<東京新詩社跡> 明治34年6月与謝野晶子(まだ鳳晶子)は鉄幹を頼って単身東京へやってきます。その当時、鉄幹が住んでいたのが東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷二七二番地、新詩社でした。鉄幹がここに転居したのは明治34年4月末で、それまでは麹町区上六番町45に住んでいました。この転居のことを「明星」十二号の巻末に「社告」として載せています。この時の事を渡辺淳一の「君も雛罌粟(こくりこ)、われも雛罌粟」では「六月十日、京都から単身上京してきた晶子は、新橋駅に降りると、ただちにこの渋谷の家へ向かう予定であった。だが困ったことに、このとき渋谷の新居には、出ていったはずの妻の滝野が、子供の萃を連れて舞い戻っていた。妻がいる家に新たに晶子がのりこんできては、女二人がかち合うことになる。慌てた鉄幹は新橋駅で晶子を出迎えると、早速、次のような言い訳をいう。「遠いところ、よく来てくれた。着いた早々、こんなことをいうのは申し訳ないが、急な相談ごとがあって妻の滝野が出てきている。しかし一両日中には話がついて田舎へ帰る予定だから、それまで私の知人の家にいてくれないか」…」とあります。まあ大変なところにやってきたようです。
★左の写真が渋谷区教育委員会が建てた新詩社跡の記念碑です(現在の道玄坂2−6付近)。この土地の事を渡辺淳一は「駅はいまの渋谷駅より恵比寿寄りにある貨物駅がつかわれていた。この駅を降りて渋谷川を渡り、道玄坂にかかると道幅は急に狭くなり、坂の勾配も急になる。……この道玄坂の上り口の左側には渋谷憲兵分隊の駐屯所があり、その少し先に大和田という横丁があって、……この横町を左に曲がった路地の先は憲兵隊の通用門になっていたが、路地の右手に三軒、まったく同じ形で建っている家があり、そのうちの中央の一軒が鉄幹の借りた家である。」と書いており、明治後半の渋谷の状況がよく分かります。昔はこの記念碑のところに路地があり、路地の奥が新詩社でした(現在は路地は無くなっています)。
【与謝野晶子 渋谷地図】
|