●吉井勇の鎌倉を歩く
    初版2016年7月17日
    二版2016年7月29日  <V01L01> 坂の下の写真を入替、暫定版

 「吉井勇を歩く」の継続掲載です。今回は「吉井勇の鎌倉を歩く」を掲載します。吉井勇と鎌倉は関係が深く、幼少期から鎌倉に住んでおり、その後の療養生活等も鎌倉で過ごしていたようです。


「吉井勇全集」
<「定本 吉井勇全集」 番町書房>
 吉井勇に関する研究本は余り多くはありません。自伝としては日経新聞に掲載された「私の履歴書」と「生い立ちの記」位です。又、吉井勇は詩人であるため、文章を書かせると、どうしても詩的に書くため、内容が曖昧で、固有名詞が殆ど無く、詳細に調べるには余り役に立ちません。第三者が書いた本があればいいのですが、そのポイントポイントでは書かれた物を見つけることができるのですが、生涯を通して書かれたものはありません。一番頼りになるのは、全集の年譜となります。

 吉井勇の「回顧篇」から、頃鎌倉に住んでいた頃です。
「… 子供の時分の私は体が弱く、都会生活にも堪へられなかったと見えて、当時鎌倉の材木座にあった父の別荘から小学校へ通った。
 その頃の鎌倉といへば、避暑地としてやっと或る一部の人に知られてゐるばかり、別荘のやうなものも松林や砂山の間に、点々として数へられる位しがなかった。それも父の別荘のあったどころは、材木座といっ
ても町からは大分離れた、海岸に近い松林の中にあって、傍にはキョソネという伊太利人の画家の家があるきりだった。
 私は母と二人でこの別荘に住まってゐたのだが、小学校は鎌倉師範学校に附属したもので、鶴ヶ岡八幡宮の傍にあったから、ここからはおよそ一里余りの道を、毎日往復しなければならなかった。丁度その頃別荘番に、まだ頭には丁髷を載せてゐる老僕がゐて、それが送り迎へをしてくれたが、そのうち父が一匹の驢馬を私のために送ってくれたので、往復ともそれに乗って通学をするやうになった。もう今では何処かへ見えなくなってしまったけれども、数年前までは私かその驢馬に乗った、まるで小さなドンキホーテといったやうな恰好の古写真が、私の手もとに残ってゐて、見る度ごとにその時分のことが思ひ出された。…」

 吉井勇の数少ない自伝のひとつ、「回顧録」と「わが回想録」は時期等の記載はありませんが、少し役に立ちます。

【吉井 勇(よしい いさむ、明治19年(1886)10月8日 - 昭和35年(1960)11月19日)】
 維新の功により伯爵となった旧薩摩藩士・吉井友実を祖父、海軍軍人で貴族院議員も務めた吉井幸蔵を父に、東京芝区に生まれた。幼少期を鎌倉材木座の別荘で過ごし、鎌倉師範学校付属小学校に通う(現在の横浜国大附属鎌倉小学校)。1900年4月に東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学するが、落第したため日本中学(現在の日本学園中・高)に転校した。その後、攻玉社(現在の攻玉社中・高)に転じ、1904年に同校卒業。卒業後には胸膜炎(肋膜炎)を患って平塚の杏雲堂に入院するが、鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作を励み、『新詩社』の同人となって『明星』に次々と歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年に脱退する。1908年、早稲田大学文学科高等予科(現在の早大学院高に相当)に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退した。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。1915年11月、歌集『祇園歌集』を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の兄である伯爵・柳原義光の次女であった。徳子とは1921年(大正10年)に結婚したが、1933年に発生したスキャンダル、いわゆる「不良華族事件」において徳子が中心人物であることが発覚した。事件は広く世間の耳目を集め徳子と離婚した。離婚後、勇は高知県香美郡の山里に隠棲した。1937年、国松孝子と再婚。孝子は芸者の母を持つ女性で、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。結婚翌年には、2人で京都府へ移住した。勇は、「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」と書いている。土佐での隠棲生活を経てに京都に移り、歌風も大きく変化していった。戦後は谷崎潤一郎、川田順、新村出と親しく、1947年には四人で天皇に会見している。1948年歌会始選者となり、同年8月、日本芸術院会員。「長生きも芸のうち」と言ったと伝えられている。1960年、肺癌のため京都で死去。墓所は東京・青山の青山霊園にある。(ウイキペディア参照)

写真は「吉井勇全集」の第九巻です。吉井勇全集は昭和52年から昭和53年掛けて番町書房から全八巻として発行されています。最初、年譜は第八巻に掲載と書かれていたのですが、掲載されず、54年に第九巻として発刊された中に掲載されます。

「鎌倉再見」
<「鎌倉再見 金子晋」 読売新聞社>
 鎌倉と吉井勇に関する本を探したのですが、余りなくて、鎌倉市立図書館で見つけたのがこの金子晋さんの「鎌倉再見」です。吉井勇だけではなく、他の人についても詳細に書かれています。鎌倉散策に非常に役立つ本です。

  金子晋さんの「鎌倉再見」から、”序”です。
「      序

 明治、大正、昭和の三代に亘って、鎌倉に住んだり、暫く滞留したりしたことのある、文芸関係の物故者、七十七人の旧居を尋ねて、得てして年月の彼方へ消え失せがちな事跡を調べたり、写真に撮ったりの、なみひと通りならない根気と足労との実りが、かうした本になって世に出たことは、畑違ひの生業をもつ筆者だけに、ひとしほの喜びだらうと察して祝ひを述べる。また強いて褒めようなら、「わが国近代文学史の片隅に、新たな一項目を附け加へた」と言って言へないこともなからう。…」

 内容はかなり詳細に書かれています。私にはピッタリの本です。

写真は金子晋さんの読売新聞社版「鎌倉再見」です。地図も詳細に書かれており非常に役に立ちました。



「材木座九品寺」
<桶屋の二階>
 吉井勇と鎌倉との関係の始まりは、桶屋の二階から始まったようです。どうゆうわけか、桶屋についてはかなり書いています。

 吉井勇の「わが回想録」より
「… 鎌倉と云へば、私との因縁はかなり深い。そもそも私の鎌倉に就ての記憶は、滑川に架かつた海浜橋を渡つて、真つ直ぐに材木座の通りに出たところにある、たしか九品寺と云つた寺から始まる。この寺と通りを隔てた向ひ側には新藤亭と云ふ店先に藤棚のある旅籠屋があり、門と並んで桶屋があつたことも、今となつては懐かしい思ひ出であつて、私の一家は材木座に別荘が出来るまでの二三年の間、この寺の座敷や桶屋の二階を借りて、楽しい夏の避暑生活をしてゐたのだつた。…」
 上記に書かれている”新藤亭”については不明でしたが、”門と並んで桶屋があつた”に関しては、昭和30年代の住宅地図を見ると、九品寺の入口の右側に桶屋を発見しました。明治時代の桶屋がそのまま残っていたかは分かりませんが、場所的には間違いないとおもいます。

写真は現在の材木座通りから九品寺交差点を撮影したものです。左側が九品寺で、正面やや左のところに桶屋がありました。吉井勇はこの桶屋の二階で夏を過ごしたようです。ここへは、鎌倉駅から若宮大路を南下して一の鳥居を過ぎて、海岸橋交差点を左折します。直ぐに海岸橋(海浜橋?)があり、そのまま真っ直ぐに進むと九品寺交差点となります。



鎌倉市中心部附近地図



「有島家の別荘跡」
<材木座にあった別荘>
 吉井勇は九品寺の門の横にあった桶屋に二階から、材木座に建てた別荘に移ります。この材木座の別荘の位置について何処かの書籍に記載が無いかと調べたのですが、見つけることができませんでした。仕方が無いので法務局の土地台帳で調べて見たのですが、見つけることが出来ませんでした。当時の材木座は非常に広範囲で、全てを調べきってはいません。又、借地だと全くわかりません。土地台帳を調べている途中で有島家の別荘を発見しました。当時の地番で下向原 1115-1、1116、1117です。現在の由比ガ浜4-3附近となります。

 吉井勇の「わが回想録」からです。
「…それに私は別荘が出来上つてからは多くそれに住んでゐたと見えて、鶴が岡八幡宮の横手にあつた師範学校の附属小学校で、尋常一年の課程だけを終つたやうに記憶してゐる。別荘番の丁髷を結つた爺さんに送り迎へをされて、材木座から雪の下まで二十町ほどの道を通学したのだが、その頃の鎌倉は全くの畑や田圃つづきで、現在のやうに文化都市化された有様を見ると、時勢の変転の激しいのに驚くと同時に、これから先の世の中は、一体如何なつてゆくのかと、恐怖の念さへ感じられる。
 その時分有島家や阿部家の別荘も材木座にあつて、里見淳君にも水上滝太郎君にも、その頃のことを書いた小説があつたやうに思ふが、近くに住んでゐながら私には、遂に交遊の機がなかつた。私の家の材木座の別荘は、それから数年後には売却されるやうなことになつたが、子供心にも今猶懐かしい思ひ出となつて残つてゐるのは、直ぐ隣りに伊太利人の画家キョソネ翁が住んでゐて、その息子さんが私と同い年位だつたので、直ぐに仲のいい遊び友達となり、毎日のやうに往来してゐるうちに、この遠く異境にある老美術家の風貌に幾度となく接したことであつた。…」

 鎌倉文学館には大きな地図があって、吉井勇にも大きな○が打ってあります。場所は九品寺の右側、やや下です。ここも土地台帳で調べたのですが、吉井家の記載はありませんでした。

写真は有島家の別荘跡を写しています。吉井家の別荘はこの附近だったのではないかなとおもい、調べたのですが不発でした。辻堂の法務局で由比ヶ浜4丁目、材木座5丁目を土地台帳で調べたのですが吉井家の名前は見つけることが出来ませんでした。明治20年代のことですので、登記をしなかった可能性もあります。借地なら全く分かりません。土地台帳からはこれ以上調べることはできません。別途考える必要があります。

「横浜国立大学附属鎌倉小学校」
<鎌倉師範学校付属小学校>
 吉井勇は明治24年9月、鎌倉師範学校付属小学校に入学します。当時の小学校の入学時期に関しては文部省の省令によって明治33年に4月入学となっています。伯爵のお坊ちゃまなので、鎌倉で一番の小学校として鎌倉師範学校付属小学校が選ばれたのだとおもいます。

 吉井勇の「わが回想録」からです。
「… それに私は別荘が出来上つてからは多くそれに住んでゐたと見えて、鶴が岡八幡宮の横手にあつた師範学校の附属小学校で、尋常一年の課程だけを終つたやうに記憶してゐる。別荘番の丁髷を結つた爺さんに送り迎へをされて、材木座から雪の下まで二十町ほどの道を通学したのだが、その頃の鎌倉は全くの畑や田圃つづきで、現在のやうに文化都市化された有様を見ると、時勢の変転の激しいのに驚くと同時に、これから先の世の中は、一体如何なつてゆくのかと、恐怖の念さへ感じられる。…」
 ”材木座から雪の下まで二十町”と書いてありますので、一町=109mで換算すると、2.2Kmとなり、海岸橋附近となります。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「 明治二十四年(一八九一)六歳
 鎌倉師範学校付属小学校に入学したが、半年の後東京に移り、芝区の御田小学校に転じた。この年の四月、祖父友
実の死にあった。…」


写真は現在の横浜国立大学附属鎌倉小学校です。鎌倉師範学校(当時は鎌倉尋常師範学校)は明治25年、横浜から鎌倉雪の下に移ってきています。戦後、師範学校が大学に昇格したのに伴い、横浜国立大学附属となっています。

「極楽寺切通し下」
<鎌倉の坂の下>
 2016年7月29日 坂の下の写真を入替
 明治37年(1904)4月、攻玉舎中学校を卒業後、肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院しています。今で言う肺結核だとおもいます。不摂生な生活を続けたためとおもいます。退院後、鎌倉の坂の下の別荘を借りて療養しています。

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「…明治37年(1904)十九歳
 四月、攻玉舎中学校を卒業、それから間もなく肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院、のち鎌倉へ転地して療養した。…」

 この頃についてはほとんど書かれていません。

 吉井勇の「わが回想録」からです。
「…私は中学を出ると間もなく肋膜を病んで、平塚の杏雲堂病院で三ヶ月ばかりを過した後、一年ほどの間転地療養の必要があると云ふので選んだのが、やつぱり鎌倉の阪の下も、極楽寺の切通しに近い海岸だつた。私はここで病後の静養をしてゐる間に、文学に対する熱情に駆られた結果、その当時青年男女の人気を集めてゐた「明星」を機関雑誌とする新詩社に入社することに決めて、千駄ケ谷の与謝野寛先生のところに手紙を出した。…」
 この頃について書いてある文章を探すのですが、詳細に書かれているものはありませんでした。

写真は極楽寺切通し下の星月夜井から東を撮影したものです。当時の地図を見るとこの付近に人家がありますので、別荘もこの右側付近にあったものとおもわれます。江ノ電が全線開通したのは明治43年ですから、鎌倉からは徒歩か人力車になります。横須賀線は明治22年には開通しており、鎌倉までは簡単に来ることができました。



鎌倉市長谷付近地図



「玉突場「快々亭」跡」
<玉突場「快々亭」>
 ”秋 甘縄神社入口より東寄り50、60mのところに海岸に出る道がありその角に玉突場「快々亭」がありその離れ斜め筋向かいの東南に学友で文学仲間の阿部肖三(水上滝太郎)がいた”と私のメモに書かれているのですが、何処から引用したか分からなくなっています。まあ正しいとおもうので”玉突場「快々亭」”を探してみました。

 吉井勇の「わが回想録」からです。
「…先に角私が第何回目かの逃避行を鎌倉に試み、暫くの開化住居をしてゐた、長谷の快々亭と云ふ撞球場の離座敷では、直ぐ近くの別荘に来てゐた阿部君の訪問を受けた記憶がある。たしかその時は正月のことで、撞球場の球台を取り除けた後を客席に、正面のいつもは火鉢などを置いてある畳敷のところに高座を作り、娘義太夫の一座が興行してゐたが、二人はその晩それを聴いて別れた。阿婆摺れのした女芸人のことだから、昼間は遠慮なく私の借りてゐる離座敷に押し懸けて来て、「御免なさい。ちよつとここを貸して頂戴」などと云ひながら、その晩の語り物の稽古をしたりしてゐたのを、今でも私は忘れることが出来ない。
 この快々亭と云ふ家の離座敷は、いろいろの思ひ出のあるところであつて、主人は元先代左団次の弟子で芸名を蔦何とか云ふ女形で、細君は横浜の関内の芸者上りで、年は取つてはゐても何処か小粋なおかみさんだつた。小杉天外氏の小説のモデルになつたと云ふ娘がゐたが、これは東京の方で名ある実業家の囲ひ者になつてゐるとか云ふことで、私がそこに侘住居をしてゐる間に、二三度訪ねて来たのを覚えてゐる。丁度それは小山内薫氏と市川左団次君とに依つて自由劇場が起され、既に第一回か第二回の公演を終つた後で、私はそのために「河内屋与兵衛」その他の脚本を書いた関係から、左団次君とも親しい交りをしてゐたので、先代から馴染の長谷の三橋と云ふ宿屋に泊つてゐた左
団次君も、一二度この撞球場の奥の離座敷を、訪ねて来て呉れたことがある。たしか新婚早々のことだつたと思ふが、いつも仲よく夫婦連れだつた。…」


写真の小径までは甘縄神社入口からは、ピッタリ60mでしたので間違いないとおもいます。”斜め筋向かいの東南に学友で文学仲間の阿部肖三(水上滝太郎)がいた”と書いていますので、玉突場「快々亭」は北西の角だと分かります。ですから写真の右側に玉突場「快々亭」があったと推測できます。

「長谷の坂ノ下」
<長谷の坂ノ下>
 大正3年(1914)、吉井勇は鎌倉坂ノ下の権五郎神社(御霊神社)に近いところに仮寓し、湘南詩社をおこしています。ここの場所については金子晋さんの「鎌倉再見」に詳しく書かれていました。

 金子晋さんの「鎌倉再見」からです。
「… 吉井勇は大正の初め、坂ノ下御霊神社付近南側の家に住んだ。当時、長谷松沢書店主松沢直吉は、鎌倉案内書の製作に情熱を傾けていたが、大正三年「鎌倉江の島案内」(沢寿郎氏所蔵)を発行するに当たり、吉井勇を訪れてその序文を依頼した。勇は快諾して次のような文章を供した。
  「鎌倉は予の第二の故郷である。否、予は全く東京で育って来たのであるから、若し東京に故郷と云う言葉が不適当であるならば、鎌倉は予の第一の故郷である。予が鎌倉の郷土に対する愛着の情は、殆んど盲目的と云っても好い程熱烈である。予が鎌倉に対する愛着の情は、これまで屡この地の観光録を書く希望を起させたことがあった。……予はこの夏から又鎌倉に住むことになった。而して予はこの希望の為めに苦しめられていたが、幸いにも書肆松林堂の主人から、この書の序を求められたので、直ちにこの一文を草し、せめてもの心遣りとしたのである。
   大正三年六月下浣
      阪之下の僧居にて 吉井勇 」…」

 金子晋さんの「鎌倉再見」の地図にも場所の記載がありましたのでよく分かりました。上記に書かれている”長谷松沢書店”は現在も同じ場所にありました。

 久米正雄の随筆からです。(金子晋の「鎌倉再見」を参照)
 「……『人間』同人の中で、僕が一番早く知ったのは、吉井勇だった。……僕が大学の二年になった許りの冬で、『牛乳屋の兄弟』が上演された年のことだから、大正十一年か二年だ。……肺尖が悪いと云われたために、逗子に転地していた時たった。其の時分吉井君は、丁度全盛時代の戯曲家で、鎌倉長谷(坂ノ下)の二階家を借りていた。近所だから僕は訪ねて行って見たかったが、まだ怖いような気がして、一人でなんぞ迚(とて)も行く勇気はなかった。吉井勇が怖かったなんて、今考えると腹が立つ。……」

 吉井勇全集の「年譜」からです。
「… 大正三年(一九一四)二十九歳
 一月、戯曲「狂芸人」を『三田文学』に発表。脚本「解脱」が江戸歌舞伎という名のもとに、市川左団次一座によって木郷座で上演された。万造寺斉によって『スバル』の後身『我等』が創刊され、それにもいささか関係した。
 四月、戯曲「俳諧亭句楽の死」を『中央公論』に発表。
 五月、鎌倉坂之下に仮寓、湘南詩社をおこした。…」


写真の右側は江ノ島電鉄で、手前側が長谷駅になります。”坂ノ下御霊神社付近南側の家”は写真左側20m程先の家付近になります。



吉井勇年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 吉井勇の足跡
明治19年
1886 帝国大学令公布 1  10月8日 東京市芝区高輪南町五十九番地に伯爵幸蔵の
次男として生れた。母は静子(年譜)
麹町区永田町二丁目十五番地(生ひ立ちの記)
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
6 4月 祖父友実が死去
9月 鎌倉師範学校付属小学校に入学
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立
7 春頃 芝区の御田小学校に転じた
明治33年 1900 パリ万国博覧会
夏目漱石が英国留学
孫文らが恵州で蜂起
義和団事件
15 4月 東京府立第一中学校に入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 16 高輪の邸から東京府下北豊島郡尾久村に転居
明治35年 1902 日英同盟 17 4月 三年より四年へ進級の際に落第、攻玉舎中学校に転入、四年に編入された
芝区二本榎西町二番地に移転
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 18 4月 五年に進級。成績優秀のゆえをもって、一学期分
授業料免除
明治37年 1904 日露戦争 19 4月 攻玉舎中学校を卒業。それから間もなく肋膜を病み、神奈川県平塚の杏雲堂病院に入院、のち鎌倉へ転地療養
         
明治43年 1910 日韓併合 25 鎌倉 長谷の快々亭と云ふ撞球場の離座敷に住む
         
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 29 坂ノ下御霊神社付近南側の家に住む