●散歩情報(YouTube)
  初版2018年11月23日  <V01L01> 京都編 晴明の屋敷跡に鎮座する晴明神社を訪ねる
 二版2018年12月06日  <V01L01> 京都編 陰陽師 「清明」銘石仏を探す
 三版2018年12月19日  <V01L01> 京都編 陰陽師 安倍晴明のお墓を訪ねる
 四版2019年01月06日  <V01L01> 京都編 安倍晴明が十二神将を置いたといわれる一条戻橋を訪ねる

 安倍晴明(あべのせいめい/はるあき/はるあきら)は平安時代の陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)。陰陽師とは当時最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や占いなどに関して、卓越した知識を持った人のことで、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいます。


「晴明の屋敷跡に鎮座する晴明神社」
<京都編 晴明の屋敷跡に鎮座する晴明神社を訪ねる>
 今回から陰陽師 安倍晴明を巡ってみたいとおもいます。

<陰陽師 安倍晴明>
 安倍晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。陰陽師とは当時最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や占いなどに関して、卓越した知識を持った人のことで、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいる。出自 晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。 各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。(ウイキペディア参照)

写真は一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座する晴明神社です。寛弘2年(1005)に晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007)その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りまであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、昭和25年(1950)には堀川通に面するように境内地が拡張された。(ウイキペディア参照)

 写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「 陰陽師 「清明」銘石仏」
<京都編 陰陽師 「清明」銘石仏を探す 京都市洛西竹林公園から京都市考古資料館へ>
  今回は京都市営地下鉄烏丸線の工事の試掘調査で、烏丸通の石組み側溝から出土した「清明」銘石仏を探します。

 事前にネットで調べると、京都市営地下鉄烏丸線の工事の試掘調査で、烏丸通の石組み側溝から出土した「清明」銘石仏が京都市洛西竹林公園に置かれているとのことで、見に行きました。確かに多くの石仏があったのですが、いくら探してもこの「清明」銘石仏が見当たりません。仕方が無いので京都市洛西竹林公園の事務所で場所を聞いたところ、痛みが酷くなってきたので今年の6月に京都市考古資料館に移したとのことです。ここでガックリです。京都市洛西竹林公園は京都市内から遠くて、阪急京都線「桂」駅から市バスで「南福西町」下車(15分)そこから上りで徒歩5分掛ります。仕方が無いので阪急電車で大宮駅まで戻り、少し歩いて、四条堀川から市バス9番で堀川今出川まで乗り、数分歩いて京都市考古資料館にたどり着きました。京都市考古資料館の皆様はとても親切に教えて頂きました。ありがとうございました。「清明」銘石仏は2Fの正面やや右下に置かれていました。

 地下鉄烏丸線の工事関連の試掘調査とは、永禄12年(1569)織田信長が足利義昭のために建造した旧二条城と、合わせて行つた御所の修築を調べたものです。この石仏はその時に転用されたものと考えられます。

<京都市考古資料館の説明文>
 1975年、地下鉄烏丸線の発掘調査で、烏丸通の東側溝の石垣石材としてみつかりました。鎌倉時代に造られた阿弥陀如来の立像ですが、下半は欠損しています。光背(こうはい)には左耳上に観世音菩薩を示す梵字があり、右耳上にも大勢至菩薩を示す梵字の一部が認められることから、全体で阿弥陀三尊を表していたようです。また、左腕脇には「清明☆」の文字がありますが、これは追刻とみられます。五芒星を伴うことから、陰陽師として有名な安倍晴明に対する信仰との関わりが考えられます。

写真が「清明」銘石仏です。左腕脇に「清明」とありますが、これは追刻だそうです。下に五芒星も彫られていることから陰陽師として有名な安倍晴明に対する信仰との関わりがあるとおもわれます。

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「安倍晴明の墓所」
<京都編 陰陽師 安倍晴明のお墓を訪ねる(嵯峨)>
  今回は陰陽師 安倍晴明のお墓を訪ねます。現在の安倍晴明の墓所はウイキペディアによると京都市内だけでも複数あり、今回はその中でも最も有力な右京区嵯峨天龍寺角倉町の墓所を訪ねます。

<ウイキペディア記載の墓所>
(1)安倍晴明墓所(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町12)- 安倍晴明は寛弘2年(1005年)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨野の「塔頭・寿寧院」に葬られたと伝わっている。荒廃していたため、1972年に晴明神社、天社土御門神道の協力の下、晴明神社奉賛会により神道式に改修・建立されて、現在晴明神社の飛び地境内として管理されている。
(2)法城寺大黒堂(京都府京都市東山区)- 五条大橋の北にある中州に建てられたが、度重なる鴨川の氾濫により滅失する。その後「法城山晴明堂心光寺」(三条大橋東)に「晴明塚」として移設再興されたが遺失。
(3)東山区松原通宮川筋入ル(京都府京都市東山区宮川筋)- 「法城寺大黒堂」にあった遺骨を、鬼門封じのためこの地に埋葬したとの伝承がある。
(4)遣迎院の南にある竹藪(京都府京都市東山区本町19丁目)- 安倍晴明は東福寺門前の本町通に屋敷を構え、かつてその近くの遣迎院の南にある竹藪に墓所が存在していたと伝わるが現存しない。
(5)晴明霊墳(岡山県浅口市金光町占見宮東)- 「晴明霊墳」の石碑は、明治22年建立とある。この「晴明霊墳」碑から500mほど東の荒神社の隣に「道満」碑も鎮座する。
(6)安倍晴明墓所(長野県木曽郡木曽町新開)- 長野県木曽町にある安倍晴明のお墓には、晴明の像と安倍家の家紋である「晴明桔梗印」(五芒星)が記されている。

 (1)の京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町の墓所については
・「臥雲日件録(がうんじっけんろく)」、現存しているのは臥雲日件録抜尤(抜粋)
・「応永鈞命絵図」
 に書かれているとのことで調べて見ました。
 「臥雲日件録抜尤(抜粋)」では、応仁元年(1467)の項で調べて見ましたが、晴明については書かれていましたが、墓所については記載がありませんでした。
 「応永鈞命絵図 応永33年(1426)」については臨川寺住持月渓が作成した嵯峨一帯の絵図で、晴明の墓所に記載があります。又、ウイキペディアには、嵯峨野の「塔頭・寿寧院」に葬られたと伝わっている、と書かれており、寿寧院の位置についても調べて見ました。参考文献は「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」で、中の“図3. 天龍寺境内地の状況(明治8年夏〜同9年春)”で、寿寧院の明治初期とそれ以前の場所が記載されていました。現在の墓所の位置と明治以前の寿寧院位置が一致していますので間違いないとおもわれます。

写真が右京区嵯峨天龍寺角倉町の陰陽師 安倍晴明墓所です。詳細はYouTubeを見て頂ければとおもいます。

 写真をクリックすると、YouTubeにリンクしてありますので、動画をお楽しみください。

「一条戻橋」
<京都編 安倍晴明が十二神将を置いたといわれる一条戻橋を訪ねる>
  今回は陰陽師 安倍晴明が十二神将を置いたといわれる一条戻橋を訪ねます。

京都市の一条戻橋の下にある説明文には戻橋について3つのお話しが書かれています。
1.撰集抄 巻七のお話
2.太平記 剣の巻(平家物語 剣巻)のお話
3.安倍晴明が父を生き返らせた_?(調べましたがよく分かりません)
その他では
・源平盛衰記 巻十のお話 等があるようです。

<撰集抄 巻七 第五話>
…浄蔵は善宰相(三善清行)のまさしき八男ぞかし。それに、八坂の塔のゆるめかを(ゆがめるを)祈り直し、父の宰相の、この土の縁尽きて去り給ひしに、一条の橋のもとに行き合ひて、しばらく観法して、蘇生し奉られけり。伝へ聞くもありがたくこそ侍れ。 さて、その一条の橋をば、「戻橋」といへるとは、宰相の蘇り給へるゆゑに名付けて侍り。「『源氏』の宇治の巻に、『行くは帰る橋なり』と申したるはこれなり」とぞ、行信は申されしか。「宇治の橋」といふは、あやまれることにや侍らん。

<平家物語 剣巻>
その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。…一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。…

<源平盛衰記 巻十>
 中宮御産事 治承二年十一月十二日寅時より、中宮御産の気御座と■(ののしり)けり。去月廿七日より、時々其御気御座(おはしまし)けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿(にゐどの)心苦く思給(たまひ)て、一条堀川(ほりかは)戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給(たまひ)て、橋占をぞ問給ふ。十四五計の禿なる童部(わらんべ)の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣同音に、榻は何榻国王榻、八重の塩路の波の寄榻と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如して失にけり。二位殿(にゐどの)帰給(たまひ)て、せうと平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)に角と被(レ)仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座(おはしまし)候べし。目出(めでた)き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給(たまひ)てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給(たま)ひけれ。

写真は一条戻橋の下にある説明文です。詳細はYouTubeを見て頂ければとおもいます。

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