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最終更新日:2006年2月26日


●横溝正史の生誕の地、神戸を歩く(上)
  初版2005年9月11日 
<V01L03> 

 今週から「横溝正史を旅する」に戻ります。これからは横溝正史の生誕の地から順次年譜に従って各地を回りたいとおもいます。今週は横溝正史の生誕の地、神戸から歩きます。



横溝正史の生誕地碑>
 昨年の11月23日、横溝正史生誕の地の直ぐ傍の東川崎公園内に生誕地碑が建てられました。私も寄付者名簿の中に名前を載せて頂きました(少額ですが)。「…私の生まれて育った神戸の東川崎という町は、川崎造船所(現在の川崎重工業)周辺の町で、楠木正成の討死した旧湊川の、デルタ地帯の町である。 したがって私は楠公神社の氏子であり、しかも楠公さんの祭りの日に生まれたので、その名も正成にあやかって、父が正史とつけたのだそうな。だから楠公さんにケが三本たりないのが私ということになる。…」。地元の方でないと分からないとおもいます。真備町を歩くでも紹介しましたが、横溝家は元々は岡山の真備町出身であり、両親の駆け落ちの末の神戸在住となるわけです。

左上の写真は東川崎公園内に建てられた横溝正史の生誕地碑です。横溝正史はこの碑から東に数十メートルはなれた(現在は川崎重工業神戸工場敷地内)場所で生まれています。

新開地の発展>
 横溝一家が住んでいた戦前の神戸の街は現在のJR兵庫駅からJR神戸駅周辺の新開地、福原辺りまでが繁華街でした。三宮が繁華街となったのは戦後の話です。映画評論家の淀川長治もJR兵庫駅近くの料亭の息子として生まれています。また神戸は港町として発展してきており、大きな工場としては特に和田岬の三菱神戸造船所と東川崎町の川崎造船所が代表的でした。当時の川崎造船所では職工さんと呼ばれた工員が何万人とおり、朝の出勤時には通勤路の新開地通りが人で埋まってしまっていました(現在は合理化されて数千人規模まで縮小している)。「…そこへ通う職工さんの大半は、わが家のまえを通って往復するのである。したがって朝と夕方は広いわが家のまえの道は人波で溢れ、夜ともなれば新開地へ遊びにいくひとたちで、やはり溢れんばかりで、薬屋にしろ何商売にしろこのうえもない恰好の場所であった。 ことに私が小学校の六年のとき、第一次世界大戦が勃発している。日本が漁夫の利をしめて、いまの言葉でいえば経済的に高度成長をとげている。その余恵をこうむって川崎造船所も新開地も大繁栄を誇ったにちがいない。 私はいまでも憶えている。中学の二、三年ごろ、夜の八時ごろともなれば新開地の通りは、文字どおり押すな押すなの盛況で、歩くにしても一寸刻みにしか歩けなかった。それらのひとのなかには活動写真や芝居を観にきたひともあるのだろうけれど、なかにはそういう雑踏のなかを歩いて来なければ、眠れぬという人種もあるらしく、私もいつかそういうひとりになっていた。 おかげでわが家の薬種商も飛躍的に発展していて、もはや貧しいという形容詞は当たらなくなっていた。…」。人で道が埋まるといってもピンとこないかもしてませんが、10m程の幅の道が本当に人で埋まるのです。向かう方向も一緒ですから人が流れている感じです(私も見た経験がありますが、ものすごい人並みです)。毎日、通い慣れた道なので混乱しないのでしょう。夜はこれだけの社員数ですから呑み屋が流行ります。特に立ち飲みの一杯呑み屋が多かったように覚えています。横溝一家の営んでいた薬屋は川崎造船所正門から通勤路の新開地通りを400m程山手に向かった所にありましたから商売繁盛は間違いなしでした。

右上の写真が当時の新開地です。JRの高架に近い大阪ガスビルの少し上手から撮影しています(現在の同じ場所から撮影した写真も掲載しておきます)。新開地は元々は湊川の川筋だったのを埋め立てて繁華街にしたもので、映画館が立ち並び神戸では最も大きい繁華街でした。「… 私の記憶しているところでも、南北に走っている「湊川新開地」の南のほうから挙げていくと、湊座(ここで鶴ちゃんの舞いざらえが興行された)、敷島館(のちの第二朝日館?)、朝日館、菊水館、松本座、桂座(後に双葉館と名を改めたのではないか)、錦座、帝国館、ほかに寄席などもあったように思う。不思議なことにはこれらの活動写真小屋や芝居小屋は、あいだに勧商場や食べ物店をはさんで全部新開地の西側に建ち並び、東側には劇場として進出第一号をとげた相生だけで、ほかは商店街になっていた。しかも、それらはトンネルの下を走るようになった山陽本線の北側に当たっていた。 もっともトンネルの南側にも、湊川が埋め立てられるまえから、西側に松尾稲荷というよくはやるお稲荷さんがあって、埋め立てが終わってからそこに娘剣舞の小屋などが建ち、幼い私を大いに惹きつけたということはまえにも書いておいたが、そのあとへ松尾座というのが建ち、その筋向かいあたりに稲荷座というのが出来たが、新開地の繁栄もトンネルの南側までは及ばなかったらしく、すぐポシャッテしまった。…」。JR山陽本線が高架になったのは昭和6年ですから、それまでは新開地の道の方が高架になっていたようです。上記に書かれている松尾稲荷は現在もありました。

横溝正史の神戸年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

明治29年
1896
川崎造船所(のちの川崎重工業)が設立
-
父と母が岡山の郷里を出奔し、東川崎へ落ち着く
明治35年
1902
八甲田山雪中行軍
0
5月25日 神戸市東川崎町三丁目に生まれる。父 宜一郎、母 波摩
明治39年
1906
鉄道国有法案が成立
満州鉄道会社が設立
4
東川崎町内で転居
母 波摩 死去
明治42年
1909
永井荷風の『ふらんす物語』が発禁となる
日韓併合
7
4月 東川崎尋常小学校に入学
大正2年
1913
孫文が日本に亡命
11
東川崎町七丁目101番地に転居
大正4年
1915
大阪毎日・大阪朝日が夕刊を発行
13
神戸第二中学校に入学


生誕の地>
 父と母が岡山から駆け落ちして最初に住んだのが神戸の東川崎町でした。「…私の生まれた東川崎町三丁目の家は、狭い道路ひとつ隔てたむかい側に、川崎造船所の製罐場の赤煉瓦の塀が、たかだかとつづいていた。その煉瓦塀があまり高く、あまり長くつづいているので、あとから思い出したとき、監獄の塀を連想させたくらいである。私の家のならびに雑貨屋が一軒あって、そこでは駄菓子も扱っていた。毎日午後三時ごろになると、監獄の塀を連想させる高い長いその赤煉瓦塀の、ちょうど雑貨屋のまえのあたりから、にょっきりと黒い頭がのぞき、そこから長い綱のさきにぶら下がった笊がひとつ、するすると降りてくるかと思うと、塀のうえからのぞいた黒い頭が、下にむかってこう叫ぶのである。「おばはん。また頼むでえ。そこに書いてあるさかいにな」 …… 子供心にも私にはその商法が面白かったとみえて長く記憶に残り、戦後書いた金田一耕助物の中篇「トランプ台上の首」の書き出しにこの情景を使っている。…」。昭和20年の空襲で神戸の中心部はすっかり焼けてしまっていますが東川崎町の川崎造船所付近は今も下町の雰囲気があります。当時とあまり変わらないかもしれません。ただ、雑貨屋はもうありません。塀の上から笊で買物する社員もいませんね!!

左上の写真の先の川崎造船所の中が横溝正史生誕地です。当時とは川崎造船所の敷地が変わっています。「…本社と道路ひとつへだてた角が銭湯、銭湯の隣がうどん屋で阪井といって、そこの子供が私とおない年であった。阪井のうどん屋のむこうからはふつうの仕舞屋がつづいていて、そこは東川崎町二丁目になっていた。つまり私のうまれた家のまえの狭い道が、二丁目と三丁目の境界線になっていたわけである。四つ角の三丁目側のひとつは酒屋であったが、そのほかはおおむね仕舞屋だったし、当時は街灯などなかった時代だから、夜になると二丁目と三丁目の境界線のその道は、真っ暗になるのがふつうだった。…」。東川崎歴史の会が作られた「横溝正史と東川崎町」の中に当時の詳細の地図が掲載されています。横溝正史が書いている東川崎町とは実際は少し違うようです。

薬局>
 横溝一家の出身地の岡山県総社市付近は置薬屋が非常に多い土地でした。その影響か横溝一家は薬屋をはじめます。「…私の小学校四年のころ、湊川の埋め立て地の、トンネルのだらだら坂を造船所のほうへ下ったところに、二階建ての七軒長屋が建った。わが家は三丁目の二度目の家からその七軒長屋の下からかぞえて三軒目の家へ引っ越していったが、ふしぎに私はその家の番地をいまでも憶えている。東川崎町七丁目一〇一番地である。……それが小学校の四年とすれば明治四十五年、五年とすれば大正二年になるわけだが、新開地がほぼその形態をととのえたのは、明治四十二年ごろだというから、わが家がそこへ引っ越していったころは、もう新開地も大いに繁栄していたことだろう。… 」。上記の新開地の所でも記載しましたが、最も新開地が栄えた頃に東川崎町の新開地の通りで薬屋を開業します。

右上の写真の右から三軒目が横溝一家の薬屋があったところです。「…まえに述べたトンネルから、山陽本線の上り下りの列車をめがけて、飛び込み自殺をするのである。そのトンネルは七丁目一○一番地のわが家から、すぐちかくにあるものだから、そんな話をきくと私はなにをおいても飛んでいった。たいていの場合私が駆け着けたころには筵かなんかで死体をおおうてあったものだが、いちどだけ、飛び込み自殺の直後だったとみえ、轢断された四肢が散乱しているのを見たことがある。あたりはむろん血まみれであった。…」。JR山陽本線が高架になったのは昭和6年ですから、それまでは新開地の道の方が高架になっていたようです。

東川崎尋常小学校>
 家からすぐ近くの東川崎尋常小学校に入学します。「…明治四十二年の四月私は東川崎尋常小学校というのへ入学した。その当時その小学校は東川崎三丁目の町のどまんなかにあり、小っぼけな学校で、校庭は煉瓦敷きだったように思う。むろん講堂などあろうはずはなく、月曜日の朝にはきまって朝礼というのがあり、全校生徒が校庭に整列して、校長先生から訓示をうけるのだが、そのとき全校生徒に、「気をつけ」「礼」「休め」などと号令をかけるのは、当時六年生だった姉の富重であった。 ……いきおい最上級生であるところの六年生の級長であった富重が、全校生徒に号令をかけていたのだろうが、私はよくいっしょに入学したちびっ子たちから、「おまえのお姉さん、えらいんやなあ」 と、ひやかされたものである。…」。兄弟が多いですから学校でも一大勢力だったのでしょう。

左の写真のマンションの所が東川崎尋常小学校跡です。川崎造船所正門と横溝一家の薬屋の丁度中間あたりです。

神戸第二中学校(現 兵庫県立兵庫高等学校)>
 神戸には当時中学校は三校ありました。家から一番近かったのが神戸二中でした。「…私の進んだ中学は神戸二中だったが、そこには秀才が雲のごとく群がっていた。いや、頭のほどは二の次としても、かれらはみんな神戸の町の他から疎外されざる学校からきたひとたちであった。かれらはおおむね先輩をもち、小学校時代の同僚も大勢いたらしく、みんな聞達で、私の眼からみればだれもかれもがええし (よい衆、即ち金持ち) の息子と思われた。…… 私の母校神戸二中は質素剛健自重自治を四綱領として掲げ、当時のことだから当然軍国主義的だった。私は四綱領のうち質素はお手のものだったし、自重自治にもどうやらついていけそうだったが、(私がひた隠しに隠していたあの行為以外には)剛健だけは苦手だった。当時から私は体が虚弱だったし、運動神経が乏しかったので、体操の時間が苦痛だった。機械体操のどの種目もダメだった。そこへもってきてあの秘密があるものだから、私はひとの蔭へ蔭へとかくれるように努力した。出来るだけ目立たないように振る舞っていた。 私の学年は四十人くらいのクラスが四つあったから、全体で百六十人くらいいたのだろうが、私はいつも全体の中位の成績だった。可もなく不可もなしというところだろう。…」。近いといっても3Km弱くらいはあります。

右の写真が現在の兵庫高等学校です。建物が建て直されています。昔は橋の所に正門がありました。

来週も引き続き「横溝正史の生誕の地、神戸を歩く(下)」を掲載します。

<横溝正史の神戸地図 -1->

●横溝正史の生誕の地、神戸を歩く(下)
  初版2005年10月1日 
<V01L01>  

 今週は「横溝正史の生誕の地を歩く(下)」を掲載します。神戸二中を卒業し第一銀行に勤めますが、家業を継ぐために大阪薬学専門学校に入学します。ついでですが、横溝正史の実家の傍にダイエー発祥の地(サカエ薬局跡)がありましたので一緒に掲載しておきます。



横溝正史 自伝的随筆集>
 横溝正史の「自伝的随筆集」は平成14年5月に「書かでもの記」、「続・書かでもの記」を中心に纏められた自伝です。「…ときあたかも本誌「幻影城」 の編集長島崎博君が、疎開時代の思い出を書き託しておくようにと奨めてくれる。私はいままで折りにふれてたびたびそれを書いてきているが、それでもよい。集大成の意味で書きのこしておくようにという同君の慫慂もあり、かつまた、ちかごろ発見された昭和二十一年の日記、さらにまたその後になって見付けだした二十二年の日記も手許にあることだし、それらを参照しながら当時の思い出を書き綴っておこうと思いついたことである。…」。は「書かでもの記」の中に書かれています。最初は疎開時代から書き始めたたようです。

左の写真が角川書店の「横溝正史 自伝的随筆集」です。「続・書かでもの記」の書き出しにこのタイトルの「書かでもの記」の意味が書かれています。「…「書かでもの記」をまた書くということ、暗い町の暗い思い出のかずかずのこと、「書かでもの記」とは「書かなくてもよいことを善くの記」という意味になるのであろう。それをもっと端的にいえば「書くべからざることを書くの記」ということになるのではないか。それにもかかわらずなぜ私が苦いたかというと、私は元来オッチョコチョイの機嫌買いなのである。これを今様に表現すると、サービス精神旺盛ということになるらしい。担当記者君に強引にひと押し、ふた押し、三押しもされると、そこまでおっしゃってくださるのなら、それではひとつ……と、持ってうまれた機嫌買いのサービス精神がつい頭をもたげてくるのである。 それにしてもまえに書いた「書かでもの記」では、楽しかりし疎開地の思い出を書くつもりであった。それにもかかわらず筆がつい横にすべって、書かでものことを書いてしまったというのは、私の意識の隅っこにこういう考えかたが潜んでいなかったとはいえない。…」。本当にきめ細かく自伝が書かれているので、私などは非常に助かります。


横溝正史の神戸年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

横溝正史の足跡

明治29年
1896
川崎造船所(のちの川崎重工業)が設立
-
父と母が岡山の郷里を出奔し、東川崎へ落ち着く
明治35年
1902
八甲田山雪中行軍
0
5月25日 神戸市東川崎町三丁目に生まれる。父 宜一郎、母 波摩
明治39年
1906
鉄道国有法案が成立
満州鉄道会社が設立
4
東川崎町内で転居
母 波摩 死去
明治42年
1909
永井荷風の『ふらんす物語』が発禁となる
日韓併合
7
4月 東川崎尋常小学校に入学
大正2年
1913
孫文が日本に亡命
11
東川崎町七丁目101番地に転居
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
13
神戸第二中学校に入学
大正5年
1916
世界恐慌始まる
14
同窓の西田徳重を知る
大正7年
1918
シベリア出兵
16
次兄五郎死去
大正9年
1920
国際連盟成立
18
3月 神戸第二中学校卒業
4月 第一銀行神戸支店に就職
秋 親友の西田徳重死去。兄政治との交友が始まる
大正10年
1921
日英米仏4国条約調印
19
4月 大阪薬学専門学校(現大阪大学薬学部)に入学
9月 長兄歌名雄死去
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
22
3月 大阪薬学専門学校を主席で卒業
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
23
初めて江戸川乱歩に会う


西田政治宅>
 神戸二中時代の唯一の友人であったのが西田徳重君でした。「…中学生時代の私の探偵小説に対する熱情というものは、今から思い出しても、何かしら激しい、強烈なものがあったようだ。一つにはそれは、西田徳重君という相棒があったからである。西田君と識合ったのは、中学の二年の頃のことだった。…… 私たちはグラウンドの隅で、終日探偵小説について語り合って飽きなかった。学校だけではまだ物足りなくて、学校から帰ると、すぐ、西田君が私を誘い出しに来た。 いったん、晩飯に別れて帰って、夜になるとまた西田君が誘いに来た。それは降っても照っても、同じであった。よくよくの大暴風か、極寒ででもなければ、きっと西田君はやって来た。雨の中を傘をさして、町から町へと歩きまわりながら、探偵小説について語りあっていた幼い二人の中学生の姿を、私はいまでもまざまざと思いうかべることが出来る。…」。中学、高校の頃は何事につけても情熱がありますね。でも西田徳重君が亡くなったことにより西田徳重君のお兄さん政治さんと親しくなります。

左上の写真の中に西田政治宅があります(ご家族がお住いのようなので直接の写真は控えさせて頂きました)。「…西田家は当時、西柳原界隈でも有名な分限者であり、家もしもうたや作りであった。したがってはにかみ屋の私は、いちども西田家を訪れたことはなかった。…… したがって、大正九年の秋徳重君が亡くなったとき、西田家では、私という親友があったらしいことはわかっていながら、通知のしょうがなかったのだそうである。 ひとづてに徳重君の訃を聞いたとき、私は文字どおりびっくり仰天して、西田政治さんに長いながい手紙を書いた。私にとってはたったひとりの、趣味をおなじくする親友だっただけに、手紙を書いているあいだじゅう涙が溢れこぼれた。この手紙を読んでお兄さんの政治さんが、私を訪ねてきて下すったのは、それから二三日のちのことだったろう。…」。分限者(ぶげんしゃ)とは大金持ちのことですね。西柳原界隈(JR兵庫駅近く)というと淀川長治の出身も同じです。当時は繁華街で待合か料理屋が殆どでした。これからお兄さんと親しくなります。戦後は兵庫区会下山町にお住まいのようで、横溝正史との手紙のやり取りでは宛て先は会下山町になっています。

第一銀行神戸支店>
 横溝正史は神戸二中卒業後、大学へは進学せず、、銀行に勤めます。「…神戸二中を出たあと私は一年銀行員をやったのち、改めて大阪薬学専門学校へ入った。…」。「横溝正史と東川崎町」によると、横溝家から新開地寄り二軒目の松江家の紹介で第一銀行に就職できたそうです。

右の写真が当時の第一銀行神戸支店です。栄町通三丁目にあります。地震で倒壊しましたが再建されて現在は地下鉄海岸線の港元町駅になっています。

大阪薬学専門学校(現大阪大学薬学部)>
 家の家業の薬屋を継ぐため、銀行を辞めて薬科学校に通います。「…当時大阪薬専は日本橋五丁目にあり、すぐ南の電車の停留場が新世界である。ということは当時の大阪市のほぼ南端に当たっていた。これを北にいくと千日前、道頓堀、心斎橋筋から堂島へ出て、梅田駅がすぐ近くである。つまり繁華街がつづいており、私たち数名の神戸組は毎日のように、南から北へとむかってカフェからカフェへと飲みながら北上するのである。 飲み代はみんな本を叩き売った。薬専だから教科書や参考書はみんなドイツ語である。あたかなったものである。…」。横溝正史が通った大阪薬学専門学校は現在の大阪大学薬学部で、首席で卒業ですからたいしたものです。

左の写真の左側に大阪薬学専門学校がありました。道は堺筋で左側手前から先が大阪市浪速区日本橋五丁目です。当時と堺筋は同じですが、戦災で焼けていますので昔の面影は全くありません。

卒業後、家業の薬屋を継ぎますが、江戸川乱歩の勧めもあり上京します。

<横溝正史の神戸地図 -2->

【参考文献】
・横溝正史と東川崎町:東川崎歴史の会
・探偵小説五十年:横溝正史、講談社
・横溝正史読本:小林信彦、角川書店
・横溝正史自伝的随筆集:横溝正史、角川書店
・横溝正史の棒ぐ:角川書店編
・本陣殺人事件:横溝正史、角川文庫
・金田一耕助のモノローグ:横溝正史、角川文庫


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