●吉井勇の富山を歩く
    初版2016年5月14日 <V01L01> 暫定版

 しばらくお休みを頂きましたが「吉井勇を歩く」を継続して掲載します。今回は「吉井勇の富山を歩く」です。昭和20年、京都に在住していた吉井勇は、空襲を恐れて富山県婦負郡八尾町に疎開します。 


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇全集 第九巻「年譜」からです。
「昭和二十年(一九四五)六十歳
 二月、京都より富山県八尾町に疎開。吉田旅館、常松寺、小谷氏宅などを転々と移りあるいた。
 八月、終戦をむかえたが、早々に京都市内へ帰ることはできなかった。…」

 疎開先の八尾町に関しては、ほとんど書かれたものがありません。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「私の履歴書」
<「私の履歴書 第八集」 日本経済新聞社>
 吉井勇の伝記的なものとしては、昭和32年(1957)日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」があげられます。昭和34年(1959)には本になって発刊されています。若干脚色がみられますが、本人自筆の自伝書としては非常に参考になります。

 「私の履歴書 第八集」 ”吉井勇”からです。
「… しかしその間に戦争はだんだん苛烈になってくるし、昭和十七年六月には、一時生命も危ぶまれるような重患に罹って、二月あまりも京都大学病院に入院するし、私自身の運命は必ずしもいいとはいえなかった。前にいった「百日草」という随筆集は、この入院を記念して出したものであるが、その中の「生死関頭」という一文の中で、私は自分の心境を「生死関頭に立ったのは、生まれて今度が始めてである。しかし私自身としては、さういふ人生の一転機が刻々に身に迫ってゐるとも知らず、唯平常の如くに、醒めたり、眠ったり、坐ったり、起きたり、考へたり、話したり、喜んだり、悲しんだりして、何時の間にか私の休が干仭の断崖の土に立ってゐるといふことを知らなかったのである。しかし私はその間、ほとんど不思議だと云ってもいいくらゐ、生死といふことを考へなかった。生に対する執着も、死に対する恐怖も、ほとんど私の念頭にはのぼって来ず、私は唯自分の体を、あるがままの流転の波にまかせっきりにして置いたのであった」
 といっているが、事実、私はこの重患によって、新しいひとつの心境に、突き進むことができたといってもいい。
 こうしてやっと一命を取り止めた後、昭和十九年の十月には、東山区岡崎円勝寺町に移ったが、もうその時分には本土の爆撃がだんだん烈しくなって、京都の空も毎日のように通り過ぎてゆく敵機の影を、見ない日とてはないようになった。敗戦の色がだんだん濃くなってくると同時に、京都もいつ爆撃のために灰燼となってしまうかわからないと思うと、じっと落ちついてもいられなくなった。それでとうとう昭和二十年二月には、荷物を知恩院の塔頭良正院に預け、私たち二人は身ひとつとなって、越中八尾に疎開していった。…」

 京都市内への空襲は5回程あったようです。ただ、大規模な空襲ではなく、B29数機程度での空襲でした。
第1回 昭和20年1月16日、馬町空襲(東山区馬町)
第2回 昭和20年3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 昭和20年4月16日、太秦空襲(右京区)
第4回 昭和20年5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 昭和20年6月26日、西陣空襲(上京区出水) (ウイキペディア参照)
 昭和20年2月に富山に疎開していますから、1月16日の空襲が相当応えたのだとおもわれます。

写真は日本経済新聞社発行の「私の履歴書 第八集」です。岸信介、吉井勇他7名の「私の履歴書」が掲載されています。昭和34年発行です。



「越中八尾駅」
<越中八尾駅 JR高山線>
 吉井勇は昭和20年2月に京都から富山県婦負郡八尾町(ねいぐんやつおまち)に疎開します。同町東町の医者 川崎順二氏(大日本医師名簿 昭和6年で確認済み)の計らいだったようです。”婦負郡八尾町”が全く読めませんでした。婦負郡については、歴史はかなり古く、弥生時代の遺跡や古墳時代中期の四隅突出型墳丘墓が発掘されています。婦負は、もと売比(めひ)と書いていたようです。地名の由来について、姉倉比賣神社(延喜式内社)に由来するという説や、鵜坂神社(延喜式内社)の祭神である鵜坂姉比盗_(うさかねひめのかみ)・鵜坂妻比盗_(うさかめひめのかみ)に由来するとする説、杉原神社(延喜式内社)のある杉原野開拓伝承に、沼に落ちた女神を男神が背負って助けた(婦を負う)という史話があります。(ウイキペディア参照)

 八尾町(やつおまち)については富山県の南部に位置した人口2万人余りの町です。現在は富山市の地域の一つとなっています。「平成の大合併」により、2005年に富山市・婦中町・大沢野町・大山町・山田村・細入村の富山地域6市町村と合併しています。(ウイキペディア参照)

 又、八尾町は郡上街道(飛騨街道)沿に発展した町です。富山から高山に抜ける街道となります。街並みが良く保存されています。

写真は八尾町の最寄駅である高山線 越中八尾駅です。富山駅から五つ目の駅です。高山線は富山側からは飛越線として建設が進められ、昭和2年(1927) 鉄道省(国鉄)飛越線として富山駅 - 越中八尾駅間が開業、昭和9年(1934)には飛越線が高山本線に編入されます。昭和34年(1959)岐阜−富山間が全通、高山本線が開通します。富山市から見ると、南南西、直線で15Km程のところにあります。

【川崎順二(カワサキ ジュンジ)明治31年生(1898) - 昭和46年没(1971)】
 「越中おわら」普及功労者・医学博士 出身地八尾町。八尾町東町で代々医業と薬種商を営む10代目五郎兵衛の長男に生まれた。富山県立富山中学校を経て、金沢医学専門学校(現、金沢大学医学部)を卒業し、大正14年自宅で病院を開業、結核菌の研究にも励んだ。その一方、書画や芸能を好み、13年民謡おわら研究会を設立し理事長となった。この頃から文人墨客を自邸に招き、おわらを八尾の地で味わってもらうようになった。特に小杉放庵との交流は深く、自宅の書斎に壺中庵の号を贈られるほどであった。昭和4年に研究会が越中民謡おわら保存会に発展した後も会長を続け、若柳吉三郎を招いて創作した男踊り・女踊りは見事に定着し、今日に受け継がれている。昭和30年には全日本民舞踊連盟理事長を務めるなど、40余年にわたりおわら節の保存、普及に尽くした。(富山県ふるさと人物データベースより)

「宮田旅館」
<宮田旅館>
 吉井勇は昭和20年2月、富山県婦負郡八尾町(ねいぐんやつおまち)の宮田旅館に疎開します。この旅館は皆様よくご存知の柴田理恵さんの実家です。柴田理恵さんの書かれた本「台風かあちゃん」の中に吉井勇が登場しています。

 柴田理恵さんの「台風かあちゃん」より
「… 私の故郷は富山県の八尾町。以前は婦負郡八尾町と言いましたが、いまは合併されて富山市八尾町になっています。
 越中おわら、いわゆる「風の盆」が有名で、毎年九月一日から三日までは町中が越中おわら節に染められます。この間、二五万人前後の観光客が八尾町を訪れ、それはそれは賑やかなものです。…

   「風の盆」と文人たち

 八尾町は「風の盆」で知られていたため、昔から文人がよく泊まりにきていたようです。
 戦時中には、歌人の吉井勇さんが宮田旅館に疎開していました。母もその時は女学生で、顔を合わせているし言葉も交わしています。
 吉井先生は、散歩に出る時、「フサちゃん、スミちゃん、行くぞ」つて、よく私の母と伯母を誘ったそうです。歩いている途中で「今から歌を詠むから、君たちも詠みなさい」と歌を作らせる。そして散歩の途中、喫茶店に入っては、母たちにご馳走しながら、彼女たちの作った歌を読み、「これは良いね」「ここはこうしたほうがいい」と批評してくれたんだとか。とても贅沢な時間だったと、母は今でも懐かしそうに話してくれます。
 確か吉井先生の詠んだ歌が、歌碑として旅館の玄関のところに立っているはずです。…」

 宮田旅館の前にある歌碑(最初の”旅籠屋”位しか見えません)
 旅籠屋の古看板に吹雪して
 飛騨街道をゆく人も奈し
        吉井勇

 「私の履歴書 第八集」”吉井勇”からです。
「… こうして疎開して行った先の越中八尾も、また安住の地ではなかった。私たちは二階の上まで雪に埋もれた北国の町に来て、宿屋や寺や友人の家や、落ちつくところもなく転々としていたが、そのうち雪が消えて春になると、今度は人情の酷薄に悩まされなければならなかった。
 しかし、その間のことは、いまさらあらためて書きたくないので、その後、昭和二十一年十二月に創元社から出した、八尾疎開中の歌ばかり集めた「流離抄」という歌集の中から三首ほど歌を引いて、そのころの私たちの生活を想像してもらうことにしよう。
  きさらぎの越の旅籠の古炬燵
  雪にこもりてあらむわが身か
 この「越の旅籠」というのは、八尾の町の中ほどにある、宮田旅館という古びた宿屋のことであって、私は越中疎開中のおよそ半ばくらいをここで暮した。最初八尾に着いて、三丈あまりも積った大雪の中を、半里以上も歩いてから、やっとここに着いた時は、道からずっと下の方に、宿屋の名前を晝いた看板が掛かっているのを見て、あんなところに入口があるのかと思ってびっくりした。私はこうして春が来るまで一ぶ月間ほどを、雪に埋もれたこの宿屋の一室で送ったのだけれども、家の人たちがみんな親切にしてくれたので、別に疎開の不自由も感ぜず、炬燵に入って本を読むことを日課のようにして、その日その日を過ごすことができた。灯火管制とか、防空訓練とかいうものもほとんどなかったので、戦禍が身に迫っているとも思えなかった。…」

 宮田旅館は居心地が良かったようです。

写真が現在の宮田旅館です。綺麗にされています。私も泊ってみたかったです。残念!



吉井勇の富山市八尾町



「常松寺」
<日蓮宗 常松寺>
 吉井勇は宮田旅館から常松寺の離れに移ります。友人に誘われたのか、金銭的に苦しくなったのか、旅館側の理由なのか、定かではありませんが、苦労している様子が下記の文章から分かります。

 「私の履歴書 第八集」”吉井勇”からです。
「…   あれ寺の鼠寺とも申すべし
   住むにはよけむ無慙なる身は
 これは宮田旅館から常松寺という日蓮宗の寺に移ってから作ったもので、ここでの生活はかなり惨憺たるものであった。何しろ寺のことであるから、葬式の行なわれる時があるが、そういう時には会葬者のために、借りている部屋を明けてやらねばならず、知らぬ他国のことだけに、何処へ往っていいか途方に暮れた。一度、この寺にいる時に、信州の赤倉からわざわざ小杉放庵君がたずねて来てくれたが、その時はちょうど私は病気で寝ている時だったので、二言三言話し合っただけで別れなければならなかった。後に私は「放庵来る」という題で「友いまもそこにこそ居れ病む吾を憐れむごとき眼差をして」「たまさかに友と相見て杯取らず空しく別るうたた寂しも」というような歌を作ったが、これはまさしくその時の実感だったのである。…」

 相当生活が苦しかったようです。

写真は現在の常松寺です。写真をクリックするとお寺全体の写真になります。申し訳ないですが、たいしたお寺ではありません。八尾町では他に大きなお寺もあります。

【小杉放庵(こすぎ ほうあん)、明治14年(1881) - 昭和39年(1964)明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴】
 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり日光町長も務めていた。明治29年(1896)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となる。その後、小山正太郎の不同舎に入門する。明治35年(1902)に太平洋画会に入会し明治37年(1904)に未醒の号で出品する。大正14年(1925年)東京大学安田講堂の壁画を手がける。昭和2年(1927)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。昭和10年(1935)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。昭和39年(1964)肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。(ウイキペディア参照)

「小谷契月宅跡」
<小谷恵太郎(小谷契月)宅>
 富山県八尾町で最後に移ったのが小谷恵太郎(小谷契月)宅でした。常松寺での生活が大変だったため、頼み込んで移ったのだとおもいます。小谷契月氏は民謡詩人で戯曲も残した方で、富山では有名な方です。当時は呉服屋を経営されたいたようです。

 「私の履歴書 第八集」”吉井勇”からです。
「…   この町のとりわけひとり善人の
   秋路笛吹く月夜あかりに
 この秋路というのは、私が常松寺からさらに移った小谷氏の家に近いところで、紙漉場を営んでいた男であって、絵を描いたり俳句を作ったりする趣味人だったが、ここの郷土民謡であるおわら節もうまく、ことに笛が上手だった。酒好きの人物だったから、私も親しくつき合っていたが、ある夜などはこの町のすぐ下を流れている伊田川の川岸にある、ある神社の森の中で、石に腰をかけながら夜がふけるまで、その笛を聴いたことがある。…」

 この小谷氏の場所が分からず、あちこち訪ねて廻りました。曳山展示館内のある観光協会で大体の場所を聞いて、現地の方に直接聞いたところ、場所が分かりました。皆様、ありがとうございました。上記に書かれている”紙漉場を営んでいた男”については、調査不足で不明です。

写真正面が小谷呉服店跡です。現在は西新町公民館になっていました。住所は富山市八尾町西新町3964です。観光協会でお聞きした”小谷亀次郎(先代) 西新町3964”とも同じでした。八尾町にはご家族の方がお住まいのようです。

「庚申通り」
<庚申湯(こうしんゆ)>
 西新町で小谷呉服店の場所を教えてくれた方が面白いお話しをしてくれました。その方もお歳の方なのですが、八尾町の庚申通りにあった庚申湯に吉井勇は通っており、そのお風呂屋で現地の方々と楽しく会話を交わしていたとのことです。残念ながら庚申湯は廃業されていましたが、当時の煙突がそのまま残されていました。

 吉井勇は富山県八尾町に昭和20年2月から昭和20年10月まで約8ヶ月いたことになります。宮田旅館に半分の4ヶ月、残りを常松寺と小谷氏宅となります。

 「私の履歴書 第八集」”吉井勇”からです。
「… これで大体私が越中八尾に疎開していた時代の生活がわかると思うが、今から考えると戦争末期の絶望的な国情の中にあって、暗澹たる日々を過ごしながらも「流離抄」という一巻の歌集を得たことは、せめてもの幸いとしなければならないだろう。
 昭和二十年八月終戦になると一日も早く京都に帰りたくなったが、市内にはなかなか転入が許されなかったので、やむなくその年の十月に八尾を去って、京都府下綴喜郡八幡町字月夜田というところにある宝青庵という浄土宗の小さな寺の座敷を借りてそこに移った。そこは京阪電車の石清水八幡駅から一里ばかり徒歩で行かなければならない、きわめて不便なところだったけれども、すぐ近くに女郎花塚や松花堂の茶室などがあって、きわめて静かな環境だった。…」


写真は八尾町の小路案内”庚申通り”です。この通りの突き当たり左側に庚申湯がありました。庚申湯跡の写真を掲載しておきます。



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転向
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 8月 宇和島運輸の招きで四国に滞在、伊予路を歩く
このころから南林間にあった親戚の別墅を借りる
昭和6年 1931 満州事変 46 5月 高知に滞在、伊野部恒吉と知りあう
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
48 8月 高知に入り、猪野々に三箇月滞在
このころ徳子と別居、後に至って離婚
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 49 4月 猪野々に滞在
昭和10年  1935 第1回芥川賞、直木賞 50 3月 高知より上京
10月 猪野々の渓鬼荘に滞在
昭和11年 1935   51 10月 土讃線全通
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
52 10月 孝子と結婚、高知市鏡川畔築屋敷に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダンタイムス」封切
53 10月 京都市左京区北白川東蔦町21番地に転居
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
59 10月 左京区岡崎円勝寺町39番地に転居
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
60 2月 京都より富山県八尾町に疎開
10月 京都府綴喜郡八幡町月夜田 宝青庵に転居
         
昭和23年 1948 太宰治自殺 63 8月 京都市上京区油小路元誓願寺町482番地に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 66 8月 左京区浄土寺石橋町19番地に転居
         
昭和35年 1960 新安保条約が成立
第1次池田内閣成立
75 11月 京都大学病院で死去