●明智光秀 山崎合戦後を追う(YouTube)
 初版2019年12月6日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の一 山崎の戦いで御坊塚の本陣から勝龍寺城まで
 二版2019年12月13日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の二 勝龍寺城から光秀 終焉の地 明智藪まで
 三版2019年12月20日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の三 光秀 終焉の地 明智藪から明智光秀胴塚まで
 四版2019年12月27日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の四 本能寺 明智光秀の首と胴体を追う
 五版2020年1月4日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の五 粟田口(蹴上)明智光秀首塚 明智光秀の首と胴体を追う
 六版2020年1月10日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の六 梅宮町 明智光秀首塚 明智光秀の首と胴体を追う
 七版2020年1月17日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の七 大津 坂本 西教寺 明智光秀と一族の墓
 八版2020年1月24日  <V01L01> 山崎合戦後を追う 其の八 大津 坂本 明智光秀の居城 坂本城炎上

 今週から「明智光秀」を始めます。光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間の子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。(ウイキペディア参照)


「勝竜寺城 」
<山崎合戦後を追う 其の一 山崎 御坊塚の本陣から勝龍寺城まで>
 今週から「明智光秀を歩く」を始めます。先ず、羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した山崎の戦いの後から開始したいとおもいます。明智光秀は山崎の戦いが不利になってくると、御坊塚の本陣から撤退、勝龍寺城に入ります。今回はここまでを掲載します。次回は明智光秀が大津の坂本城まで撤退するため通った勝龍寺城から明智藪までを歩きます。5回程度になる予定です。

<山崎合戦(山崎の戦い)>
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府長岡京市乙訓郡大山崎町)において、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。(ウイキペディア参照)

写真は山崎の戦いで、御坊塚の本陣から撤退して入った勝龍寺城です。綺麗に整備されています。詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「明智光秀終焉の地 」
<山崎合戦後を追う 其の二 勝龍寺城から光秀 終焉の地 明智藪まで>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の二です。羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した山崎の戦いの後から始めています。明智光秀は山崎の戦いが不利になってくると、御坊塚の本陣から撤退、勝龍寺城に入ります。今回は明智光秀が大津の坂本城まで撤退するため通った勝龍寺城から、光秀 終焉の地 明智藪までを歩きます 。

勝龍寺城から坂本城へは幾つかの経路がありますが、一般的には大亀谷から小栗栖経由で坂本城へ向かったというのが通説のようです。
経路としては
1.古淀城へ行き、それから小栗栖から坂本へ向かう→ 時間が掛かる
2.伏見から小栗栖を通って坂本へ向かう→人家が多く落武者狩りに逢う
3.久我縄手から下鳥羽付近で淀川を渡り、大亀谷、小栗栖から坂本へ向かう→可能性大

明智光秀は、夜半に勝龍寺城を抜け出し少人数で坂本城に向かいますが、その途中の小栗栖の竹薮(明智藪)で襲われ傷を負い自害します。天正十年(1582)6月14日(西暦7月3日)の未明のことです。

写真は小栗栖の本経寺近くにある明智光秀 終焉の地です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「明智光秀胴塚 」
<山崎合戦後を追う 其の三 光秀 終焉の地 明智藪から明智光秀胴塚まで>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の三です。前回は明智光秀が大津の坂本城まで撤退するため通った勝龍寺城から明智藪まででしたが、今回は明智光秀胴塚までと紅葉で有名な勧修寺を歩きます。

天正十年(1582)6月14日(西暦7月3日)の未明、光秀は小栗栖の明智藪で討たれますが、その後の動きがよく分かりません。一般的には三町(約330m)ほど馬で走って、そこで自害したことになっているようですが、明智光秀胴塚(明智光秀塚)は1.3Km先にあります。この胴塚が正しいとすると、明智光秀は明智藪で討たれた後、1.3Km程馬で走って、そこで自害したのではないでしょうか、まあ今となっては真実は不明です。

写真は明智藪から1.3Km程北にある小栗栖街道の明智光秀胴塚(明智光秀塚)です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「此附近 本能寺址 」
<山崎合戦後を追う 其の四 本能寺 明智光秀の首と胴体を追う>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の四です。光秀は小栗栖の明智藪で襲われ自刃し、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたといわれています。又、胴体は明智光秀胴塚に埋められたと伝えられています。しかし14日には発見され、村井清三(織田信長の元で京都所司代など要職を歴任した村井貞勝の一門衆で家臣)から織田信孝へと届けられたようです。そして15日には本能寺でさらされます。

<兼見卿記(一番信頼できます)>
十五日、壬申、…三七郎殿へ帷一、持参、慥申來云、向州於醍醐之邊討取一揆、其頸於村井清三、三七郎殿へ令持参云々(向州=日向守光秀)
十六日、癸酉、…向州頸・筒体、於本應寺曝之云々

写真は本能寺跡にある大正4年に作られた“此附近 本能寺址”と書かれた石碑です。もう一ヶ所碑があるのですが此方の方が本能寺跡の正面なので使いました。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「粟田口(蹴上) 明智光秀首塚跡附近? 」
<山崎合戦後を追う 其の五 粟田口(蹴上)明智光秀塚 明智光秀の首と胴体を追う>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の五です。光秀は小栗栖の明智藪で襲われ自刃し、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたといわれています。又、胴体は明智光秀胴塚に埋められたと伝えられています。しかし14日には発見され、村井清三(織田信長の元で京都所司代など要職を歴任した村井貞勝の一門衆で家臣)から織田信孝へと届けられたようです。そして16日には本能寺でさらされます。そして18日には斎藤利三と共に六畳河原でさらされ、最後は粟田口(蹴上)でさらされ、塚を作られます。

<兼見卿記(一番信頼できます)>
十五日、壬申、…三七郎殿へ帷一、持参、慥申來云、向州於醍醐之邊討取一揆、其頸於村井清三、三七郎殿へ令持参云々(向州=日向守光秀)
十六日、癸酉、…向州頸・筒体、於本應寺曝之云々
十八日、乙亥、…生捕齋藤内藏釛上洛、令乗車渡洛中、於六条川原刎首、日向守同前曝之
廿三日、庚辰、…日向守・齊藤内蔵助、築頸塚粟田口之東口口之北云々、自廿二日築之云々

写真は三条通 粟田口(蹴上)の明智光秀首塚があったとおもわれるところです。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「梅宮町 明智光秀首塚 」
<山崎合戦後を追う 其の六 梅宮町 明智光秀首塚 明智光秀の首と胴体を追う>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の六です。光秀は小栗栖の明智藪で襲われ自刃し、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたといわれています。又、胴体は明智光秀胴塚に埋められたと伝えられています。しかし14日には発見され、村井清三(織田信長の元で京都所司代など要職を歴任した村井貞勝の一門衆で家臣)から織田信孝へと届けられたようです。そして16日には本能寺でさらされます。そして18日には斎藤利三と共に六畳河原でさらされ、最後は粟田口(蹴上)でさらされ、塚を作られます。その後、江戸時代中期の安永〜天明初年ごろ(1770〜80ごろ)に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されています。

<『京都坊目誌』「下京第八学区之部」20巻>( 以下はレ点、一二点を戻して表記)
○明智光秀ノ首塚 梅宮町北端。四百七十二番地人家の後方にあり。維新前は。是より東上壇の地にあり 其後此地に移すと云ふ。今傍に稲荷の小祠あり。其下に墓標ノ石塔高三尺許のもの一基あり。光秀の首級 を埋むと云ふ。正史傳はらず。土俗首より上の病あるもの。此墓に祈れば驗ありと云へり。
花頂要略稿本卷五十七云。西小物座町人家之後在。 光秀山科郷於落命之後。首屍ヲ捕テ梟シ所也云云天正十年之御記云。六月二十一日。明智日向の頸。其 外數千ノ頸トモヲ當所ノ東二埋メ塚ヲ築ク。奉行村井清三□□次右衛門伝伝今十露盤師平兵衛。酒造嘉兵 衛。兩人之家ノ間ニアリ。此所除地ニテ沽券外ノ地面云云谷川ノ南岸ノ上ニアリ。私二云。近年梅ノ宮町二 住セル能ノ笛吹。明田理右衛門卜云ル人。光秀が子孫ナル由申觸シ。彼首塚二有シ石塔婆ヲ。我私宅ニ 移シタケリ。明田某ハ死シテ。今宵梅ノ宮町梅ノ宮ノ舊地ノ西邊ニアリ。渡邊山城之ヲ守ル伝伝

写真は三条白川橋から南に少し入った京菓子「餅寅」さんの横を更に入った先にある明智光秀首塚です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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「明智光秀と一族の墓 」
<山崎合戦後を追う 其の七 大津 坂本 西教寺 明智光秀と一族の墓>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の七です。光秀は小栗栖の明智藪で襲われ自刃し、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたといわれています。又、胴体は明智光秀胴塚に埋められたと伝えられています。後、首と胴体は発見され、本能寺でさらされた後は粟田口で首塚を作られますが、梅宮町北端、四百七十二番地人家の後方の移されます。そこで、明智光秀の正式な墓は何処にあるかというと、明智一族の墓として大津 坂本の西教寺にあり、光秀もここに葬られています(当然ですが骨はありません)。

<西教寺>ウイキペディア参照
 西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。天台系仏教の一派である天台真盛宗(てんだいしんせいしゅうの総本山である。山号は戒光山、本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然とせず、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えた。寺名は詳しくは兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)という。
 信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。

写真は西教寺の明智光秀と一族の墓です。その他にも関連のお墓があるので、詳細はYouTubeを見て下さい。

写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

坂本城阯公園の明智光秀像
<山崎合戦後を追う 其の八 大津 坂本 明智光秀の居城 坂本城炎上>
 「明智光秀 山崎合戦後を追う」其の八です。光秀は小栗栖の明智藪で襲われ自刃し、首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたといわれています。又、胴体は明智光秀胴塚に埋められたと伝えられています。後、首と胴体は発見され、15日には本能寺でさらされます。一方、安土城にいた明智光秀の女婿明智秀満(左馬助光春)は山崎での敗戦を知り、14日に坂本城に戻り、身内を殺害して城に火を放ちます。

<坂本城跡(大津市下阪本三丁目)>
 元亀二年(一五七一)九月の山門(比叡山延暦寺)焼き打ち直後、織田信長は明智光秀 に滋賀郡支配を命じるとともに、浜坂本(三津浜)に水城を築かせました。日本最古級の 天主がそびえていた坂本城について、当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロ イスは、天正四年(一五七六)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と賞賛しています。
 坂本城築城の目的は、山門の監視ばかりでなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国 美濃と京都とのルートの確保、水運の重要な拠点などがあげられます。
 この城は、天正十年六月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、 同十四年頃、城主浅野長吉の時に大津城に移るまでこの地にありました。

写真は坂本城阯公園にある明智光秀像です。少し太り気味です。詳細はYouTubeを見て下さい。

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