<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。
吉井勇全集 第九巻「年譜」からです。
「 昭和十一年(一九三六)五十一歳
三月、随筆集『わびずみの記』を京都の政経書院より出版。
四月、歌行脚を志して、四国路、申国路、九州路、瀬戸内海などを遍歴し、八月、土佐渓鬼荘に帰った。
十一月、歌集『相聞抄』(選集)を改造社より出版。
この秋から翌十二年春にかけて半歳ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓。その居に迷悟庵と名づけた。…
…
昭和十二年(一九三七)五十二歳
一月、滋を伴って久能山、日本平、清水、三保の松原に遊ぶ。
五月、再び歌行脚に出る。
六月、瀬戸内海の伯方島に淹留。
八月、土佐の渓鬼荘に帰る。
十月、山を下りて高知市築屋敷に居を卜して、東京から千葉県入国松喜三郎の長女孝子を迎え、結婚生活に入った。…」。
年譜には昭和11年の項に”この秋から翌十二年春にかけて半年ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓。その居に迷悟庵と名づけた。”と書かれています。
【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日
- 昭和35年(1960)11月19日)】
維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)
★写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。
<「定本 東海文学散歩 駿河・遠江篇」 南信一>
吉井勇の静岡について書かれた本がないかと静岡市にある静岡県立図書館で探しました。図書館の方には大変お世話になりました。南信一氏の「定本
東海文学散歩 駿河・遠江篇」と静岡出版文化会篇の「静岡の文学」の2冊に書かれているのを見つけました。なかでも南信一氏の「定本
東海文学散歩 駿河・遠江篇」は詳細に書かれていましたので参考になりました。
南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 ”吉井勇の迷悟庵”からです。
「… 吉井勇の迷悟庵
馬淵六丁目から左に折れて東進すると、間もなく南警察署があり、その東に静岡牛乳がある。そこから南にはいった所、くわしくは中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に、昭和一一年秋から翌一二年の春にかけての約半年、吉井勇が流寓していたことがある。文四郎氏の先代鐐吉氏の存命のころであった。
もっとも、勇が静岡にはじめてやって来たのは、それよりも一八年も前の大正九年のことであり、当時静岡で勇の文学に心酔していた連中が、可美古会というものをつくっていた。勇の小説「淀の文反古」は、この可美古会の連中に取材したものであるが、こうした旧知の連中のいる関係もあって、昭和一一年秋駿府に来遊したのである。はじめは羽鳥の石上英彦氏の離れ屋に、師走に中田に移ったが、楣間に良寛の詩句がかかげられていたところから、そこを迷悟庵と名づけた(良寛詩のなかに「迷悟」の語を用いたものが数首ある・「迷悟互相為」・「迷悟不到未生地」など)。…」
詳細に調べられていて、知識の無い私にとっては大変役に立ちました。
★写真は南信一氏の「定本 東海文学散歩
駿河・遠江篇」の奥付です。中の文章が静岡出版文化会篇の「静岡の文学」と似ているので、此方も南信一氏が書かれたのではないかとおもっています。
<羽鳥の石上英彦氏の離れ>
南信一氏の「東海文学散歩
駿河・遠江篇」 を読むまでは、最初から静岡市の田中に居たのかとおもっていたのですが、昭和11年秋には”羽鳥の石上英彦氏の離れ屋”に居たようです。(年譜には書いていない)
この離れ屋の場所については、最初はよく分かりませんでした。(静岡で詩歌をやられている方は直ぐに分かるとおもいます)
南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 ”吉井勇の迷悟庵”からです。
「…昭和一一年秋駿府に来遊したのである。はじめは羽鳥の石上英彦氏の離れ屋に、師走に中田に移ったが、楣間に良寛の詩句がかかげられていたところから、そこを迷悟庵と名づけた(良寛詩のなかに「迷悟」の語を用いたものが数首ある・「迷悟互相為」・「迷悟不到未生地」など)。…」
”羽鳥の石上英彦氏”から調べることにしました。
・吉井勇の静岡での歌碑の場所を調べると、”静岡市葵区羽鳥138-2
石上久住氏宅庭内”を見つけることができました。(現在はありません)
・同じ羽鳥なので石上久住氏は石上英彦氏のご家族の方ではないかと推測しました。
・”葵区羽鳥138-2”は古い住居表示なので、静岡市のホームページで新住居表示に変換して”葵区羽鳥本町
20-13”と分かりました。(住宅地図等で最終確認していませんので推定とさせていただきます)
★写真は現在の静岡市葵区羽鳥本町 20-13です。建売住宅がたくさん建てられています。土地を売られて建売住宅になっているようです。古い住宅地図で確認するか、法務局で調べれば分かりますが、訪問する機会が無いため最終確認が取れていません。ですので、推定とさせて頂きます。
<迷悟庵>
年譜によると、吉井勇”は昭和11年秋から翌十二年春にかけて半年ほどの間、静岡市の街はずれに仮寓。その居に迷悟庵と名づけた”とありますが、前述のように、”羽鳥の石上英彦氏の離れ”の居を構えたようです。その後の昭和11年末に静岡市内の中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に移っています。
南信一氏の「東海文学散歩 駿河・遠江篇」 ”吉井勇の迷悟庵”からです。
「 吉井勇の迷悟庵
馬淵六丁目から左に折れて東進すると、間もなく南警察署があり、その東に静岡牛乳がある。そこから南にはいった所、くわしくは中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に、昭和一一年秋から翌一二年の春にかけての約半年、吉井勇が流寓していたことがある。文四郎氏の先代鐐吉氏の存命のころであった。…」
南信一氏の「東海文学散歩
駿河・遠江篇」 は昭和55年に出版されていますんで、上記はかなり古いデータです。現在は南警察署も静岡牛乳もありません。
★写真は現在の稲川交番東交差点から南東を撮影したものです。この先、中田二丁目四一番地の亀山文四郎氏所有の隣二階に吉井勇は滞在していました。現在もご家族の方がお住まいのようなので直接の写真は控えさせてもらいました。
吉井勇は昭和十四年の初夏にも、静岡の梅ヶ島に来ていますが、梅ヶ島が静岡市内からかなり遠いため、まだ訪ねていません。