<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。
吉井勇全集 第九巻「年譜」からです。
「 昭和五年(一九三〇)四十五歳
一月、『相聞』は『スバル』と改題された。
四月、歌集『鸚鵡杯』を太白社より出版。
八月、宇和島運輸株式会社の招きで四国に旅をした。主として伊予路を歩く。
このころから神奈川県高座郡南林間都市にあった親戚の別墅を借り、多くの時をその家で銷した。
十二月、『スバル』休刊。
昭和六年(一九三一)四十六歳
二月、『短歌入門』を誠文堂より出版、小型の誠文堂文庫の一冊である。
五月、土佐に遊び、伊野部恒吉と知った。そのすすめによって土佐隠棲の志をもつに至った。この旅によって「土
佐百首」を作る。
十一月、現代語訳西鶴全集の中の一巻として『本朝二十不幸』を春秋社より出版。
昭和七年(一九三二)四十七歳
六月、春陽堂刊の『明治大正文学全集』の第二十六巻『和歌俳句篇』に作品を収録。
麹町区下二番町に移転したが、多くは南林間都市に在った。…」。
”神奈川県高座郡南林間都市にあった親戚の別墅”にいた時期に関しては、昭和5年夏頃から昭和8年頃までと推測されます。
【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)
★写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。
<「私の履歴書 第八集」 日本経済新聞社>
吉井勇の伝記的なものとしては、昭和32年(1957)日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」があげられます。昭和34年(1959)には本になって発刊されています。若干脚色がみられますが、本人自筆の自伝書としては非常に参考になります。
「私の履歴書 第八集」 ”吉井勇”からです。
「…
8
大正十五年五月、父幸蔵が隠居をしたので家督相続をしたが、父の負債まで引受けなければならなかったので、家計はだんだん窮迫して、昭和三年三月には、角筈にあった邸宅も売り、借家生活をするようになった。そうなるとだんだん交友も少なくなったので、東京にも居辛くなり、私はたった一人で神奈川県下の南林間都市に住んでいたが、そこにも落着くことができず、ほとんど旅で暮らすようになってしまった。…」。
鶴間在住に関しては1行程度しか書かれていません。
★写真は日本経済新聞社発行の「私の履歴書
第八集」です。岸信介、吉井勇他7名の「私の履歴書」が掲載されています。昭和34年発行です。
<「野田宇太郎 文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」>
吉井勇に関して野田宇太郎が書いた文学散歩は殆ど無いのですが、鶴間に関しては詳細に書かれていました。吉井勇自身も鶴間に関してはほとんど書き残していませんので、「湘南相模野文学散歩」が非常に参考になりました。
「野田宇太郎 文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」 ”鶴間林間草廬の歌”からです。
「鶴間林間草廬の歌
昭和九年十月に出版された吉井勇の歌集『人間経』の「相模野の庵にありて詠みける歌」の中に相模なる鶴間の里の侘住居ひとりずまひのあはれなるかなという一首がある。この歌の鶴間の里の鶴間は相模国高座郡に属した古い地名で、吉田東伍の『大日本地名辞書』には「今上下に分れ、其上鶴間は淵野辺へ併せ、下鶴間は深見へ併せらる。境川の西岸にして、東岸武州の域内にも同名の部落あり。厚木町より武州の溝口を経て、東京に達する人山街道は、下鶴間にて境川を越ゆ。」と記されている。これは凡そ今から七十年前、明治四十年頃の状態だが、現在は上鶴間は相模原市の一部になり、下鶴間は大和市の一部となっていて、昔の相模国と武蔵国の国境として今もその名をとどめる境川の東岸の「武州の域内」、つまり現在の東京都町田市の旧人山街道(国道一一四六号線)沿いにも鶴間の地名が飛地のようになって残っている。
吉井勇の歌にある相模の鶴間の里はそのうちの下鶴間で、昭和三十四年二月から市となった大和市の一部である。…」。
吉井勇が住んだ頃の西鶴間は、当時の地番で大和町西鶴間3209-4だったようです。
★写真は文一総合出版発行の「野田宇太郎 文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」です。横浜から三浦半島、鎌倉、小田原まで書かれています。細かく書かれているところと大雑把なところがあり、ます。
<小田原急行鉄道江ノ島線>
吉井勇(37歳)は 大正10年5月、伯爵柳原義光の二女徳子(22歳)と結婚します。翌年6月には長男滋が生れています。しかしながら、同じ伯爵家同士の結婚とはいえ徳子の実家の柳原家は堂上華族(公家で上級貴族)、吉井家は新華族(国家への勲功により華族に加えられたもの)でした。そのためか勇は徳子とは距離を置いており、そのことが影響してか徳子は遊び癖がついてしまい、昭和8年に不良華族事件(華族の恋愛・不倫事件)に関与します。この頃の吉井勇の年譜を見ると、ほとんど東京にはいません。これでは若い奥様は寂しかったとおもいます。昭和5年には子供を残して東京を離れ、小田急江ノ島線の鶴間駅近くに移ります。(ウイキペディア参照)
<小田原急行鉄道株式会社>
・明治43年(1910)10月 鬼怒川水力電気株式会社創立
・大正11年(1922)5月
東京高速鉄道に対し鉄道免許状下付(東京市四谷区新宿三丁目-足柄下郡小田原町間)(東京メトロ銀座線の一部となった五島慶太による東京高速鉄道とは別)
・大正12年(1923)5月 小田原急行鉄道株式会社創立
・大正15年(1926)10月 鉄道免許状下付(高座郡大野村-同郡藤沢町間)
・昭和2年(1927) 4月 一部単線で小田原線全線を開業、10月小田原線の全線複線開通。急行運転を開始する
・昭和4年(1929)
4月 江ノ島線全線開業。当時の駅数は13駅、11月 南林間都市の土地分譲事業開始(ウイキペディア参照)
「野田宇太郎
文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」 ”鶴間林間草廬の歌”からです。
「…『人間経』から眼につくままに歌を選んで、わたくしは吉井勇の鶴間の里を、名もまだ新らしい相模の大和市に尋ねることにして、小田急江の島線の電車に乗った。この前に一度友人の自動車で吉井勇の旧居跡だけはたしかめに行き、そこには新らしい生花師匠の表札を出した家が建っていることを知ったが、やはり南林間都市のあたりへゆくには、小旧急に乗らないと実感が湧かないからである。…
…
今は電車の速度も早くなり、途中急行を利用すれば南林間都市のあたりから東京新宿まで、一時間もかからない。相模大野から江の島行の普通電車に乗り小えたわたくしは、自然の乏しくなった相模野を車窓に眺めながら、ふと吉井勇がわたくしに云った言葉を思い出していた。もちろん戦後のことで、それは昭和三十二年頃の、京都の最後の家となった左京区浄土寺石橋町十九番地(現在左京区銀閣寺前町)の家であったろう。(勇はそこで昭和三十五年十一月十九日、七十五年の生涯を終った。)
それは「自分はこれまで国中のあちこちを歩いた。その旅の日は牧水よりも多いようだ」ということだった。多分わたくしが瀬戸内海の岩城島に若山牧水が歌集『みなかみ』を編んだ三浦家を尋ね、そこでまたその牧水の足跡を追った吉井勇が三浦家に書きのこした色紙などをみつけて来た話をしたときであったろう。その後四国でも九州でも佐渡でも、わたくしは吉井勇の足跡を知っているからでもあろうが、あのときの吉井勇の目から漏れ九旅の日という言葉が、わたくしには忘れ難いのである。そのような吉井勇の後半生の旅の出発点が南林間都市の草廬であったことは、その生涯にとっても文学にとっても極めて重要なことと思われる。……そんなことを思っているうちに電車は大和市の南林間という駅に停った。しかし、吉井勇の草廬の跡は次の鶴間の駅からが近いことをわたくしは知っているので、南林間の名は何となく懐かしいが、次の鶴間まで乗った。…」
小田急江ノ島線は昭和4年に開通した路線で、開通した1年後に西鶴間に住み始めています。
<小田急江ノ島線>
・昭和3年(1928)4月
小田原急行鉄道藤沢線として大野信号所(現・相模大野駅) - 藤沢駅間が着工される
・昭和4年(1929)2月 小田原急行鉄道片瀬線として藤沢駅
- 片瀬江ノ島駅間が着工される
・昭和4年(1929)4月 小田原急行鉄道江ノ島線として大野信号所(現・相模大野駅) -
片瀬江ノ島駅間を全線複線、駅数13で開業、11月 南林間都市の土地分譲事業開始(ウイキペディア参照)
★写真は小田急江ノ島線の電車です。小田急カラーがまぶしいです。
<鶴間駅西口>
吉井勇が住んでいたところの最寄駅は小田急江ノ島線の鶴間駅となります。鶴間駅の開業は昭和4年ですが、少し離れたところに神中鉄道(現
相鉄線)の大和駅が大正15年(1926)5月に開業していますが、厚木経由であり、横浜まで開通したのは昭和8年になります。
「野田宇太郎 文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」 ”鶴間林間草廬の歌”からです。
「… 鶴間駅は西口が正面で、そのあたりは西鶴間と呼ばれている。その東側はただの鶴間である。駅に下り立つとそこから北側の南林間からその先の中央林間までは道路が碁盤の目のように条里形に井然と走っていて、林間都市時代の松やその他の雑木が住宅などの間から空まで伸びている。それらの樹木と同様に林間都市時代の簡素な造りの古い家もまだ点々と残っていて、あまり整った住宅地ではない。なお林間都市は小田急線沿いに東林間まであって、そこはもう大和市でなく相模原市になっている。…」
昭和4年(1929)11月には 小田原急行鉄道が南林間都市の土地分譲事業開始しており、妹婿の長田馨が購入したのはその頃とおもわれます。区画整理が行なわれたのもその頃のようです。
★写真が現在の鶴間駅西口です。昭和40年代の住宅地図を見ると駅は西口しかなく、上記に書いてある通りです。
<大和市西鶴間一丁目二十三ノ十二への路>
野田宇太郎は「野田宇太郎
文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」 ”鶴間林間草廬の歌”の中で、鶴間駅から吉井勇が住んでいた西鶴間の住居までの道筋を書いています。この道筋がおかしいのです。
「野田宇太郎 文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」 ”鶴間林間草廬の歌”からです。
「…わたくしは鶴間駅の西入口から東へ歩き、駅前から数えて三つ目の角を、左(西)へ曲った。その直線通りは林間都市時代の四条通りで西鶴間一丁目となっている。それを歩いて二つ目の十字路を過ぎた次の三叉路の右手前角が、どうやら古井勇の住宅跡である。前にも述べたようにそこには二階建の新らしい家が建っていて、下は生花の師匠で、二階は人口の違うキリスト教関係のものらしく、エホバの証人王国会館などという奇異な看板が出ている。現在のそこの地番は大和市西鶴間一丁目二十三ノ十二である。…」
前項で”鶴間駅は西口が正面で、そのあたりは西鶴間と呼ばれている。その東側はただの鶴間である”と書いています。又、上記には吉井勇の住居の地番は”大和市西鶴間一丁目二十三ノ十二”と書いており、西鶴間なのが分かります。ですから、鶴間駅西口を出て西に向わなければなりません、ところが上記では”西入口から東へ歩き、駅前から数えて三つ目の角を、左(西)へ曲った。”と書いています。東に向うと町名がただの鶴間になってしまいます。もう一つ、”林間都市時代の四条通り”は西鶴間を通っています。
正しくは「鶴間駅の西入口から西へ歩き、駅前から数えて二つ目の信号がある角を、右(北)へ曲った。その直線通りは林間都市時代の四条通りで西鶴間一丁目となっている。そこから350m程歩いて四つ角の右手前角が、どうやら古井勇の住宅跡である。」となります。三叉路なんてありませんでした。
★写真は現在の西鶴間交差点です。鶴間駅からは右上から来て、右に曲がります。左上から右下の通りが四条通りです。
<大和市西鶴間一丁目二十三ノ十二>
鶴間駅から上記に書いてある通りに歩いて800mで目的地です。当時は家も疎らだったとおもいますが、現在は家が建て込んでいます。それでも住宅地なので大きなビル等はありません。
「野田宇太郎 文学散歩 8 湘南相模野文学散歩」 ”鶴間林間草廬の歌”からです。
「… 前にも述べたようにそこには二階建の新らしい家が建っていて、下は生花の師匠で、二階は人口の違うキリスト教関係のものらしく、エホバの証人王国会館などという奇異な看板が出ている。現在のそこの地番は大和市西鶴間一丁目二十三ノ十二である。その家の裏側にはまだ古井勇が住んだころの庭なども少しのこっているとも聞いていたが、吉井勇がそこで庭など造ったわけでもなく、林間都市時代のものといえば条里形の道路だけで、林間どころかあまりにも埃りっぽい住宅街に変り果てていて、わたくしは人の庭など見る気にはなれなかった。…」
野田宇太郎が見た時から50年は経っていますが、風景は当時と余り変りませんでした。
★写真正面辺りが大和市西鶴間一丁目23-12となります。建物の裏が若干の庭になっているようです。