●吉井勇の鎌倉を歩く (藤沢、逗子編)
  初版2016年10月8日
 二版2016年10月16日  <V01L01> 「文章世界」を掲載、暫定版

 「吉井勇を歩く」の継続掲載です。今回は「吉井勇の鎌倉を歩く」の未掲載分、藤沢と逗子を歩きます。この二ヶ所についてはほとんど書かれた物がなく、文士録等を参考にしました。住んでいた時期、期間も不明確のままです。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇の大正九年(1920)頃の年譜です。
「… 大正九年(一九二〇)三十五歳
 一月、戯曲「小しんと焉馬」を『人間』に発表。別に歌物語「癡人伝」を『人間』に連載。
 三月、守田勘弥等の文芸座によって「狂芸人」を帝国劇場で上演。
四月、汐見洋らの研究座によって「小しんと焉馬」を有楽座で上演。
八月、歌集『河原蓬』を春陽堂より出版。『人間』同人らとともに名古屋、大阪、下関、小倉方面に講演をする。
○「この『人間』という雑誌には、里見淳の『父親』、山本有三の『生命の冠』、私の『小しんと焉馬』などが載って、多少文壇からも注目されるようになったが、そういったことのほかに、もうひとつ小山内薫を真打格に、里見ク、久米正雄、田中純に私が加わって出掛けた講演旅行も、これまた近ごろ流行の文芸講演会の嚆矢をなすものと言っていいであろう。この講演旅行は、大阪、下関、門司、小倉、名古屋の各地で催したが、下関では一週間ほど文芸講座といったようなものを開いて、至極のんびりとした旅行だった。この時、一冊の帳面をつくり、それに、みんなでその日その日の出来事などを、勝手気ままに書きつけたが、それは実に機智縦横、警句に富んだ面白いもので、たしか、それから数年後、金星堂から出した久米正雄の随筆集に、そっくりそのまま収録されていたと思う。」(『私の履歴書』)
O「講演場、門司の普通文芸講演二日を終りで、下ノ関公会堂なる劇文学講演会に移る、愈々当講演旅行の本舞台な
り。公会堂は山の上にあり。畳敷にて百畳ほどある大広間に、聴衆は胡坐す。ドメスチックにて甚だ親しみあり。演題、田中純の『現代生活と劇場』、里見淳の『芸談いろいろ』、吉井勇の『南北と五瓶』、小山内薫の『国民劇の基礎』(詳論)、久米正雄の『沙翁劇に就ズ』。(『人間』九月号
「講演旅行記」八月七日の項)
○「耶馬渓羅漢寺登攀中、肥大詩人吉井勇行路に悩み、流汗背を徹して、安物のズボン吊り、上着に紅斑を印す。詩人いたくこれを悲しみて、『これ一着切り持って来なかったんだが、別府で直ぐ洗って貰へないかしら』と言ふ。無抵抗主義者久米正雄、平然として答へて曰く、『白蓮夫人に頼めば好いぢゃないですか。』(同じく八月十日の項)…」

 吉井勇の数少ない自伝のひとつ、「回顧録」と「わが回想録」は時期等の記載はありませんが、少し役に立ちます。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「文章世界」
<「文章世界」 博文館>
 吉井勇の住まいに関する本は、明治42年から大正8年頃までは、「文章世界」の文士録、大正12年から昭和までは、「文藝年鑑」が有効です。ただ、書かれている住所が友人の住所だったりする可能性もあるので、確認作業が必要になります。

 「文章世界」 大正二年(1920)三月発行の紳士録です。
「古井 勇 伯爵吉井幸蔵の嗣子。明治十九年十月八日、東京市麹町區平河町に生る。早稲田大學政治経済科を中途で退學。歌集『酒ほがひ』戯曲集『午後三時』『夜』小品文集『水荘記』『戀愛小品』等の著がある。現住所、京橋区新佃島東一丁目 海水館…」
 佃島の海水館と言えば、一番思い出すのが島崎藤村です。明治40年頃に海水館(2001年頃の写真)に滞在しています。この海水館は大正後期(震災まで?)まであったようです。


写真は博文館発行の「文章世界」 です。第八巻四號、大正二年(1920)3月15日発行と奥付にあります。紳士録は年一回掲載されており、大正二年はこの號になります。



「相模國逗子櫻山二三七九」
<相模國逗子櫻山二三七九>
 ”相模國逗子櫻山二三七九”は文章世界 15巻1号(大正9年1月号)の文士録に記載された住所です。ですから大正8年に住んでいたことになります。この住所に関しては年譜、私の履歴書等にも一切記載がありません。本当に住んでいたのかも不明です。

 文章世界 15巻1号(大正9年1月号)より
「古井 勇 伯爵吉井幸蔵の嗣子。明治十九年十月、東京麹町に生まる。府立第一中學校、攻玉社等を経て、早稲田大學文科に入學、後、政治経済科に轉じて中途退學。歌集『酒ほがひ』『昨日まで』『戀人』『初戀』『片戀』『祇園歌集』『仇情』『黒髪集』『未練』『東京紅燈集』『吉井勇集』『舞姿』『祇園双紙』戯曲集『午後三時』『夜』『俳諧亭句樂』『髑髏尼』『狂藝人』小品文集『水荘記』『戀愛小品』『明眸行』『河霧』『麻葉集』等の著がある。『人間』編輯委員。国民文藝會理事。現住所、相模國逗子櫻山二三七九(上京中は四谷區内藤町一。(電番、七一二)。」
 当時、逗子には徳富蘇峰(とくとみ そほう)等が住んでおり、その関連で住んでいたのかもしれません。”四谷區内藤町一”は親の住まいです。

写真の正面付近が桜山2379番地附近です。逗子駅からは1.6Km、徒歩で20分程の距離です。手前には徳富蘇峰邸がありました。京浜急行の新逗子駅は昭和5年の開業ですから、当時はまだありませんでした。



逗子市附近地図(永井荷風の地図を流用)



「藤沢の片瀬西ノ原二一八〇番地」
<藤沢の片瀬西ノ原二一八〇番地>
 大正10年5月、吉井勇は同じ伯爵家同士の柳原徳子と結婚します。徳子の実家の柳原家は堂上華族、吉井家は新華族で、かなりの差がありました。堂上華族とは、簡単に言えば公家出身の華族、新華族とは明治維新で功績のあった武士等を華族にしたもので、かなりの差があったようです。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「 大正十年(一九二一)三十六歳
 二月、戯曲「生霊」を『人間』に発表。
 四月、戯曲集『生霊』を日本評論社より出版。中央新聞に長編小説「狂へる恋」を連載。
 五月、伯爵柳原義光の二女徳子と結婚。徳子二十二歳。…

 大正十一年(一九二二)三十七歳
 六月、長男滋が生れた。
 十一月、角筈の新居に移った。『句楽の死』を金星堂から出版。
○「徳子は細面の美人で、華族女学校出。趣味は絵封筒を集める事。家庭料理が上手で、友達が遊びに行くとよく手製の洋菓子など御馳走した。生活は一変した。下宿屋から下宿屋と転々し、夜は飲み屋から飲み屋へと走り廻り、自分の知らない所へ酔ひ倒れて寝てしまふといふやうなこれ迄の放縦極まった生活は完全に終りを告げたかのやうに見えた。徳子は間もなく妊娠して翌年六月には長男滋が生れた。片瀬では不便なので淀橋角筈の十二社の奥に新邸を建築した。」(『新潮』昭和二十七年九月号、村松梢風の「吉井勇」)…」

 吉井勇の結婚後の新居が藤沢の片瀬西ノ原二一八〇番地です。一軒家ではなく2階を借りていたようです。伯爵家の新婚家庭が借りるような家ではありませんでした。

写真の少し先、左側が”片瀬西ノ原二一八〇番地”です。あまり高級なところではありません。伯爵同士の結婚で、新居がこのようなところではまずいのではないかとおもいます。ただ、子供ができたため、角筈の親の家に移っています。



藤沢市江ノ島付近地図




吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に編入
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 16 高輪の邸から東京府下北豊島郡尾久村に転居
明治35年 1902 日英同盟 17 4月 三年より四年へ進級の際に落第、攻玉舎中学校に転入、四年に編入された
芝区二本榎西町二番地に移転
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 18 4月 五年に進級。成績優秀のゆえをもって、一学期分
授業料免除
明治37年 1904 日露戦争 19 4月 攻玉舎中学校を卒業。それから間もなく肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院、のち鎌倉へ転地療養
         
明治43年 1910 日韓併合 25 鎌倉 長谷の快々亭と云ふ撞球場の離座敷に住む
         
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 29 坂ノ下御霊神社付近南側の家に住む
         
大正8年 1919 松井須磨子自殺 34 逗子櫻山2379番地に住む(文章世界)
         
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 36 5月 伯爵柳原義光の二女徳子と結婚
片瀬西ノ原2180番地に住む