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最終更新日:2006年2月21日


●島崎藤村の東京を歩く(第四回)
  初版2001年3月3日 二版2005年2月12日 <V01L01>

 今週は「島崎藤村の東京を歩く(第四回)」を掲載します。大正2年、藤村は姪 こま子との関係を絶つ為にパリへ旅立ちますが、帰国後二人の関係は復活します。その中で「新生」が朝日新聞に連載されます。

 大正7年5月1日から東京朝日新聞に連載された「新生」の第十三章です。「ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。「私の様子は、叔父さんには最早よくお解りでしょう」 新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹えた。それを聞くと、岸本は悄れた姪の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。」。岸本とは”島崎藤村”本人であり、節子とは、妻冬子の死後、手伝いにきていた次兄の次女”こま子”のことです。こま子が初めて島崎藤村のもとを訪ねたのは明治43年(藤村39歳)で、身ごもったのが大正2年ですから、そうとう時間を経てから「新生」を書いています。島崎藤村は同年3月、逃げるようにしてフランスへ旅立ちます。船中から次兄に告白したようで、生まれた子供はすぐに養子にだされます。大正5年、島崎藤村は帰国しますが、結局、こま子との関係が復活しています。姪との許されざる恋となるわけですが、「新生」発表後に別れます。「新生」については平野譲氏が「…自己表白による自己救済…」、と書いていますが、島崎藤村は時間を経てもかなりつらかったのでしょう、書くことによって自己救済し、別れるきっかけを作りたかったとおもいます。

<飯倉だより>
 島崎藤村はパリから帰国後、芝二本榎西町三番地、芝区西久保桜川町二番地 風柳館と住いを変えます。しかし大正7年10月、麻布区飯倉片町三十三番地に転居し、ここで18年過ごします。島崎藤村にしては長すぎる住いです。「…ある日、私は麻布の永坂に出た。麻布小学には自分の女の兒が通つて居るので、私は学校に受持の先生を訪ねて保護音としての用事を済ました後の帰り路であつた。あれもこれもと思ふばかりで十が一もそれを果しがたいやうな心の忙しさが私にあつた。煉瓦の塀と石垣のつゞいた小路に添ふて歩いて行くと、丁度永坂の中途に出た。その連は古い法華寺に接した洗濯屋や洋服屋なぞの店が片側に並んで居るやうなところで、晩秋らしい日の光が坂道の上の方から流れて来て居る。…」。麻布小学校はいまも当時のままで、飯倉片町交差点の角にあります。当時は一の橋から赤坂に抜ける道はなかったので少し場所が変わっているかもしれません。永坂町は一の橋から飯倉片町の間になります。

左の写真は大正11年9月発行のアルス版の「飯倉だより」です。

<島崎藤村(明治5年(1872)〜昭和18年(1943)>
 明治5年(1872)島崎藤村(本名:春樹)は長野県木曽郡山口村字馬籠で父正樹、母ぬいの四男として生まれます。生家は馬籠宿の本陣・庄屋を兼ねる旧家でした。小学生の時に上京、明治25年には明治女学校の教師となります。北村透谷らと文芸雑誌「文学界」を創刊、明治30年に刊行した第一詩集「若菜集」によって名声を得ます。代表作としては「破戒」「春」「家」「夜明け前」などがあります。昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなります。

島崎藤村の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

島崎藤村の足跡

大正2年
1913
孫文が日本に亡命
41
4月 パリに出発
芝二本榎西町三番地に留守宅を置く
大正5年
1916
ドイツ海軍が大西洋で武装商船攻撃
44
7月 芝二本榎西町三番地の留守宅に帰国
大正6年
1917
ロシア革命
45
6月 芝区西久保桜川町二番地 風柳館に転居
大正7年
1918
第1次世界大戦終結
46
10月 麻布区飯倉片町三十三番地に転居
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
56
11月3日 加藤静子と結婚
昭和11年
1936
2.26事件
64
7月 日本橋区江戸橋 千代田旅館に滞在
夫人同伴でアルゼンチンに赴き、帰途、マルセイユのロンシヤン美術館で、シヤバンヌ作の壁画「東方の門」を見る

島崎藤村 東京地図


芝二本榎西町三番地>
 島崎藤村は大正2年4月、藤村は姪 こま子との関係を絶つ為にパリへ旅立ちます。その時の留守宅が芝日本榎西町三番地です。3年後の大正5年7月、藤村は帰国します。「滞欧三年、平和と戦争の欧洲を味はつた島崎藤村氏は八日正午東京に帰って来た。芝二本榎の寓居を訪づれると、留守中家の世話をして来た姪は甲斐々々しくも庭前に打水をし、氏の愛児は『父さんが帰ったのよ』 と、小さな友達に吹聴して嬉しがつてゐる。湯上りの浴衣でゆつたりと出て来た藤村氏を見ると、白髪もかなり増えて、顔は赤く日に焼けてゐる。……」。と読売新聞の大正5年7月9日に「浴衣に更へて」と題する談話として掲載されています。ここに書かれている”姪”とはこま子のことなのでしょうか。藤村は嘸かしがっかりした事でしょう。

左の写真は白金台二丁目の桜田通り陸橋から白金台偕成ビルを撮影したものです。このビルの裏手のアパート付近が島崎藤村宅跡になります。芝榎木西町三番地はとても広くて、また写真の桜田通りも当時は無く、探すのに苦労しました。


芝区西久保桜川町二番地 風柳館>
 芝二本榎木町の借家は相当ひどかったようで、翌年の6月 芝区西久保桜川町二番地 風柳館に転居します。「…曾て七年ほど住んで見た浅草新片町の界隈に下町風の江戸の面影が残って居た。芝の桜川町の邊は愛宕山に近くて、武家の町若くは寺町としての江戸の名残をとゞめて居る。あの界隈には昔風の屋敷の跡、古めかしい木造の門、並んだ窓などがまだ見られる。寺も多い。増上寺は東京の『ノオトル・ダム』の感がある。あの丸の内の城の方から徳川家の命日々々に増上寺へ通って行つた前世紀の貴婦人のことが想像される。…」。増上寺がノウトルダム寺院とは、なかなかの発想てす。私たちでは考えもつきません。芝区西久保桜川町の風柳館は高等下宿でかなり有名だったようです。下宿宿料が70円/月ですから、普通の人は下宿できませんね。(明治40年頃で夏目漱石が東京帝国大学教授で80円/月でした。)

左の写真の少し先の左側ビルの奥辺りです。現在の港区虎ノ門1−25付近です。全く変わってしまって昔の面影はありません。


麻布区飯倉片町三十三番地>
 島崎藤村は大正7年10月、麻布区飯倉片町三十三番地に転居します。「…郵便局へ二町。煙草屋へ二町。湯屋へ三町。行きつけの床屋へも五六丁はある。どこへ用達に出掛けるにも坂を上ったり下りたりしなければならない。慣れて見ればそれも不便とは思わずに、芝の桜川町からこの飯倉片町に移り住んでから最早足掛八年にもなった。…一南に浅い谷の町をへだてて狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。どうかすると梟の啼声なぞが、この町中で聞える。…鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていい。ただ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。…」。飯倉片町に関しては「市井にありて」にかなり書いています。上記に書かれているのはごく一部です。狸穴坂は一筋左側になります。植木坂は少し先の右側へ折れた坂道です(ここで島崎藤村と子供が撮影された写真があります。情景はほとんど同じでした)。鼠坂はこの道を真っ直ぐに下りた所です。(地図を参照)

右の写真の右のビルの前に島崎藤村の記念碑が建てられています。藤村の住いはもう少し先の右側路地を少し入った所です。

千代田旅館>
 昭和11年4月、藤村はアルゼンチンで開かれる国際ペン倶楽部大会に招待されます。そのため、7月初旬飯倉片町三十三番地の借家をたたんで江戸橋の千代田旅館に滞在します。14日に東京を経ち、16日神戸で南米行きの大阪商船リオデジャネイロ丸に乗船しています。ですから、千代田旅館に滞在したのは二週間程度とおもわれます。

右の写真の右側のビルの所が千代田旅館跡(現在の日本橋二丁目16)です。ただビルの名前が清水ビルになっていましたので、経営者は当時のままではないかとおもいます。「日本橋総覧」によると、千代田旅館は明治三十七年創業で営業主は清水茂興となっていましたので、同じ清水ですので間違いないとおもわれます。

来週は「島崎藤村の東京を歩く(最終回)」を掲載します。

島崎藤村東京地図 -5-


参考文献】
・冬の家 島崎藤村夫人・冬子:森本貞子、文藝春秋
・群像 日本の作家 島崎藤村:小学館
・新片町だより:島崎藤村、春陽堂
・評伝島崎藤村:瀬沼茂樹、筑摩書房
・新潮文庫大正の文豪:新潮社版(CD-ROM版)
・島崎藤村全集:新潮社
・文学散歩:文一総合出版、野田宇太郎
・新潮日本文学アルバム(島崎藤村):新潮社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎
・新宿区の文化財 史跡:新宿歴史博物館

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