●吉井勇の静岡を歩く
    初版2017年12月16日 <V01L01> 暫定版

 暫くぶりで「吉井勇を歩く」を掲載します。今回は「吉井勇の静岡歩く」です。吉井勇は昭和11年秋から翌年にかけて静岡に滞在しています。訪ねる機会がなかなか無かったのですが、関西からの帰りにやっと訪ねることが出来ましたので掲載します。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇全集 第九巻「年譜」からです。
「 昭和十一年(一九三六)五十一歳
 三月、随筆集『わびずみの記』を京都の政経書院より出版。
 四月、歌行脚を志して、四国路、申国路、九州路、瀬戸内海などを遍歴し、八月、土佐渓鬼荘に帰った。
 十一月、歌集『相聞抄』(選集)を改造社より出版。
 この秋から翌十二年春にかけて半歳ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓。その居に迷悟庵と名づけた。…

 昭和十二年(一九三七)五十二歳
 一月、滋を伴って久能山、日本平、清水、三保の松原に遊ぶ。
 五月、再び歌行脚に出る。
 六月、瀬戸内海の伯方島に淹留。
 八月、土佐の渓鬼荘に帰る。
 十月、山を下りて高知市築屋敷に居を卜して、東京から千葉県入国松喜三郎の長女孝子を迎え、結婚生活に入った。…」

 年譜には昭和11年の項に”この秋から翌十二年春にかけて半年ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓。その居に迷悟庵と名づけた。”と書かれています。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「奥付」
<「定本 東海文学散歩 駿河・遠江篇」 南信一>
 吉井勇の静岡について書かれた本がないかと静岡市にある静岡県立図書館で探しました。図書館の方には大変お世話になりました。南信一氏の「定本 東海文学散歩 駿河・遠江篇」と静岡出版文化会篇の「静岡の文学」の2冊に書かれているのを見つけました。なかでも南信一氏の「定本 東海文学散歩 駿河・遠江篇」は詳細に書かれていましたので参考になりました。

 南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 ”吉井勇の迷悟庵”からです。
「…  吉井勇の迷悟庵

 馬淵六丁目から左に折れて東進すると、間もなく南警察署があり、その東に静岡牛乳がある。そこから南にはいった所、くわしくは中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に、昭和一一年秋から翌一二年の春にかけての約半年、吉井勇が流寓していたことがある。文四郎氏の先代鐐吉氏の存命のころであった。
 もっとも、勇が静岡にはじめてやって来たのは、それよりも一八年も前の大正九年のことであり、当時静岡で勇の文学に心酔していた連中が、可美古会というものをつくっていた。勇の小説「淀の文反古」は、この可美古会の連中に取材したものであるが、こうした旧知の連中のいる関係もあって、昭和一一年秋駿府に来遊したのである。はじめは羽鳥の石上英彦氏の離れ屋に、師走に中田に移ったが、楣間に良寛の詩句がかかげられていたところから、そこを迷悟庵と名づけた(良寛詩のなかに「迷悟」の語を用いたものが数首ある・「迷悟互相為」・「迷悟不到未生地」など)。…」
 詳細に調べられていて、知識の無い私にとっては大変役に立ちました。

写真は南信一氏の「定本 東海文学散歩 駿河・遠江篇」の奥付です。中の文章が静岡出版文化会篇の「静岡の文学」と似ているので、此方も南信一氏が書かれたのではないかとおもっています。



「静岡市葵区羽鳥本町 20-13」
<羽鳥の石上英彦氏の離れ>
 南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 を読むまでは、最初から静岡市の田中に居たのかとおもっていたのですが、昭和11年秋には”羽鳥の石上英彦氏の離れ屋”に居たようです。(年譜には書いていない) この離れ屋の場所については、最初はよく分かりませんでした。(静岡で詩歌をやられている方は直ぐに分かるとおもいます)

 南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 ”吉井勇の迷悟庵”からです。
「…昭和一一年秋駿府に来遊したのである。はじめは羽鳥の石上英彦氏の離れ屋に、師走に中田に移ったが、楣間に良寛の詩句がかかげられていたところから、そこを迷悟庵と名づけた(良寛詩のなかに「迷悟」の語を用いたものが数首ある・「迷悟互相為」・「迷悟不到未生地」など)。…」
 ”羽鳥の石上英彦氏”から調べることにしました。
・吉井勇の静岡での歌碑の場所を調べると、”静岡市葵区羽鳥138-2 石上久住氏宅庭内”を見つけることができました。(現在はありません)
・同じ羽鳥なので石上久住氏は石上英彦氏のご家族の方ではないかと推測しました。
・”葵区羽鳥138-2”は古い住居表示なので、静岡市のホームページで新住居表示に変換して”葵区羽鳥本町 20-13”と分かりました。(住宅地図等で最終確認していませんので推定とさせていただきます)

写真は現在の静岡市葵区羽鳥本町 20-13です。建売住宅がたくさん建てられています。土地を売られて建売住宅になっているようです。古い住宅地図で確認するか、法務局で調べれば分かりますが、訪問する機会が無いため最終確認が取れていません。ですので、推定とさせて頂きます。



京都市中心部地図(堀辰雄、立原道造の地図を流用)



「静岡県静岡市駿河区中田1丁目」
<迷悟庵>
 年譜によると、吉井勇”は昭和11年秋から翌十二年春にかけて半年ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓。その居に迷悟庵と名づけた”とありますが、前述のように、”羽鳥の石上英彦氏の離れ”の居を構えたようです。その後の昭和11年末に静岡市内の中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に移っています。

 南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 ”吉井勇の迷悟庵”からです。
「  吉井勇の迷悟庵

 馬淵六丁目から左に折れて東進すると、間もなく南警察署があり、その東に静岡牛乳がある。そこから南にはいった所、くわしくは中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に、昭和一一年秋から翌一二年の春にかけての約半年、吉井勇が流寓していたことがある。文四郎氏の先代鐐吉氏の存命のころであった。…」

 南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 は昭和55年に出版されていますんで、上記はかなり古いデータです。現在は南警察署も静岡牛乳もありません。

写真は現在の稲川交番東交差点から南東を撮影したものです。この先、中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に吉井勇は滞在していました。現在もご家族の方がお住まいのようなので直接の写真は控えさせてもらいました。

 吉井勇は昭和十四年の初夏にも、静岡の梅ヶ島に来ていますが、梅ヶ島が静岡市内からかなり遠いため、まだ訪ねていません。



京都府八幡市八幡月夜田附近地図



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転向
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 8月 宇和島運輸の招きで四国に滞在、伊予路を歩く
このころから南林間にあった親戚の別墅を借りる
昭和6年 1931 満州事変 46 5月 高知に滞在、伊野部恒吉と知りあう
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
48 8月 高知に入り、猪野々に三箇月滞在
このころ徳子と別居、後に至って離婚
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 49 4月 猪野々に滞在
昭和10年  1935 第1回芥川賞、直木賞 50 3月 高知より上京
10月 猪野々の渓鬼荘に滞在
昭和11年 1935   51 10月 土讃線全通
秋、静岡市羽鳥の石上英彦氏の離れ屋
師走に静岡市中田二丁目四一番地に移る
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
52 8月 高知猪野々の渓鬼荘に帰る
10月 孝子と結婚、高知市鏡川畔築屋敷に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダンタイムス」封切
53 10月 京都市左京区北白川東蔦町21番地に転居
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
59 10月 左京区岡崎円勝寺町39番地に転居
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
60 2月 京都より富山県八尾町に疎開
10月 京都府綴喜郡八幡町月夜田 宝青庵に転居
         
昭和23年 1948 太宰治自殺 63 8月 京都市上京区油小路元誓願寺町482番地に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 66 8月 左京区浄土寺石橋町19番地に転居
         
昭和35年 1960 新安保条約が成立
第1次池田内閣成立
75 11月 京都大学病院で死去