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最終更新日:2006年2月21日


●島崎藤村を巡る(最終回) 初版2001年3月24日 二版2005年2月26日 <V01L02>

 今週は「島崎藤村の東京を巡る」の最終回として、加藤静子との結婚と麹町区下六番町から大磯で亡くなられるまでを追ってみました。大磯は東京からは東海道線で1時間11分(片道1110円)、ひと眠りしてやっとたどり着きました。

<落穂 −藤村の思い出−>
 「…わたしは大正十年の夏、東洋大学の夏季講習会で講師の一人として、藤村をはじめてステージに見た。講演後に講師の控室で数人の同窓の友人達と一緒に藤村を囲んで、まだその頃学生だったわたしは暫らく話しをする機会があった。その時講師のカフスをとめるボタンは、夫藤村が最後の日まで二十数年の間、主人が外出するといえば、あのボタンはその人の手くびをいつも飾っていた。…」。この文は島崎藤村の二人目の妻 島崎静子が折々に書いていた藤村の思い出を昭和47年に「落穂」−藤村の思い出− として明治書院から出版したものです。この中に書かれている”カフスボタン”は終生島崎藤村が愛用していたようで、藤村がパリへ旅立つ際に徳川家から餞別として貰ったもので三つ葵の紋が入っていたそうです。静子が初めて藤村と出会ったのは大正10年の夏、求婚されたのが大正13年4月〜5月、結婚式が昭和3年11月3日となります。島崎静子は旧姓、加藤静子、津田英語塾(現在の津田塾の前身)を中退、「処女地」の同人として参加し、廃刊後、仕事の手伝いに飯倉片町の島崎藤村宅に通うようになり、藤村と親しくなったようです。

求婚された大正13年4月末頃の二人の手紙のやりとりを見ると、

四月二十七日
時間を急いで失礼いたしました。
おろかなるものもの思ふ事多し………帰路この言葉を耳にしました。
あなたの勇気と、純真と、うらやましく思ひます。
                            四月廿七日  志づ子

四月二十八日  (同前)
今日一寸外出して家に帰ったら御手紙が待って居ました。わたしのlifeは驚くばかり新しくしかも極めて静かに発展しかけて来たことを感じます。
          ……
わたしの勇気と純真を認めて下すったのはうれしい。わたしは今、極く静かな心でこれを書いて居ます。朝のやうな静かな心で書いて居ます。あなたも同じ静かさをもってこれをお読み下さい。そしてわたしたちのLifeを一つにするといふことに心から御賛成下さるでせうか。それともこのまゝの友情を ── 唯このまゝ続けたいとの御考へでせうか、それをお聞かせ下さい。わたしたちは方針の定めよう一つでどうにでもこのLifeを導き得るやうな右することも左することも出来る位置にあると思びます。
          ……
これまでのお手紙は実につゝましやかなものでした。より高い生活に入ることが出来るとの勇気と確信とが持てるやうでしたらもつと直接な言葉で話しかけて下さい。
                            四月二十八日夜  春樹
   志づ子さま


 志づ子は静子で、春樹は藤村の本名です。さすがに手紙には直接的には書いていませんね。”より高い生活に入ることが出来るとの勇気と確信とが持てるやうでしたらもつと直接な言葉で話しかけて下さい。”、というのは、間接的に結婚の申し込みに対する回答を求めているのでしょう。こういうのがいいですね。さすが 物書きです!!

左上の写真は島崎静子が折々に書いていた藤村の思い出を昭和47年に「落穂」−藤村の思い出− として明治書院から出版したものです。

<島崎藤村(明治5年(1872)〜昭和18年(1943)>
 明治5年(1872)島崎藤村(本名:春樹)は長野県木曽郡山口村字馬籠で父正樹、母ぬいの四男として生まれます。生家は馬籠宿の本陣・庄屋を兼ねる旧家でした。小学生の時に上京、明治25年には明治女学校の教師となります。北村透谷らと文芸雑誌「文学界」を創刊、明治30年に刊行した第一詩集「若菜集」によって名声を得ます。代表作としては「破戒」「春」「家」「夜明け前」などがあります。昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなります。

島崎藤村の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

島崎藤村の足跡

大正2年
1913
孫文が日本に亡命
41
4月 パリに出発
芝二本榎西町三番地に留守宅を置く
大正5年
1916
ドイツ海軍が大西洋で武装商船攻撃
44
7月 芝二本榎西町三番地の留守宅に帰国
大正6年
1917
ロシア革命
45
6月 芝区西久保桜川町二番地 風柳館に転居
大正7年
1918
第1次世界大戦終結
46
10月 麻布区飯倉片町三十三番地に転居
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
56
11月3日 加藤静子と結婚
昭和11年
1936
2.26事件
64
7月 日本橋区江戸橋 千代田旅館に滞在
国際ペン倶楽部大会に参加するため夫人同伴でアルゼンチンに赴き、帰途、マルセイユのロンシヤン美術館で、シヤバンヌ作の壁画「東方の門」を見る
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
65
1月 帰国、麹町区下六番町十七番地に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
69
2月 神奈川県大磯町東小磯八八番地に疎開
昭和18年
1943
ガダルカナル島撤退
71
8月22日、大磯の自宅で脳溢血のため死去

島崎藤村 東京地図



麹町区下六番町十七番地>
 アルゼンチンで開催された国際ペン倶楽部大会からの帰国後、二人は麹町区下六番町十七番地に転居します。「…六十歳以上の者は、非常の場合には東京を去れとの報にわたし達が接したのは、昭和十六年一月のことである。主人は六十九歳の時であった。その年二月に、それに備えて大磯に小宅を借りた。同年十二月八日に、太平洋戦争という無気味な声を、わたし達は聞いた。それはどこからの情報よりもいち早く、勝本さんが早朝にでんわで知らせてくれた。だがその後二三年はまだまだ、表面は一応静かで、夏冬だけ大磯に書斎を移すことを主人は喜んでいた。…」。昭和12年に帰国していますから、戦争が始まる昭和16年までの4年間麹町に住んだことになります。ただ、この麹町の家は藤村の死後、島崎静子が住んでおり、昭和20年前に疎開しています。家は空襲で焼けています。

左の写真の左側のビルの所が麹町区下六番町十七番地になります。現在の千代田区六番町13番地付近になります。この道を少し歩くと有島武郎邸(下六番町10番地)になります。

<大磯(大磯町パンフレットより)>
  昭和16年2月28日に島崎藤村から静子夫人に宛てた手紙の中に、
「昨日午後、例の大明さんより貰った草履をはき、志ぎ立沢まで歩き、久しぶりで好い散歩をしました。砂の歩き心地も実によかった。この調子では足も達者にならうと楽しみに思はれる。」と書かれています。藤村と大磯の関わりは、この手紙の書かれた一カ月程前の昭和16年1月13日〜15日にかけて、休養のため湯河原に訪れる途中、知人である天明愛吉や菊地重三郎に誘われ、大磯左義長見物に立ち寄った時に遡るものと思われます。

 昭和16年2月24日付のメモには、
「大磯に家を借り受けておくことを思ひ立つ、大磯は温暖の地にて身を養うによし、時に仕事を携えて、かの海辺に赴くことゝす、余にふさわしき閑居なり。」

と記し、翌25日に初めてこの邸宅を訪れてから後、大磯での生活が始められました。

右の写真は東海道線「大磯駅」です。ここから写真に向かって左方向に線路沿いに歩いていくと島崎藤村旧宅にたどり着きます。

−静の草屋−(大磯町パンフレットより)>
 島崎藤村旧宅は、別荘等に使用する目的で大正後期から昭和初期にかけて建築されたもので、当時周辺には同じような貸家が数軒存在しており、この一体を地元では「町屋園」と称していたようです。藤村邸の特徴としては、当時の貸家に比べ、玄関や広縁等がゆとりをもって造られている点と、貸家では造られることがあまりなかった書斎が設けられている点があげられます。特に書斎に関しては、藤村が最も気に入っていた様子で、静子夫人の著書「ひとすじのみち」には、「…ここの大磯の住居は、わずか三間の古びた家に過ぎないが、おそらく50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で最も気に人られたものだったろう。…」と述懐しています。

左の写真が島崎藤村旧宅です。周りには高層住宅がなく建物自体がよく保存されています。

地福寺>
 藤村がこの大磯に暮らすようになったのは、昭和16年1月に「事変のため65歳以上のものは、万一の場合に備えて帝都を去れ」との布告があったためのようです(昭和16年12月太平洋戦争開戦)。暫くは「東方の門」の執筆準備のため、大磯と東京麹町にある本宅との間を往還する生活をつづけていましたが、翌17年8月には隣接していた廃屋(現在の離れ部分)とともにこの邸宅を購入し、秋より「東方の門」序の章の執筆に着手しています。「東方の門」は第二章まで中央公論より発表されましたが、第三章執筆半ばの昭和18年8月21日、脳溢血のため倒れ「涼しい風だね」の言葉を最後に昏睡状態に陥り、翌22日、2年半余りを過した大磯の邸宅で71歳の生涯を閉じています。駅近くの地福寺に埋葬されました。遺髪は馬籠 永昌寺に分葬されています。

右の写真が地福寺にある島崎夫妻のお墓です。お寺に入るとすぐ左側にあります。右側が島崎藤村で左側が静子夫人です。大磯の駅からは5分位ですので一度訪問されたらいかがてしょうか。丁度梅の木の下で、なかなか美しいお墓で、墓の文字は有島生馬の筆です。

島崎藤村の東京を歩くはこれで終了です。馬篭は別途特集します。

島崎藤村東京地図 -7-


【参考文献】
・落穂:島崎静子、明治書院
・藤村 妻への手紙:島崎静子、岩波書店
・冬の家 島崎藤村夫人・冬子:森本貞子、文藝春秋
・群像 日本の作家 島崎藤村:小学館
・新片町だより:島崎藤村、春陽堂
・評伝島崎藤村:瀬沼茂樹、筑摩書房
・新潮文庫大正の文豪:新潮社版(CD-ROM版)
・島崎藤村全集:新潮社
・文学散歩:文一総合出版、野田宇太郎
・新潮日本文学アルバム(島崎藤村):新潮社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎
・新宿区の文化財 史跡:新宿歴史博物館

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