●吉井勇の京都を歩く
    初版2016年4月2日 <V01L02> 暫定版

 「吉井勇を歩く」を継続して掲載します。今回は「吉井勇の京都歩く」です。吉井勇は昭和13年10月 土佐から京都に移ります。前妻のことも、昭和13年9月15日に従三位に叙されたことにより名誉回復、それでも東京までは行かずに京都に居を構えます。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇全集 第七巻「秋の心」からです。
「    秋 の 心

   京に来てわが世はげしき起伏をおもひかへしぬ秋のこころに

 私が土佐から洛北白川の里へ居を移したのは、昭和十三年の十月、秋もやや深くなつてからのことであつた。
 私の京の侘住居は、百万遍よりも東北にあたる、近江路へ出る山中越えの街道筋を、ちよつと入つたところにあつて、愛宕山の方へ落ちる西日が、真ともにかつと照りつける二階建の借家だつた。庭は極めて狭かつたが、それでも家主が石屋なので、燈籠だの蹲だのに、石は惜し気もなく使つてあつて、松が一本ある外には青木、柊、樫、躑躅、薮柑子、それに厠の近くに竹が少しあるばかりの、庭木はむしろ貧弱だつた。石や木の間には、羊歯や苔が日のあたらない湿地なのを幸ひ、そこら一面に蔓つてゐた。…」

 京都に関する随筆は吉井勇全集では第七巻に纏められています。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「短歌研究」
<「短歌研究 2010/7〜2014/11」 吉井勇の旅鞄、細川光洋>
 吉井勇の伝記的なものとしては、一番新しく書かれたものです。ただ残念なのは、吉井勇の昭和初期についてのみ書かれていること、「短歌研究」という雑誌に2010年7月号から2014年11月号まで43回にわたって連載されたということです。全部コピーするのは大変でした。早く本にしていただければとおもっています(今年の秋頃に出版されるそうです)。

 細川光洋氏の「短歌研究 2010/7」 ”吉井勇の旅鞄”からです。
「… 京都への移転について、太田三郎は関係者への聞き書きをもとに次のように経緯を記している。
 築屋敷時代に孝子夫人の父親が病をうることがあり、この病はやがて癒えたとはいえ、勇の母と夫人の両親とを東 京においていながら遠く高知に住んでいるのは、何かのと きに遠すぎるのではないか(当時東京高知間は二十時間以上 もかかっていた)、と夫人は感じ、もう少し東京に近いところへ移ってはと、勇に訴えることがあった。それに対して、大阪はごみっぽいから嫌だ、いっそ長崎を振り出しにして上りを東京にしようか、と勇は冗談めいた返事をしていたが、東京の画商、石川氏に京都へ行きたいと洩らした
 のがもとで、吉田山に住む吉添氏にこの話が通じて、左京区北白川東蔦町二一に住むことになった。
     (「吉井勇と四国(三)」(「学苑」四〇九号、昭49・I)
 *正しくは、「左京区北白川平井町八三」。昭和十五年より町名変更で「東蔦町」となるが、番地は「東蔦町二十」。…」

 詳細に調べられていて、知識の無い私にとっては大変役に立ちました。

【細川 光洋(ほそかわ みつひろ、1967年4月 - )】
 日本の国文学者(日本近代文学・国語科教育法)。学位は修士(教育学)(早稲田大学・1994年)。静岡県立大学国際関係学部教授・大学院国際関係学研究科教授。高知工業高等専門学校総合科学科准教授などを歴任した。専門は国文学であり、特に日本近代文学や国語科教育法といった分野の研究に従事していた[5]。日本の近代文学に関しては、特に吉井勇、谷崎潤一郎、寺田寅彦の3名の作品を俎上に載せることが多い。(ウイキペディア参照)

写真は短歌研究社発行の「短歌研究 67巻 2010年7月号」です。細川光洋氏の「吉井勇の旅鞄」、”新連載1”が掲載されています。短歌については全く知識が無いのですが、「短歌研究」は戦前からある雑誌です。国会図書館で検索すると大正6年から出てきますので、相当昔からある雑誌です。



「左京区北白川東蔦町20」
<左京区北白川平井町83>
 吉井勇は昭和13年10月 土佐から京都に移ります。前妻のことも、昭和13年9月15日に従三位に叙されたことにより名誉回復、隠匿生活から解放されます。それでも東京までは行かずに京都に居を構えます。

 吉井勇の「私の履歴書」より
「…私が京都へ移って来て最初に住んだのは、もうずっと洛北に近い、左京区北白川東蔦町というところだった。これまで京都には遊びには来ていたけれども、落ちついて居を構えるというようなことは、この時がはじめてだったので、その当時の日記を見ると京都の自然や風物や年事行事などに、心をひかれていることがはっきりわかる。その北白川の家というのは、家賃二十三円の借家だったが、二階が二間、階下が六間ほどあって、夫婦二人には広過ぎるくらい、二階から北東に比叡、西に愛宕がハッキリ見え、花売りで有名な白川女の本場なので至るところに花畑があって、環境も至極美しかった。ちょうど季節も秋のことで、自然や風物も美しかったので、私はほとんど毎日のように、方々見物に歩き回っていた。昔から早起きだったので、毎朝散歩に出るのだが、ある時はまだ夜の明けないうちにそっと家を出て、叡山電車に乗って八瀬にゆき、そこからまたケーブルカーで比叡山に登って、京都市中や回りの山々を観望した後、やっと日がのぼる時分に帰って来たようなこともある。この北白川の家には、昭和十三年十月から昭和十九年十月まで、ちょうど六年間ばかり住んでいた。…」
 吉井勇が京都に転居した先の住所は、
・吉井勇全集 年譜:左京区北白川東蔦町二十一番地
・昭和14年 書簡:左京区北白川平井町八三
・昭和16年 書簡:左京区北白川東蔦町廿
 とあり、昭和16年には平井町から東蔦町に町名が変っています。
 細川光洋氏の「短歌研究」 ”吉井勇の旅鞄”によると、
「…東京の画商、石川氏に京都へ行きたいと洩らしたのがもとで、吉田山に住む吉添氏にこの話が通じて、左京区北白川東蔦町二一に住むことになった。(「吉井勇と四国(三)」(「学苑」四〇九号、昭49・1)
 *正しくは、「左京区北白川平井町八三」。昭和十五年より町名変更で「東蔦町」となるが、番地は「東蔦町二十」。」

 とあり、東蔦町20なのか、21なのかよく分かりません。推定ですが、住居表示と登記上の地番との違いかなともおもっています。

写真の角とその左隣が現在の住居表示で左京区東蔦町20となります。吉井勇の随筆「秋の心」に”近江路へ出る山中越えの街道筋ちよつと入つたところ”とある”山中越えの街道筋”は写真の左右の道です。又、”愛宕山の方へ落ちる西日”とあるので家が西を向いているのが分かります。”ちょっと入ったところ”なので写真正面の左隣が正解とおもわれます。東蔦町21は写真の右隣から北側一帯にかけての広い範囲になります。



京都市中心部地図(堀辰雄、立原道造の地図を流用)



「左京区岡崎円勝寺町39」
<左京区岡崎円勝寺町39>
 吉井勇は昭和19年10月に左京区北白川東蔦町から左京区岡崎円勝寺町39に移ります。北白川の田舎から平安神宮に近い、北大路通りから少し入ったところへの引越しです。この場所は藤井家(左隣は藤井有鄰館であり、設立者の藤井善助は昭和18年死去)のものとおもわれますので、借りていたものとおもわれます。

 吉井勇の「私の履歴書」からです。
「やっと一命を取り止めた後、昭和十九年の十月には、東山区岡崎円勝寺町に移ったが、もうその時分には本上の爆撃がだんだん烈しくなって、京都の空も毎日のように通り過ぎてゆく敵機の影を見ない日とてはないようになった。敗戦の色がだんだん濃くなってくると同時に、京都もいつ爆撃のために灰焼となってしまうかわからないと思うと、じっと落ちついてもいられなくなった。…」
 吉井勇は昭和17年6月に一時生命も危ぶまれるような重患に罷って、2ヶ月程京都病院に入院しています。

藤井 善助(フジイ ゼンスケ)明治〜昭和期の実業家 衆院議員(国民党)、京都有鄰館長
(明治6年3月8日(1873年)〜昭和18(1943)年1月14日)
 京都市立第一商業学校を卒業して上海日進貿易研究所に学ぶ。農業・貿易商・織物商などを営み、大阪金巾製鉄、江商(のちの兼松工商)、山陽紡績などの創立に加わり役員を務める。また天満織物・日本共立生命・関西倉庫・湖南鉄道・近江倉庫・大津電車軌道・日新電機・日本メリヤス・琵琶湖ホテルの各社長に就任。その他、多数の会社の重役を務めた。この間、明治37年に生地・滋賀県北五個荘村の村長となり、神崎郡立実業学校を創立。滋賀県農会会長も務める。41年衆院議員(国民党)に当選、3期務める。ローマで開催の第17回列国会議同盟会議に派遣された。育英事業、社会事業、司法保護事業などに尽力し、実業界・政界で活躍すると共に、私立の天体観測所や東洋美術館を創設し、中国古美術収集家としても知られ、コレクションは京都市にある藤井有鄰館に展示されている。(コトバク参照)

写真は現在の左京区岡崎円勝寺町39です。藤井有鄰館の設立者である藤井善助の住居であったとおもわれます。左側に藤井有鄰館があります。

「月夜田」
<京都府綴喜郡八幡町月夜田>
 昭和20年2月、国内の空襲が始まってきたため、吉井勇は京都から富山県八尾町に疎開します。そして、終戦後の昭和20年10月、京都市内への転居が制限されていたため、京都府綴喜郡八幡町月夜田の宝青庵の住職であった西村大成氏を頼って移ってきます。

 吉井勇の「私の履歴書」からです。
「昭和二十年八月終戦になると一日も早く京都に帰りたくなったが、市内にはなかなか転入が許されなかったので、やむなくその年の十月に八尾を去って、京都府下綴喜郡八幡町字月夜田というところにある宝青庵という浄土宗の小さな寺の座敷を借りてそこに移った。そこは京阪電車の石清水八幡駅から一里ばかり徒歩で行かなければならない、きわめて不便なところだったけれども、すぐ近くに女郎花塚や松花堂の茶室などがあって、きわめて静かな環境だった。…」
 京都府下綴喜郡八幡町字月夜田にある宝青庵(通称紅葉寺)の最寄駅は、現在は京阪電車樟葉駅となります。当時は現在の名称で八幡市駅(石清水八幡宮前駅の名称は昭和14年〜昭和23年まで)から通っていたようです。
・八幡市駅−宝青庵:2.7km
・樟葉駅−宝青庵:2.7km
で距離は同じですが、京都へは八幡市駅の方が近いので、利用していたとおもいます。

【松花堂(しょうかどう)】
 江戸時代初期の僧侶(石清水八幡宮の社僧)で文化人であった松花堂昭乗がその晩年の寛永14年(1637年)に構えた草庵の名称である。現在の京都府八幡市、石清水八幡宮のある男山の東麓に泉坊という宿坊があり、その中にこの草庵があった。男山には石清水八幡宮に所属する宿坊が多数建っており「男山四十八坊」とも呼ばれたが、明治初年の神仏分離で宿坊はすべて撤去され、松花堂も旧所在地の南方に移築。現在は「松花堂庭園・美術館」という文化施設となっており、財団法人やわた市民文化事業団が管理運営している。現・松花堂は、移転前の旧地とともに「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡に、「松花堂及び書院庭園」の名称で国の名勝に指定されている。中には上記に書かれている女郎花塚説明看板)や松花堂の茶室があります。(ウイキペディア参照)

【松花堂弁当】
 その名前の由来は、石清水八幡宮にあった瀧本坊の住職を務めた昭乗が好んだ四つ切り箱が器の基になっています。昭乗が、農家の種入れとして使われていた、箱の内側を十字に仕切った器をヒントに、茶会で使用する煙草盆や絵の具箱として使用したようです。江戸時代に遠州流の茶人が瀧本坊で行った茶会の茶会記に、「瀧本の墨絵」のある春慶塗の器が「瀧本好」のたばこ盆として記されています。大正時代以降、昭乗の菩提寺である泰勝寺(京都府八幡市)では、同様の器がお斎の器として使われています。昭和の初め、日本料理「きっちょう」の創始者が松花堂の地を訪れ、昭乗の好んだ「四つ切り箱」を見そめ、器の寸法をやや縮め、縁を高くして、料理が、おいしそうに、美しく盛りつけできるように工夫を重ね、蓋をかぶせて、茶会の点心等にだされました。器が十字に仕切られていることが大切で、煮物、焼き物、お造り、ご飯などの食材同士の味や香りが混ざらないため、それぞれのお料理がおいしくいただけるとともに美しく盛り付けすることができます。まさに機能と美しさを併せ持つ器です。(八幡市立松花堂庭園・美術館のホームページより)

写真は宝青庵入口にある歌人吉井勇先生寓居地の記念碑です。宝青庵の中には吉井勇の歌碑があります。宝青庵は俗称”紅葉寺”ですので、秋に行かれた方がいいとおもわれます。松花堂庭園・美術館には吉井勇の歌碑があり、その横に谷崎潤一郎他との写真がありました。



京都府八幡市八幡月夜田附近地図



「上京区頭町482」
<市上京区油小路元誓願寺町482>
 昭和23年8月、吉井勇はやっと京都市内に転居ができます。転居先は上京区油小路元誓願寺町482、昭和21年に創業した中央図書出版社のところでした。中央図書出版社と何らかの関係があって紹介されたのとおもわれます。残念ながら中央図書出版社(平成25年には中央図書新社に社名変更)は平成26年に倒産、建物はマンションに変っていました。

 吉井勇の「私の履歴書」からです。
 昭和二十三年(一九四八)六十三歳
一月、選者として宮中の歌会始の儀に参列した。選者詠「春来れば京のやまなみ絵のどとし光悦のやま宗達のやま」。
 三月、小説『狂へる恋』を矢貴書店より出版。
 八月、宝青庵から京都市上京区油小路元誓願寺町四八二番地に転居。その月の十八日、日本芸術院会員となる。

 上京区油小路元誓願寺町482は正確には上京区頭町482(京都流には油小路元誓願寺通下ル)です。

写真正面の角のところが中央図書出版社(中央図書新社)跡です。平成23年に南区に移転していますので、この土地はその時に売却されていたとおもわれます。ただ、482番は中央図書出版社があり、枝番の482−1は写真正面のマンションの右側の建物になります。吉井勇が住んでいた所は482−1ではないかと推測しています。

「左京区銀閣寺前町3−2」
<左京区浄土寺石橋町19番地>
 吉井勇の終焉の地です。昭和26年8月、上京区頭町から銀閣寺に近い左京区浄土寺石橋町19番地に転居します。土地は購入されたのだとおもわれます。昭和35年(1960)11月19日、75歳で死去、病名肺癌。30日に祇園の建仁寺で告別式をおこなっています。

 吉井勇の「私の履歴書」からです。
 昭和二十六年(一九五一)六十六歳
 八月、左京区浄土寺石橋町十九番地に転居。この町名はのちに左京区銀閣寺前町と改められた。その居を「紅声窩」と名づけた。…

 ○「ここ(編者注・浄土寺石橋町の家)は間数は五間ばかりしかなかったけれども裏の方には白壁づくりの土蔵があって、さまで広くない庭には、四方竹や木賊などが茂り、真ん中には大きな伽藍石がすえてあった。門の前には南禅寺の方から流れて来る疎水があって、その両岸は橋本関雪が植えたという桜並木になっている。京都へ移って来てからもう二十年近くもなるし、すっかり昔とは様相の変ってしまった東京へは、どうも帰る気にはならないので、ようやくここを永住の地としようとする心持になっていた時だったから、こうして日ごろから願っている隠棲という言葉にふさわしい家を得たことは、私にとってかなり大きな喜びだった。私はここに移ると間もなく、祇園に近い四条通りにある、知り合いの骨とう屋の店で、ふと見つけた『紅声窩』という三字の額を、玄関の正面に掛けた。これは私の好きな京都の市井詩人中島棕隠が書いたもので、なんでも四国のある旗亭のために書いて与えたものらしい。しかしこれはあながちそういった狭斜の巷ばかりでなく、竹枝調の歌ばかり作ってきた私の家にも、ふさわしいと思ったから、あえて掲げたわけなのである。」(『私の履歴書』)


写真左側のやや先のところが左京区浄土寺石橋町19番地、昭和34年に現在の左京区銀閣寺前町3−2に住居表示が変更されています。



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転向
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 8月 宇和島運輸の招きで四国に滞在、伊予路を歩く
このころから南林間にあった親戚の別墅を借りる
昭和6年 1931 満州事変 46 5月 高知に滞在、伊野部恒吉と知りあう
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
48 8月 高知に入り、猪野々に三箇月滞在
このころ徳子と別居、後に至って離婚
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 49 4月 猪野々に滞在
昭和10年  1935 第1回芥川賞、直木賞 50 3月 高知より上京
10月 猪野々の渓鬼荘に滞在
昭和11年 1935   51 10月 土讃線全通
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
52 10月 孝子と結婚、高知市鏡川畔築屋敷に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダンタイムス」封切
53 10月 京都市左京区北白川東蔦町21番地に転居
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
59 10月 左京区岡崎円勝寺町39番地に転居
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
60 2月 京都より富山県八尾町に疎開
10月 京都府綴喜郡八幡町月夜田 宝青庵に転居
         
昭和23年 1948 太宰治自殺 63 8月 京都市上京区油小路元誓願寺町482番地に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 66 8月 左京区浄土寺石橋町19番地に転居
         
昭和35年 1960 新安保条約が成立
第1次池田内閣成立
75 11月 京都大学病院で死去