<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。
吉井勇の「生ひ立ちの記」から、東京府下北豊島郡尾久村に転居した頃です。
「 第七章 うき世の波
この平和な高輪の家に、凄まじいうき世の荒波が押し寄せて来たのは、それから間もなくのことであった。
私の父の空想的な仕事は、薔薇畑からだんだん外の大きなもののうへに移って往ったが、そのうちその蜃気楼のやうな夢は当然破れなければならない時が来て、私はそこに一人で寂しさうにうき世の波と戦ってゐる父の姿を見出さなければならなかった。
私達が高輪の家を見棄てて、田端の先きの荒川の河岸に立てられた水荘に移って往ったのは、私が中学校に入ってから間もなくのことで、私は毎日朝早く暗いうちに起きて、一二里あまりの道をここから日比谷まで歩いて通った。
「さあ、さあ、起きるんだ、起きるんだ。」
毎朝さう云って勢よく私を起しに来る父の目に、或るときは涙のたたへられてゐることを見遁すことは出来なかった。
学校へ通ふ途中でも、不図懐かしい高輪の家のことを思ふと、涙が今にも零れさうな心持になって、急がなければならない足もおのづから鈍った。…」。
吉井勇の数少ない自伝のひとつ、「生ひ立ちの記」です。内容が詩的で、年譜代わりに調べるには役に立ちません。
【吉井
勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)
★写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。