●吉井勇の東京を歩く -1-
    初版2016年2月6日
    二版2016年7月16日  <V01L01> 御田小学校の場所を修正、暫定版

 今回から新シリーズ「吉井勇を歩く」を始めます。「夏目漱石の京都を歩く(大正4年)」で、「大友の碑」(吉井勇の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」)を掲載してから10年経ちます。今回、やっと吉井勇の掲載を始めることができました。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」の書き出しです。
「  第一篇 童  心

    第一章公孫樹
 今でも赤坂見附の坂を上がると、支那公使館の方へ往かうとする四ッ角のところに、大きな公孫樹の木が立つてゐる。秋になると金色の葉が夕日に輝いて、をりから馳り過ぎる大官の馬車の青い蝋塗りの幌の上に、その雫を落すかと思ふと、足早に急いでゆく雙葉会がへりの美しい女学生の黒髪の上にも、光の雨を降らすのである。日枝神社の祭ももう幾月かの前に過ぎてしまつて、往来には唯軽い砂埃が立ち迷つてゐる黄昏時、某の大臣官舎の黒塗の裏門から何処へ行くのか一入の老僕がとぼとぼ出て往つた後は、桜落葉が寂しく電車路に散つてゐるばかりで、水銹の浮いてゐる濠の方からは水禽の鳴く声も聴こえて来ない。こんな寂しい時でも公孫樹の木は、やつぱり昔と同じやうに黙つて静かに立つてゐる。…」

 吉井勇の数少ない自伝のひとつ、「生ひ立ちの記」です。内容が詩的で、年譜代わりに調べるには役に立ちません。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。



「麹町区永田町二丁目15番」
<七歳になるまでずつとこの公孫樹の木の下で育つた>
 吉井勇の生誕の地は全集の年譜には東京市芝区高輪南町五十九番地と書かれており、そのまま高輪南町に住んでいたように書かれています。しかし、「生ひ立ちの記」を読むと、違うようです。又、その後の「流転生活」の中では、 ”私が拙著「生ひ立ちの記」に赤坂見附土の公孫樹の木のある家で生れたやうに書いたのは誤りであつて、その平河町の家にはその後の幼年時代の三、四年を過ごしたものであるらしい”とも書いています。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」からです。
「  第一篇 童  心

    第一章公孫樹
 今でも赤坂見附の坂を上がると、支那公使館の方へ往かうとする四ッ角のところに、大きな公孫樹の木が立つてゐる。秋になると金色の葉が夕日に輝いて、をりから馳り過ぎる大官の馬車の青い蝋塗りの幌の上に、その雫を落すかと思ふと、足早に急いでゆく雙葉会がへりの美しい女学生の黒髪の上にも、光の雨を降らすのである。日枝神社の祭ももう幾月かの前に過ぎてしまつて、往来には唯軽い砂埃が立ち迷つてゐる黄昏時、某の大臣官舎の黒塗の裏門から何処へ行くのか一入の老僕がとぼとぼ出て往つた後は、桜落葉が寂しく電車路に散つてゐるばかりで、水銹の浮いてゐる濠の方からは水禽の鳴く声も聴こえて来ない。こんな寂しい時でも公孫樹の木は、やつぱり昔と同じやうに黙つて静かに立つてゐる。…

 私はこの公孫樹の木の下で生れて、七歳になるまでずつとこの公孫樹の木の下で育つた。それだから私にはこの公孫樹の木が、何だか母のやうに懐かしく思はれて、今でも赤坂見附のところを通つでこの年老いた公孫樹の木の姿を見る時には、ひとりでに涙がさしぐまれて来るのである。そして私は如何してだか、この公孫樹の木が目に浮かんで来ると同時に、きつと亡くなつた祖父のことを思ふ。…」

 ”今でも赤坂見附の坂を上がると、支那公使館の方へ往かうとする四ッ角のところに、大きな公孫樹の木が立つてゐる。…私はこの公孫樹の木の下で生れて、七歳になるまでずつとこの公孫樹の木の下で育つた。”と書かれていて、下記の年譜とは違います。

 吉井勇の「流転生活」からです。
「… 私が生れたのは芝区高輪南町五十九番地で、今味の素の鈴木三郎助の家となつてゐる。私が拙著「生ひ立ちの記」に赤坂見附土の公孫樹の木のある家で生れたやうに書いたのは誤りであつて、その平河町の家にはその後の幼年時代の三、四年を過ごしたものであるらしい。…」
 生誕の地は芝区高輪南町五十九番地のようです。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「 明治十九年 (一八八六)一歳
 十月八日、東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の次男として生れた。母は静子。鹿児島県士族猪飼央の女である。
O「父の名は幸蔵。昭和二年十月七日に、年七十三歳で世を去った。少年時代に欧米に留学、あちらで成人したので、英、仏、独、いずれの外国語も達者であった。帰朝後、陸軍兵学校に入り海軍少佐の時、台湾征討軍に遣間使として行ったが、濁水渓というところで、地雷火のために頭部をやられ、それ以来軍職をやめて、やや、癒えてから貴族院に入った。私がまだ子供の時分、父は酔うとよく『思ひきや弥彦の山を右手に見て立ちかへる日のありぬべしとは』という祖父の歌をくりかえしうたって聞かせてくれたが、こういうことも私の一生に、それとなく影響しているのではないだろうふ。」(日本経済新聞編『私の履歴書』)…」

 ここでは”東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の次男として生れた。”と書かれています。仕方が無いので、少し調べて見ました。吉井勇の祖父は薩摩藩士 吉井友実で、明治維新の立役者の一人として明治17年、維新の功績により伯爵に叙せられています。伯爵なら調べられますので、明治20年の華族名鑑を見ると、”宮内次官 從三位 勲二等 伯爵 吉井友實 東京府麹町区永田町二丁目十五番地”の記載がありました。吉井勇が「生ひ立ちの記」で書いている場所はこちらの方のようです。

写真は国会議事堂の裏の通りから、国会図書館前交差点方面を撮影したものです。下記の地図の矢印のところが麹町区永田町二丁目十五番地となります。現在の参議院議員会館のところとおもわれます。道路も拡張されていますので、一部は道路上とおもわれます。公孫樹は銀杏の木なので、国会図書館前交差点にある銀杏の木のこととおもわれますが、現在は歩道上にあります。当時の木々は道路拡張等も考えると、無いとおもわれます。



麹町区永田町二丁目15番附近地図(明治16年)



「芝区高輪南町五十九番地」
<東京市芝区高輪南町五十九番地>
 吉井勇の「生ひ立ちの記」では、”祖父が亡くなつてから間もなく、私の家は高輪に移つた。”と書かれていますので、明治24年に高輪に移ったとおもわれます(祖父の死去は明治24年(1891)4月)。華族名鑑では明治27年版で、高輪の住所になっていました。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」からです。
「… 祖父が亡くなつてから間もなく、私の家は高輪に移つた。その高輪の家は、私が少年時代の大部分を過ごした、幸福な思ひ出の多い家である。この家に移つて来たのは、たしか私が七つの時であつたらうと思ふ。私の祖父が亡くなつたのが、私の六つの秋であつたから、それから半年位経つてからのやうに覚えてゐる。
 私の新しい家は、高輪の台の上に建てられてゐて、二階の窓からは海の中に浮かんでゐるやうに品川の台場が見え、晴れた日には安房上総の陸の影が、鮮やかに私の眼底に落ちた。…」

 生誕の地が高輪になっていますので、明治19年には高輪の土地を所有していたのではないかとおもわれます。将来、永田町から高輪に移ることが決まっていたので、戸籍をあえて高輪に置いたのではないかと推測しています。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「 明治十九年 (一八八六)一歳
 十月八日、東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の次男として生れた。母は静子。鹿児島県士族猪飼央の女である。
O「父の名は幸蔵。昭和二年十月七日に、年七十三歳で世を去った。少年時代に欧米に留学、あちらで成人したので、英、仏、独、いずれの外国語も達者であった。帰朝後、陸軍兵学校に入り海軍少佐の時、台湾征討軍に遣間使として行ったが、濁水渓というところで、地雷火のために頭部をやられ、それ以来軍職をやめて、やや、癒えてから貴族院に入った。私がまだ子供の時分、父は酔うとよく『思ひきや弥彦の山を右手に見て立ちかへる日のありぬべしとは』という祖父の歌をくりかえしうたって聞かせてくれたが、こういうことも私の一生に、それとなく影響しているのではないだろうふ。」(日本経済新聞編『私の履歴書』)
O「母の名は静子、元治元年生れで、今年(三十四年)九十六歳であるが、いまだにすこぶる健在で、道を歩くのもなかなか足が速く、眼鏡をかけずに針仕事もする。(中略)母の実家の猪飼という家は、鹿児島の稲荷馬場というところにあって、敷地が二千坪あまり、大きな池や瀧のある広大な屋敷だったらしい。。…」

 鹿児島県士族猪飼央は薩摩藩の家老までなった人のようです。”鹿児島の稲荷馬場”は現在の鹿児島市稲荷町のことです。もう少し調べる予定です。

写真は二本榎木通りから撮影した芝区高輪南町五十九番地です。現在は味の素グループ高輪研修センター:(港区高輪3丁目13−65)となっています。吉井家から親戚にあたる大山巌(陸軍元師)に譲り、その後、味の素創業者 鈴木三郎助邸になっています。(吉井勇全集 月報4、「兄の思い出など」、吉井千代田)。

「御田小学校跡」
<御田小学校>
 2016年7月16日 御田小学校の場所を修正
 吉井勇は明治24年に高輪に移ってきた後、芝山内(芝増上寺)にあった幼稚園に通っています。今も増上寺内に明徳幼稚園があるのですが、大正14年(1925)に開設と書かれていますので、明治24年頃の幼稚園については不明です。又、この頃、吉井勇は鎌倉材木座にあった別荘に滞在しており、学校も鎌倉師範学校付属小学校に入学しています(別途、鎌倉の項で掲載)。一年生の後半になって、高輪に戻り、近くの御田小学校に通います。

 吉井勇の「わが回想録」からです。
「… 話はずっと溯って少年時代のことになるが、私はその当時、家が高輪南町にあったので、芝伊皿子坂の上のところにあった、御田小学校に通ってゐた。後にわれわれが茶畑と称してゐた向う側の空地に、新しい校舎が建築されて、それに移転をして終ったが、私が尋常科を終る頃までは、大円寺と云ふ寺の墓域に隣接したところにあって、朽敗した建物の廊下も小暗く、運動場の柵の外には、累々として立ち並んだ墓が見え、昼猶梟の鳴き聲が聴こえて来さうな欝蒼とした森も、遠がらぬところに眺められた。…」
 上記に書かれている大円寺(写真正面のマンションもところ)は現在はありません。明治41年、杉並区和泉に移転して現在に至っています。明治20年代の地図を見ると記載があります。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」からです。
「… 私は鎌倉の小学校ヘ一年近くも通つてゐたが、その体も丈夫になつたので、また高輪の家へ帰つて来た。しかし夏冬の休み毎には、きつと懐かしい材木座の別荘へ往つで、そこで楽しい時を過ごした。私は子供の時分から如何してだが海が好きでならなかつた。まるで母を恋ふるやうに海を慕つた。…」

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「… 明治二十四年(一八九一)六歳
 鎌倉師範学校付属小学校に入学したが、半年の後東京に移り、芝区の御田小学校に転じた。この年の四月、祖父友
実の死にあった。「最初私は芝山内にあった幼稚園に通っていたが、その後、鎌倉の材木座にあった別荘で暮すようになったので、尋常小学の一年の前半は、鶴ヶ岡八幡宮の直ぐ横手にあった師範学校の付属小学校に、その時代まだちょん髷に結っていた別荘番のじいやに連れられて通った。しかし間もなく東京の家へ帰って来たので、こんどはまたあらためて、芝の伊皿子坂の上にあった御田小学校に入学した。この小学校時代の同級生で、いまなおまれに音信しているのは、現在奈良の女子大学の学長をしている落合太郎君くらいのもので、私よりも二、三級下には、小泉信三君や筆名水上瀧太郎の阿部常章君がいたのを覚えている。その当時の校長は小野茂倫といったが、受持の橋詰先生という人が至極温情のある人物で、日曜申祭日にはよく生徒たちの中から数人を選んで、目黒や洗足池方面へ遠足につれていってくれた。」(『私の履歴書』)…」


写真は当時の御田小学校跡で、現在の三田台公園です。現在は道路を挟んで反対側に御田小学校があります。歴史を紐解くと、明治5年に魚らん坂から少し入った薬王寺に「開蒙舎」として創立され, 翌年には第三番小学御田学校となり、御田小学校と順次改称されています。魚らん坂から伊皿子町(大円寺横)に移った時期は不明ですが、明治20年代には移っていたようです。今の場所に移ったのは吉井勇の「わが回想録」からすると、明治33年頃とおもわれます。

「東京府立第一中学校跡」
<東京府立第一中学校>
 明治33年(1900)4月、東京府立第一中学校に入学します。今の都立日比谷高校です。
 <日比谷高校の名称及び移転の推移>
・明治11年(1878) - 東京府第一中学として本郷元町に創立、すぐに神田一ツ橋に移転。
・明治14年(1881) - 第二中学と合併し東京府中学校となる。
・明治17年(1884) - 内山下町に移転。
・明治20年(1887) - 東京府尋常中学校と改称。築地に移転。
・明治32年(1899) - 東京府中学校と改称、日比谷に移転。
・明治33年(1900) - 東京府第一中学校に改称。
・明治34年(1901) - 東京府立第一中学校に改称。
・昭和 4年(1929) - 日比谷から現在の永田町に移転。
 当時の中学校の入学時期に関しては明治25年から4月入学となっています。

 吉井勇の「生ひ立ちの記」からです。
「…    第五章即興詩人
 私が田端に近い水荘から通つてゐた日比谷の中学校は、これまでにも多くの秀才を生んで、かなり評判の好い学校だつたけれども、そこの中の空気は何となく私には冷たく感じられた上に、生徒を圧迫するやうなせせこましい教育法に対しては、激しい反抗の念を抱かないではゐられなかつた。…」

 ”日比谷の中学校”は当時の地番で麹町区西日比谷1番地、現在の日比谷公園の西側道路を挟んだ法務省のビルのところです。下記の地図参照。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「… 明治三十三年(一九〇〇)十五歳
 四月、東京府立第一中学校に入学。
 麹町の中坂にあった勝田孫弥の泰東塾に入り、同氏の刊行する『海国少年』に短歌を投稿して天位に入選した。
○たしか小学の高等二年を終ってから、東京府立第一中学校に入学したのだと思うが、試験を受けたのは築地の旧校舎、いま東京劇場になっているところで、授業を受けたのは日比谷の新校舎、後に拓務省になり、いま裁判所か何かになっているところだった。校長は勝浦鞆雄という、ひどく気取った演説をする人だったが、同級には谷崎潤一郎、辰野隆、石坂泰三、土岐善麿、金子隆三などがいたらしいが、私はその時代から妙に孤独性なとごろがあって友だちが少なく、それにこの学校の校風に対して反抗的になっていたので、この時代のことはいやな記憶ばかりが残っている。…」

 ”試験を受けたのは築地の旧校舎”は当時の京橋区築地3丁目15番地、現在の万年橋東詰、東劇会館のところです。”東京府立第一中学校に入学”と書いていますが、正確には”東京府第一中学校”です。”東京府立第一中学校”になったのは入学の翌年、明治34年です。

写真は日比谷公園の西側道路を挟んで法務省ビルを撮影したものです。ここに東京府第一中学校がありました。



麹町区桜田門附近地図(大正11年)



港区高輪付近地図



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転じた
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学