●吉井勇の高知を歩く (下)
    初版2016年3月26日 <V01L02> 暫定版

 「吉井勇を歩く」を継続して掲載します。前回に引き続いて「吉井勇の高知を歩く (下)」です。吉井勇は昭和12年10月 孝子と結婚、猪野々から高知市築屋敷に転居しています。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房(前回と同じ)>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇の土佐について書いた「結盧の記」の書き出しです。
「渓 鬼 荘 記

  結 盧 の 記

   機  縁

 機縁といふものは不思議なものである。私か今度隠棲の地にしようと思ってゐる、海南土佐の国韮生の山峡、物部川の渓谷に臨んだ猪野々の里は、高知あたりに住んでゐる人達でも、殆んどその名を知ってゐるものさへなかった位のところだったのに、去年の夏ももう終りに近い頃、私は偶然そこに佗びしい鄙びた鉱泉宿があると云ふことを聴いて、半年に近い漂泊に疲れた体を休めるために、十里あまりの山路を乗合自動車に揺られながらわざわざ出懸けて往ったのであった。
 談議所、神母木、美良布を過ぎて、根須あたりに来ると、車はだんだん高い断崖の上を駛るやうになり、窓から川の方を瞰下すと、あなや今にも墜ちるかと思はれて目眩めくばかり、それでも高知からおよそ一時間半ばかりを費して、やっと無事に猪野々の丁度対岸にあたってゐる小部落の永瀬といふところに着いた。…」

 吉井勇が高知について書いた随筆はかなり多くて、吉井勇全集では第七巻に纏められているのですが、その最初に書かれているのが「結盧の記」です。高知に関する事柄は、他の地域とは違って、かなり詳細に書かれていますので大変参考になります。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「短歌風土記土佐」
<「短歌風土記 土佐」 吉井勇、高知県立文学館(前回と同じ)>
 吉井勇の高知に関して書かれた詩歌や随筆を一冊に纏めた本が、高知県立文学館から出版されています。吉井勇の高知に関して調べるにはこの本一冊あれば全て分ります。その他の本では、「高知県文学散歩」、「心に咲いた花」等に吉井勇の高知について詳細に書かれています。順次紹介したいとおもいます。

 吉井勇の「短歌風土記」の”あとがきに代えて”からです。
「吉 井  勇  雑 記
    −あとがきに代えて−
 あれは昭和三十三年、吉井先生が川柳家の近江砂人さん御夫婦と御一緒に高知へ来られた時のことであった。この時は、前年末に建てた桂浜、龍河洞の歌碑を見て、猪野々を訪れたのであるが、御案内する車の中で、いろいろ歌集の話などしているうち、 「先生の歌集の中に、短歌風土記−大和の巻−山城の巻がありますが、それよりももっと因縁の深い土佐の巻を欲しいですね。」
 「しかし土佐の歌はどれ位あるだろう。」
 「さあ、五−六〇〇首、もっとあるでしょうか。」
 「そんなにあるかね。それなら是非やりたいね。君、是非やってくださいよ。」
 というようなことがあった。…

 昭和五年歌集『鸚鵡杯』を出したのち、社会的あるいは家庭的な瑣事を遁れるように、旅に過ごす日が多くなった勇は、この年八月はじめて四国に渡り、主として愛媛県下を行脚し、翌六年五月、永瀬潔にすすめられ、はじめて土佐に遊び、銘酒滝嵐の伊野部恒吉等と相識った。
 昭和八年ふたたび土佐に入り、韭生の山峡猪野々に三箇月滞在した。
   つるぎたち土佐にきたりぬふるさとをはじめてここに見たるここちに  −『人間経』−の作そのままに、土佐の山河・風光・人情をこよなく愛したためである。
 昭和九年四月土佐を訪れ、翌十年十月猪野々に渓鬼荘を営み、ここを根城に、四国・中国・九州・瀬戸内海等の旅をつづけた。
 昭和十二年高知市鏡川畔築屋敷に居を移し、約一年ののち京都白川へ去り、戦火烈しくなった頃から戦後暫くまでの間、富山県八尾に戦火を避け、戦後暫く京都府下八幡町に住んだ、昭和二十三年頃には京都に帰り、遂にここが終焉の地となったのである。…」


写真は「短歌風土記 土佐」です。吉井勇の高知に関して書かれた詩歌や随筆を一冊に纏めた本で、高知県立文学館から出版されています。お値段も安くて良い本です。

「短歌研究」
<「短歌研究 2010/7〜2014/11」 吉井勇の旅鞄、細川光洋(前回と同じ)>
 吉井勇の伝記的なものとしては、一番新しく書かれたものです。ただ残念なのは、吉井勇の昭和初期についてのみ書かれていること、「短歌研究」という雑誌に2010年7月号から2014年11月号まで43回にわたって連載されたということです。全部コピーするのは大変でした。早く本にしていただければとおもっています。

 細川光洋氏の「短歌研究 2010/7」 ”吉井勇の旅鞄”の書き出しです。
「吉井勇の旅鞄 1 細川光洋

昭 和 初 年 の 歌 行 脚 ノ ー ト

 さまざまの旅の思ひ出あるゆゑかそぞろいとしき旅鞄かも  『形影抄』
 旅鞄取り出し塵を彿ひたりいづこに往かむあてはなけれど
 旅鞄ひとつたづさへさすらひしはてのわび居と知る人は知る

 吉井勇の最後の歌集となっだ『形影抄』(昭31・9)には、「旅鞄」と題する五首の連作がある。還暦を過ぎ、京都油小路に閑居したころの作だが、旅鞄への深い愛着と旅に明け暮れた日々への感懐が詠われている。『形影抄』という歌集の名は、自身と影法師とが互いに慰め合うような孤独を意味する「形影相弔う」に拠るのだろう。「漂泊の人」(野田宇太郎)、吉井勇にとって、流離遍歴の旅をともにした古びた鞄は、長年連れ添った伴侶のように、あるいは自らの影法師のように「そぞろいとしき」ものであった。旅鞄は旅先で時に「机代わり」ともなり、勇はしばしばその上で手紙や新聞社に送る草稿を書いたという。壮年期の歌や紀行のいくつかは、この鞄の上から生まれたのだ。…」

 詳細に調べられていて、知識の無い私にとっては大変役に立ちました。

【細川 光洋(ほそかわ みつひろ、1967年4月 - )】
 日本の国文学者(日本近代文学・国語科教育法)。学位は修士(教育学)(早稲田大学・1994年)。静岡県立大学国際関係学部教授・大学院国際関係学研究科教授。高知工業高等専門学校総合科学科准教授などを歴任した。専門は国文学であり、特に日本近代文学や国語科教育法といった分野の研究に従事していた[5]。日本の近代文学に関しては、特に吉井勇、谷崎潤一郎、寺田寅彦の3名の作品を俎上に載せることが多い。(ウイキペディア参照)

写真は短歌研究社発行の「短歌研究 67巻 2010年7月号」です。細川光洋氏の「吉井勇の旅鞄」、”新連載1”が掲載されています。短歌については全く知識が無いのですが、「短歌研究」は戦前からある雑誌です。国会図書館で検索すると大正6年から出てきますので、相当昔からある雑誌です。

「心に咲いた花」
<「心に咲いた花」 大澤重人>
 吉井勇が昭和12年10月から住んだ高知市築屋敷については、大澤重人氏の「心に咲いた花」の中に詳しく書かれていました。実際は当時、高知高専の准教授だった細川光洋氏と一緒に廻ったときのことを書かれたものです。

 細川光洋氏の「短歌研究 2010/7」 ”吉井勇の旅鞄”の書き出しです。
「 吉井は一九三七(昭和一二)年一〇月から一年だけ高知市に住みました。「築屋敷」という地区にある借家です。江戸中期に町民が石垣を築いて屋敷地にしたため、そう呼ばれました。現在の上町一〜五丁目の鏡川沿いに当たります。一帯は空襲に遭いました。戦後、区画整理され、吉井の旧居跡は特定できていません。
 手掛かりを求めて、高知高専の細川光洋准教授(42)が○九年三月、高知市北高見町の妻鳥季男さん碵と現地を訪れました。妻鳥さんは晩年の吉井に付近を案内してもらったことがあるのです。妻鳥さんの記憶を元に、おおよその位置はわかりました。月の瀬橋西側です。妻鳥さんがふと漏らします。「柘榴が咲いていたはずだよ」。ちょうど近くの民家に柘榴の木があり、赤い花が咲いています。
 「吉井時代からの柘榴でないか」。細川さんは日を改めて柘榴の家を訪れました。住人に尋ねたところ、二九六七年に新築して移り住んだ際、日曜市でたまたま買って来たものです」。期待は外れましたが、細川さんはくしくもほぼ同じ場所に柘榴の木が育ったことに感銘を受けました。…」

 詳細については下記の項を参照してください。ここでは本の紹介のみです。

写真は毎日新聞高知版「支局長からの手紙」をまとめて本として出版されたものです。この中に”土はわすれない”として吉井勇の高知市築屋敷での住まいについて書かれています。



「高知駅」
<高知駅>
 土讃線は高知側と高松側で別々に建設され、高知側は高知線として大正14年12月に須崎−土佐山田駅間が開通しています。又、高松側は昭和4年に阿波池田駅まで開業しており、土讃線の全通は昭和11年10月まで待たなければなりません。吉井勇が初めて土佐(高知)を訪ねた昭和6年9月〜10月は土佐までは汽車では行けず、船便だったとおもわれます(未開通部分はバスでの連絡があったようです)。猪野々の渓鬼荘に滞在していた途中jから汽車で行けるようになっています。

<大阪商船 大阪高知線(昭和6年の時刻表)>
 大阪発:午前4時
 神戸発:午前8時20分
 高知着:午前8時20分(翌日)

<汽車での神戸−高知間(昭和15年の時刻表)>
 神戸発:午前8時48分(山陽本線、急行)
 岡山着:午前11時12分
 岡山発:午前11時20分(宇野線)
 宇野着:午後:12時14分
 宇高連絡船:午後12時28分
 高松着:13時28分
 松発:13時43分(土讃線、急行)
 高知着:17時45分
 ※船:24時間、汽車:9時間となります(船は横になれます)。

写真は現在の土讃線高知駅です。平成20年(2008)年に高架化して三代目駅舎として20開業しています。初代高知駅は大正13年開業、二代目駅舎(ウイキペディア参照)は昭和46年に開業しており、戦災では焼けなかったようです。



高知市中心部地図



「伊野部恒吉宅跡」
<伊野部恒吉>
 吉井勇は初めて土佐を訪れた昭和6年に土佐で酒造業を営んでいた伊野部恒吉と親しくなっています。伊野部恒吉の上京の折りや、佐渡へ同道したりしており、相当親しくなっていたとおもわれます。

 吉井勇の「酒麻呂」からです。
「酒  麻  呂  (一)
    あしびきの山こもり居のわがためにうま酒もて来伊野部酒麻呂

 昭和六年五月、始めて土佐に遊んだのが機縁となって、遂に韮生の山峡に小さな草庵を作って住むやうになったのは、ひとつにはこの地の風光に心惹かれたためもあるが、それよりも更に大きな原因は、わが任侠の友として伊野部恒吉君を得たことにあるといっていい。
 伊野部君は「滝嵐」といふ銘の酒を醸造してゐる、早稲田大学出身の少壮実業家であって、私は最初土佐に遊んだ時に、はじめて知己になったのであるが、その後ともに佐渡越後の方面に旅行をしたり、土佐再遊を試みたりしてゐるうちには、肉親以上の友情を感ずるやうになってしまって、韮生の山峡に作った草庵も、同君の酒蔵の裏手にあった家を取
り壊すといふので、その古材木を貰ひ受けて建てたものであった。…」

 吉井勇は伯爵の息子であり、その詩歌では有名で、伊野部恒吉としても、親しくして損はないとおもったのだとおもいます。

<「伊野部恒吉を語る」から>
 生ひ立ちと家庭
 明治二十九年七月一日高知市通町百四十二番地に父伊野郎吉次郎毋丑の一粒種として生れた。
 父吉次郎は昭和二年六月二十三日六十三歳で死亡したので家粁を相続した。毋丑は明治元年の生れだかなかなか達者である。
 大正七年十一月十八日清志夫人と結婚した。夫人は高知縣香美郡三島村(日章村となる)物部西川唯喜の妹である。
 學   事
 明治三十六年八歳の春高知市第四尋常小學校へ入學してから、高知縣立第一中學校(城東中學校となる)早稻田大學専門部政治経済科と進み大正六年二十二歳の春卒業した。
 成績優秀であったが身體も非常に丈夫で中學卒業の時五ヶ年間精勤賞を貰った。
 家   業
 銘酒瀧嵐の醸造は祖父興之次が明治十六年に創めたもので父吉次郎を通じ繼承経営した。     ’
 早稻田大學卒業の歳、丸亀税務監督局での四國酒造業者子弟講習會を受講、大正八年には、大蔵省所管の日本醸造試験所の酒造講習會で六ヶ月を費すなど、研鑚大に勉めた。
 大正十一年十月同志酒造家連と計り高知醸友會を組織し、はじめ其の幹事とし、昭和三年幹事長、昭和十三年には會長となって、酒界の向上發展に大に寄與した。結果酒の國高知の名を舉ぐると共に銘酒瀧嵐の名を日本的ならしめた。
 發病から死まで
 昭和十六年七月胃部の疾息を覺へ高知病院で診察を受け更に京都大學病院へ行ったが悪性の腫物で全治覺束なしとの事であった。八月十三日に京都の河村病院で磯部博士の手術を受けて二十一日退院し、九月一日に高知に歸つてから自宅で療饗して居たが邃に立たず、昭和十六年十一月十七日午前○時七分に亡くなって仕舞った。

写真は現在の伊野部家宅です(「いのべ酒店」と書かれています)。写真の先を左に曲がった先の右側には高知整形・脳外科病院が有り、医院長が伊野部さんですので、この辺り一帯が伊野部家だったことがわかります。当時の写真が「伊野部恒吉を語る」に掲載されていました。

「上町3-16付近」
<高知市築屋敷三ー三七>
 昭和12年10月、吉井勇は東京から国松喜三郎の長女孝子を迎え、結婚生活に入ります(結婚については別途掲載予定)。住まいも猪野々から便利の良い高知市内に移ります。

 吉井勇の「土佐閑居」からです。
「土 佐 閑 居
   夜は深し風もあらぬにおのづから柿の落つる音を聴きてもの思ふ

 私か土佐の韮生の山峡にあった溪鬼荘を棄てて、高知の町はづれにある築屋敷に居を移しだのは、昭和十二年の十月のことだった。そこは鏡川の川岸の堤防にあたるところだったから、直ぐ前の桑畑を隔てて、清冽な水の流れてゐる河の面を見ることが出来た。筆山や鷲尾山もその向ふに、何処か京洛の山々を思はせるやうな円味のある山容を列ねてゐた。家は古びて建附の悪い、絶えず隙間風が吹き入って来るやうな陋屋だったけれども、ここらは由緒ある武家屋敷の跡だったと言はれてゐるだけに、何処か落着いたところがあって、柘榴、柿、梅、芙蓉、杉、南天、蘇鉄など、庭樹の数も少くなかった。
 私はこの築屋敷の家で、丁度一年の間暮らしたのだが、わびしいけれども静かに落着いたその間の生活は、それまでの私のあわただしかった、人生流離の旅の塵を払ひ落すのに、どの位役立つたか知れなかった。…」

 吉井勇の高知市内の住まいについては、書簡の中に記載があります。高知文学館で開催された「吉井勇没後五○年展」の図録の中に書簡が掲載されており、昭和11年10月5日の書簡に築屋敷三ー三七とあります。これだけでは場所の特定が出来ないので、高知駅の北側にある法務局で調べて見ました。
 築屋敷三ー三七は正式には三丁北側三七で、その後、区画整理等で3回地番(住居表示)が変っています。
・三丁北側37(元吉久寿彦氏所有) →43(昭和11年) → 上町3−357(昭和44年) → 現在 上町3-16−1付近

写真の左側は鏡川で、左側に真っ直ぐ写っているのが現在の堤防です。右側に坂を登っていく道がありますが、坂の上が旧堤防になります(当時はこの坂道は無かった)。旧堤防上の写真を掲載しておきます。”築屋敷三ー三七”は写真の正面付近、現在の高知文化服装専門学校の北側附近にあったとおもわれます。現在の住居表示では分り難いので、昭和44年の地番では、高知文化服装専門学校は上町3−357、道を挟んで右側は354で二つ地番が飛んでいます。道のところが355、356であったとおもわれます。昭和10年の地図を掲載しておきます。



高知県香美市香北町猪野々附近地図



「高知市浦戸町87」
<友の家旅館>
 吉井勇が高知市内で宿泊していた旅館が二軒程あります。「吉井勇没後五○年展」の図録の中の書簡には、「友の家旅館」、「旅館 延命軒」の名がありました。又、個人の名前としては”高知市小高坂北町 永瀬潔方”、”高知市永国寺町藪淵 西岡方”が書簡に記載されています。

<昭和16年の全国旅館名簿>
・延命軒旅館 本町90
・友の家旅館 浦戸町87

 又、昭和10年の最新大高知詳細地図にも記載がありました。

 個人宅については戦後の住宅地図で少し調べてみましたが詳細は不明です。

写真正面の角のところが高知市 浦戸町87(現在の南はりまや町1丁目8−1)となります。友の家旅館があったところです。戦後は名前が見つかりませんので、空襲で焼けて再建できなかったようです。延命軒旅館は現在の本町1丁目3−21の内田文昌堂ビル附近にあったとおもわれます。



昭和10年 最新大高知詳細地図



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転向
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 8月 宇和島運輸の招きで四国に滞在、伊予路を歩く
このころから南林間にあった親戚の別墅を借りる
昭和6年 1931 満州事変 46 5月 高知に滞在、伊野部恒吉と知りあう
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
48 8月 高知に入り、猪野々に三箇月滞在
このころ徳子と別居、後に至って離婚
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 49 4月 猪野々に滞在
昭和10年  1935 第1回芥川賞、直木賞 50 3月 高知より上京
10月 猪野々の渓鬼荘に滞在
昭和11年 1935   51 10月 土讃線全通
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
52 10月 孝子と結婚、高知市鏡川畔築屋敷に転居