●島崎藤村の山陰を歩く(鳥取編)
    初版2015年12月5日 <V02L01> 暫定版

 鳥取を訪ねる機会があったので、以前から気になっていた島崎藤村の「山陰土産」を歩いてきました。今回は鳥取だけですが順次全てを掲載する予定です。


「山陰土産」
<「山陰土産」 島崎藤村>
 島崎藤村は次男を伴って昭和2年7月8日から12日間山陰の旅に出かけています。大阪朝日新聞からの依頼で、実際の掲載は7月30日から9月まで37回連載しています。新聞に掲載後、大阪朝日新聞社から「名家の旅」として昭和2年10月発行、改造文庫から昭和4年「山陰土産その他」とて発行されています。大阪を出発して城崎から順に山陰を回るのですが、今回は鳥取を最初に掲載します。鳥取を訪ねる機会があったためです。

 島崎藤村の「山陰土産」の 書き出しからです。
「   一 大阪より城崎へ
 朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發ったのは、七月の八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來」で間に合はせて來た編あげの靴も草鞋をはいた思ひで、身輕な旅となつた。
 こんなに無雜作に山陰行の旅に上ることの出來たのはうれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふものの、出來ることなら山陰道の果はてまでも行つて見たいと思ひ立つてゐたので、着更へのワイシヤツ、ヅボン下、寢衣など無くてかなはぬ物の外に、二三の案内記をも携へてゆくことにした。私達は夏服のチヨツキも脱いで、手提かばんの中に納めてしまつた。鷄二は美術書生らしい繪具箱を汽車のなかまで持ち込んで、いゝ折と氣にいつた景色とでもあつたら、一二枚の習作を試みて來たいといふ下心であつた。畫布なぞは旅の煩ひになるぞ、さうは思つても、それまで捨ててゆけとはさすがに私もいへなかつた。かうして私達二人は連れ立つて出かけた。汽車で新淀川を渡るころには最早なんとなく旅の氣分が浮んで來た。…」

 山陰を旅するのには夏がいいですね、冬の寒さや雪を考えると夏しかないようにおもえます。又、新聞掲載の挿絵も同行している次男鶏二が描いています。

写真は 昭和4年、改造社発行の「山陰土産その他」です。現在は青空文庫に掲載されていますので簡単に読むことができます。印刷されたものでは全集以外での入手は困難です。古本を探しても程度の良いものはなかなかありません。

「『山陰土産』の旅」
<「島崎藤村『山陰土産』の旅」 村上文昭>
 島崎藤村の「山陰土産」 について何か書かれた物はないかと探したら、村上文昭が「島崎藤村『山陰土産』の旅」として出版されていました。「山陰土産」の解説本で、私には丁度良い参考書になりました。

 村上文昭の『島崎藤村「山陰土産」の旅』の書き出しです。
「    一、藤村「山陰土産」の旅

    (一)紀行から八十年
 島崎藤村が山陰の旅へ出たのは、昭和二(一九二七)年七月のことである。山陰本線に沿って西下していき、益田と津和野で終わる十二日間の旅であった。このときから数えて、ことしが八十年の節目に当たる。
 島崎藤村といえば詩集『若菜集』で出発した詩人で、やがて小説に転じて『破戒』『春』『家』などを発表しては話題を呼び、作家として大きな地歩を占めていた。昭和二年のこのとき短編集『嵐』を刊行して、創作に一つの区切りをつけ、次の『夜明け前』への構想を用意している年であった。さらには加藤静子との再婚を翌年に控えていた。
 そこへ大阪の新聞社から申し出があったとき、これまで行ったことがない山陰の旅で、新たな視点で考える好機会、ととらえたのかもしれない。旅に出る作家は五十六歳の初老であった。同行するのは二男の鶏二、洋画家を目指す二十歳の青年である。七月八日の朝、大阪を立つといよいよ城崎からこの紀行を開始した。新聞に紀行文の連載が始まったのは七月三十日からである。
 「山陰土産」と題されて、都合三十七回にわたった。このうち鶏二のスケッチ十六枚が父の文章を飾った。この連載は九月十八日まで続いた。…」

 島崎藤村の「山陰土産」は、洋画家を目指す次男の鶏二のためでもあったようです。

写真は2007年武蔵野書房発行の「島崎藤村『山陰土産』の旅」です。よく調べられています。

「鳥取駅」
<鳥取駅>
 前日の7月9日は山陰線の岩美駅から3.6Km程山に入った岩井温泉の明石屋に宿泊し、10日は船で浦富海岸を見物し、16時頃浦富を出発して鳥取に向っています。

 島崎藤村の「山陰土産」より
「…     六 鳥取の二日

「茄子に、ごんぼは、いらんかな。」
 私達はこんな物賣りの聲の聞えるやうな、古風な宿屋の二階に來てゐた。この山陰の旅に來て見て、一圓均一の自動車が行く先に私達を待つてるにはまづ驚かされる。あれの流行して來たのは東京あたりでもまだ昨日のことのやうにしか思はれないのに、今日はもうこんな勢で山陰地方にまでゆきわたつた。人力車の時代は既に過ぎて、全國的な自動車の流行がそれに變りつゝある。こんな餘事までも考へながら、前の日に一臺の自動車で鳥取の停車場前から乘つて來た私達はその車に旅の手荷物を積み、浦富からずつと一緒の岡田君とも同乘で、山陰道でも屈指な都會の町の中へはじめて來て見る思ひをした。私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。…」

 大正16年(大正天皇が崩御される以前に発行されたため大正16年と記述されているとおもわれます)1月と、昭和4年の時刻表を見ると、岩美駅発17時48分、鳥取着18時23分があります。この前の列車は15時頃なので、この時刻で間違いないとおもわれます。

 村上文昭の『島崎藤村「山陰土産」の旅』から
「…  (四)名付け親

島崎藤村父子は昭和二(一九二七)年七月十日の夕方、山陰線の汽車で鳥取に向かった。…」

 7月10日なので、まだ明るいうちに鳥取に到着しています。

写真は現在の高架化された現在の鳥取駅です。初代鳥取駅は明治41年(1908) 千代川を渡る鉄橋の開通により、現在地に開業しています。二代目鳥取駅は大正から昭和初期にかけて建てられたようです。絵葉書を見ると、駅前は自動車が写っていないので大正時代ではないかとおもわれますが、駅舎がモダンで、昭和に入ってからかもしれません。(写真は「絵葉書の世界 -鳥取市歴史博物館 絵葉書集T-」より)



大正時代の鳥取市中心部地図



「小錢屋跡」
<小錢屋>
 島崎親子が鳥取で宿泊したのが小銭屋(こぜに屋)です。当時の小銭屋は元大工町にあり、駅からは1.3Km程の距離でした。駅前からは自動車での移動なので、駅前の若桜通り(現在の名前)を真っ直ぐに旧袋川に架かった若桜橋を越えて市役所交差点を右に曲り、元大工町交差点の南側角が当時の小銭屋の場所となります。

 島崎藤村の「山陰土産」より
「…私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。まだ流行の全集本が地方の豫約募集を終りきらないころで、祭禮のやうに紅い旗が往來の人の眼をひいてゐた。私達はかごをかついで通る魚賣りなぞの眼につくやうな、町の空氣の濃いところへ來て、古めかしい石の門のある宿屋の前で車から降りたが、そこが岡田君の案内してくれた小錢屋であつた。
 七月の十一日は、私はすこし腹具合を惡くしてゐたので、旅疲れのしたからだを一日休めることにした。…

 新らしい旅館は鳥取にいくらもある。温泉宿も多いと聞く。さういふ中で、私達が小錢屋のやうな古風な宿屋に泊つたのは、旅の心も落着いてよからう、といふ岡田君の勸めもあつたからで。旅人としての私は、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて見ようもない。こゝは三十五萬石からの舊い城下、縣廳の所在地、戸數七千、人口三萬五六千もある。賀露がろの港を一里ばかりさきに控へ、三つの街道が市内の中を貫いてゐるやうなところだ。なるほどこゝは名高い市場もあり、物産の陳列館もあり、いろ/\な建物も見るべきものも多いやうであるが、鳥取の特色はさういふ表面に現はれたものよりも、むしろ隱れて見えないところにあるやうに思はれる。かういふ都會をよく見ることはむづかしい。…

 その晩は、私は鷄二と二人で葉茶屋、古道具屋が目につき、柳行李を賣る店なぞも目につく、宿の附近から明るい町の方まで歩いた。三八の夜の賑はひとかで、夕涼みらしい土地の人達の風俗が、行くさきに見られた。旅に來て、知らない男や女の間に交るといふことも、樂しかつたのである。その翌朝は、また私は早く起き、宿の浴衣、宿の下駄でそこいらの町町を歩きつた。深い庇、低い二階の窓、どうかすると、石や横木を載せた屋根の見られるのは、冬期の長さも思ひやられる。私は北は信州の飯山いひやまあたりまでしか行かないから、越後路のことは知らないが、こゝも雪は深さうだ。…」

 小銭屋の場所については、現在も場所を変えて営業されていますので直接お聞きしても良かったのですが、詳細の番地が知りたかったので、県立図書館、博物館でお聞きしたのですが不明で、仕方が無く、法務局で調べました。当時の地番表示で、元大工町28〜30番まで、5つほどの地番をお持ちでした。

 上記の”三つの街道”とは「大正の鳥取」に付いていた地図を掲載しますので見て下さい(若桜街道、智頭街道、鹿野街道)。又、大正時代の雪に埋もれた智頭街道の絵葉書を掲載しておきます。写真は「絵葉書の世界 -鳥取市歴史博物館 絵葉書集T-」より)

 村上文昭の『島崎藤村「山陰土産」の旅』から
「…  (四)名付け親
島崎藤村父子は昭和二(一九二七)年七月十日の夕方、山陰線の汽車で鳥取に向かった。
 泊まる宿は小銭屋。そこは「古めかしい石の門のある宿屋」であった。…

小銭屋を探した。案内所できくと、いまはこぜにや≠ニ言い、別の場所にあるとわかる。鳥取駅前から大通りを八百メ
ートルも行ったところでこぜにや≠見つけると、敷石に打ち水をしている女性に声をかけた。
 「ご主人は種夫さんと言いますか」
 そうです、と言うので、お目にかかりたいと話し、しばらく待つと長身でほっそりした方が現われた。私は藤村が名付け親の種夫さんかと念を押した。ガラス張りのロビーに座って内庭の池をながめながら、次のような話を聞いた。
 「藤村先生がお泊まりの小銭屋はもっと駅の近くにありましたが、戦時中の地震で旅館が壊れましたから、戦後はこの場所に」…」

 村上文昭の『島崎藤村「山陰土産」の旅』には小銭屋の当時の写真が掲載されているので、元ネタを探したのですが、「大正の鳥取」には鳥取市商工人名録に掲載されているのみでした。”戦時中の地震”とは昭和18年の鳥取地震のことです。鳥取市で震度6を記録しており、家屋の全壊率は80%を超えたそうです。

写真は現在の元大工町交差点を北側から南側を撮影したものです。正面附近に小銭屋(小ぜにや旅館)がありました。最も、区画整理されて道路が大幅に拡張されており、道の上にあったと言って良いとおもいます。当時の道路幅は7〜8m位だったとおもわれます。現在の”こぜにや(小銭屋 or 小ぜにや)”は駅から線路沿いで南東に700m程歩いた左側にあります。大きな温泉旅館になっています。

「久松山の古城址」
<久松山の古城址>
 鳥取2日目の7月11日は鳥取城を訪ねています。町の北東にあり、小銭屋からは約3Km程の距離です。

<鳥取城>
久松山城ともいわれ、中世城郭として成立、戦国時代には織田信長の家臣であった羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)となります。江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り近世城郭に整備された。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残すのみとなっています。分かっているだけで、山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度、と合計6度の降伏や力攻めによる落城があり、まさに戦場の城でした。(ウイキペディア参照)

 島崎藤村の「山陰土産」より
「…  熱い日の光りは町々に滿ちてゐた。岡田君と連立つて久松山の古城址を訪ねて見ると、苔蒸した石垣の間に根を張る樹木の感じも深く、堀に殘つた青い蓮もそこに夏のさかりを語り顏であつた。城址といふ城址も多い中で、この高い城山ほど市街を支配するやうな位置にあるものも少からう。往昔、豐臣秀吉の時代に、吉川經家のやうな勇將がこの城を死守したことは、今だに土地の人達の語り草となつてゐる。ちやうど私達の踏んでゆく日のあたつた道は、それらの武士達の血の流れた跡かとおそろしい。山腹にある櫓やぐらのあたりまで登つてゆくと、鳥取の町がそこから見渡される。千代川はこの地方の平原を灌漑する長い水の流れだ。
 しばらく私達はこの眺望のある位置に時を送つた。長く留まることの出來る旅でもなかつたから、鳥取の町を見渡すだけにも私達は滿足して、やがて元來た道を引返さうとすると、過ぎゆく「時」の歩みをさも深く思ひ入つたやうな一人の老人にゆき逢つた。その老人は、石垣の間に青竹の杖をさしいれ、それに腰かけて、朝飯には遲く晝飯にはまだ早いやうな辨當を獨りでつかつてゐた。今だに封建時代に生きつゝあるかのやうな人を壘壁の一部に見つけるといふことも、かうした城塞の跡に來て見る旅の心を深くさせた。
「あのお爺さんはきのふもこの城址に來てゐて、いろ/\なことを僕に説明してくれたよ」
 と鷄二は私にいつて見せた。 …」


写真は現在の鳥取城をお堀手前から撮影したものです。「絵葉書の世界 -鳥取市歴史博物館 絵葉書集T-」に大正から昭和初めに掛けての鳥取舊城跡という絵葉書があるのですが、御三階櫓と走櫓が写っています。御三階櫓と走櫓は明治期には取り壊されていた筈なのですが、よく分かりません。鳥取城跡から見た市内も掲載しておきます。

「鳥取砂丘」
<名高い砂丘>
 島崎藤村は鳥取最後の日、7月12日の午前中に鳥取砂丘を訪ねています。初めてだと感激します。

 島崎藤村の「山陰土産」より
「…その日の午前には、私達は名高い砂丘の方へも自動車を驅つて、長さ四五里にわたるといふ、この海岸の砂地の入口にも行つて立つて見た。黄ばんだ熱い砂、短い草、さうしたさびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあつて、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が私達の眼に入つた。砂丘の上からは海も望まれるかと、鷄二が一人で砂の道を踏んで行つた後姿も忘れがたい。浦富以來よい案内者であつた岡田君にも別れを告げて、その日のうちに私達は鳥取を辭した。…」

写真は現在の鳥取砂丘入口にある記念日です。この向こうに大砂丘が広がっています。


「鳥取のスタバ」
<オマケです 鳥取の「スタバ」>
 オマケで掲載します。島崎藤村には全く関係がありません。”砂場”はあるが、”スタバ”はないと言われて久しい”スタバ”が、今年の6月に鳥取駅近くに開店しています。私が入店したときはそんなには混んでいませんでした。私に対応した店員さんはまだ慣れていないようでした。

写真は鳥取駅南口から高架沿いに西に300mのところに新規開店したスタバです。回りに何もないので直ぐにわかります。スタバの値段からすると、この辺りでは高級なお店になるとおもいます。



鳥取市中心部地図

島崎藤村の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 島崎藤村の足跡
明治43年 1910 日韓併合 38 8月 四女柳子出生、妻フユは死去
大正2年 1913 孫文が日本に亡命 41 4月 パリに出発
芝二本榎西町三番地に留守宅を置く
大正5年 1916 世界恐慌始まる 44 7月 芝二本榎西町三番地の留守宅に帰国
大正6年 1917 ロシア革命 45 6月 芝区西久保桜川町二番地 風柳館に転居
大正7年 1918 シベリア出兵 52 10月 麻布区飯倉片町三十三番地に転居
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
55 7月 次男鶏二を伴い山陰の旅に出かける
7月30日より大阪朝日新聞に「山陰土産」を連載開始
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
56 11月3日 加藤静子と結婚