<小錢屋> 島崎親子が鳥取で宿泊したのが小銭屋(こぜに屋)です。当時の小銭屋は元大工町にあり、駅からは1.3Km程の距離でした。駅前からは自動車での移動なので、駅前の若桜通り(現在の名前)を真っ直ぐに旧袋川に架かった若桜橋を越えて市役所交差点を右に曲り、元大工町交差点の南側角が当時の小銭屋の場所となります。
島崎藤村の「山陰土産」より
「…私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。まだ流行の全集本が地方の豫約募集を終りきらないころで、祭禮のやうに紅い旗が往來の人の眼をひいてゐた。私達はかごをかついで通る魚賣りなぞの眼につくやうな、町の空氣の濃いところへ來て、古めかしい石の門のある宿屋の前で車から降りたが、そこが岡田君の案内してくれた小錢屋であつた。
七月の十一日は、私はすこし腹具合を惡くしてゐたので、旅疲れのしたからだを一日休めることにした。…
…
新らしい旅館は鳥取にいくらもある。温泉宿も多いと聞く。さういふ中で、私達が小錢屋のやうな古風な宿屋に泊つたのは、旅の心も落着いてよからう、といふ岡田君の勸めもあつたからで。旅人としての私は、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて見ようもない。こゝは三十五萬石からの舊い城下、縣廳の所在地、戸數七千、人口三萬五六千もある。賀露がろの港を一里ばかりさきに控へ、三つの街道が市内の中を貫いてゐるやうなところだ。なるほどこゝは名高い市場もあり、物産の陳列館もあり、いろ/\な建物も見るべきものも多いやうであるが、鳥取の特色はさういふ表面に現はれたものよりも、むしろ隱れて見えないところにあるやうに思はれる。かういふ都會をよく見ることはむづかしい。…
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その晩は、私は鷄二と二人で葉茶屋、古道具屋が目につき、柳行李を賣る店なぞも目につく、宿の附近から明るい町の方まで歩いた。三八の夜の賑はひとかで、夕涼みらしい土地の人達の風俗が、行くさきに見られた。旅に來て、知らない男や女の間に交るといふことも、樂しかつたのである。その翌朝は、また私は早く起き、宿の浴衣、宿の下駄でそこいらの町町を歩きつた。深い庇、低い二階の窓、どうかすると、石や横木を載せた屋根の見られるのは、冬期の長さも思ひやられる。私は北は信州の飯山いひやまあたりまでしか行かないから、越後路のことは知らないが、こゝも雪は深さうだ。…」
小銭屋の場所については、現在も場所を変えて営業されていますので直接お聞きしても良かったのですが、詳細の番地が知りたかったので、県立図書館、博物館でお聞きしたのですが不明で、仕方が無く、法務局で調べました。当時の地番表示で、元大工町28〜30番まで、5つほどの地番をお持ちでした。
上記の”三つの街道”とは「大正の鳥取」に付いていた地図を掲載しますので見て下さい(若桜街道、智頭街道、鹿野街道)。又、大正時代の雪に埋もれた
智頭街道の絵葉書を掲載しておきます。写真は「絵葉書の世界
-鳥取市歴史博物館 絵葉書集T-」より)
村上文昭の『島崎藤村「山陰土産」の旅』から
「… (四)名付け親
島崎藤村父子は昭和二(一九二七)年七月十日の夕方、山陰線の汽車で鳥取に向かった。
泊まる宿は小銭屋。そこは「古めかしい石の門のある宿屋」であった。…
…
小銭屋を探した。案内所できくと、いまはこぜにや≠ニ言い、別の場所にあるとわかる。鳥取駅前から大通りを八百メ
ートルも行ったところでこぜにや≠見つけると、敷石に打ち水をしている女性に声をかけた。
「ご主人は種夫さんと言いますか」
そうです、と言うので、お目にかかりたいと話し、しばらく待つと長身でほっそりした方が現われた。私は藤村が名付け親の種夫さんかと念を押した。ガラス張りのロビーに座って内庭の池をながめながら、次のような話を聞いた。
「藤村先生がお泊まりの小銭屋はもっと駅の近くにありましたが、戦時中の地震で旅館が壊れましたから、戦後はこの場所に」…」
村上文昭の『島崎藤村「山陰土産」の旅』には小銭屋の当時の写真が掲載されているので、元ネタを探したのですが、「大正の鳥取」には
鳥取市商工人名録に掲載されているのみでした。”戦時中の地震”とは昭和18年の鳥取地震のことです。鳥取市で震度6を記録しており、家屋の全壊率は80%を超えたそうです。
★写真は現在の元大工町交差点を北側から南側を撮影したものです。正面附近に小銭屋(小ぜにや旅館)がありました。最も、区画整理されて道路が大幅に拡張されており、道の上にあったと言って良いとおもいます。当時の道路幅は7〜8m位だったとおもわれます。現在の”こぜにや(小銭屋
or 小ぜにや)”は駅から線路沿いで南東に700m程歩いた左側にあります。
大きな温泉旅館になっています。