●小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」を歩く (中)
    初版2006年7月29日
    二版2013年1月19日 <V01L02> 追加・更新 暫定版

 今回は小松左京の『「本邦東西朝縁起覚書」の後南朝を歩く』の二回目です。前回は清滝から国道169号線を柏木まで歩いてきましたが、今回は「かくし平行宮跡」を目指し、柏木の少し先の大迫で国道169号線を左折して入之波から「かくし平登山道入口」までを歩きました。



「かくし平登山道入口」
かくし平登山道入口>
 「金蔵王(尊義王)の墓所」と「かくし平行宮跡」を目指して、柏木の先の大迫で国道169号線と別れて入之波に向います。この国道169号線を左折するところには現在は大迫ダム(昭和48年施工)があり、この本の書かれた頃(昭和40年)とは様変わりです。

 小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」からです。
「…武断戦乱の中世において、武家をおさえて朝権を上古の至上に復さんとした、勇武の帝の遺志は百年ののちに、ついにこの南畿山岳中に万斛の怨をのんでほろんだ。吉野、北山の深い山ひだの奥、谷のはざまのすべてに歴史をこえた妄執がみち、怨みがこもっているように思える ── まして、ここ、台高山脈の内ぶところ深くはいりこんだ、三ノ公御所跡八幡平では、頭上をおおう老杉と、いりくんだ深い谷と山肌にこめられて、五百年、出口をふさがれた自天王の亡魂が、草木の一本々々に宿っているような気がして、ゆらめくランプのほの暗い影も、とうとうとなる谷川の水も、まことに鬼哭啾々として、総毛立つような気配にみちていた。 ── まったく、さあらぬ神にたたりなしで、思えばこの時まだ、そのままひきかえせば、無事だったのだが……」

 「金蔵王(尊義王)の墓所」と「かくし平行宮跡」を車で訪ねようとおもったのですが、どうも車では行けそうにない場所のようです。最初訪ねたときは登山準備をしていなかったためあきらめて、再度準備(ハイキング程度)を整えて二度目のチャレンジで「かくし平行宮跡」まで訪ねました。

左上の写真が「かくし平登山道入口」です。2006年2月の撮影です。小松左京が書いた「本邦東西朝縁起覚書」の頃は車は「三之公出合」までだったようですが、現在はもし少し進んで「八幡平黒木御所跡」からその先まで車で訪ねられるようになっています。

【小松 左京(こまつ さきょう)】
 昭和6年(1931)1月28日大阪市西区の生まれで神戸育ちの小説家。旧制兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現兵庫県立神戸高等学校)、第三高等学校を経て京都大学文学部イタリア文学科に進学。中学時代には同級生の高島忠夫とバンドを組んでいたこともある。大学在学中に同人誌「京大作家集団」の活動に参加。高橋和巳や大島渚と交流を持つ。筆名の左京は大学時代住んでいた京都市左京区からとったものである。本名は小松 実。星新一・筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる日本SF界を代表するSF作家。宇宙開発に関心を持ちその振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れており、宇宙作家クラブの提唱者で顧問でもある。

【後南朝について】
 南北朝については皆様良くご存じだとおもいますが、その後発生した後南朝についてはこの「本邦東西朝縁起覚書」を参考にして説明しておきます。
「…すでに『吉野葛』などで、御存知の方も多いと思うが、ここで、後南朝について、ちょっと説明しておくと 一三三六年、後醍醐帝が神器を奉じて吉野に遷幸されてから、後亀山帝の和解復帰までの五七年間、京と吉野に二つの朝廷ができて、これを南北朝、または吉野朝時代とよぶのは、誰でも知っている通り ── ところで、南北の和解が成立して、皇統合一の後も、北朝側は、和解条件に反して、南朝側大覚寺銃の血筋を皇位につけず、ことごとにひどいあつかいをしたので、南朝方は、その後、ほぼ一世紀ちかくにわたって、次々に反北朝、反足利の兵をあげる。 中でも、北朝方にとって、言語道断、驚天動地、前代未聞の不祥事は、後花園帝の嘉吉三年 (一四四三)九月二十三日、後村上帝の皇曾孫、金蔵、通蔵二王をいただいた、源尊秀、日野有光らが、突如御所に乱入して、皇統のしるしである神垂、宝剣をうばいとり、叡山にたてこもったことであろう(これにも諸説あって、この時の大覚寺統親王は、万寿院(寺)宮親王、奉ずるは、楠二郎正秀の説もある。また万寿院宮は迫害をうけ、自害されたともいう) 世に南朝遺裔の乱とよぶ、このおどろくべき不祥事は、戦時中は隠蔽され、年表にも「九月、賊禁中に入りて放火し、神璽宝剣を奪う」とのみしるされてあるが ─ この時、宝剣はのこったが、神璽は長く消息を絶った。京の幕府、朝廷が、周章狼狽したのはいうまでもない。勅語を出すにも、貴族の位階をさずけるにも、実印がなければ、それこそ朝廷の権威もかたなしであるからである。さて、この後も、南朝の血統をひく宮方の挙兵は、南畿奥吉野の山中にぞくぞくとつづく。 変の翌年文安元年、伯母蜂を南へこえた北山郷で、後亀山帝の血をひく円満院宮(或日、後村上帝皇孫大僧正円胤)が挙兵し、四年後うたれると、その弟で、近江にいた万寿院宮空困法新王が、遺臣に奉ぜられて、この三ノ公川上流の秘境にいたり、八幡平を御所とさだめ、法親王病没後、その遺児二人のうちの兄の官は神垂を奉じて、南朝銃として、ひさ方ぶりの即位をされ、自天王となられた。 自ら天王となったから、こうなのったのか、また『皇』 の字をつかわぬのは、後世の遠慮か、そこらあたりは分明でないが、とにかくここに『後南朝』なるものが発生する。…」

 自天王(北山宮)、河野宮については諸説あり、私もよく分かりません。ごめんなさい。下記に系統を書いていますが、あくまでも推定です。上記に書かれている「円満院宮」は「円胤」、また「その弟で、近江にいた万寿院宮空困法新王」とは、直接の弟ではなく「世明」の子供の「金蔵王」ではないかとおもわれます。


南北朝の年表
和 暦 西暦 年  表 南北朝の足跡
明徳3年 1392 南北朝合体 南北朝が合体し後小松天皇誕生、後亀山法皇は大覚寺に入る
応永15年 1408 足利義満死去 室町幕府動揺する
応永17年 1410   後亀山法皇が嵯峨から吉野に移る。その後戻る
生長元年 1428 北畠満雅挙兵 南朝後胤小倉宮(二代目)と共に挙兵したが敗れる
嘉吉元年 1441 嘉吉の変 赤松満祐による将軍足利義教殺害事件
嘉吉3年 1443 禁闕の変 南朝与党は内裏を襲い神璽を奪う、神璽は南朝方に
享徳3年 1454 享徳の乱 関東地方における内乱、20数年続く
長禄元年 1457 長禄の変 赤松与党による後南朝、北山宮、河野宮殺害と翌年の神璽奪回
応仁元年 1467 応仁の乱 細川勝元と山名持豊の争い、戦国時代に突入



南北朝、後南朝系統(推定)



奈良県川上村地図



「柏木あたり」
入之波(しおのは)>
 柏木の先の大迫ダムで国道169号線に別れを告げて左に曲がり入之波に向います。

 小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」からです。
「… 二級国道とはいいながら、この百六十九号線は、相当な岐路であり、谷川ぞいに屈曲してのぼって行くと、オンボロ一二○○ccのエンジンはあえぎ、ほこりは舞い上り、土砂や原木をつんで下ってくるトラックや、柏木へ、あるいは遠く木ノ本へ通う、バスとすれちがう時は、ちょっとばかり肝をひやした。 ── ついにラジエーターが湯気を吹き出し、ボンネットをあけて一休みしたのが ── だらしがないが、まだ大台ケ原よりはるか手前の、柏木あたりだった。…」
 
 大迫ダムの入口に入之波温泉と書いた大きな看板が有りました。入之波は”しおのは”と読みます。普通では読めませんね。

左上の写真が大迫ダムです。小松左京が「本邦東西朝縁起覚書」を書いた頃はこのダムは無かったわけで、道も当時とは全く違ったところを通っており、現在はこのダムの左側に道が通っていますが、当時は右側でした。

「三之公神社」
三之公神社(さんのこ)>
 大迫ダムで左に曲がり、大迫貯水池の左側を暫く走ると入之波温泉になります。

 小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」からです。
「…柏木からのバスも、この道へは、一日に二本しか通わない、という心細さだ。ひなびた入之波の湯にでもとまればいいのだが、平田がヤイノヤイノというので、半分やけくそ気味に、集落を通りすぎた。 ── 山道といっても、バスがかようだけあって、運転はらくだ。…」

  この入之波温泉の左側の丘の上に三之公神社があります。この三之公神社はこの先で訪ねる八幡平黒木御所跡にあった神社で、余りに遠いので地元の方が此方に移されたようです。

右の写真が入之波の三之公神社です。坂の途中にありました。

「本沢川、北股川分岐」
本沢川、北股川分岐>
 大迫に続いて栃谷で二度目の分岐です。

 小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」からです。
「…この道をまっすぐすすめば、本沢川ぞいに、五色湯、さらに大台山のすぐ下の筏場で、行きどまりになっているはずだが、さらにせまい山間にはいりこむと、支流の所で、私たちはまた左へおれた。 ── 支流は北股川で、ここまでくれば、あとはもう、八幡平へ行くまで、とまる所はない。…」

 大迫ダムの水もここまで来ると殆ど無くなります。写真に旧道と新道の二つの橋が映っています。小松左京が渡った橋は当然下に映っている旧道の橋です(現在は使われていない)。本沢川をそのまま上流にいくと五色温泉があったようです(現在は無くなったようで、入之波温泉が五色湯としています)。

谷崎潤一郎の「吉野葛」には、
「…第四日は五色温泉を経て三の公の峡谷を探り、もし行けたらば八幡平、隠し平までも見届けて、木樵りの小屋にでも泊めて貰うか、人の波まで出て来て泊まる。…」

と書かれていました。小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」にも書かれていましたから昭和40年頃までは本沢川の先に五色温泉(五色湯)があったのでしょう。車では途中までしか行けません。

左上の写真が”本沢川、北俣川分岐”です。写真の橋を左に渡ると北俣川で右側直進すると本沢川です。

「三之公出合」
三之公出合(さんのこであい)>
 ”本沢川、北俣川分岐”を左に曲がり北俣川に沿って走ると、砂利採取場があり道が悪くなりますが、何とかやり過ごして三之公出会に向います。

 小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」からです。
「…トラックの轍のある林道をしばらく行くと、 「ここだぜ!」 と地図をもった平田が叫んだ。「ここが三ノ公出合だ。 ── 八幡平は、この奥だ」 左を見ると、そこに、一本の支流が、さらに山奥へとわけいっている ── もはや、そこからは、車の走れる道はない。それどころか梯子でもって、河原におりて、谷間をたどって行かなければならない。 「歩くのか?」月野が、さすがにおどろいていった。 「いったろう。 ── ここからは山登りだ」 「車はここへおいとけよ、とられやせんだろう。 ── それにとられたって大したこたァない」と平田がドアをあけながらいった。「ここまでくれば、今さらひきかえせやしない」。…」

 小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」ではここで車が走れる道は無くなったようです。現在はもう少し先まで車で入れるようになっています。

左上の写真が”三之公出合”です(標識があるので直ぐに分かります)。”本沢川、北俣川分岐”からは右側の橋になります。ここで殆ど360度曲がって左の橋へ向います。つまり、右から左の橋に向うわけです。まだ舗装道路です(あまりよくはありませんが)。

「八幡平黒木御所跡」
八幡平黒木御所跡>
 三之公出合を右に360度回って”かくし平登山道入口”に向います。

小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」からです。
「…そこから、谷川ぞいの、バカバカしい難行苦行がはじまった。 ── 崖ぞいの細道を八幡平までつくのにざっと二時間たらず、たどりついてみると、そこはなんと、谷間にかくれるように、三軒の民家があるだけだった。民家の一軒が、あきれながら親切に泊めてくれたが、ランプもない、おどろくべき秘境だ。 ── とびこみの、脳天気な客に、さぞかし迷惑だったろうが、平田は、この八幡平こそ、後南朝の三ノ公御所のあったところだ、ときいて、おそろしくはりきって、明日はどうでも、上流明神ノ滝の奥をきわめるのだ、といいはった。…」

この辺から道路が悪くなります。未舗装部分も多くて、注意して走ります。約2Km程走ると右側下対岸に人家跡が見えてきます。”八幡平黒木御所跡”です。この御所はこの先の「かくし平行宮」に忍んでおられた金蔵王(尊義王)が足利幕府の圧迫が少なくなったため降りてこられ、作られた御所です。少し前までは三之公神社の跡が残っていたそうですが現在は石垣が残っているのみです。

写真が八幡平行宮跡と書かれた標識です。壊れていて打ち捨てられていましたが方向だけは正しく示していました。

「かくし平登山道入口」
かくし平登山道入口>
 ”八幡平行宮跡”と書かれた標識を過ぎて少し走ると”かくし平登山道入口”です。車はここで終わりです。写真の通り行き止まりですが、かなり広いため車の駐車には困りません。私が訪ねたときも5〜6台駐車していました。

左の写真がかくし平登山道入口です。2006年5月末の朝早くの撮影です。写真の階段を登って「かくし平」に向います。ここから登りで私の足で約1.5時間かかりました。

次回はかくし平までの道を詳細に掲載します。



柏木から入之波付近地図



入之波から三之公付近地図