<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。
吉井勇の大正九年(1920)頃の年譜です。
「… 大正九年(一九二〇)三十五歳
一月、戯曲「小しんと焉馬」を『人間』に発表。別に歌物語「癡人伝」を『人間』に連載。
三月、守田勘弥等の文芸座によって「狂芸人」を帝国劇場で上演。
四月、汐見洋らの研究座によって「小しんと焉馬」を有楽座で上演。
八月、歌集『河原蓬』を春陽堂より出版。『人間』同人らとともに名古屋、大阪、下関、小倉方面に講演をする。
○「この『人間』という雑誌には、里見淳の『父親』、山本有三の『生命の冠』、私の『小しんと焉馬』などが載って、多少文壇からも注目されるようになったが、そういったことのほかに、もうひとつ小山内薫を真打格に、里見ク、久米正雄、田中純に私が加わって出掛けた講演旅行も、これまた近ごろ流行の文芸講演会の嚆矢をなすものと言っていいであろう。この講演旅行は、大阪、下関、門司、小倉、名古屋の各地で催したが、下関では一週間ほど文芸講座といったようなものを開いて、至極のんびりとした旅行だった。この時、一冊の帳面をつくり、それに、みんなでその日その日の出来事などを、勝手気ままに書きつけたが、それは実に機智縦横、警句に富んだ面白いもので、たしか、それから数年後、金星堂から出した久米正雄の随筆集に、そっくりそのまま収録されていたと思う。」(『私の履歴書』)
O「講演場、門司の普通文芸講演二日を終りで、下ノ関公会堂なる劇文学講演会に移る、愈々当講演旅行の本舞台な
り。公会堂は山の上にあり。畳敷にて百畳ほどある大広間に、聴衆は胡坐す。ドメスチックにて甚だ親しみあり。演題、田中純の『現代生活と劇場』、里見淳の『芸談いろいろ』、吉井勇の『南北と五瓶』、小山内薫の『国民劇の基礎』(詳論)、久米正雄の『沙翁劇に就ズ』。(『人間』九月号
「講演旅行記」八月七日の項)
○「耶馬渓羅漢寺登攀中、肥大詩人吉井勇行路に悩み、流汗背を徹して、安物のズボン吊り、上着に紅斑を印す。詩人いたくこれを悲しみて、『これ一着切り持って来なかったんだが、別府で直ぐ洗って貰へないかしら』と言ふ。無抵抗主義者久米正雄、平然として答へて曰く、『白蓮夫人に頼めば好いぢゃないですか。』(同じく八月十日の項)…」。
吉井勇の数少ない自伝のひとつ、「回顧録」と「わが回想録」は時期等の記載はありませんが、少し役に立ちます。
【吉井
勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)
★写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。