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最終更新日:2006年2月21日

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●「与謝野晶子」の東京を歩く -1- 2002年3月16日 V01L02


 今週は与謝野晶子、鉄幹の東京を歩いてみたいと思います。与謝野晶子は明治11年、現在の大阪府堺市甲斐町(かいのちょう)で和菓子商駿河屋を営む父鳳宗七、母津祢の三女として生まれます。与謝野晶子の生誕の地の堺と鉄幹との出会いは別の機会に紹介したいと思います。今回は与謝野晶子が鉄幹を慕って東京に出てきてからを歩いてみます。この当時の事を石川啄木は明治41年1月3日の啄木日記で「…三十四年(?)に、随分世の中を騒がしてから例の鳳晶子、乃ち現在の与謝野氏夫人が故郷の堺を逃げ出して鉄幹氏の許へやつて来た。与謝野氏には其時法律上の手続だけは踏んで居なかったが、立派な妻君があつて子供まであった。水野は、建つた事はないが好男子でよく女と関係つける男なさうだ。そこで何とかした張合で晶子女史は水野と稍おかしな様になつた。鉄幹氏はこれを見付けて、随分壮士芝居式な活劇迄やらかして、遂々妻君を追出し、晶子と公然結婚して三十五年一月の明星で与謝野晶子なる名を御披露に及んだのであつた……」とあります(水野とは水野葉舟のこと)。この話は本当かなと思いましたが、石川啄木が書いているので間違いないと思います。明治34年7月1日発行の「明星」十三号には「鳳晶子氏留学のため上京せられ候。女史の詩集『みだれ髪』は本月二十日を以て発行致すべく候。……」とあります。結婚(同棲?)が留学のためになっています。苦しいいいわけですね。

左の写真が「みだれ髪」の表紙です。縦18cm横8.5cmの洒落た大きさの詩集です。

和  暦

西暦

年    表

年齢

与謝野晶子、東京の足跡 -1-

作  品

明治34年
1901
 
23
6月 東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷二七二番地(鉄幹宅)
9月 東京府豊多摩郡中渋谷村中渋谷三八二番地
10月 鉄幹と結婚(入籍は翌年1月)
みだれ髪
明治35年
1902
日英同盟
24
11月 長男光誕生  
明治37年
1904
日露戦争
26
5月 東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷三四一番地
7月 次男秀誕生
11月 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村字大通五四九番地第四萩の家 (明治書院所有)
小扇
明治38年
1905
ポーツマス条約
27
  恋衣
明治42年
1909
伊藤博文暗殺
31
1月 東京府神田区駿河台東紅梅町二番地。(千代田区駿河台)
3月 三男麟誕生
スバル創刊


yosano-tokyo11w.jpg<東京新詩社跡>
 明治34年6月与謝野晶子(まだ鳳晶子)は鉄幹を頼って単身東京へやってきます。その当時、鉄幹が住んでいたのが東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷二七二番地、新詩社でした。鉄幹がここに転居したのは明治34年4月末で、それまでは麹町区上六番町45に住んでいました。この転居のことを「明星」十二号の巻末に「社告」として載せています。この時の事を渡辺淳一の「君も雛罌粟(こくりこ)、われも雛罌粟」では「六月十日、京都から単身上京してきた晶子は、新橋駅に降りると、ただちにこの渋谷の家へ向かう予定であった。だが困ったことに、このとき渋谷の新居には、出ていったはずの妻の滝野が、子供の萃を連れて舞い戻っていた。妻がいる家に新たに晶子がのりこんできては、女二人がかち合うことになる。慌てた鉄幹は新橋駅で晶子を出迎えると、早速、次のような言い訳をいう。「遠いところ、よく来てくれた。着いた早々、こんなことをいうのは申し訳ないが、急な相談ごとがあって妻の滝野が出てきている。しかし一両日中には話がついて田舎へ帰る予定だから、それまで私の知人の家にいてくれないか」…」とあります。まあ大変なところにやってきたようです。

左の写真が渋谷区教育委員会が建てた新詩社跡の記念碑です(現在の道玄坂2−6付近)。この土地の事を渡辺淳一は「駅はいまの渋谷駅より恵比寿寄りにある貨物駅がつかわれていた。この駅を降りて渋谷川を渡り、道玄坂にかかると道幅は急に狭くなり、坂の勾配も急になる。……この道玄坂の上り口の左側には渋谷憲兵分隊の駐屯所があり、その少し先に大和田という横丁があって、……この横町を左に曲がった路地の先は憲兵隊の通用門になっていたが、路地の右手に三軒、まったく同じ形で建っている家があり、そのうちの中央の一軒が鉄幹の借りた家である。」と書いており、明治後半の渋谷の状況がよく分かります。昔はこの記念碑のところに路地があり、路地の奥が新詩社でした(現在は路地は無くなっています)。
【与謝野晶子 渋谷地図】


yosano-tokyo12w.jpg<中渋谷三八二番地、三四一番地>
 この後、6ヶ月ですぐ近くに転居します。「明星」十六号に「新詩社を左の処に移せり、少なく番地の改まれるのみ、渋谷停車場より二町なり。東京府豊多摩郡中渋谷村中渋谷三八二番地東京新詩社」とあります。この場所に転居する直前に与謝野晶子は「みだれ髪」を出版します。この「みだれ髪」の体裁が変わったことについて、明治34年8月1日発行の「明星」十四号では「鳳晶子女史の詩集『みだれ髪』は、印刷製本の都合上聊か予定の発行期日を変更致し候処、既に印刷の全部を終り候間、製本の上、来る十日を以て本社より発行し、文友館及び束京堂をして売捌かしめ申すべく候。製本の体裁も亦意匠を変更致し候ため、小生の『紫』などの遠く及ばざるものと相成り候は、出版物の一進歩と存ぜられ候」とあります。「君も雛罌粟、われも雛罌粟」の中で渡辺淳一は「明治の歌壇のみならず、広く一般社会にまで大きな影響を与えた『みだれ髪』は、明治三十四年八月十五日、伊藤文友館から定価三十五銭で発売された。このとき晶子は二十二歳、当時の女流歌人としては、もっとも若くして自らの歌集をもったことになる。」と書いています。そうとうインパクトのある詩集だったようです。「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」が「みだれ髪」の中では最も有名ではないでしょうか(一般的ですが)。この後7ヶ月でまた渋谷村字中渋谷三四一番地に転居しています。この場所で「君死にたまうこと勿れ」を「明星」に発表します。

右の写真の道を少し歩いた左側が渋谷村字中渋谷三四一番地(現在の道玄坂2−16付近)で、写真の右側が中渋谷村中渋谷三八二番地辺り(現在の道玄坂2−15付近)です。今の渋谷は昔と比べて全く変わってしまっていますが、道玄坂を上がった交番前交差点に与謝野晶子の歌碑「母遠うてひとみしたしき西の山さがみか知らず雨雲かかる」)が作られています。
【与謝野晶子 渋谷付近地図】

yosano-tokyo15w.jpg<千駄ヶ谷村>
 明治37年11月東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村に転居します。日露戦争の最中で、与謝野晶子の弟の無事を祈った「君死にたまうこと勿れ −旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて−」は反戦的との指摘を受け、非難され続けます。このことからこの詩は現代に至るまで反戦の詩として多くの人に愛され続けます(弟は無事帰還しています)。「明星」は明治41年11月100号をもって終刊しています(発行部数は多いときには7000部を越えていたが、最後は1000部を切っており金銭的にそうとう苦しくなっての終刊と思えます)。最後の号で与謝野鉄幹は「本号を以て『明星』を廃刊せむとするに、二の所因あり。経費の償はざること一、予が之に要する心労を自己の修養に移さむとすること一。之を三四の先輩畏友諸氏と同社の諸君とに諮りて、今やその協賛を得たり。但し『明星』は廃刊すと雖、予が詩人としての志は、既往より当来に渉り、宛ら一条の鉄のみ、更に十年の後、製作の上に何等かの効果あらむことを期L、以て大方より受けたる高義の万一に報ぜむと欲す。 明治四十一年十一月、東京に於いて、 与謝野寛識す」と書いています。すこし言い訳がましいですね。また最終号で「わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや」とも書いています。与謝野晶子の方は「自刃もてわれに迫りしけはしさの消えゆく人をあはれとおもふ」と言っています。これは寂しいですね。

左の写真の付近が千駄ヶ谷村字大通五四九番地(現在の千駄ヶ谷1−23付近で千駄ヶ谷商店街の中です)付近です。ここも昔の面影は全くありません。近くに村上春樹がやっていた「ピーターキャット」いとうJAZZBARが以前ありました。与謝野晶子の次は村上春樹特集なので乞ご期待ください!!。
【与謝野晶子 千駄ヶ谷付近地図】

yosano-tokyo16w.jpg<駿河台東紅梅町>
 明治42年1月東京府神田区駿河台東紅梅町に転居します。ここで「明星」後継誌としての「スバル」を新たに出版します。しかしながらこの「スバル」の企画には与謝野鉄幹は入っていませんでした。渡辺淳一は「当然のことながら、この画策は寛には知らされず、「明星」 を廃刊するべきか否か寛が悩んでいる裏で刻々とすすめられていた。しかもその主要メンバーは、新詩社脱退組にくわえて、残留組のなかでも寛が最も信頼していた、平野万里や平出修まで入っていた。啄木も与謝野邸を訪れては、寛には「明星」の廃刊をすすめ、晶子には口当たりのいいことをいっていたが、それもすべて「昂」創刊のための下準備であり、その折、晶子だけは加入させたいという思惑からのことだった。」と書いています。鉄幹の時代は終わりを告げ、残ったのは与謝野晶子だけだったようです。明治42年4月12日の啄木日記には「予がここに「古き仲間」と言ったのは、実は、予の過去においての最も新しい仲間である、否、あった。予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。……予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。時あらば今までの恩を謝したいとも思っている。晶子さんは別だ。予はあの人を姉のように思うことがある…………この二人は別だ。」とあります。石川啄木はわりとドライなんですね。
 
右の写真が駿河台東紅梅町(現在の神田駿河台4−2付近です)です。正面に写っているのか名倉医院です。名倉医院は以前に北千住で紹介しましたので覚えている方がいるかと思います。
【与謝野晶子 駿河台付近地図】

【参考文献】
・作家読本 与謝野晶子:平子恭子、河出書房新社
・啄木日記:石川啄木(小田切秀雄偏)、第三文明社
・君もコクリコ、われもコクリコ(上巻、下巻):渡辺淳一、文春文庫
・みだれ髪:与謝野晶子、近代文学館(復刻版)
・与謝野寛・晶子年譜:渋谷区立図書館
 

●「与謝野晶子」の東京を歩く -2- 2002年3月30日 V01L01

yosano-tokyo25w.jpg 今週は「与謝野晶子の東京を歩く」の第二回目です。与謝野晶子、鉄幹の長男、与謝野光が「晶子と寛の思い出」という本をだしていますので、この本に沿って歩いてみたいとおもいます。「高村光太郎さんはとってもやさしい人でね。『智恵子抄』でわかるように、誰に対しても非常にやさしい方でしたねえ。男の人として立派な人でしたよ。鴎外先生のお宅のそばにいらしたんですよねえ。うちで歌会があると、大きな袋に、あんパンやいろんなパン……、ジャムパンとかそういう菓子パンの類を入れて持って来てくれたんです。嬉しいことにはですよ、持ってきてくれるのは、広小路に今でもあります何ていったか…「永藤」。そのパン屋のなんですが、わざわざそこへ寄って買って来てくれた。「子供さんたちに」って。あの人は本郷の林町だからね、富士見町へ来るには回り道ですよ。……」とあります。周りの皆に支えられていた与謝野晶子です。

左の写真が上野広小路「永藤」の甘食パンです。昔よく食べた覚えがあります、80年前から同じパンだそうです。菓子パンと与謝野晶子、鉄幹、高村光太郎は結びつきにくいですが、ここではしっかり繋がっています。

和  暦

西暦

年    表

年齢

与謝野晶子、東京の足跡 -2-

作  品

明治43年
1910
大逆事件
32
8月 東京府麹町区中六番町三番地に転居 三田文学創刊
明治44年
1911
 
33
11月 与謝野鉄幹渡欧
11月 東京府麹町区中六番町七番地に転居
春泥集
明治45年
1912
石川啄木死去
24
5月 与謝野晶子渡欧
10月 与謝野晶子帰国
 
大正4年
1915
 
37
4月 与謝野鉄幹 衆議院選挙に出馬し落選
8月 東京府麹町区富士見町五丁目九番地に転居
さくら草
与謝野晶子集
大正10年
1921
 
43
4月 文化学院創設 明星復刊
昭和2年
1927
芥川龍之介自殺
49
9月 東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪に転居  
昭和10年
1935
 
57
3月26日与謝野鉄幹(寛)死去  
昭和16年
1941
真珠湾攻撃
62
12月 太平洋戦争始まる  
昭和17年
1942
 
63
5月29日与謝野晶子死去  


yosano-tokyo18w.jpg<麹町区中六番町>
 明治44年8月、与謝野晶子は麹町区中六番町三番地に転居します。そして翌年鉄幹は渡欧します。当時のことを長男光は「古谷さんという、東大を出て講師かなんかをしているフランス語の先生にずっと来てもらって、父はフランス語を勉強したんです。??ふるおや?≠ウんっていうんです、??古い谷?≠ニ書いて。駿河台の東紅梅町の頃から、鞠町の中六番町へ引っ越して(明43・8)、洋行するまでずーつと、二年ぐらい勉強して、それで行きました。……あれは明治四十四年でしょう。熱田丸という船で、父が発つ。横浜から船で行くんですよ。社中の人みんなで送って行ったんですよ、嘘のようだけど……。佐藤春夫さんとかそういう人に連れられて、僕だけ見送りに行ったんです。ほかの子はみんな小さいから。僕は九歳ぐらいだったんですけど。」と書いています。当時の洋行は大変だったんだなと思います。それにしても当時の文化人が総出で見送ったみたいです。

左の写真左側が麹 町区中六番町付近です。右側が女子学院、少し先の左側が千代田女学園(当時は女子文芸学舎)です。麹町区中六番町三番地はこの先の交差点の手前左側、二軒目辺りです。当時、住居の裏側に図書館を造る(現在の千代田区立番町図書館)ということで中六番町のなかで七番地に再度転居します。転居先は千代田女学校の手前辺りです。
【与謝野晶子 中六番町地図】


yosano-tokyo20w.jpg<麹町区富士見町>
 大正4年には、富士見町に引っ越します。ここには大正4年から大正12年の関東大震災まで居住しています。

右の写真が「与謝野晶子、鉄幹の居住跡」の碑です(写真の真ん中やや左で、石碑と説明文のついた看板がたっています、右側の石碑は関東逓信病院の看板です)。住所からすると少し場所が違い、写真左側の場所が当時の富士見町五丁目九番地(現在の富士見町2−10サトービル付近)になります。外堀の土手に面したところだったと思われます。
【与謝野晶子 富士見町付近地図】

yosano-tokyo22w.jpg<文化学院>
 文化学院については与謝野光は「文化学院の創立(大10・4)は、父が西村伊作さんに勧めたんです。「あの人をもう一遍デビューさせてやろう」 っていう気があって、「それには教育がいいだろう」 ってね。羽仁もと子さんの自由学園もちょうど同じ時期ですね。羽仁もと子さんとうちの母は仲良かったから、「両方でやりましょう」となったわけで、喧嘩して別の学校作ったわけじゃない。両方で新しい仕事をやろうということだったんです。……同じやるなら男女共学の学校にして、一つ意義のある学校にしようとしたんでしょうね。で、石井相亭さんを引き込んで、四人で主にやったわけです。女の人の教育レベルが低いから、男の人と同じレベルで教育したいというんで、母の男女同権の考えがそこに入ってるわけです。」と書いています。当時そのままに現在の文化学院が受け継がれています。

左の写真が文化学院です。関東大震災で初期の建物は倒壊したため、震災後に新たに建てたものです。
【与謝野晶子 御茶の水付近地図】

yosano-tokyo23w.jpg<井荻村字下荻窪>
 関東大震災後、与謝野晶子は荻窪に転居します。震災直後のことを与謝野光は「……戸川秋骨先生が「荻窪にこういうのを借りることになったから、与謝野さんもいっしょに乗りませんか」って言われたんです。それで荻窪の土地を借りて、僕と秀がまず移った。自炊して、花作ったりしてたんです。最初に移ったのは大正十三年頃です。……昭和二年に母屋も出来て、みんな引っ越すんです。坪百二十円ぐらいで建てたんじゃないかなあ。僕も初め建ててもらったのは、坪四十円で建ててもらいましたよ。とにかく借地料というのが初め一坪三銭だったんです。それで五百坪。月に十五円でした。だんだん上がりましたけどね。けど、初めは父が荻窪に行くのをいやがってねえ。そりや僕でも今はここに居るのがいいようなもので、今から思えば父に悪いことしたと思いますよ。今でこそ荻窪っていうのは大したものですけど(笑)、その頃は、田舎ですからねえ、一遍中野で乗り換えないといけない。そんなふうで、電車は吉祥寺までしか行っておりませんで、それも二両連結の。直通は朝と晩だけでね。だから、ほんとうの郊外って感じだった。」とあります。荻窪の主、井伏鱒二が下井草に家を建てたのが昭和2年9月、太宰治が荻窪にきたのが昭和8年です。この荻窪の書斎は冬柏亭と名付けられ、現在は京都鞍馬寺に移築されています(未撮影です)。
 
右の写真が井荻村字下荻窪の与謝野晶子邸跡で、現在の南荻窪4−3−22南荻窪中央公園です。
【与謝野晶子 荻窪付近地図】

 左の写真が与謝野晶子、鉄幹のお墓です。国立の多磨霊園にあり、左側が与謝野鉄幹、右側が与謝野晶子です。

佐藤春夫の与謝野晶子への追憶文
ねんごろにわが青春を導きし第一の星見えずなりぬる

高村光太郎の与謝野晶子への追憶文
五月の薔薇匂う時、夫人ゆきたまう、夫人この世に来りこまいて、日本に新しき歌うまれ、その歌世界にたぐいなきひびきあり、……

【住所案内】

・文化学院:東京都千代田区神田駿河台2-5 電話:03-3294-7551
永藤パン:東京都台東区上野4-9-6 電話:03-3833-7118

【参考文献】
・作家読本 与謝野晶子:平子恭子、河出書房新社
・啄木日記:石川啄木(小田切秀雄偏)、第三文明社
・君もコクリコ、われもコクリコ(上巻、下巻):渡辺淳一、文春文庫
・みだれ髪:与謝野晶子、近代文学館(復刻版)
・与謝野寛・晶子年譜:渋谷区立図書館
・晶子と寛の思い出:与謝野光、思文閣出版
・追憶の達人:嵐山光三郎、新潮社
 
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