●吉井勇の東京を歩く -2-
    初版2016年7月10日 <V01L02> 暫定版

 しばらく休みましたが再開します。今回は「吉井勇を歩く」の継続掲載です。「吉井勇を歩く」は地方分を先に掲載していましたが、今回から東京に戻ります。明治34年(1901)16歳から明治37年(1904)19歳までです。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」から、東京府下北豊島郡尾久村に転居した頃です。
「    第七章 うき世の波

 この平和な高輪の家に、凄まじいうき世の荒波が押し寄せて来たのは、それから間もなくのことであった。
 私の父の空想的な仕事は、薔薇畑からだんだん外の大きなもののうへに移って往ったが、そのうちその蜃気楼のやうな夢は当然破れなければならない時が来て、私はそこに一人で寂しさうにうき世の波と戦ってゐる父の姿を見出さなければならなかった。
 私達が高輪の家を見棄てて、田端の先きの荒川の河岸に立てられた水荘に移って往ったのは、私が中学校に入ってから間もなくのことで、私は毎日朝早く暗いうちに起きて、一二里あまりの道をここから日比谷まで歩いて通った。
「さあ、さあ、起きるんだ、起きるんだ。」
 毎朝さう云って勢よく私を起しに来る父の目に、或るときは涙のたたへられてゐることを見遁すことは出来なかった。
 学校へ通ふ途中でも、不図懐かしい高輪の家のことを思ふと、涙が今にも零れさうな心持になって、急がなければならない足もおのづから鈍った。…」

 吉井勇の数少ない自伝のひとつ、「生ひ立ちの記」です。内容が詩的で、年譜代わりに調べるには役に立ちません。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。



「麹町の中坂」
<勝田孫弥の泰東塾>
 勝田孫弥については全く知識が無かったので、ウイキペディアで調べてみました。
勝田 孫弥(かつだ まごや、1867年9月22日(慶応3年8月25日) - 1941年(昭和16年)8月21日)は、鹿児島県出身の教育家・歴史家である。元士族。薩摩国揖宿郡喜入村(現在は鹿児島市に編入)出身。
1885年、鹿児島県師範学校中等師範学科卒業。同年、喜入小学校(現在の鹿児島市立喜入小学校)に四等訓導として就任した。1887年3月、喜入高等小学訓導に任命されたが、4月に依願免職。1887年9月 - 1890年6月、私立明治法律学校(現・明治大学)で法律科・行政科・仏語科を修業。この頃から明治維新史の研究を行い、三上参次が校閲した伝記「西郷隆盛伝」(全5冊、1895年)や「大久保利通伝」(全3冊、1911年、 同文館)、「甲東逸話」(冨山房、1928年)などを著した。
 薩摩の人のようです。又、勝田孫弥の泰東塾についても良く分かりませんでした。もう少し調べてみます。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「 明治三十三年(一九〇〇)十五歳
 四月、東京府立第一中学校に入学。
 麹町の中坂にあった勝田孫弥の泰東塾に入り、同氏の刊行する『海国少年』に短歌を投稿して天位に入選した。…」

 ここでは『海国少年』について少し調べてみました。
・海國少年社 芝区南佐久間町一丁目一番地(宮本武蔵 : 実伝 奥付 大正6年)

 吉井勇の「私の履歴書」より
「… 私が最初に歌を作ったのは、まだ高輪の家に住んでいた明治三十年代のことであって、まずはじめて自分の詠草(えいそう)を見てもらったのは、竹柏園の石榑千亦氏だった。石榑氏は当時水難救済会という会の幹事をしていたが、私の父がその会長をしていたので、その関係でそういうことになったのだと思うが、その時分、私はどんな歌を作ったのか、もちろん詠草など残っていないし、全然私の記憶にない。私の記憶に残っている最初の歌は、それから二、三年の後、府立一中時代に作ったもので、「出雲なる簸(ひ)の川上はそのむかし八頭(やまた)の大蛇(おろち)住みけるところ」というのであるが、それはその当時出ていた「海国少年」という雑誌に投稿して天位になったもので、選者は後に川柳に転じたが、そのころは根岸派に属して万葉調の歌を作っていた坂井久良岐氏であった。…」
 ここでも『海国少年』が出てきます。

写真は現在の麹町中坂です。この標識の説明文によると、”この坂を中坂といいます。元禄四年(一六九一)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(一七○四)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。中坂の名称についての由来ははっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家が並んでいる形をみると、中坂の名称のおこりはあんがいこのへんにあるのかもしれません。”とあります。



千代田区麹町附近地図



「上尾久1325番地」
<東京府下北豊島郡尾久村>
 吉井家は明治34年、高輪から辺鄙な田舎の東京府下北豊島郡尾久村に転居します。父親が新しい事業を始めたからで、それは、吉井千代田の「吉井勇全集 月報4 ”兄の思い出など”」に書いてある通り、精製樟脳をつくるという事業でした。これは明治32年に台湾(明治28年に日清戦争後の下関条約で日本に割譲)で樟脳事業が国有化されたため、余った樟脳製造設備を日本に持込み、日本で樟脳を製造しようとしたものとおもわれます。ただ、原料のクスノキを台湾、若しくは日本国内で調達する必要が有り、国有化された台湾からの持込みは困難であり、又、国内では既に企業化が済んでおり、新たな参入は困難だったとおもわれます。樟脳製造設備を買わされただけで事業は失敗します。

【台湾に於ける樟脳事業について】(ウイキペディア参照)
・樟脳の製造について
 製造工程としては、クスノキを切削機で薄い木片に砕いて大釜に入れ、木の棒などで叩いて均等に詰めたのち、高温で蒸して成分を水蒸気として抽出し、それをゆっくり冷却して結晶化させる。冷却器の中の水の表面に浮いた白い結晶を網ですくい集め、乾燥後袋詰めなどして樟脳商品とする。
・台湾に於ける樟脳について
 安政5年(1858)6月の天津条約によって台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港される前には、イギリス商人ジャーディン・マセソン商会及びデント商会が、清国官吏と結託して台湾島内で産出される樟脳を輸出し、巨額の利益を得ていた。その後多くの西洋列強各国の商人が樟脳輸出に参加し、利益を独占していた。清国政府は、台湾の樟脳の輸出を官業独占とすることを二度試みたが、西洋列強各国(特にイギリス)の商人および各国領事の反対にあって果たせなかった。列強各国商人の独占的地位は確固たるものがあった。
 明治28年(1895)の下関条約に基づいて台湾が清朝から日本に割譲され、日本による台湾統治が開始されると、日本政府は樟脳に関する外国商人の独占的地位を駆逐することを目論んだ。明治28年(1895)樟脳製造取締規則を定め、翌明治29年(1896)樟脳税制を定めて一定の課税を課したが、外国商人からの抗議を受け、その目的を果たすことはできなかった。明治32年(1899)6月、樟脳の専売制度を開始すべく、勅令第246号をもって台湾樟脳局官制を公布した。樟脳および樟脳油の収納、売渡、検査と製造に関する事務を掌理するため台北、新竹、苗栗、台中、林圯埔、羅東に樟脳局が設置された。ここにようやく樟脳商権は、外国商人独占から政府の独占に引きあげられた。しかしながら、この時点では輸出に関しては、輸出業者の競争入札により、イギリスのサミュエル・サミュエル商会一社のみが落札しており、専売実施後も樟脳輸出に関してはなお外国資本の独占に属した。(なお、樟脳局は、明治34年(1901)6月に阿片専売の台湾総督府製薬所と塩専売の塩務局とともに総督府専売局に統合された。)明治41年(1908)に総督府が、その販売方法を変更して直営として、三井物産に委託販売させたことにより、初めて樟脳商権は日本資本家に帰することになった。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」からです。
「  第二篇 水のほとりに
    第一章厭 世
 荒川の河岸にあった、私の父の水荘と云ふのは、出水の時のための用心だと云ふので、一間余りも煉瓦を積み上げて、その上に建てられた西洋館だったが、それまで誰も住むものがなく、荒れるがままに任せてあったので、村の人達からはまるで妖怪屋敷のやうに云はれてゐた。
「ああ、何だ。樟脳屋の妖怪屋敷か。」
「樟脳屋」と云ふのは、以前私の父が直ぐその隣りで、樟脳製造の工場を経営してゐたので、それで村の人達はみんなさう云って私の家を呼んだ。…

村の人達に顔を見られるのも、何となくものういやうな心持で、毎日学校に通ふ外は、私の部屋に宛てられた、二階の隅の一室に、囚人のやうに閉ぢ籠ってゐた。夜が更けてからぢっと耳を澄ましてゐると、何処からともなくもの凄まじい、うき世の波の音が聴こえるやうな気がして、われ知らず心が脅えるのだった。…」

 尾久に立派な西洋館を建てたようです。当時は田端の駅から隅田川岸まで何もなく、ずっと見渡せたぐらいの田舎だったとおもわれます。

 吉井千代田の「吉井勇全集 月報4 兄の思い出など」からです。
「   兄の思い出など
                       吉井千代田
「水荘記」の舞台になったその家をわれわれはオーグ(尾久)の家と呼んでいた。それは東京の郊外、北豊島郡尾久村上尾久一二九六番地に在った。鉄道の駅に出るには田端がいちばん近く、王子にも細い道がつづいていた。
 近所はわらぶ きの屋根の点々とする田園風景の一角に在って、すぐ家の裏の荒川に面して自家用の舟着き場をもった洋館造りのその建物は、ひときわ目だって見えた。放水路ができるまでは、荒川は、大雨のあとによく水が溢れ、川堤が切れて、何度も大水が出た。…

 どうして、こんな変った別荘を建てたのであろう、しかもこんな田舎に……。その動機はよくわからない。川のすぐそばだから、水害を心配して、土台に工夫をこらしたことはわかるが、この家の門を入って左側に煉瓦造りの小工場が在った。これは父が、台湾がわが領土となってから樟脳が専売制となり、台湾の粗製樟脳の払下げを受けて精製樟脳をつくるという事業をやろうとしたもので、当時外国ではようやくセルロイドエ業が盛んになり、日本からその原料として樟脳が輸出されたので始めたらしい。しかし、この事業は何かの手違いで、順調に進まず、ついに失敗に終わった。…

 すぐ隣りの清水滝≠ニいうわらぶきの家の野越のある料亭では、鯉こくや鯉のあらいなどを食べさせていた。(今でも同名の料亭が同じ場所に在る)
 兄(勇)は、一人でここに来て、原稿を書いたりするときには、この家から料理をとりよせて食事をしていた。…」

 転居先の住所は北豊島郡尾久村上尾久一二九六番地と書いています。明治35年の華族名鑑で調べたところ、北豊島郡尾久村字上尾久1325番地と記載されていました。推定ですが、この辺り一帯を所有していたとおもわれます。
 荒川放水路は大正2年(1913)から昭和5年(1930)にかけて、17年がかりの難工事で完成しています。
 又、”すぐ隣りの清水滝≠ニいうわらぶきの家の野越のある料亭”は昭和40年代の住宅地図でも記載がありました。建物は現在は無くなっているようです。同じ名前の駐車場があり、その辺り一帯が清水滝だったとおもわれます。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「… 明治三十三年(一九〇〇)十五歳
 四月、東京府立第一中学校に入学。
 麹町の中坂にあった勝田孫弥の泰東塾に入り、同氏の刊行する『海国少年』に短歌を投稿して天位に入選した。…
…大正三年から四年になる時に落第をしたので、それを機会に海軍志望を理由にして、もっと自由な攻玉舎中学校に転校してしまった。」『私の履歴書』)
 明治三十三年(一九〇〇)十五歳
 九月、帝国水難救済会の機関誌『海』 (同年七月創刊、編輯兼発行者石賻辻五郎)に歌が発表された。
 明治三十四年(一九〇一)十六歳
 高輪の邸から東京府下北豊島郡尾久村に転居。新居から中学まで三里の道を日々通った。…」

 昔の人は良く歩きますね、三里は徒歩3時間ですから、大変です。

写真は現在のみずき通りで、当時はこの道はなく、この先一帯が吉井家だったとおもわれます。又、先に小台橋がみえます。読み方は小台橋(おだいばし)です。現在の交通の便は都電荒川線小台駅となります。この場所の目標としては寳蔵院がいいとおもいます。当時と場所が変っていません。



北豊島郡尾久村上尾久附近地図(明治44年)



荒川区西尾久附近地図



「攻玉舎中学校跡」
<攻玉舎中学校に転校>
 吉井勇は明治33年、東京府立第一中学校に入学しています。当時は東京だけではなく日本で一番の中学校だったとおもいます。しかし勉学は長続きせずに明治35年4月には三年より四年へ進級の際に落第、攻玉舎中学校に転入、四年に編入されています。

【攻玉社中学校・高等学校】
東京都品川区西五反田五丁目にある私立中学校・高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校である。通称は「玉社」(ぎょくしゃ)。
江戸時代末期の1863年(文久3)年、近藤真琴(後の明治六大教育家の一人に数えられる)は開国して間もない日本が独立・発展するには外国の学問を謙虚に学ばなければならないと痛感し、江戸藩邸(現在の四谷)に「蘭学塾」を開設。近藤は教育にかける思いを和歌にし次のように詠んだ。
1869年(明治2年)「攻玉塾」に改称し、築地海軍操練所(のちの海軍兵学校)内に移転。1871年(明治4年)、芝新銭座(今の浜松町)の慶應義塾跡へ移転。1872年(明治5年)、文部省より学制が頒布され、「攻玉社」として、改めて開学。明治後期には慶應義塾、同人社(のち明治20年代に廃校)と併せて「三大義塾」として並び称された。
1925年(大正14年)9月、西五反田の現在地に移転、1923年の関東大震災直後に建てられた白亜の鉄筋コンクリートの校舎は頑強で現在も使われている。校舎を新築して移転。戦前は海軍兵学校への予備校的存在として位置付けられ、鈴木貫太郎をはじめ海軍の偉人を多く輩出した。海城と深い関係を築いていた時期もあったが、現在は交流が途絶えている(なお、陸軍士官学校への予備校としては成城が挙げられる)。
1947年(昭和22年)、学制改革により、新制攻玉社中学校発足。翌年、新制攻玉社高等学校発足。一世紀以上の歴史を有する伝統校であり、その名は広辞苑にも記載されている。戦後は長く学力低迷に苦しんだ時期もあるが、中高一貫教育導入をはじめとした教育改革等によって著しく改善。近年は都内でも屈指の進学校となっている。(ウイキペディア参照)

 吉井勇の「生ひ立ちの記」からです。
「… かうした生活は半年ばかりつづいた。そしてその当然の結果として、私は三年から四年になる進級試験に、落第の憂き目を見なければならなかった。
 その時分には私はもう水荘の生活にも倥きてゐたので、落第を口実として学校を変へると同時に、私の一家のものがその当時住んでゐた二本榎の家に、私も一所に住むことになった。今度私の転校した学校は、芝の新銭座にある或る古ぼけた中学校で、そこではかなり生徒にも自由が許されてゐたから、私はもう以前のやうに小さな胸に謀叛の血を湧かさないでも、その日その日を過ごすことが出来た。二本榎から高輪御殿の前を過ぎて、三田通りから芝公園を抜ける同じ路を、私は毎日楽しい空想に耽りながら通った。久しく忘れられてゐた文学の本も、また私の机の上に繙かれるやうになった。…」

 明治35年には尾久から芝区二本榎西町二番地に転居していますので、芝の新銭座(現在の浜松町一丁目6番附近)は通学も圧倒的に近くなったわけです。上記に書かれている”高輪御殿”は高松宮様のお住まいでしたが現在は宮内庁が管理されているようです。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「  明治三十三年(一九〇〇)十五歳
 四月、東京府立第一中学校に入学。
 麹町の中坂にあった勝田孫弥の泰東塾に入り、同氏の刊行する『海国少年』に短歌を投稿して天位に入選した。…
…大正三年から四年になる時に落第をしたので、それを機会に海軍志望を理由にして、もっと自由な攻玉舎中学校に転校してしまった。」『私の履歴書』)
 明治三十三年(一九〇〇)十五歳
 九月、帝国水難救済会の機関誌『海』 (同年七月創刊、編輯兼発行者石賻辻五郎)に歌が発表された。
 明治三十四年(一九〇一)十六歳<br> 高輪の邸から東京府下北豊島郡尾久村に転居。新居から中学まで三里の道を日々通った。
 明治三十五年(一九〇二)十七歳
 四月、三年より四年へ進級の際に落第。攻玉舎中学校に転入、四年に編入された。芝区二本榎西町二番地に移転。…」


写真は港区浜松町1丁目6の攻玉舎中学校跡です。この付近一帯にあったとおもわれます。明治4年(1871) 築地の一橋邸から芝新銭座(今の浜松町一丁目)の慶應義塾跡へ移転したもので、攻玉舎中学校跡と慶應義塾跡の記念碑が港区立エコプラザ前にあります。



港区浜松町附近地図



港区浜松町附近地図



「芝区二本榎西町二番地」
<芝区二本榎西町二番地に移転>
 吉井家は明治34年、高輪から辺鄙な田舎の東京府下北豊島郡尾久村に転居していますが、わずか1年で高輪に戻ってきます。樟脳事業に失敗し、辺鄙な尾久にいる必要がなくなったためです。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「… 明治三十五年(一九〇二)十七歳
 四月、三年より四年へ進級の際に落第。攻玉舎中学校に転入、四年に編入された。芝区二本榎西町二番地に移転。…」

 わずか1年で高輪に戻ってきますから、余程、尾久に居たくなかったのだとおもいます。ただ、以前に住んでいた芝区高輪南町五十九番地は、既に親戚にあたる大山巌(陸軍元師)に譲っていますから、直ぐ傍の芝区二本榎西町二番地に移ってきます。

写真は味の素グループ高輪研修センターの北西角から北側を撮影したものです。写真の左側一帯が芝区二本榎西町二番地となります。余りに広すぎて場所が特定できません。借地とおもわれますので土地台帳では調べられないとおもわれます。なにか書かれたものがないと分かりませんね。

 続きます。



港区高輪付近地図



「ふれあい平塚ホスピタル」
<平塚の杏雲堂病院>
 明治37年(1904)4月、攻玉舎中学校を卒業後、肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院しています。今で言う肺結核だとおもいます。不摂生な生活を続けたためとおもいます。

 吉井勇の「私の履歴書」からです。
「…  3
 歌は攻玉舎中学に入ってからも、ずっとつづいて作っていたが、そのうち仲間ができて俳句も作ることになり、その時分の新傾向であった岡野知十の門に入って「半面」という雑誌に投稿した。そこには後に詩人となった干家元麿君が銀箭峰という俳号でいたが、また別に、俳句と同時に歌を作る一派もあって、どういう関係があったかわからないが、ときどき読売新聞の日曜付録に詠草を載せるようなこともあった。しかしこの時代の歌も、私の記憶に残っているものは一首もない。
 そのうち明治三十八年四月、無事に攻玉舎中学校を卒業したが、それから間もなく肋膜を病んで、平塚の杏雲堂病院に一年近くも入院した後、鎌倉の坂の下に貸別荘を借りて、そこで転地療養をナることになった。…」


【岡野 知十(おかの ちじゅう、安政7年2月19日(1860年3月11日) - 昭和7年(1932年)8月13日)】
 俳人、本名は、岡野 敬胤。通称は正之助、別号は正味。旧姓は木川。北海道日高様似(現在の様似郡様似町)に生まれる。明治28年(1895)『毎日新聞』に『俳諧(はいかい)風聞記』を発表。明治34年(1901)『半面』を創刊、新々派と称し半面派を形成した。又、俳書の収集に努め、集めた俳書は、関東大震災後に東京帝国大学の図書館に寄贈され、「知十文庫」として収められている。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「… 明治三十七年(一九〇四)十九歳
 四月、攻玉舎中学校を卒業。それから間もなく肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院、のち鎌倉へ転地して療養した。短歌に熱中すると同時に万朝報の伊藤銀月選の百字文欄に投稿して、しばしば入賞した。…」

 平塚の杏雲堂病院は明治29年(1896)には結核療養所として設立されています。同地にある現在の病院は杏雲堂病院とは関係の無い病院となっています(平成16年より)。

【『萬朝報』(よろずちょうほう)は、かつて存在した日本の日刊新聞】
 紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。明治25年(1892)11月1日、都新聞を辞した黒岩涙香の手により、東京で創刊される。日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。「蓄妾実例」(社会思想社教養文庫で出版されていた)では権力者のみならず今なら一般人とみなされるであろう商店主や官吏の妾をも暴露し、妾の実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載していた(当時はプライバシーにはそれほどうるさくなく「俺の妾をなぜ載せない」という苦情もあったという)。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載(『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』等々)、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英文欄の創設等で大衆紙として急速に発展。明治32年(1899)には禁手のない初期ルールの五目並べの先手必勝法を掲載した。同年に発行部数が東京の新聞中第1位に達した。明治34年(1901)、「理想団」を結成。労働問題や女性問題を通じ、社会主義思想から社会改良を謳って日清戦争時の世論形成をリードした。しかしその後、主たる購買者であった労働者層をめぐって『二六新報』と激しい販売競争を展開。日露戦争開戦の折、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、黒岩自体も主戦論に転じた。このため、非戦を固持した幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三が退社。これを機に次第に社業は傾き、黒岩の死後は凋落の一途を辿った。昭和15年(1940)10月1日、『東京毎夕新聞』に吸収され廃刊となる。(ウイキペディア参照)

写真は現在のふれあい平塚ホスピタルです。この地に杏雲堂病院がありました。この病院に入院した文学者の記念碑として、ふれあい平塚ホスピタルの道路を挟んで向い側に高山樗牛ホープの碑有島武郎夫妻の記念標柱があります。



神奈川県平塚市平塚駅附近地図



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転じた
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 16 高輪の邸から東京府下北豊島郡尾久村に転居
明治35年 1902 日英同盟 17 4月 三年より四年へ進級の際に落第、攻玉舎中学校に転入、四年に編入された
芝区二本榎西町二番地に移転
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 18 4月 五年に進級。成績優秀のゆえをもって、一学期分
授業料免除
明治37年 1904 日露戦争 19 4月 攻玉舎中学校を卒業。それから間もなく肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院、のち鎌倉へ転地療養