●吉井勇の高知を歩く (上)
  初版2016年2月27日
  二版2016年3月26日 <V01L01> 修正・追加 暫定版

 「吉井勇を歩く」を継続して掲載します。今回は「吉井勇の高知を歩く (上)」です。取材が終ったところなので、忘れないうちに掲載します。時間が経つと”何だったっけ”となるので、できるだけ早期に掲載したほうが新鮮だとおもいます。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇の土佐について書いた「結盧の記」の書き出しです。
「渓 鬼 荘 記

  結 盧 の 記

   機  縁

 機縁といふものは不思議なものである。私か今度隠棲の地にしようと思ってゐる、海南土佐の国韮生の山峡、物部川の渓谷に臨んだ猪野々の里は、高知あたりに住んでゐる人達でも、殆んどその名を知ってゐるものさへなかった位のところだったのに、去年の夏ももう終りに近い頃、私は偶然そこに佗びしい鄙びた鉱泉宿があると云ふことを聴いて、半年に近い漂泊に疲れた体を休めるために、十里あまりの山路を乗合自動車に揺られながらわざわざ出懸けて往ったのであった。
 談議所、神母木、美良布を過ぎて、根須あたりに来ると、車はだんだん高い断崖の上を駛るやうになり、窓から川の方を瞰下すと、あなや今にも墜ちるかと思はれて目眩めくばかり、それでも高知からおよそ一時間半ばかりを費して、やっと無事に猪野々の丁度対岸にあたってゐる小部落の永瀬といふところに着いた。…」

 吉井勇が高知について書いた随筆はかなり多くて、吉井勇全集では第七巻に纏められているのですが、その最初に書かれているのが「結盧の記」です。高知に関する事柄は、他の地域とは違って、かなり詳細に書かれていますので大変参考になります。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「短歌風土記土佐」
<「短歌風土記 土佐」 吉井勇、高知県立文学館>
 吉井勇の高知に関して書かれた詩歌や随筆を一冊に纏めた本が、高知県立文学館から出版されています。吉井勇の高知に関して調べるにはこの本一冊あれば全て分ります。その他の本では、「高知県文学散歩」、「心に咲いた花」等に吉井勇の高知について詳細に書かれています。順次紹介したいとおもいます。

 吉井勇の「短歌風土記」の”あとがきに代えて”からです。
「吉 井  勇  雑 記
    −あとがきに代えて−
 あれは昭和三十三年、吉井先生が川柳家の近江砂人さん御夫婦と御一緒に高知へ来られた時のことであった。この時は、前年末に建てた桂浜、龍河洞の歌碑を見て、猪野々を訪れたのであるが、御案内する車の中で、いろいろ歌集の話などしているうち、 「先生の歌集の中に、短歌風土記−大和の巻−山城の巻がありますが、それよりももっと因縁の深い土佐の巻を欲しいですね。」
 「しかし土佐の歌はどれ位あるだろう。」
 「さあ、五−六〇〇首、もっとあるでしょうか。」
 「そんなにあるかね。それなら是非やりたいね。君、是非やってくださいよ。」
 というようなことがあった。…

 昭和五年歌集『鸚鵡杯』を出したのち、社会的あるいは家庭的な瑣事を遁れるように、旅に過ごす日が多くなった勇は、この年八月はじめて四国に渡り、主として愛媛県下を行脚し、翌六年五月、永瀬潔にすすめられ、はじめて土佐に遊び、銘酒滝嵐の伊野部恒吉等と相識った。
 昭和八年ふたたび土佐に入り、韭生の山峡猪野々に三箇月滞在した。
   つるぎたち土佐にきたりぬふるさとをはじめてここに見たるここちに  −『人間経』−の作そのままに、土佐の山河・風光・人情をこよなく愛したためである。
 昭和九年四月土佐を訪れ、翌十年十月猪野々に渓鬼荘を営み、ここを根城に、四国・中国・九州・瀬戸内海等の旅をつづけた。
 昭和十二年高知市鏡川畔築屋敷に居を移し、約一年ののち京都白川へ去り、戦火烈しくなった頃から戦後暫くまでの間、富山県八尾に戦火を避け、戦後暫く京都府下八幡町に住んだ、昭和二十三年頃には京都に帰り、遂にここが終焉の地となったのである。…」


写真は「短歌風土記 土佐」です。吉井勇の高知に関して書かれた詩歌や随筆を一冊に纏めた本で、高知県立文学館から出版されています。お値段も安くて良い本です。

「短歌研究」
<「短歌研究 2010/7〜2014/11」 吉井勇の旅鞄、細川光洋>
 吉井勇の伝記的なものとしては、一番新しく書かれたものです。ただ残念なのは、吉井勇の昭和初期についてのみ書かれていること、「短歌研究」という雑誌に2010年7月号から2014年11月号まで43回にわたって連載されたということです。全部コピーするのは大変でした。早く本にしていただければとおもっています。

 細川光洋氏の「短歌研究 2010/7」 ”吉井勇の旅鞄”の書き出しです。
「吉井勇の旅鞄 1 細川光洋

昭 和 初 年 の 歌 行 脚 ノ ー ト

 さまざまの旅の思ひ出あるゆゑかそぞろいとしき旅鞄かも  『形影抄』
 旅鞄取り出し塵を彿ひたりいづこに往かむあてはなけれど
 旅鞄ひとつたづさへさすらひしはてのわび居と知る人は知る

 吉井勇の最後の歌集となっだ『形影抄』(昭31・9)には、「旅鞄」と題する五首の連作がある。還暦を過ぎ、京都油小路に閑居したころの作だが、旅鞄への深い愛着と旅に明け暮れた日々への感懐が詠われている。『形影抄』という歌集の名は、自身と影法師とが互いに慰め合うような孤独を意味する「形影相弔う」に拠るのだろう。「漂泊の人」(野田宇太郎)、吉井勇にとって、流離遍歴の旅をともにした古びた鞄は、長年連れ添った伴侶のように、あるいは自らの影法師のように「そぞろいとしき」ものであった。旅鞄は旅先で時に「机代わり」ともなり、勇はしばしばその上で手紙や新聞社に送る草稿を書いたという。壮年期の歌や紀行のいくつかは、この鞄の上から生まれたのだ。…」

 詳細に調べられていて、知識の無い私にとっては大変役に立ちました。

【細川 光洋(ほそかわ みつひろ、1967年4月 - )】
 日本の国文学者(日本近代文学・国語科教育法)。学位は修士(教育学)(早稲田大学・1994年)。静岡県立大学国際関係学部教授・大学院国際関係学研究科教授。高知工業高等専門学校総合科学科准教授などを歴任した。専門は国文学であり、特に日本近代文学や国語科教育法といった分野の研究に従事していた。日本の近代文学に関しては、特に吉井勇、谷崎潤一郎、寺田寅彦の3名の作品を俎上に載せることが多い。(ウイキペディア参照)

 吉井勇の最新年譜としては、平成28年1月に出版された中公文庫の「吉井勇全歌集」のなかに細川光洋氏の略年譜が掲載されており、これが最新の年譜となります(全集の年譜とは一部異なるところがあります)。

写真は短歌研究社発行の「短歌研究 67巻 2010年7月号」です。細川光洋氏の「吉井勇の旅鞄」、”新連載1”が掲載されています。短歌については全く知識が無いのですが、「短歌研究」は戦前からある雑誌です。国会図書館で検索すると大正6年から出てきますので、相当昔からある雑誌です。



「土佐山田駅」
<土佐山田駅>
 吉井勇の土佐(高知)については蟄居していた”猪野々”が一番有名です。最初、”猪野々”が”いのの”と読めず苦労しました。現在の住所で、高知県香美市香北町猪野々(かほくちょういのの)です。まず吉井勇の「猪野々行」に沿って猪野々を訪ねたいとおもいます。現在のルートと同じだからです。

 吉井勇の「猪野々行」からです。
「猪 野 々 行

   山に往かばまたもの思ふことあらむ往かな炉酒も待ちてあるべし

 山田を十時に出た省営自動車は、町を出はづれてから七八町往くと、談議所といふところから右折して橋を渡り、それからはずっと物部川の南岸に沿ふて駛ってゆく。橋を渡って直ぐの神母の木は、弥生式の土器があるので有名な龍河洞へ行く道にあたり、街らしい家並がつづいてゐるが、それから先は杉林や竹藪ばかりの山道で、駛ってゆくに従って、
川岸の断崖はだんだん高く、窓から見る渓流はだんだん遥かに下の方になって往った。
 考へて見ると私か始めて韭生の山峡を訪れたのは、昭和八年七月のことだったから、それからもう早くも数年の歳月が流れてゐるわけである。この間私の身辺に起ったいろいろの変化や、世の中の激しい推移などを考へると、今ではすべてを諦めて、過ぎ去ったことはなるべく思ひ出すまいとしてゐる私であるけれども、やっぱりさまざまの感慨が、この山峡の風物を見ることによって呼び起される。…」

 土讃線の高松−高知間が全通したのは昭和10年11月で、吉井勇が初めて土佐(高知)を訪ねたのは年譜によると昭和6年9月〜10月、細川光洋氏の「吉井勇の旅鞄」でも同じ時期なので、土佐までは汽車では行けず、船便だったとおもわれます。
 昭和6年6月の時刻表によると、
<大阪商船 大阪高知線>
 大阪発:午前4時
 神戸発:午前8時20分
 高知着:午前8時20分(翌日)
 大阪発は早すぎますので、普通は神戸から乗船したようです。神戸からは丸一日掛かります。

写真は現在の土讃線土佐山田駅です。大正14年12月には高知側の須崎−土佐山田駅間が開通していますので、吉井勇が初めて高知を訪ねた昭和6年には土佐山田駅はありました。現在、猪野々に行くためには、この土佐山田駅から大栃行(おおとち)のバスにのります。駅前にはアンパンマンミュージアム行と書いたバスが止まっていました。猪野々に行く途中にアンパンマンミュージアム(高知県香美市香北町美良布)があるようです。上記の記述に従って行くと、”談議所といふところから右折して橋を渡り”、と書いていますが、現在は道なりです。橋までは3.1km、”橋を渡って直ぐの神母の木”は橋を渡って直ぐにある細い道を右に曲り、180m先の右側にあります。
 昭和初期、猪野々へのバスは、当初は香美郡山田町にあった香陽自動車が高知市のはりまや橋より運行していましたが、省営自動車が土佐山田駅から大栃まで開業するに伴い廃止したようです。省営自動車とは戦前の鉄道省が運営していたバス事業のことをいい、その後は国鉄バス、JRバスとなります。



高知県 土佐山田駅付近地図



「新神賀橋」
<神賀橋>
 上記に引き続き、吉井勇の「猪野々行」に沿って猪野々を訪ねたいとおもいます。まず、土佐山田駅から国道195号線を北東に大栃方面に向います。現在のバス停で、蕨野(わらびの)で降り(土佐山田駅からは19km)、後は徒歩ですが、猪野々の入口の新神賀橋までは2.2Kmもあります。当時は国道195号線はなく、県道220号線沿に神賀橋まで行きます。ほとんど車でないとたどり着くのは不可能です。特に国道195号線から県道220号線に分かれるのですが、分かれた後の県道220号線は車一台が通れるくらいの道で、大変です(すれ違う車はほとんどありません)。ただ、吉井勇記念館の立札があちこちにあり、道に迷うことはありません。

 吉井勇の「猪野々行」からです。
「…  猪野々口で自動車を降りてから、うっかりしてゐると、足が滑りさうになるやうな急な坂道を一町半ほど下り、それから神賀橋といふ大きな吊橋を渡るのだが、渡り切った橋の袂のところには、まだ橋の架からなかった時分からある「見渡し地蔵」といふ石地蔵が、色の褪せた赤い涎掛けを懸けた姿で、先づ私を迎へて呉れた。
 それにもうひとつ愉しかったのは、橋を渡ったところにある一軒家で、そこには七十あまりのお婆さんと美しい孫娘とが住んでゐたが、以前はここにあった渡船の番などをしてゐたところから、ひとりでに私も懇意になって、ここを通る度毎に、声位は懸けてゐたのだった。それでその日も如何してゐるかと思って覗いて見ると、俯向いて針仕事をしてゐる娘の姿が見えて、丁度そこへ婆さんも山から戻って来た。話してゐると猪野々で暮してゐた二三年間のことが懐しく思ひ出された。
 そこからはまた向ふ岸よりも、更に峻しい石高路で、暫く往くと小高いところにもう一軒、竹細工を生業とする家があった。ここにも二十ばかりの娘を頭に、三人ほどの娘があって、よく山羊を引っぱって歩いてゐるのを見懸けたが、今日は人の住んでゐるやうな気配もなく、この前来た時には、息子が水兵に出てゐると見えて、錨の附いた旗が藁葺屋根の上に翻ってゐたのに、今日はそれすら見えなかった。
 更にまた坂を登って往くと、小さな瀑の落ちてゐるところがあって、丁度それを見るのにいいやうな位置の樹蔭に、以前よく腰掛けたことのある石があった。今日もそこに腰を下ろして、汗など拭いて休んでゐると、耳に入って来るものは、媚びるやうな山羊の声や水車小屋からひびいて来る単調極まる杵の音や、すべて以前聴き覚えのある懐しいもの音
ばかりである。
 この坂を登りきったところが猪野々部落で、そのはづれの断崖の上に、私かはじめてこの山峡を訪れた時に泊った鉱泉宿があり、そこから一段低くなった崖っぶちに、住み棄てたままになってゐる私の草庵溪鬼荘がある。…」

 上記に書かれている”足が滑りさうになるやうな急な坂道を一町半ほど下り、それから神賀橋といふ大きな吊橋を渡る”は現在の神賀橋ではありません。当時の神賀橋は現在の新神賀橋の真下辺りの川面に近いところにありました。神賀橋ができる前は船で渡っており、渡場も同じ附近にあったそうです。

写真は現在の新神賀橋です。県道220号線沿にあり、そのまま車で猪野々に行くことができます。ここからは吉井勇記念館まで700m、数分です。”足が滑るような旧坂”は、写真の左側少し先にあります。橋を渡った猪野々側にも川に降りる道があるのですが通行不可になっていました。

「渓鬼荘(けいきそう)」
<香美市立吉井勇記念館>
 やっと吉井勇記念館にたどり着きました。高知市内からは、途中写真を撮りながらきたので、一時間半ほど掛かってしまいました。吉井勇記念館は回りの風景には似つかわしくない、鉄筋コンクリートの綺麗な建物でした。裏の方に渓鬼荘(けいきそう)が移設されていりました。

 吉井勇の「酒麻呂 (一)」からです。
「酒  麻  呂  (一)

   あしびきの山こもり居のわがためにうま酒もて来伊野部酒麻呂

 昭和六年五月、始めて土佐に遊んだのが機縁となって、遂に韮生の山峡に小さな草庵を作って住むやうになったのは、ひとつにはこの地の風光に心惹かれたためもあるが、それよりも更に大きな原因は、わが任侠の友として伊野部恒吉君を得たことにあるといっていい。
 伊野部君は「滝嵐」といふ銘の酒を醸造してゐる、早稲田大学出身の少壮実業家であって、私は最初土佐に遊んだ時に、はじめて知己になったのであるが、その後ともに佐渡越後の方面に旅行をしたり、土佐再遊を試みたりしてゐるうちには、肉親以上の友情を感ずるやうになってしまって、韮生の山峡に作った草庵も、同君の酒蔵の裏手にあった家を取
り壊すといふので、その古材木を貰ひ受けて建てたものであった。…」

 吉井勇の「渓鬼荘」の成立ちについては、細川光洋氏の「吉井勇の旅鞄」に詳しく書かれていました。昭和6年の土佐訪問時に親しくなった伊野部恒吉(酒造)の酒蔵の裏手にあった隠居所の材木をもらい受けて建てたのが渓鬼荘となったそうです(昭和9年末、「吉井勇全歌集」掲載の細川光洋氏略年譜による)。

吉井勇の「爐端」からです。
「爐   端

  われはもよ盲ひならねど炉のうへの自在の竹に手触り飽かなく

 私の草廬溪鬼荘は、思ったよりも荒れ果ててゐず、壁の落ちたところが二三個所あるだけで、屋根も誰か繕ってくれたものと見えて、ところどころ新しい藁葺の痕が目立ってゐた。雨戸を開けると久しく閉め切ってあったので、黴臭い匂ひが漂ってゐたが、それも渓谷の方から吹き上げて来る河風のために、直ぐにさっぱり吹き払はれてしまった。
 まだセルでも坂路を登って来ると汗ばむ位暑く、火が恋しい時分ではなかったけれども、それでも私はここに来ると、何より懐しいのは六畳の間の真ん中のところに、半畳敷ほどの大きさに切った囲炉裏である。見ると釜は何処かにしまひ込まれたと見えて、煤けた自在の竹が下がってゐるばかり、炉の灰も冷たくかたまってゐたけれども、それでも私はこ
の部屋に入ると、先づこの炉端に座らずにはゐられなかった。
 私はこの炉端で僅か二冬過しただけだったけれども、それでもここに座って見ると、ここで炉酒を酌み交したいろいろの人の面影が、まるで煤けた壁に貼り付けられた昔の錦絵でも見るやうに、おぼろげながらも目に浮んで来る。それもその後二三年の間に、みんなそれぞれ身の上に、さまざまの移り変りかおるだけに、私はこの炉端にも人生の波が、来
つてはまた去って往ったことをはっきりと感じて、無心にここに座ってゐることが出来なかったのである。…

私は1晩泊ってから高知へ帰らうと思ったけれども、私の飲み相手であった鉱泉宿の主人は、今丁度出征中で、後には
老人や女子供が残ってゐるだけなので、今夜はここに泊るのを止めて、久しぶりに大栃まで歩いて往き、そこから省営自動車に乗らうと思って、まだ暑いとは思ったけれども、午後三時頃に猪野々を発った。…」

 渓鬼荘は現在は吉井勇記念館の裏にありますが、元々は物部川に近い、猪野沢温泉の下にありました。歌碑と共に移設されたそうです。

写真は現在の渓鬼荘です。元々の伊野部恒吉の酒蔵の裏手にあった隠居所の四畳半と三畳しかなかったのを、四畳半と六畳に改造して建て直しています。高知から猪野々に木材を持ってくるのは大変だったとおもいます。中の写真を掲載しておきます。

「猪野沢温泉跡」
<猪野沢温泉>
 吉井勇が「香美屋」と名づけた猪野沢温泉旅館です。渓鬼荘はこの旅館の左側下にありました。お風呂はこの旅館に入りに来ていたのだとおもいます。残念ながら平成10年、猪野沢温泉旅館は焼失しています。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「山  峡  行

  旅のうれひいよいよ深くなるままに土佐の韭生の山峡に来ぬ

 この歌の解説には丁度いい「猪野々日記」があるから、その一節をここに引かう。
 『昭和八年八月二十六日。
 正午に高知播磨屋橋の香陽自動車待合所を発する大栃行の乗合に、永瀬潔君と二人にて乗る。永瀬君は前に往きたることありて案内のために同行して呉れるのなり。荷物は黒き鞄一個、風呂敷包一個、麻製の手提嚢一個、伊野部君の呉れたる所謂銘醸「滝嵐」の一升瓶二本、加ふるにウヰスキーのホワイトホース一本あり。如何なる山間僻地に行くとも当分は先づ大丈夫ならん。
 最初は他に乗客二人あるのみなりしも、山田に来りて満員となる。神母の木にて橋を渡りてより、車はずっと物部川の南岸にある崖の上の道を駛る。美良布などいふ万葉仮名の町を過ぎ、猶二里程登りたる永瀬といへるところにて下車す。暫く落着かんと思ふ猪野沢温泉は、この猪野々といふところにあり。渓谷に向ひて降りゆくこと二町許り、渡船あれ
ども船頭なく、乗るものが勝手に張りわたしたる綱を手繰りて、自ら向ふ岸へ渡るのなり。川を越え、更に急坂を三町ほど登りて、漸く午後二時頃猪野々なる猪野沢温泉に着く。…」

 昭和8年頃はまだ渓鬼荘は無く、猪野々ではこの旅館に宿泊していたようです。猪野沢温泉旅館の宿帳では昭和8年8月26日から9月25日まで滞在していたようです。

写真正面のところが猪野沢温泉跡です。焼失後、ご家族の方が家を建てられてお住まいのようです。渓鬼荘は写真の左側にある入口から入ってその先の下の段にありました。この写真の手前側には、吉井勇の歌碑と木村久夫の碑がありましたが、吉井勇の歌碑は吉井勇記念館の入口に移設されており、木村久夫の碑のみが残っています。尚、猪野々にはたくさんの吉井勇歌碑があります。

 次回は高知市内を歩きます。



高知県香美市香北町猪野々附近地図



高知県香美市附近地図



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転向
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 8月 宇和島運輸の招きで四国に滞在、伊予路を歩く
このころから南林間にあった親戚の別墅を借りる
昭和6年 1931 満州事変 46 5月 高知に滞在、伊野部恒吉と知りあう
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
48 8月 高知に入り、猪野々に三箇月滞在
このころ徳子と別居、後に至って離婚
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 49 4月 猪野々に滞在
末 伊野部恒吉の隠居所を猪野々に移築(渓鬼荘)
昭和10年  1935 第1回芥川賞、直木賞 50 3月 高知より上京
10月 猪野々の渓鬼荘に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
52 10月 孝子と結婚、高知市鏡川畔築屋敷に転居