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最終更新日:2006年8月11日



●谷崎潤一郎の「吉野葛」を歩く (上)
  初版2006年6月24日 <V03L01>

 今回から数回に分けて奈良県吉野を歩いてみます。今週はまず谷崎潤一郎の「吉野葛」に沿って奈良から吉野までを歩き、来週以降、小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」で後南朝を中心にした川上村を歩きます。



<谷崎潤一郎「吉野葛」>
 奈良の吉野といえば谷崎潤一郎の「吉野葛」が自然に思い浮かびます。本人は「現代小説(当時の)」としてよりは「歴史小説」として書きたかったようです。「吉野葛」の最後に本人も書いていますが””やや材料負け”となってしまったようです。「…私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、 − 近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。 − この話は先ずその因縁から説く必要がある。読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、 − 後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。……」。ここまで読むと、胸踊る後南朝の「歴史小説」となってしまうのですが …‥。私も後南朝にはまってしまってかなりの図書を読破しました(参考図書を見てください)。

左上の写真が谷崎潤一郎の「吉野葛」です。初版は昭和6年(1931)に「中央公論」に掲載されています。ですから谷崎潤一郎が初めて吉野を訪ねたのは明治末か大正初めになるわけです。谷崎潤一郎の昭和6年は千代婦人と離婚して吉川丁末子と結婚した年です。吉野の桜花壇という旅館に泊まって執筆したようです。この旅館は現在でもそのまま残っていました。

【谷崎潤一郎】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)

奈良県地図




国鉄奈良駅>
 「吉野葛」の話は大阪在住の第一高等学校時代の友人津村との出会いから始まります。津村は自身の母親の出生の秘密を探りはじめます。「…此方は東京を夜汽車で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。…」。谷崎潤一郎本人は東京から京都経由、奈良線で奈良駅まで来たようです。

左の写真は昭和9年(1934)に完成した寺院風の駅舎です。現在の奈良駅は高架化のため工事中です。ですから谷崎潤一郎はこの駅舎の前の駅舎しか見ていません。奈良駅が出来たのは明治23年(1890)で、京都−奈良間は明治32年(1899)に開通していますから、京都から奈良には本に書かれた通り汽車で移動できました。

武蔵野旅館>
 現在も若草山入口に「むさし野」という旅館がありました。「…武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそうで、あの時分のは建物も古くさく、雅致があったように思う。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水とが一流の家であった。津村は待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊の地であるし、ではいっそのこと、折角のお天気が変らないうちにと、ほんの一二時間座敷の窓から若草山を眺めただけで、すぐ発足した。…」。上記にも経営者がかわっていると書かれていますので、現在の「むさし野」は多分違うのでしょう。場所は同じかな?

右の写真は現在の「むさし野」です。ここは若草山入口の旅館街ですので昔と殆どかわっていないようです(詳細は調べておりません)。上記に書かれている”鉄道省のホテル”は現在の奈良ホテル」、菊水”はそのまま現存していました。

奈良市内




吉野口駅>
 奈良駅から鉄道を乗り継いで吉野を訪ねたようです。「…吉野口で乗りかえて、吉野駅まではガタガタの軽便鉄道があったが、それから先は吉野川に沿うた街道を徒歩で出かけた。…」。奈良駅から関西線に乗り、王寺駅で和歌山線に乗り換えて、吉野駅に向いました。ここで吉野軽便鉄道に乗り換えます。

左の写真は現在の吉野口駅です。JR和歌山線と近鉄吉野線の駅が一緒にあります。プラットホームはなかなか古風で、昔のままのようです。吉野口から吉野への電車は明治45年(大正元年)(1912)に吉野軽便鉄道として開通しています。

六田駅(旧吉野駅)>
 二人は吉野口駅で乗り換えて吉野駅に向います。当時の吉野軽便鉄道(吉野鉄道)吉野駅はは現在の六田駅で、昭和3年に六田駅〜吉野駅間が開通して現在と同じ路線となっています。「…近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、…」。ですから「吉野葛」が書かれた昭和6年は現在の吉野駅まで開通していたわけで、吉野の桜花壇に宿泊した時もロープウエーに乗っていたわけです。

右の写真が現在の六田駅です。当時の吉野駅はもう少し東側に在ったようで、現在の電車車庫の付近だそうです。

柳の渡し>
 六田駅(旧吉野駅)で下車した二人は、上市へ歩いていきます。「…万葉集にある六田の淀、 − 柳の渡しのあたりで道は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡ると直さに下の千本になり、関屋の桜、蔵王権現、吉水院、中の千本、 − と、毎年春は花見客の雑沓する所である。私も実は吉野の花見には二度来たことがあって、幼少の折上方見物の母に伴われて一度、そののち高等学校時代に一度、矢張群集の中に交りつつこの山道を右へ登った記憶はあるのだが、左の方の道を行くのは始めてであった。…」

左の写真が”柳の渡し”の記念碑です。写真の左側に美吉野橋が見えます。当時も橋はありましたので全く同じ構図だとおもいます。

上市>
 六田駅から二人は上市の町に入ります。「…奈良を立ったのが早かったので、われわれは午少し過ぎに上市の町へ這入った。街道に並ぶ人家の様子は、あの橋の上から想像した通り、いかにも素朴で古風である。ところどころ、川べりの方の家並みが欠けて片側町になっているけれど、大部分は水の眺めを塞いで、黒い煤けた格子造りの、天井裏のような低い二階のある家が両側に詰まっている。歩きながら薄暗い格子の奥を覗いて見ると、田舎家にはお定まりの、裏口まで土間が通っていて、その土間の入り口に、屋号や姓名を白く染め抜いた紺の暖簾を吊っているのが多い。店家ばかりでなく、しもうたやでもそうするのが普通であるらしい。…」。現在の169号線は吉野川沿いを走っていますが、当時の街道は少し高台の上にありました。

右の写真が上市の昔の街道筋です。

釣瓶鮨屋(つるべすしや)
 後南朝まではなかなか達しませんが、またすこし寄り道をします。「…「君、妹背山の次には義経千本桜があるんだよ」 と、津村がふとそんなことを云った。「千本桜なら下市だろう、彼処の釣瓶鮨屋と云うのは聞いているが、」 維盛が鮨屋の養子になって隠れていたと云う浄瑠璃の根なし事が元になって、下市の町にその子孫と称する者が住んでいるのを、私は訪ねたことはないが、噂には聞いていた。何でもその家では、いがみの樺太こそいないけれども、未だに娘の名をお里と付けて、釣瓶鮨を売っていると云う話がある。…」。下市なので上市から吉野川を少し戻ります。このお店は竹田出雲の『義経千本桜』で、源氏に破れた平維盛をかくまう役どころとして登場しています。

左の写真が釣瓶鮨屋、現在の「釣瓶鮨 弥助」です。残念ながら時間がなくて食べておりません。何処かで追加します。

来週は少し後南朝に近づきます。

吉野付近地図



●谷崎潤一郎の「吉野葛」を歩く (下)
  初版2006年7月8日 <V01L01>

 今週は谷崎潤一郎の「吉野葛を歩く」の(下)になります。上市に入ってから吉野川に沿って宮滝、菜摘、窪垣内と歩きます。道路や家は新しくなっていますが、雰囲気は昔のままです。流石、吉野、いいですね!



転寝の橋(うたたね橋)>
 吉野は何処を訪ねても、歴史が秘められています。ひとつひとつが胸を踊らせ、胸を高鳴らせます。「…義経がここでうたたねをした橋だと云うのは、多分後世のこじつけであろう。が、ほんの一とすじの清水の上に渡してある、きゃしゃな、危げなその橋は、ほとんど樹々の繁みに隠されていて、上に屋形船のそれのような可愛い屋根が附いているのは、雨よりも落葉を防ぐためではないのか。そうしなかったら、今のような季節には忽ち木の葉で埋まってしまうかと思われる。橋の袂に二軒の農家があって、その屋根の下を半ば我が家の物置きに使っているらしく、人の通れる路を残して薪の束が積んである。ここは樋口と云う所で、そこから道は二つに分れ、一方は川の岸を菜摘の里へ、一方はうたたねの橋を渡り、桜木の宮、喜佐谷村を経て、上の千本から苔の清水、西行庵の方へ出られる。蓋し静の歌にある「峰の白雪踏み分けて入りにし人」は、この橋を過ぎて吉野の裏山から中院の谷の方へ行ったのであろう。……」。谷崎潤一郎が訪ねたときにはこの「うたたね橋」は確かにありました。戦後も暫くはあったようですが、現在は記念碑のみでありません。残念!! しかし同じような橋が少し上流にありました。桜木神社に架かっている橋が写真の橋です。

左上の写真が桜木神社に架かる橋です。吉野川から宮滝で別れた喜佐谷川の少し上流にあります。イメージ的には「うたたね橋」とピッタリ同じ橋です。

左の写真の右側に「うたたね橋」がありました。「うたたね橋」の記念碑が建てられています。記念碑の写真を掲載しておきますが、橋が在ったとはおもえない場所です。吉野川から喜佐谷川が別れて直ぐの所です。写真の正面は吉野川の宮滝です。写真の道を手前に登っていくと桜木神社です。

【谷崎潤一郎】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)

吉野町宮滝から窪垣内地図




吉野離宮と柴橋>
 宮滝には吉野離宮という古事記、日本書紀に登場する行幸の宮がありました。もっとも現在は記念碑だけですが。「…万葉に、「天皇幸于吉野宮」とある天武天皇の吉野の離宮 ─ 笠朝臣金村の所謂「三吉野乃多芸都河内之大宮所」、三船山、人麿の歌った秋津の野辺等は、皆この宮滝村の近くであると云う。 …… 菜摘の里から対岸の宮滝へ戻るには、これも名所の一つに数えられている柴橋を渡るのである。私たちはその橋の袂の岩の上に腰かけながら暫くそんな話をした。貝原益軒の和州巡覧記に、「宮滝は滝にあらず両方に大岩あり其間を吉野川ながるる也両岸は大なる岩なり岩の高さ五間ばかり屏風を立たる如し両岸の間川の広さ三間ばかりせばき所に橋あり大河ここに至てせばきゆへ河水甚探し其景絶妙也」とあるのが、ちょうど今私たちの休んでいるこの岩から見た景色であろう。…」。宮滝は名前の通り、吉野川のなかでも滝のように流れの早い所です。岩の間を勢いよく流れていきます。

左の写真の正面が柴橋で、正面やや右側に吉野離宮の記念碑が建てられています(右側は中荘小学校です)。昔はこの柴橋しかなかったのですが、現在は国栖をショートカットして川上村にいける宮滝大橋が出来ています。

大谷家>
 義経と静御前が登場します。この吉野では歴史上有名な人物は誰でも登場するという感じです。「…菜摘の里と云えば、謡曲の「二人静」に謡われている菜摘川の岸にあるのであろう。「菜摘川のほとりにて、いづくともなく女の来り候ひて、 − 」と、謡曲ではそこへ静の亡霊が現じて、「あまりに罪業の程悲しく候へば、一日経書いて賜はれ」と云う。後に舞いの件になって、「げに祉かしや我ながら、昔忘れぬ心とて、…… 今三吉野の河の名の、菜摘の女と思ふなよ」などとあるから、菜摘の地が静に由縁のあることは、伝説としても相当に根拠があるらしく、まんざら出鱈目ではないかも知れない。大和名所図会などにも、「菜摘の里に花籠の水とて名水あり、又静御前がしばらく住みし屋敷趾あり」とあるのを見れば、その云い伝えが古くからあったことであろう。鼓を持っている家は、今は大谷姓を名のっているけれども、昔は相国の庄司と云って、その家の旧記に依ると、文治年中、義経と静御前とが吉野へ落ちた時、そこに逗留していたことがあると云われる。…」。義経が吉野にいたことは確かな話のようです。静御前の話はどうでしょうか?

右の写真が大谷家です。谷崎潤一郎はこの大谷家を本当に訪ねています。白洲正子の「かくれ里」には、「…先日、考古学の末永雅雄先生にお目にかかった時、偶然その話をすると、昔、先生が宮滝遺跡を発掘しておられた頃、取材にみえた谷崎さんと出会った。「どんぐり眼の、ずんぐりした人で、川向うの旧家へ初音の鼓というのを見に来ていた。はじめは誰だかわからなかったが、さすがにどっしりと、腰をすえたような所があり、何か持っている人だと思ったが、後で聞いたら、それが谷崎さんだった」。モデルになった「津村」も一緒であった。が、谷崎さんが行ったのは、たぶん宮滝あたりまでで、川上村まで入ったことはないように記憶している。…」、と書かれていました。川上村までは訪ねてなかったのでしょうか、昭和初期の川上村を訪ねるのは大変です。そうとう歩かないとだめだったとおもいます。それも山道を!

窪垣内(くぼかいと)>
 ここでやっと谷崎潤一郎の「吉野葛」のストーリーに戻ります。第一高等学校時代の友人津村の母親の実家がこの窪垣内であることを手紙から突き止めます。「…故郷の実家から寄越したのは一通しかなく、宛名は「大阪市新町九軒粉川様内おすみどの」とあり、差出人は「大和国吉野郡国栖村窪垣内昆布助左衛門内」となっていて…」。この第一高等学校時代の友人津村については別途特集したいと思っております。それにしても窪垣内が”くぼかいと”とは読めませんね!

左の写真が吉野川からみた窪垣内の町です。

谷崎潤一郎記念碑(窪垣内)>
 谷崎潤一郎の「吉野葛」の記念碑がこの窪垣内にあります。第一高等学校時代の友人、津村の母親の実家がこの窪垣内にあったため、この地に記念碑を建てたのだとおもいます。

右の写真は国栖小学校への坂道です。この坂道を登る途中に谷崎潤一郎の記念碑が建てられています。丁度、窪垣内の町を見下ろしているようです。

昆布家(こんぶ)>
 谷崎潤一郎と第一高等学校時代の友人、津村は窪垣内で母親の実家を探します。「…最初の彼の予想では、「昆布」は珍しい姓であるから直に分ることと思っていたのだが、窪垣内と云う字へ行って見ると、そこには「昆布」の姓が非常に多いので、目的の家を捜し出すのに中々埒が明かなかった。仕方がなく車夫と二人で昆布姓の家を一軒々々尋ねたけれども、「昆布助左衛門」を名乗る者は、昔は知らず、今は一人もいないと云う。ようようのことで、「それなら彼処かも知れない」と、とある駄菓子屋の奥から出て来た古老らしい人が縁先に立って指さしてくれたのは、街道の左側の、小高い段の上に見える一と棟の草屋根であった。…」。現在でも窪垣内では昆布(こんぶ)という名字の家は複数あるようです。

左の写真の正面右側の高台の空き地の所が谷崎潤一郎が訪ねた昆布家が在ったところのようです。読売新聞大阪本社編の「紀行 小説の四季(昭和50年)」では、「…何軒目かに、やはり紙すき場を持つ昆布○○さん (五十歳)方をたずねあてた。「いや、小説に似た話はちゃんとありましたよ」。モデルだという昆布家はすぐ隣。いまは人手に渡ってあき家になっていた。土壁がはげ落ちたその二階家は、古ぼけていた。作品の通り「往来からだらだらと半町ばかり引っ込んだ爪先上りの丘の路」の上。当時あったという「狐の祠」は、いま、高台に引っ越していた。 …… 吉野から帰り、モデルの家を処分して大阪へ出たという昆布家の人に会った。昆布××さん(五十二歳)といい、東区半入町で既製服の卸し商をやっている。「祖母の妹が小説のように大阪の新町へ養女にいったんです。古い琴や三味線も残っていたのですが、谷崎先生がおいでになる少し前に家が没落して処分しました。」…」。と書かれていました。読売新聞大阪本社編ですから真実でしょう。空き家は既になく、空き地になっていました。残念です。「祠」も近くにありました。谷崎潤一郎はこの家での話を基にして「吉野葛」のストーリーを組み立てたのでしょうか?

来週から後南朝の川上村を歩きます。ご期待ください。


【参考文献】
・吉野葛・盲目物語:谷崎潤一郎 新潮文庫
・本邦東西朝縁起覚書:小松左京 ハヤカワ文庫
・南朝全史:森茂暁 講談社選書メチエ
・闇の歴史、後南朝:森茂暁 角川選書
・吉野仙境の歴史:前園実知雄、松田眞一、文英社
・西吉野朝太平記:童門冬二、奈良新聞社
・吉野・高野・熊野をゆく:小山靖憲、朝日新聞社
・吉野・大峰の古道を歩く:山と渓谷社
・新太平記:山岡荘八、講談社文庫
・吉野路案内記:宮坂敏和、吉野町観光課
・歴史読本「南朝秘史」 昭和62年9月号:新人物往来社
・歴史読本「後南朝の皇子たちと山岳ゲリラ」1989年4月号:新人物往来社
・歴史研究「後南朝一族の謎」:新人物往来社
・小説の四季(上巻):読売新聞大阪本社
・吉野紀行:前登志夫、角川文庫
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