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最終更新日:2006年2月21日

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●吉行淳之介「原色街」を歩く 2002年7月20日 V02L02
 遊郭シリーズは第一弾が「須崎遊郭」、第二弾が先週取り上げた五木寛之の「千住遊郭」と順にきましたが、今週は第三弾として「吉行淳之介 」の「原色の街」から「鳩の街」を歩いてみたいと思います。遊郭シリーズは永井荷風の「墨東奇譚」の「玉の井」で最後にする予定です。「原色の街」は昭和26年、吉行淳之介が26歳の時に書かれ、第二十六回の芥川賞候補になっています。芥川賞を受賞したのは、同じく「鳩の街」を取り上げた昭和29年の「驟雨」でした。

<鳩の街>
 鳩の街の遊郭(赤線)の誕生については、昭和20年3月の東京空襲で玉の井等の娼婦街が焼けてしまったため、その近くで焼け残っていた寺島一丁目(現東向島)に移転してきたのが始まりのようです。永井荷風の「断腸亭日乗」を読むと、その当時のことがよく分かります。「昭和二十三年一月十日。晴。暖。来訪者を避けむとて午下市川駅前より発する上野行のバスに乗り浅草雷門に至る。歩みて言問橋をわたり白髭に至る。白髭神社蓮華寺共に焼けず。外祖父毅堂先生の碑無事に立てるを見る。地蔵坂下より秋葉神社前に出る横町にもと玉の井の娼家移転せり。この辺も焼けざりしが如し。向嶋は災を免れし処随分あるやうなり。言問橋際電車通の片側また吾妻橋東詰にも瓦屋根の二階ところどころに残れるを見る。羅災の如何は一々実地について調査するに非らざれば知り難し。秋葉社前にて金町行バスの来るに蓬ひ之に乗る。途中乗客雑沓して下ること能はず金町に至り京成電車に乗りかへ四時頃家にかへる。…」とあり、永井荷風が訪ねた昭和23年1月には既に赤線があったようです。

 「鳩の街」誕生の経緯は前田豊の「玉の井という街があった」に、もう少し詳しく書かれています。「玉の井私娼街は事実上、昭和二十年(一九四五)三月十日の空襲で全焼し.壊滅状態に陥ったわけだが、だからといって、終戦時の二十年八月十五日まで、まったく女気がなかったわけではない。 …… 大正道路(いろは通り) の北側、現在の隅田三、四丁目あたりの非羅災地だ。なかでもっとも多くの羅災娼婦を吸収したのが、のちに「鳩の街」と呼ばれるようになった寺島一丁目の一画である。ここは元の玉の井私娼街から南へ一キロぐらいしか離れていなかったし、はとんどが罷災をまぬがれた住宅街で、疎開による空家が多く、焼け出されの玉の井業者連にとっては、まさに垂挺千丈にも達する地域だったのである。」とあり、焼け出された玉の井の娼家は、大正通りの北側か、寺島町に移転していったようです。

左の写真は鳩の街商店街から一筋入ったところの建物の入り口を撮影したものです。娼婦街の趣があるしゃれた入り口ですね。

<吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)>
 1924(大正13)年、岡山市生れ。東京大学英文科中退。’54年「驟雨」で芥川賞を受賞。性を主題に精神と肉体の関係を探り、人間性の深淵にせまる多くの作品がある。また、都会的に洗練されたエッセイの名手としても知られる。’94年、病没。主要作品は『原色の街』『娼婦の部屋』『砂の上の植物群』『星と月は大の穴』(芸術選奨文部大臣賃)『暗室』(谷崎賓)『夕暮まで』(野間賞)『目玉』等。(新潮文庫より)

yoshiyuki-hato12w.jpg<鳩の街商店街>
 この鳩の街を訪ねるには、当時は都電が一番便がよかったようです。昭和20年代は、30番の都電が須田町から、上野、浅草経由で吾妻橋を超えて寺島町二丁目まで通っていました(昭和44年に廃止されます)。吉行淳之介の「原色の街」の書き出しには「隅田川に架けられた長い橋を、市街電車がゆっくりした速度で東へ渡って行く。その電車の終点にちかい広いアスファルト道の両側の町には、変った風物が見えているわけではない。ありふれた場末の町にすぎない。」と書かれています。”隅田川に架けられた長い橋”とは吾妻橋のことで、”その電車の終点に近い”と書かれた所が現在の東向島一丁目だと思われます。

左の写真は現在の東向島一丁目交差点にある「鳩の街商店街」の南側入り口(水戸街道側)です。ピンクのアーケードの上に数羽の鳩が描かれています。昔は「鳩の街」と書いてあったのですが何時の間にか無くなっていました。


<カフェー街 -1->
 カフェー街の建物は、先週の千住遊郭の時も書きましたが、独特の雰囲気があり一目見るとすぐにわかります。特にこの街はカラフルな色タイルで飾った家が多くあり特徴を出しています。前田豊の「玉の井という街があった」では「警視庁の通達に従って、家屋はどこの娼家も壁や柱が模造タイルに貼り替えられ、入口にはカフェー様式にテーブル、椅子、酒瓶等を置き、軒下には赤や紫のネオンが輝いて、わずか二.三カ月前とは打って変わった様相を示した。」とあり、タイルが警視庁指定だったことがわかります。「原色の街」では「本屋の隣は大衆酒場で、自転車が四、五台、それぞれ勝手な方向をむいて置かれてある。その酒場の横に、小路が口をひらいている。それは、極くありふれた露地の人口である。しかし、大通りからそこへ足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型にまげられたネオン管のなかでは、赤いネオンがふるえている。洋風の家の入口には、ピンク色の布が垂れていて、その前に唇と爪の真赤な女が幾人も佇んでいる。」と、鳩の街の入り口から商店街に入る所から、カフェー街の様子まで書かれています。

右の写真が現存する模造タイルを使った家です。この地区は道が狭いせいか、街自体が発展せずに昔のまま残っており、当時のカフェー街と思われる建物がかなり多く見受けられます(建物1建物2建物3建物4建物5)。しかし建物自体がかなり古くなっており、無くなっていくのも時間の問題かと思います。

<カフェー街 -2->
 実際にカフェー街があったところは鳩の街商店街から一筋入ったところです。前田豊の「玉の井という街があった」では「向島の都電終点を一〇〇メートルほど西へ入った小商店通りの北裏側で、この一角は東西に細長く、面積わずか千五、六百坪足らずだが、小住宅が密集している点では、あたかも旧玉の井の地形に似ていた。…… そのうち幅約五メートルの商店街通りに面した八軒は、到底警察の許可を得られないとしても、あとの三十三軒は努力次第でなんとかなりそうだ。…… とにかく、昭和二十年五月十九日、三月十日に旧玉の井が焼けてから七十日目にして、ここにまず五軒の始家が開業することになった。これが鳩の街特飲街の開祖である。」とあり、商店街の通り自体に店を出すのは許可されなかったようです。その代わりに、商店街の北側というか、東側に一筋ずれた通りにカフェー街が誕生しています。「原色の街」では「街の中程の曲り角に在る店が、最も多くの客を捉えることができる。三つ目の曲り角に位置している特殊飲食店ヴィナスが繁昌するのは、そのためもあった。」と書いています。

左の写真は鳩の街商店街にある写真店です。今も残っている当時の建物の一つだとおもいます。前田豊の「玉の井という街があった」では、ショート五百円、泊まり千円の玉代が必要だったようです。

<木の実ナナ>
 木の実ナナが生まれ育ったのがこの東向島(当時は寺島町)です。当時の建物は既になく、新しいビルが建っています。当時のまま残っているのは「余談になるが、おもしろいことに、どこの遊廓や娼家街でも、昔から中央に場所を占めるのが大抵松の湯であるというのはいったいどういうわけなのであろう。」と書かれている通り、お風呂屋です。鳩の街にも「松の湯」が鳩の街商店街の中程にあります(玉の井の真ん中にも「松の湯」がありました)。
 
この写真の左側ビルの所が木の実ナナが生まれ育った所です。鳩の街商店街通りで、水戸街道側からみると、「松の湯」の少し手前右側です。

《最後に》
 吉行淳之介はこの作品を後に回想しています。「この作品の背景は、いわゆる赤線地帯であるが、その場所の風俗を書こうとおもったわけではない。このときまで私はそういう地域に足を踏み入れたことは、二、三度しかなかったし、娼婦に触れたことは一度もなかった。もともとこの作品で私は娼婦を書こうともおもわなかった。」


東向島付近地図
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【参考文献】
・原色の街:吉行淳之介、新潮文庫
・玉の井という街があった:前田豊、立風書房
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・断腸亭日乗:永井荷風、岩波書店
 
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