<本能寺の変後を追う其の六 下鳥羽の南殿寺に本陣>
 山崎の戦いの二日前、明智光秀は下鳥羽の「南殿寺」に本陣を置いたようです。

 「兼見卿記 天正十年六月九日~」によると、
九日、乙未、…食後至下鳥羽出陣、…
十日、丙申、…日向守至攝州表相動云々、…
十一日、丁酉、向州至本陣下鳥羽皈陣、淀之城普請云九
十二日、戊戌、…日向守敵欤、自山崎令出勢、於勝龍寺西足軽出合、…
 要約すると、9日京都より下鳥羽に向けて出陣、10日洞ヶ峠(ほらがとうげ)筒井順慶を待つが来ず、11日下鳥羽の本陣に戻る、と言うことで、具体的な場所の記載はありません。

 今回はもう一つの参考文献「勧修寺晴豊 日々記」を参照します。
九日 天晴 今日河内へ手遣候由候 吉田まて明智参候て 禁裏銀子五百まいを両御所え進上申候 披露長橋もつて余披露申候 京頭之儀かたく申付候由候 文にて御礼被仰候 吉田 鳥羽なんてん寺明智本陣也 そこへ吉田御礼被遣候 禁裏より銀子壱まい余拝領 各三十目つつ也 小西衆十人 二まい拝領 河端二条御所はやく参候由にて別ニ一まいくたされ候 …
 ここでは明智本陣が“鳥羽なんてん寺”と記載しています。調べて見ると鳥羽には平安時代に鳥羽離宮(とばりきゅう)があったようですが、南北朝時代の戦火によって多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していったようです。御所には御堂(仏像を安置した堂)が付属していて、南殿には証金剛院(しょうこんごういん)があったようで、証金剛院=なんてん寺=南殿寺だったのでしょうか!

写真は鳥羽離宮 南殿跡です。この頃の光秀は何を考えていたのか、絶望に近かったのか、強者どもの夢の跡です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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鳥羽離宮 南殿跡
<本能寺の変後を追う 其の七 下鳥羽の南殿寺の本陣から久我畷を通り勝竜寺城に向う>
 山崎の戦いの前日、明智光秀は下鳥羽の南殿寺の本陣から久我畷を通り勝竜寺城に向います。

 「兼見卿記 天正十年六月九日~」によると、
6月 9日 明智光秀、安土城から京都に向けて出発 夕方に下鳥羽に向けて出陣
10日 明智光秀 洞ヶ峠(ほらがとうげ)筒井順慶を待つが来ず
11日 下鳥羽に戻る 南殿寺に本陣(日々記)
12日 両軍は12日頃から円明寺川(現 小泉川)を挟んで対陣、小競り合いが始まる
6月13日(西暦7月2日)午後4時頃戦闘が始まる、明智光秀、山崎の戦いで敗戦
 要約すると、9日京都より下鳥羽に向けて出陣、10日洞ヶ峠(ほらがとうげ)筒井順慶を待つが来ず、11日下鳥羽の本陣に戻る、12日については光秀の具体的な行動の記実はありませんが、下鳥羽の本陣より久我畷を通って勝竜寺城に入城したものとおもわれます。(この道しかないため)

 山陽道(西国街道)と久我畷(長岡京時代~)
 我国古代交通路の内最も重要な道路であったのが山陽道と久我畷である。山陽道は長岡京が延暦三年(784)に遷都されるとその役割が高まり、長岡京と九州太宰府を結ぶ太宰府道として人々の往来や物流が活発になった。いわば古代の国道一号線として重要な道路であった。  また長岡京から程近い山陽道沿いには山崎津があり津から陸揚げされた物資は人馬によって山陽道を都へ運搬された。平安時代の役人であり文人である紀貫之は土佐守の役職を終えて都へ帰る途上山崎津で舟を降り、山崎で宿泊した後山陽道を通って島坂(向日市)から京へと向った事を“土佐日記”に記している。
 鎌倉時代から室町時代には八幡宮油座の神人たちが山陽道を通って京へ大阪へ油を商いに行つたものと思われ、油座をバックに大山崎は大いに賑わいを見みせていたものと思われる。 戦乱の世の終り天正十年六月、羽柴秀吉は備中高松城攻めの途上織田信長の死を知り急ぎ西国街道を都へととって帰し大山崎の西国街道と小泉川が交る所あたりで明智光秀軍と合戦することになる。この時も西国街道が京へ向うルー卜として重要な役割を果たした。また久我畷は平安時代に都市計画道路として計画的に通された道路で、平安京の南方へ延びる鳥羽造り道と山崎津を結ぶバイパス道路として設けられた。山陽道は大山崎から都へ向う途中にかなりの上り下りかおり人馬で士資を運搬するのは骨がおれるためそれを解消して最短距離で都へ入る道路として大きな役割を果たした。
 中世の文献にも久我畷の名は見え戦国論代の天正山崎合戦の時には戦いに敗れた明智光秀が敗兵と共に近江へ逃げるため通ったのも久我畷であった。…(大山崎教育委員会の説明看板より) 

写真は山崎の西国街道と久我畷の分岐道にある「山陽道(西国街道)と久我畷(長岡京時代~)」の説明看板です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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